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宗教情報センターの研究員の研究活動の成果や副産物の一部を、研究レポートの形で公開します。
不定期に掲載されます。


2014/10/18

伝統仏教界の「死後の世界」に関する動向 

宗教情報

藤山みどり(宗教情報センター研究員)

 前々回前回は、伝統仏教の主な宗派の霊魂観と「死後の世界」観を見た。次に、伝統仏教界の「死後の世界」観に関する動向を見ていく。
 
二.伝統仏教界の「死後の世界」観に関する動向
1.「死後の世界」観の希薄化

 宗派によって状況が異なるので一概には言えないが、1985~1995年ごろの第1次「死後の世界」ブームで新・新宗教の指導者や霊能者は「死後の世界」を明白に語った(「死後の世界」2参照)が、伝統仏教界は口をほぼ閉ざしたままだった。葬儀の際に遺族や関係者から死後のことを聞かれ、霊魂を認めない教理の原則に縛られた若い僧侶のなかには困惑するものもいたという[1]。これは1990年代後半の話であるが、現在でもあてはまるかもしれない。では、なぜ伝統仏教は「死後の世界(あの世)」を語らなくなったのか、あるいは、語れなくなったのだろうか。
 1999年に佐々木宏幹(こうかん)・駒澤大学教授(現・名誉教授)は、明治以降になって各宗の教学が整備されて知的要素が強化するにつれて、近代的な科学的思考で説明することが難しい「あの世」に僧侶が触れなくなったと推察している[2]。1997年、浄土への往生を願う教えである浄土宗の宗務総長(事務方の最高責任者)という要職にあった寺内大吉氏(故人)が、「私の中の教養みたいなものが、死後の世界はないと思わせる」[3]と発言して物議を醸した出来事は、象徴的である。佐々木教授はまた、僧侶が「死後の世界」を説かなくなったのは、葬儀が「亡き人を来世で安定させる儀礼を通じて残された者が安心する試み」から「生者の悲しみを癒すためにこそ行われる」に変化した現れであると指摘している[4]。この変化は、忌日法要を「グリーフケア」と捉えなおす風潮からも読みとれる。
 末木文美士(すえき・ふみひこ)国際日本文化研究センター教授(仏教学)も、『浄土思想論』(2013年刊)のなかで同様のことを述べている。近代になって来世思想が衰退したのは、科学的に証明できない来世は前近代の迷信に過ぎないと批判する傾向が強くなり、それに対応して仏教界でも「仏教は本来現世の悟りを求めるものであり、来世論は方便にすぎず、それに基づく葬式仏教は本来の仏教を歪めるものだ」という主張が通るようになったからである・・・・・・と[5]
 両者とも、伝統仏教が「死後の世界」に触れなくなったのは、科学的思考の影響と、それにより来世観と通じる葬儀が否定されたことであるという。

2.葬祭の見直し
(1)日本仏教と葬儀 
 日本仏教は、もともと日本古来の霊魂観や祖先崇拝を取り込んで発展したものであり、教義と習俗の両義性をもつ(前々回参照)。しかも、日本に仏教が広まった最大の理由は、葬式であるという。室町時代以降に葬式を盛んに営んだことで仏教が広まり、寺院が急増した。室町時代以降に建立された寺院が国内約8万カ寺のうち9割に及ぶのは、このためである[6]
 日本の葬儀は、2007年に初めて仏式が90%を下回ったというものの、仏式が長らく95%前後を占めており[7]、伝統仏教界の主要な経済基盤であった。その経済基盤は、戦後の社会構造の変化、葬祭への異業種の参入、直葬の増加などによって揺らいでいる。2010年に宗教学者・島田裕巳による『葬式は、要らない』がベストセラーになって葬式無用論が沸いたが、すでに1968年に盛大な葬式を批判した稲田務・京都大学名誉教授らの『葬式無用論』[8]が発行されており、葬式無用論や葬式仏教への批判は古くから存在する。葬式仏教を批判する根拠としてよく挙げられるのが、釈尊が“出家者は葬式に関わるな”[9]と言ったという『涅槃経』[10]である。これについて鈴木隆泰・山口県立大学大学院教授は、原典を忠実に訳すと関与を否定したのは葬儀(遺体供養)ではなく「遺体を装飾し納棺し、荼毘に付し、そして遺骨塔を建立するに際して常に敬意をもって行うこと」で、釈尊が禁じたのは弟子のアーナンダに対してで、出家者全員に禁じたのではないとする研究もあると反論する[11]
 現世の生き方を中心に説く宗派もあるが、葬式仏教への批判をかわすために、あるいは葬儀に偏りすぎた仏教に新しい展開を期するために「仏教は死者のためではなく生者のためのもの」という主張もされている。その一方で、宗派の存立をゆるがしかねない「葬儀の危機」をいち早く捉え、葬儀を支える重要な観念といえる霊魂観や「死後の世界」観を含めて対応を検討してきた宗派もある。
 
(2)葬祭における民俗的信仰、習俗の見直し
 宗教学者・山折哲雄によれば、明治以降に霊魂の存在を否定し、祖先崇拝を民俗的信仰として退けてきた伝統仏教教団が葬儀など霊魂を根底にした祖先崇拝を見直すようになった大転換期は1984年である[12]曹洞宗の宗務庁と浄土真宗本願寺派の伝道院(現・浄土真宗本願寺派総合研究所)がそれぞれ刊行した研究報告で、各宗門の実態が祖先崇拝によって大きく方向付けられていることを表明した[13]。この時期は、第1次「死後の世界」ブームの始まりと重なる。伝統仏教界も霊魂観や「死後の世界」観を課題と認識したのであろう。だが、この問題に取り組んだ宗派でも、結論に至るまでの歩みは遅々としており、霊魂については民俗としての存在意義を確認したにとどまるようだ。とはいえ、教義との矛盾を孕む難問に正面から取り組み、成果を公表した姿勢は評価されるべきであろう。
 曹洞宗は、早くから葬祭の問題に取り組んでいた。宗門の研究機関である曹洞宗教化研修所(現・曹洞宗総合研究センター)は、『葬式無用論』が出た1968年度から3年間かけて霊観念を含めて葬祭を場とした伝道の研究を行い[14]、1984年には宗務庁が研究報告書『宗教集団の明日への課題』で、檀信徒に仏教の教理は浸透しておらず、彼らにとっては祖先崇拝が最も重要な信仰で、住職は葬祭法事の司祭者としての存在意義が認められていることなど、宗門の課題を提起した[15]。1985年に葬祭を道元の教え『修証義』のなかで捉えようとした報告書[16]を刊行し、2003年には曹洞宗総合研究センターが「霊魂」や「死者のゆくえ」の説き方なども調査した研究報告『葬祭』[17]をまとめ、葬祭を文化の問題として初めて宗学に位置付けた[18]。「死後の世界」観の希薄化が葬祭の意義を弱めると分析し、その説き方についても研究を重ねていたが、前回見たように「死後の世界」については地方によっても人によっても異なるとして統一見解は出されず、各僧侶に委ねられた。葬儀の中核は僧侶が死者に授戒して「仏の子」とすることであるという[19]が、霊魂など死者の位置付けも各僧侶の判断に委ねられ、統一見解はない。 
 浄土宗では、付属の研究機関である浄土宗総合研究所で霊魂観なども含めて葬祭を検討し、他教団に先駆けて1997年に『葬祭仏教』[20]という研究報告書を刊行した。霊魂については教義では否定するが習俗では容認姿勢と見解が分かれたが、浄土宗は2010年には葬儀の意義の統一見解を示した『浄土宗の葬儀と年回法要について』[21]という冊子を宗内寺院に配布し[22]、死後の行き先は極楽浄土で、葬儀は阿弥陀仏の迎えを仰いで死者を極楽浄土に送るための儀式であると説くことを周知させた[23]。葬儀の統一見解を示したのは、それまで地方色が強かった葬儀の全国均一化が急速に進んでいるからでもある。2011年には一般向けに葬儀の意義を説いた小冊子も発行した[24]。2012年には浄土宗総合研究所が、現代における葬儀の意義を明記した10年間の研究報告をまとめた[25]。仏教における霊魂観については、近年に浄土宗が刊行した一般向け書籍では、曹洞宗の僧侶である奈良康明・駒澤大学名誉教授が章を執筆担当した『じゃあ、仏教の話をしよう。』(2012年)がわかりやすく詳しい。奈良名誉教授はかつて曹洞宗総合研究センター所長として葬祭研究に携わっており、この問題の第一人者ではあるが、霊魂について宗内の人間が著すことには慎重なのであろうか。
 
(3)葬儀の意義と「死後の世界」
 曹洞宗と浄土宗のように霊魂観や「死後の世界」観に踏み込んで葬祭を見直そうとした教団は少ない。危機に陥った葬儀の意義を明確化する動きは、浄土宗も含めて2010年以降に目立つ。葬儀の意義と僧侶の役割の明示にとどまるが、意義を規定するなかで「死後の世界」に触れたところもある。
 浄土真宗本願寺派の教学研究機関である伝道院は、先述したように、祖先崇拝の重要性を認めたうえで、これまで理想主義的教義と現場習俗とを使い分け、「祖先崇拝(葬式・中陰・盆会など)」を宗門独自に教学化してこなかったとし、祖先崇拝をめぐる現場習俗の問題に全力を挙げて取り上げねばならないとする研究報告を1984年に『伝道院紀要』[26]で発表した。その後に表面化した動きは見当たらないが、葬儀場所の変化などを考慮して2009年に新しい葬儀の基準[27]を刊行し、2010年に出版した解説書『「浄土真宗本願寺派葬儀規範」解説――浄土真宗の葬送儀礼』で、宗門における葬儀の場は阿弥陀仏に等しく摂(おさ)め取られていることに「報恩感謝」の思いをめぐらせる場で、人生の拠り所を阿弥陀仏の浄土に見据えて歩むという「法縁」の場であると、宗門葬儀の意義を説いた[28]
 日蓮宗では、葬儀は地方文化を代表するものであって統一して教えることは弊害が大きいとしていたが、2005年から日蓮宗現代宗教研究所が葬儀の規範作りを行い[29]、2011年には『葬儀の心~青年僧のために』という葬儀の意義を説いた小冊子を作成し、葬儀は、「死者を安らかに霊山浄土へ旅立たせる厳粛な儀式」で、僧侶は、「神聖なる儀式の執行者、死者の導き手」であると位置付けた[30]
 
3.社会現象と「死後の世界」の復権
(1)注目された「還相回向」

 このように外圧に押される形で、伝統仏教界において「死後の世界」は微々たる歩みではあるが復権しつつある。2007年ごろの「千の風になって」のブームは、伝統仏教界に危機感を煽った。“死者は墓におらず、近しい生者の身近に生き続けている”という歌詞に共感を示す人々の「死後の世界」観に対して、多数派である批判する側と少数派である歓迎する派に分かれたが、双方とも伝統仏教の「死後の世界」観を説こうとした。
 このブームを松長有慶・高野山真言宗管長は、「死者の成仏の儀礼」である葬儀が「生者の世間体を重んじる行事」になった風潮の反映とみて、「亡くなった人まで利用して、自分の寂しさを癒されたいと思う現代人の身勝手さ」と批判した。さらに、2009年アカデミー賞受賞作「おくりびと」が納棺師を描くなかで宗教色を省いたことにも話が及び、「真言宗では現実を重視してきたため死後の世界のことを説くのは不得意」だったが、もう避けてはいられないと語った[31]。「死後の世界」を説くことへの意欲は示されたものの実践に移されたどうかは定かではない。
 一方で、浄土真宗では、歌詞が宗祖・親鸞が重視した二相回向のうち「還相回向」に通じるとして肯定する傾向がみられた。還相回向は、死者が「あの世(浄土)」に往生して仏となり、「この世」に戻ってきて人々を救う利他の働きをすることである。浄土真宗本願寺派のある僧侶は、「千の風になって」に真宗らしい訳を付けた法話集を作成[32]。宗門の本願寺出版社から発刊され、販売部数は約10万部にも及んだ[33]。島薗進・東京大学大学院教授(現・名誉教授)は、「こうしたもの(「千の風になって」)を包括するのも(伝統宗教の側にとって)選択肢になる」と語った[34]が、その好例であろう。「死者は墓にいない」という歌詞には、「墓には先祖がいる」と考えて墓参りをしてきた日本の習俗と対立すると違和感を表明した奈良康明・駒澤大学名誉教授[35]をはじめ異議をとなえた仏教者が多かった。だが、浄土真宗では、浄土に生まれて仏になっているので「お墓の中に故人はいない」[36]と説くため、違和感は少なかったであろう。
 ただし、解釈をめぐっては批判もあった。浄土真宗本願寺派の僧侶でもある山崎龍明・武蔵野大学教授(現・名誉教授)は“癒やし”の自己満足にとどまっているとし、「浄土に生まれて仏となり(往相)、そして初めて悩み苦しむ人々を救う(還相)ということが言える」と歌詞と還相回向との混同を批判した[37]。大谷光真門主(現・前門主)も2007年の法要で、死者が風になって世界を駆けめぐるなどの歌詞に仏教の空(くう)思想や還相回向を連想する人もいるが「自力の修行も他力の救いも関係なく、故人を自然現象に置き換えるだけであっては、物足りない・・・・・・」と仏教に照らしてもっと深く味わいたいと述べた[38]
 「人を救うために浄土から還ってきた」とする「還相回向」は、2011年の東日本大震災の際にもボランティア(利他)活動の根拠として脚光を浴びた。
 
(2)東日本大震災と僧侶に期待されるもの
 東日本大震災では、伝統仏教界は被災者対応の現場でも「死後の世界」の問題に否応なく直面させられた。宗教者の被災者対応については、臨床宗教師を養成する東北大学実践宗教学寄附講座の高橋原准教授が中心となって研究を行っている。宮城県内の宗教者を対象にした調査では、「霊的」もしくは「不思議な」現象を直接体験した人に会った宗教者が276人のうち69人に、うち51人が「霊的な現象・体験」について相談を受けていた[39]。被災地ではまた、心霊相談の相談相手として宗教者以外に、地域に密着した「地域の拝み屋」が存在感を増しているという[40]
 高橋准教授は、「幽霊」は「さまざまな不安やストレスの現れ」と解釈する。そのうえで、望ましい対応として、相談者の「訴えを宗教的な問題として受け止めて話を聴くこと」と述べている[41]。傾聴を基本とするカウンセリングと同じである。この状況で霊魂の有無についての議論が不毛であるのは自明であろう。実際、教義では「霊」を否定する浄土真宗本願寺派の僧侶も、現場では「幽霊」を否定せずに被災者の話を受け止めている。傾聴で問題が解決すればよいが、しない場合もある。高橋准教授によると、ある曹洞宗僧侶は、“被災者に取り憑いた霊”を「太鼓などを叩きながら読経して、光の世界へ送る」など師僧から学んだという独自の対処を行っていた。被災者対応ではないが、福島県三春町の臨済宗妙心寺派福聚寺の住職でもある作家の玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう)氏は、霊が取り憑いたという相談に「施餓鬼(せがき=餓鬼に施しをする)」供養で対処して成功したことがある(「宗教者の震災支援を阻む政教分離の壁」参照)[42]。このような傾聴の先の対応が、まさに人々が宗教者に期待しているところであろう。この期待があるから、カウンセラーではなく僧侶、しかも地域の僧侶に相談に来るのであって、ここに焦点を当てないと、宗教者の存在価値が浮かび上がらない。
 近代以前の伝統仏教は特に、霊魂を大切にする民俗的信仰と折り合いを付けてきた。僧侶たちは教義や宗義とは別に、その地方の生活文化のなかで息づいている習俗を尊重して人々の信頼を得ていた。僧侶が教理をどう説こうと、先述の1984年に曹洞宗宗務庁が出した研究報告にも見られたように、信者は日本の伝統的霊魂観に基づく祖先崇拝を大切にして生活しており、教理は浸透しておらず、僧侶の存在意義は「葬祭法事を行う人」であった。幽霊の悩みが僧侶に持ちかけられるのは、やはり僧侶は民俗的信仰の系譜からみても霊的な問題の専門家と目されているからであろう。教義にかかわらず、習俗としては、先祖の霊を迎え、送るという「お盆」、死者の霊を「あの世」に送るという葬式、霊が「あの世」に達したとされる四十九日など、「霊」に関わる習俗に僧侶は携わってきた。
 僧侶が葬儀に必要とされる(著者注:都市部では過去形になりつつあるが)のは、「僧侶は、死者をして『この世』から『あの世』に引導するという、親族、縁者にはできない役割を果たす聖なるスペシャリストと目されている」からと佐々木宏幹・駒澤大学名誉教授は述べている[43]。細かくいえば、浄土宗のように僧侶が引導を授ける(阿弥陀仏のお迎えを願い、極楽へと導く作法を行う)とする[44]宗派に対して、阿弥陀仏が浄土に生まれさせるので僧侶は「引導」は行わない[45]とする浄土真宗本願寺派のような宗派などもあり、宗派の側が主張する僧侶の役割には違いがあるが、人々の認識は佐々木教授の指摘通りではないだろうか。“僧侶は「この世」と「あの世」の仲介者”と人々が考えているから、読経などによって「幽霊が消えた」という効果が現れるのではないか。実体として幽霊が消えたかどうかはともかく、人々の意識のなかに、「僧侶の読経によって霊的事象が解決する」という認識があれば、読経することで「認識される現実」も変容することが想定される。
 東北地方は、死者の霊を呼び寄せるというイタコが活躍するなど独特の死者観と他界観をもつ地域である。信仰心が篤い地域でもあり、東日本大震災では読経ボランティアが喜ばれ、葬式無用論が幅をきかせていた時代に、葬儀の大切さを改めて認識させた。このような地域特性から、首都圏ならばともかく今回の被災地では、幽霊に悩む被災者は“浮かばれない(成仏できていない)”幽霊を「あの世」に送ってほしいと宗教者に相談を持ちかけてきたのではないか。教義と民俗的信仰という日本仏教の2本柱のうち、伝統仏教界が近代以降に蓋をしてきた民俗的信仰の側面が、東日本大震災によって図らずもクローズアップされたと言える。
 宮城県では伝統仏教では曹洞宗の勢力が最も強い。曹洞宗は、霊魂観や他界観の研究を重ねたうえで、生活文化のなかから生まれた霊魂や「死後の世界」については地方特性があるなどとして統一見解を示さなかったが、今回の被災地の事例をみると、このような対応が理にかなっていたのではないかと考えさせられる。日本仏教が担ってきたなかでも葬儀やお盆など民俗的信仰に属する部分は特に浄土宗や日蓮宗など他の宗派でも、地方色があるため独自の対応が望ましいことが認識されている[46]。ただし、今後、地方の都市化、全国の画一化が進むとまた、対応は異なってくるであろう。
 
(3)霊的な問題への対処
 現代社会では霊的現象とされるものへの対処について公に述べることは禁忌のようになっているが、さらに言えば、僧侶は葬祭法事を行うだけでなく、人々の現世利益的な問題に加持祈祷などで積極的に対処してきた伝統もある。加持祈祷は浄土真宗では否定されるが、真言宗や日蓮宗などでは修される。加持祈祷などの現世利益で民衆の心をつかみ、そこを起点に仏教を広げていった側面もあるだろう。
 真言宗の宗祖・弘法大師空海は、『十住心論』で「四大のそむけるには薬を服して除き、鬼業(きごう)の祟りには呪悔(じゅかい)をもってよく銷(け)す。 薬力(やくりき)は業鬼(ごうき)を却(さ)くることあたわず。呪功(じゅく)は通じて一切の病を治(じ)す」――身体の調子が狂って病気になった場合には、薬をのんでその病を除く。鬼病(亡くなった人があの世で迷って、縁のある子孫の人に助けを求めてよりすがってきたために病気になった場合)と業病(前世の悪因の報いで、人知れず長く苦しむ病気にかかった場合)には、真言を一心に唱えて懺悔し、信心することによって、これを消すことができる。鬼病と業病とは、薬の力ではどうすることもできるものではない。真言を唱える功徳は、亡くなった人を成仏へと導き、自分の過去世からの罪障を清め、更に心の平安をもたらすから、通じて一切の病気に功がある――と述べている[47]
 真言宗善通寺派の僧侶・佐伯泉澄氏(故人)によると、手に印(いん)を結び、口に真言を唱え、心に仏を観念して、仏たちを壇上に迎え、仏と入我我入(仏が我に入り、我が仏に入る)して拝むと、仏の威神力によって、霊的問題が解決するという[48]。佐伯氏は、「人々を霊的に救うのが宗教家と信仰者の役目である」[49]とし、自らも加持祈祷を行った。すべてが解決したわけではないというが、自著『人は死んでも生きている』のなかで、高野山で伝授を受けた「病者加持作法」[50]によって精神に異常をきたした女性を治した事例のほか、泉智等(いずみ・ちとう)・高野山真言宗管長(故人)などが体験した不思議な霊験実話をたくさん紹介している。
 ただし、人々の欲求は限りないため現世利益にも限界があり、迷いから悟りの方向に向かないと真の解決にも、真の救いにも達しないので、宗教は現世利益に沿いながらも、仏の心に沿って生きる真実の道を示すものでなければならないと述べている[51]。また、「この世」と「あの世」の仲をとりもつ霊的媒介者である霊能者は、宗教を創始するなど宗教の原点と密接な関連があるが、霊能者の能力にも差があり、霊の問題で人々を恐怖に陥れかねない負の側面もあるので、宗教者は霊能者と助け合い、さらには霊能者を指導する責任があるとも述べている[52]
 
4.おわりに
 こうしてみると、それまで民俗的信仰の担い手でもあった伝統仏教が、近代に入って教学を整備して体制を整えるとともにその役割から手を引いてしまい、新しい担い手が登場したようでもある。第1次「死後の世界」ブームで見られた新・新宗教や霊能者が語る霊魂観や「死後の世界」観は決して突飛なものではなく、むしろ日本の民俗的死生観と重なる部分が大きい。現代に創始された宗教の開祖や霊能者は、伝統仏教の宗祖とは違って同時代人であるので、今を生きる人々にとっては語る内容も的を射ており、語る言葉も理解しやすく、共感しやすい。伝統仏教が人々との接点である民俗的信仰の部分を軽んじて、過去からの遺産である教義・宗義の整備に比重を置いたとき、同時代を生きる人々の心が離れていったのではないだろうか。伝統仏教界は、伝統として受け継ぐべき部分は崩せないが、時代背景や人々の考え方が異なることを考慮して、宗祖が説いた言葉を字義通りの解釈ではなく、宗祖が現代ならばどう説くかという思い切った翻訳をしたうえで、教えを説いていかなければ現代人に受容されるのは難しいであろう。近年は、民俗的信仰に類するとされてきた葬儀の意義を積極的に説くことによって、離れていった人々の心を取り戻そうとしているが、果たして巻き返しはできるだろうか。
 第1次「死後の世界」ブームにおいて新・新宗教や霊能者は、テレビや書籍などマスメディアを通して各地の人々を惹き付けた。全国における生活文化の均一性が高まった現代では、このような展開が容易である。一方で、伝統仏教には、信者と同じ生活文化圏で地域に密着した拠点(寺院)をもつという利点がある。全国展開の新・新宗教などに対して地域の民俗的信仰を徹底的に重視していくという選択肢もあろうが、地域特性が失われていく日本では難しい面があるかもしれない。
 末木文美士・国際日本文化研究センター教授(仏教学)は、仏教は死者から始まったものであると主張する。釈迦が他者に説いたことから原始仏教が始まり、釈迦の死後に発生した大乗仏教は、死者(釈迦)との関わりという問題から出発しているという。そして、前近代的と批判されて急速に衰退した仏教の来世思想を取り戻し、新しい思想を築くよう日本の仏教界に提案している[53]。インドから中国を経て伝わった仏教が日本の風土に馴染んで、教義と習俗の矛盾を孕んだ日本仏教として定着したように、伝統仏教の各宗派が教義とは別次元で現代日本人に馴染む「死後の世界」観をもっていても構わないだろう。「あの世」が注目されている今、「死後の世界」を説くところから伝統仏教に誘えるかもしれない。
 だが、何よりもまず重要なことは、社会生活を営む一般の人々の感覚、考え方、悩みなどを理解し、つねに人々に寄り添っていくということであろう。人々の信頼があって初めて、教えを説いていくことができるのであるから・・・・・・。
 
[1] 佐々木宏幹「僧の葬祭コンプレックスは来世観の混沌にあり」『寺門興隆』1999年5月号
[2]佐々木宏幹「『あの世』の復権は可能か」『寺門興隆』1999年5月号
[3] 『朝日新聞』1997年6月21日
[4]佐々木宏幹「葬祭仏教の問題」『寺門興隆』1999年4月号
[5] 末木文美士『浄土思想論』春秋社2013年7月
[6] 正木晃『いま知っておきたい霊魂のこと』NHK出版2013年3月、参考:竹内弘道「日本仏教と葬祭の関わり」奈良康明編『葬祭――現代的意義と課題――』曹洞宗総合研究センター2003年3月に、「現在村落にある寺院の8~9割は、中世末から近世初頭(16~17世紀)に創建されたもの」とある。
[7]日蓮宗現代宗教研究所編著『葬儀の心~青年僧のために』日蓮宗宗務院2011年7月』
[8] 稲田務、太田典礼・代表編集『葬式無用論』葬式を改革する会1968年11月
[9] 参考:釈尊の従者だったアーナンダ(阿難)が入滅間近の釈尊に、遺体をどうすればよいかと説いたときの答え。「アーナンダよ、そなたたちは如来の遺体供養に関わるな。アーナンダよ、そなたたちはどうか自身の目的のために励んでもらいたい。自身の目的に専心すればよいのだ。アーナンダよ、如来を信仰する在家の者たちが如来の遺体供養をなすであろう」鈴木隆泰『葬式仏教正当論』興山舎2013年11月、「アーナンダよ、お前たちは修行完成者の遺骨の供養(崇拝)にかかずらうな。どうか、お前たちは、正しい目的のために努力せよ。正しい目的を実行せよ。正しい目的に向って怠らず、勤め、専念しておれ。」中村元訳『ブッダ最後の旅』1980年6月岩波書店
[10] 南伝の『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』=『マハーパリニッバーナスッタンタ』
[11] 鈴木隆泰『葬式仏教正当論』興山舎2013年11月
[12] 『読売新聞』1985年9月18日夕刊
補足:佐藤俊晃・曹洞宗総合研究センター客員研究員は、明治初期に政府が霊魂中有説について問いただした質問に、曹洞宗は、霊に実体的な考えをもってはいけないという立場と、霊魂という実体的なものがあると認めて葬式や法事をしなくてはいけないという立場の2つに分かれた答えを出しているという。『霊をどう説くか』四季社2010年7月
[13] 『宗教教団の明日への課題』曹洞宗宗務庁1984年3月、浄土真宗本願寺派「伝道院紀要 習俗俗信問題特集」29号1984年12月
[14] 槫林皓堂編『教化研修』第12号曹洞宗教化研修所1969年3月、同第13号1970年3月、槫林皓堂編『共同研究 葬祭に対する人々の意識』駒澤大学・曹洞宗教化研究所1972年3月
[15] 小田原利仁編『宗教集団の明日への課題』曹洞宗宗務庁1984年3月
[16] 『宗門葬祭の特質を探る~修証義との関連において』曹洞宗教化研修所薪水会 編1985年9月同朋舎出版
[17]奈良康明編『葬祭――現代的意義と課題――』曹洞宗総合研究センター2003年3月
[18]奈良康明編『葬祭――現代的意義と課題――』曹洞宗総合研究センター2003年3月、奈良康明編『シンポジウム「葬祭――現代的意義と課題――」記録』曹洞宗綜合研究センター2004年2月
[19] 佐々木宏幹「葬祭の意義と課題」奈良康明編『シンポジウム「葬祭――現代的意義と課題――」記録』曹洞宗綜合研究センター2004年2月
[20] 浄土宗総合研究所、伊藤唯真・藤井正雄編『葬祭仏教』ノンブル社1997年6月
[21]浄土宗総合研究所編『現代葬祭仏教の総合的研究』浄土宗総合研究所2012年3月にも収録されている。
[22] 『日本経済新聞』2011年2月5日
[23] 今岡達雄、奈良康明 対談「死者とあらたなかかわりを」浄土宗出版編『じゃあ、仏教の話をしよう。』浄土宗2012年2月 
[24] 武田道生、熊井康雄、今岡達雄著、浄土宗出版編『お葬儀はなんのため? だれのため?』浄土宗2011年11月
[25] 浄土宗総合研究所編『現代葬祭仏教の総合的研究』浄土宗総合研究所2012年3月
[26] 大村英昭「わが宗門と習俗・迷信」浄土真宗本願寺派伝道院編『伝道院紀要』浄土真宗本願寺派出版部1984年12月
[27]浄土真宗本願寺派勤式指導所編『浄土真宗本願寺派葬儀規範』本願寺出版社2009年7月
[28] 教学伝道研究センター本願寺仏教音楽・儀礼研究所編『『浄土真宗本願寺派葬儀規範』解説――浄土真宗の葬送儀礼――』本願寺出版社2010年12月
[29] 『文化時報』2005年1月26日
[30] 日蓮宗現代宗教研究所編著『葬儀の心~青年僧のために』日蓮宗宗務院2011年7月
[31] 『朝日新聞』2009年4月4日大阪版夕刊
[32] 西脇顕真『千の風~大切な人を失ったあなたへ~』本願寺出版社2006年12月
[33] 『読売新聞』2007年2月20日大阪版夕刊
[34] 『中外日報』2008年9月18日
[35] 『東京新聞』2007年10月23日夕刊
[36] 末本弘然『新・仏事のイロハ』本願寺出版社2012年11月
[37] 『中外日報』2008年9月18日
[38] 「2007年秋の法要(全国門徒総追悼法要)ご門主法話(ご親教)」浄土真宗本願寺派公式サイトhttp://www.hongwanji.or.jp/mioshie/zenmon/hw_071123goshinkyou.html
[39] 高橋原「霊に取り憑かれた人に僧侶はどう向き合うか」『月刊住職』2014年5月号、高橋原「幽霊を見たという人に僧侶はどう向き合うか」『月刊住職』2014年6月号
[40] 日本宗教学会における相澤出・医療法人社団爽秋会岡部委員研究所の発表より『仏教タイムス』2014年9月18日
[41] 高橋原「霊に取り憑かれた人に僧侶はどう向き合うか」『月刊住職』2014年5月号
[42]玄侑宗久「霊の個性はあるのか? 江原啓之ブームに喝!」『文藝春秋』2007年5月号
[43]佐々木宏幹「葬祭仏教の問題」『寺門興隆』1999年4月号
[44]「葬儀とは? 告別式とは?」 浄土宗公式サイトhttp://jodo.or.jp/knowledge/soshiki/index_9.html、「浄土宗のお葬式について その④ 極楽へとつづく葬儀式」http://jodo.or.jp/radio/web_radio/wma_10_10_04.html
[45] 森田真円、釈徹宗『浄土真宗はじめの一歩』本願寺出版社2012年8月、P83末本弘然『新・仏事のイロハ』本願寺出版社2012年11月
[46] 浄土宗公式サイトの「お盆の準備」http://jodo.or.jp/knowledge/obon/index1.htmlには、「お盆の準備は、地方、地域によってさまざまです。詳しくはお近くのご住職にお問合せください」とある。また、日蓮宗の葬儀についての考え方は前述参照。
[47] 『十住心論』巻第一・「弘法大師全集」126ページ・・・・・・佐伯泉澄『弘法大師のみ教えを慕って』高野山出版社1993年2月より、弘法大師空海全集編輯委員会編『弘法大師空海全集 第一巻』筑摩書房1983年11月の「秘密曼荼羅十住心論 巻第一」では8ページ
[48] 佐伯泉澄『人は死んでも生きている』高野山出版社1994年10月
[49] 佐伯泉澄『弘法大師のみ教えを慕って』高野山出版社1993年2月
[50] 三井英光『加持祈祷の原理と実修』高野山出版社1958年1月に解説されているという。
[51] 佐伯泉澄『人は死んでも生きている』高野山出版社1994年10月
[52] 佐伯泉澄『人は死んでも生きている』高野山出版社1994年10月、佐伯泉澄『弘法大師のみ教えを慕って』高野山出版社1993年2月
[53] 末木文美士『浄土思想論』春秋社2013年7月