文字サイズ: 標準

研究員レポート

バックナンバー

宗教情報

宗教情報センターの研究員の研究活動の成果や副産物の一部を、研究レポートの形で公開します。
不定期に掲載されます。


2014/10/18

現代の伝統仏教の「死後の世界」観(続) 

宗教情報

藤山みどり(宗教情報センター研究員)

 前回は、伝統仏教の主な宗派7つの「死後の世界」観のうち、平安仏教の真言宗と天台宗、鎌倉仏教である浄土宗、浄土真宗本願寺派、真宗大谷派の浄土系3宗を見た。今回は、鎌倉仏教の曹洞宗、日蓮宗を見ていく。

一.現代の伝統仏教の「死後の世界」観(続)
3.主な宗派の霊魂観と「死後の世界」観(続)
(6)曹洞宗
 曹洞宗の宗旨は、坐禅の実践によって得る身心のやすらぎが、そのまま「仏の姿」であると自覚することである[1]。宗旨では来世には触れておらず、宗派に付置された研究機関である曹洞宗総合研究センターが中心となって「霊魂」や「死後の世界」の説き方について研究を重ねた。
●霊魂観
 曹洞宗では、霊魂観や霊観念に関する研究を少なくとも1960年代から行ってきた。研究成果をまとめた出版物が多数、曹洞宗総合研究センターから発行されている。2001年に曹洞宗宗務庁と曹洞宗総合研究センターが宗門僧侶を対象に実施した調査では、半数弱が「霊魂は存在する」と回答した(複数回答)[2]
                   (n=1122
霊魂は存在する           ・・・・・・47.6%
霊魂は存在しない        ・・・・・・  7.5%
追憶のなかに存在する    ・・・・・・47.0%
感覚として存在する         ・・・・・・54.8%
何も感じない                      ・・・・・・  0.3%
その他             ・・・・・・  4.5%
無回答             ・・・・・・  1.8%
 このような調査研究の集大成となる2003年の報告書『葬祭――現代的意義と課題――(以下、葬祭)』(2003年刊)では、“霊魂の問題は複数の理解が可能で、元々民俗的な観念である故に、僧侶の見識によって解釈の差があり得るし、それを(曹洞宗総合研究センターの)研究会で統一見解は主張しにくい” [3]として僧侶が説く際に一助となる材料は提示したものの統一見解は出されなかった。霊魂は「地方により、また人によって異なるバリエーションに富んでいるので、一義的な規定は無理」[4]で、“僧侶がそれぞれの立場で説いていくより仕方がない”[5]と判断された。
 その出版記念に開催されたシンポジウムでは、研究会では霊を仮に「追憶としての死者の人格」と言えるのではという見解が出されており、「命の根源」も教義に反しないと思われるという研究員の発表があった。「実践と理念の面で現場の宗侶が最も苦慮しているのが、来世と霊の問題」であるとして、「宗旨や教義にかなった説き方の手引書」が渇望されているとも発表された[6]。だが、その後も手引書は作成されていないようである。
 この後、2008年に刊行された『僧侶――その役割と課題――』には、霊的存在を認めないことが宗旨の立場であるが、死者の魂は生き続けると信じている人々の思いを受け入れ、人々とともに民俗の世界から宗旨を目指して歩くことが大切、という趣旨が書かれている[7]。宗旨では霊的存在を認めないというのは、宗祖・道元が、心の永遠を主張する「心性常住説」、身は朽ちても心は永遠であると主張する「心常相滅論」について批判していることからである[8]
 なお、2007年改訂の『曹洞宗檀信徒必携』には、お盆やお彼岸のときの仏壇のまつり方は、“地方によって豊かな伝統と特色があるので詳しくは菩提寺に”としつつ、「新盆(初盆)」の説明として、「亡くなった方を初めて家に迎えます」との記述がある[9]。また、「施食会(せじきえ)」の説明に、「すべての亡き精霊のために営む法要」で、「自分の先祖のためだけでなく、すべての精霊に供養する心で営むことが大切」とある[10]
●死後の世界・・・・・・検討のうえ保留
 曹洞宗では、研究報告書を見ても「死後の世界」については明確でない。霊魂観と同じく2001年には宗門僧侶を対象に「説教を行う際、死者の霊魂(原文ママ)のゆくえをどのように説きますか」についても質問している(複数回答)[11]。だが、僧侶であっても回答は多種多様であった。
                 (n=1122
仏の子として成仏したと説く ・・・・・・46.1% 
仏国土へ行ったと説く    ・・・・・・44.9
極楽浄土へ行ったと説く   ・・・・・・32.3%※
あの世へ行ったと説く    ・・・・・・23.4
魂には触れない       ・・・・・・  8.3
墓へ行ったと説く      ・・・・・・  3.0
山や海へ行ったと説く    ・・・・・・  1.2
その他           ・・・・・・  9.9
無回答           ・・・・・・  2.9
※「極楽浄土」という回答が3割もある理由について、佐藤俊晃・曹洞宗総合研究センター客員研究員は、曹洞宗の教義では極楽浄土を積極的に説いていないが葬儀の際の「念誦文」に浄土教の影響が残っていることと、浄土思想の浸透度が高いことを指摘している[12]。 

  「死後の世界(他界)」についても霊魂と同様、地方や人によって異なるので一義的な規定は無理と考えられ[13]、2003年のシンポジウムでは、宗義的に来世は「仏国土」「悟りの世界」と思われるが、研究会での合意は出来上がっていないという研究員からの発表があった[14]。『曹洞宗檀信徒必携』には、曹洞宗の葬儀は死者を仏弟子とし、「さとりへの道」へ送る内容を持つものと記されている。ただし、死者のゆくえについては他の箇所で「さとりの世界」へと導くとある[15]。(※2015年8月追記参照)
 また、2003年に刊行された『葬祭』には、道元は『正法眼蔵』に「たとひこの生をすてて、いまだ後の生にむまれざらんそのあひだ、中有と云ふことあり(「仏道」)と、中有を明らかに認めている[16]と記されている。ただし、『曹洞宗檀信徒必携』の「追善供養」の項では、他宗派に見られるような中間的存在としての中有についての説明は見られなかった[17]。道元は霊魂の存在は否定したが、生々世々(しょうじょうせぜ)にわたる修行を説いた輪廻に関わる説示を挙げたうえで、道元は「過去世を認め、来世を認め・・・・・・未来永劫にわたる仏道」を説いており、「輪廻を認めている」[18]とする論文も、『葬祭』には掲載されている。ただし、同時掲載されている座談会における意見[19]をみると、通常の輪廻観とは異なるという意見があり、真の理解は難しいようである。
※曹洞宗の霊魂観、「死後の世界」観については、「伝統仏教界の「死後の世界」観に関する動向」も併せてお読みください。

 
(7)日蓮宗
 日蓮宗の宗旨では、「即身成仏」と「仏国土の顕現」がうたわれている[20]。日蓮は、この世で仏に成ることは不可能であるとして来世に成仏を託す教え(浄土教)に対して、生きながら仏に成る、現実の世の中を仏の国土にすることを目標とした[21]。来世を説く信仰ではないが、日蓮は、『波木井殿(はきいどの)御書』や『弥源太殿(やげんたどの)御返事』などで死後のことを具体的に示している。
●霊魂観
 檀信徒向けの基本書『信行(しんぎょう)必携Ⅱ』[22]や『日蓮宗の教え――檀信徒版宗義大綱読本』[23]には、「霊魂」という言葉は見当たらない。だが、教師向けの『宗義大綱読本』には、日蓮の主張を説明するなかで、「たとえ肉体は消滅したとしても、霊魂は永遠に不滅の絶対者たる仏と同体不二(どうたいふに)の存在として存続されるものと考えられている」と霊魂の存続が明記されている[24]
 なお『信行必携』(1972年刊)には、お盆(盂蘭盆会=うらぼんえ)について「宗徒は精霊棚をかざり、迎え火、送り火をたいて、精霊をまねき、おくる。精霊に回向するため、棚経が・・・・・・営まれる」、追善法要(墓参)について「(墓は)その人のの安息する場所」「塔婆は、亡き精霊を供養し・・・・・・」[25]などの説明が成されている(※追記参照)。
 ただし、上記のように日蓮宗が編集した刊行物ではなく、一寺院の僧侶が執筆した『B5版1枚にまとめた仏事のいろいろ(改)』(2013年改訂版)には、「科学と仏教で探る御先祖様・幽霊」の項では、“仏教では諸行無常・諸法無我を説くので、霊魂のように死後も生前のような姿や心をもつといった固定的な存在は認めない”と記されている[26]
●死後の世界・・・・・・霊山浄土(※要注意)
 『日蓮宗の教え――檀信徒版宗義大綱読本』には、“法華経を読誦し、お題目を唱えるものは、久遠実成本師(くおんじつじょうほんし)釈迦牟尼仏のいる霊山(りょうぜん)浄土に行く冥土の旅には釈迦・多宝(たほう)如来・上行(じょうぎょう)等の四菩薩が手をとって迎えに来る”、と記されている[27]。この根拠として、日蓮の「南無妙法蓮華経は死出の山にては杖柱(つえはしら)となり給え。釈迦仏・多宝仏・上行等の四菩薩は手を取り給うべし。(中略)・・・・・・ただ一心に信心おわして霊山を期(ご)し給え」(『弥源太殿御返事』)が挙げられている。
 青年僧侶向けに葬儀の捉え方を説明した『葬儀の心~青年僧のために』には、日蓮宗の葬儀は死者を安らかに霊山浄土へ旅立たせる儀式であることを示すものとして、「引導文」に用いられる『波木井殿御書』の一節を掲載している[28]
 日蓮が弟子檀那等の中に日蓮より後に来り給ひ候はば、梵天・帝釈・四大天王・閻魔法王の御前にても、日本第一の法華経の行者、日蓮房が弟子檀那なりと名乗って通り給ふべし。此の法華経は三途の河にては船となり、死出の山にては大白牛車となり、冥途にては燈となり、霊山へ参る橋也。霊山へましまして艮の廊にて尋ねさせ給え、必ず待ち奉るべく候。
 霊山とは、釈迦が法華経を説いたインドの霊鷲山(りょうじゅせん)のことで、霊山浄土とは、法華経の行者が信行に励み、仏と同体になった場所を指す[29]。霊山へ行くことを霊山往詣(おうけい)というが、これは浄土教で説くような成仏するために極楽に往って生まれるという「往生」とは異なる。霊山へ往ってから成仏するのではなく、生きながら仏に成っていこうと努力する行者が、本来からある浄土へ還っていくことだという[30]
現世と来世が区別しがたいが、教誌『正法』(日蓮宗新聞社発行)の連載に加筆訂正してまとめた『お寺への質問』[31]の「人間の死後は」の説明には、次のような記述がある。“本来、精神=霊は死もなく、生もなく、変わることなく永遠の仏の世界に存在していると見る”“現世でも仏の手のひらを飛びまわっているだけで、本質的には生前も生後も死後も変わりはない”。霊山浄土を単純に「死後の世界」と捉えるには慎重さが必要であろう。
 なお、『日蓮宗の教え――檀信徒版宗義大綱読本』には、檀信徒向けの基本書には珍しく、“人はだれでも死ねばすぐに仏に成ると決まっているわけではない”、「死んでも仏に成れず、迷い続けて地獄の苦しみを味わう者もいる」と、苦しむ「死後」も書かれている[32]
 中有を認めるか否かについては、『お寺への質問』にある追善法要の説明では定かではないが、『B5版一枚にまとめた仏事のいろいろ(改)』には、「四十九日忌」の項目で、中陰(中有)は現世と来世の中間という意味で、“仏教ではこの四十九日の間に、遺族が死者のために供養することで、積まれた善業が死者に及ぶと教える”と書かれており、認める方向性がうかがえる[33]
 
4.まとめ
 以上、伝統仏教の霊魂観と「死後の世界」観を見てきた。「死後の世界」ブームのときに新・新宗教や霊能者たちが説いた霊魂観や「死後の世界」観と比べると、教義の性格の違いもあるが、総じて明確ではない。今岡達雄・浄土宗総合研究所副所長は、宗祖・法然が在世の時代は、輪廻は当然のものとされていたので、それを考えないと、その教えが依って立つ基盤を理解することは難しいと述べている[34]。伝統仏教の各宗義が成立した時代と現代とでは、背景が大きく異なるので、その霊魂観や「死後の世界」観も現代人には見えにくくなっているのかもしれない。
 各宗派の霊魂観、「死後の世界」観をみていくと、同じ「霊、霊魂」あるいは「浄土」という表現を使っていても、各宗派によって意味するものが異なるので、横並びで比較するのは難しい。霊魂観をみると、霊魂に肯定的でない宗派のなかには、詭弁を弄して一般の人々からすれば“霊魂”と受け止められる存在を別の語に置き換え、「霊魂」という語を否定しているだけのようなところもある。その意味では、語句の定義によっては、霊魂否定から霊魂肯定の立場に変わりうるとも言えそうである。
 宗教学者・正木晃は、祈祷をよくする宗派は霊魂の存在に肯定的で、そうでない宗派は否定的と述べている[35]。高野山真言宗が霊を肯定し、浄土真宗が霊魂を否定するのはその通りであろう。だが、浄土観が時代によって変化したように霊魂観も時代に応じて変化する。天台宗や浄土宗、曹洞宗などの刊行物の記述の変化を見ると、伝統仏教界は近年、霊魂否定から霊魂受容へと変化の兆しがみえる。釈迦の「無記」の考え方や無我説よりも、日本に生まれた宗祖の考え方あるいは日本の習俗といった現実に寄り添うことを重視するようになってきている。真宗大谷派は、2013年に刊行された『真宗の仏事』をみると、霊魂受容とまではいかないものの、葬儀の迷信やお盆の習俗を頑なに否定する姿勢から柔軟姿勢に変わっている。これらに対して、日蓮宗の出版物では、新しく刊行されたものほど霊魂や精霊に関する記述が無くなっている傾向がみられる。
 仏教が霊魂を認めるか否かについては多くの見解がある。浄土真宗本願寺派僧侶でもある大村英昭・大阪大学教授(現・名誉教授)は、近代仏教者たちは霊魂というと無我説に反すると恐れるが、日本人が霊魂という言葉で意味するのは、そのような「我」ではなく霊性であるという。だから、霊魂という言葉は遠慮なしに使わないと・・・・・・と主張し、自ら“親鸞は霊能者だ”と表現する[36]。また、1990年に真言宗で最も権威ある賞のひとつである密教教化賞を受賞した真言宗善通寺派の僧侶・佐伯泉澄(故人)は、「その人の心境の違いによる、教えの立て方の違いによるもの」と述べている[37]。霊魂に対するとらわれや恐怖などを払うために、迷いの残っている人たちには「霊魂はない」と説き、もはや迷いを離れた人たちには「霊魂はある」と説くという。これらの見解は有霊魂観の立場に偏っているが、説く相手に応じた霊魂観で対応することも大切であろう。浄土宗と曹洞宗は、教義や宗義としては無記あるいは否定的な霊魂観をとるが、一方で霊魂を肯定する習俗をも尊重しており、ある意味では相手に応じた説き方を提案している。
 「死後の世界」観については、「死後の世界」というよりも「死者のゆくえ」という項目立てのほうが適切だったかもしれない。葬儀の危機に瀕して近年、葬儀や仏事についての解説書等が各宗派から相次いで出版されており、死者のゆくえについては、そのような解説から取り上げた事例が多かった。ただし、曹洞宗では、「死後の世界」の説き方について討議されたものの、現時点では統一見解はないようである。一義的な方向性を示さずに材料を投げかけて各自に考えさせるというのが、曹洞宗によくみられる対応であるので、この段階で留まる可能性が高い。霊魂観、「死後の世界」観ともに曖昧にみえるが、霊魂観や「死後の世界」観について曹洞宗は浄土宗と並んで宗門内で詳細な研究を重ねてきた宗派であり、日本仏教にありがちな霊魂観の矛盾をそのままにせず正面から取り組んだゆえに、このような結果になったとも言える(次回参照)。
 また、死者のゆくえを「死後の世界」として受け止めてよいかというと、真宗大谷派や日蓮宗など現世を中心に説く宗派では特に、現世においても実現しうる世界と重なり、解釈は難しい。人々の関心が高い「死後の世界」について問うこと自体に否定的なところもある。また、檀信徒向けの小冊子であっても、形而上学的で難しい説明もあった。人々の願望や期待に応じることが宗教の役割ではないとしても、人々の心をつかむことができるであろうか。人々の心に寄り添えるのだろうか。このような点からは、民俗的死生観とさほど乖離していない「死後の世界」を明確に説いた新・新宗教や霊能者たちが、人々を惹き付けたのも納得できる。
 ただし、霊魂の存否にかかわらず、いずれの宗派も「死ねば終わり」という考え方ではない。これは「霊魂の存続」を主張した新・新宗教や霊能者たちの考えや、「死後も魂は残る」という日本人に多い考えと重なる。また、浄土宗や浄土真宗にみられる「倶会一処」の考え方は、「死後の世界で近親者に会える」という現代人の期待と合致している。
 次回は、これらを踏まえて、伝統仏教における霊魂観や「死後の世界」観の推移、これらに関連する近年の話題をみていく。
 
●主要7宗派の出版物に見られる霊魂観と死後の世界

※微妙な言説があるので、誤解を避けるため詳細は本文参照のこと。
※■は宗祖、◆は本尊、霊魂観の印は、○は霊魂に肯定的、×は否定的、△はその他
宗祖と本尊 霊魂観(上段)と「死後の世界」(下段)
高野山真言宗
■弘法大師空海(774~835年)
◆大日如来(総本尊)
弥勒菩薩の都率浄土
※霊が浄土へ行くまで49日の中陰(中有)を認める。
天台宗
■伝教大師最澄(767~822年)
◆久遠実成無作(※1)の本仏
阿弥陀如来の極楽浄土
※死者が浄土へ行くまでの49日の中陰を認める。
浄土宗
■法然(1133~1212年)
◆阿弥陀仏(阿弥陀如来)
△教義では否定するが、習俗としての霊魂の存在には寛容
阿弥陀如来の極楽浄土
※ただし、極楽浄土で菩薩として修行を積み、さとりを得て仏となり、人々を救うためまたこの世に還ってくる(還相回向)。
※ただちに極楽浄土に往生するので、中有はない。
浄土真宗本願寺派
■親鸞(1173~1263年)※2
◆阿弥陀如来
×
阿弥陀如来の極楽浄土
※ただし、極楽浄土に往生してさとりを開いて仏となったものは、再び迷いの世界に還ってきて、他の衆生を救うはたらきにでる(還相回向)
※ただちに極楽浄土に往生して仏になるので、中有はない。
真宗大谷派
■親鸞(1173~1262年)※2
◆阿弥陀如来
 
×
仏の国、さとりの世界、阿弥陀如来の極楽浄土(※)
※浄土とは、死後の世界としての『あの世』でもなく、理想郷でもなく、人間を見失ったものに人間を回復させる仏の世界。
※ただちに仏の国に入るので、中有はない。
曹洞宗
■道元(1200~1253年)
◆釈迦牟尼仏
△ 宗旨では否定するが、習俗としての霊魂の存在を尊重
※研究会では霊は仮に「追憶としての死者の人格」と言えるという見解が出され、教義的には「命の根源」とも言えるされた。
さとりの世界(※)
※2015年8月追記参照
※研究会で「仏国土」「悟りの世界」などが示されたが、研究会内でも合意はなかった(2003年)。その後、2007年刊の複数の書籍で「さとりの世界」と記述。
※宗祖・道元は中有を認めているとの研究報告はある。
日蓮宗
■日蓮(1222~1282年)
◆久遠実成本師釈迦牟尼仏
○ 
釈迦のいる霊山浄土(※)
※ただし、死んでも仏に成れず、地獄の苦しみを味わうものもいる。
※本質的には、現世でも死後も変わることなく仏の世界に存在している。
※1久遠実成無作(くおんじつじょうむさ)の本仏=釈迦牟尼仏のこと
※2浄土真宗本願寺派と真宗大谷派の宗祖・親鸞は同一人物であるが、各公式サイトで没年が異なる。
浄土真宗本願寺派(本願寺)の公式サイトhttp://www.hongwanji.or.jp/mioshie/shinran.html
弘長(こうちょう)2年11月28日(新暦1263年1月16日)
真宗大谷派(東本願寺)の公式サイトhttp://www.higashihonganji.or.jp/about/history/

 

●2015年4月追記
 宗派の統一見解というものがほとんど明文化されてない霊魂観について、『檀信徒必携』のような宗派の信徒向け出版物や宗派の付置研究所の出版物をもとに探るという、従来なかった手法で探った本レポートに言及する際にはタイトル名、筆者名、URL(あるいは「宗教情報センター」サイト)、掲載日を明記ください。言及の際には、倫理を遵守ください(各業界の基準を遵守ください)。よろしくお願い申し上げます。


●2015年8月追記
 2014年10月の発表時点では、『檀信徒必携』に「さとりへの道」へ送るとある、としていましたが、2007年刊の『檀信徒必携』さらに『僧堂読本 曹洞宗を知る』(曹洞宗宗務庁教学部編、曹洞宗宗務庁)に「さとりの世界」と記載されていることを確認しましたので、訂正いたしました。また、表でも「検討のうえ保留」としましたが、「さとりの世界」と訂正させていただきます。
 また、日蓮宗の『信行必携』は『信行必携Ⅱ』とともに、現在も継続発行中とのことで、Ⅱの「旧版」という表記を削除いたしました。

 
[1] 『曹洞宗檀信徒必携』改訂委員会編『曹洞宗檀信徒必携』2007年3月改訂第2版(1958年12月初版)、佐々木宏幹「葬祭の意義と課題」奈良康明編『シンポジウム「葬祭――現代的意義と課題――」記録』曹洞宗総合研究センター2004年2月には、“「只管打座」「即心是仏の承当」が宗旨”と書かれている。
[2] 佐々木宏幹「死者と来世」、菅原壽清「アンケート調査結果の解説」奈良康明編『葬祭――現代的意義と課題――』曹洞宗総合研究センター2003年3月
[3] 奈良康明「序文」奈良康明編『葬祭――現代的意義と課題――』曹洞宗総合研究センター2003年3月
[4] 佐々木宏幹「基調講演 葬祭の意義と課題」奈良康明編『シンポジウム「葬祭――現代的意義と課題――」記録』曹洞宗総合研究センター2004年2月
[5] 奈良康明「『葬祭――現代的意義と課題――』刊行経緯の報告」奈良康明編『シンポジウム「葬祭――現代的意義と課題――」記録』曹洞宗総合研究センター2004年2月
[6] 椎名宏雄「宗旨と現場のあいだ」奈良康明編『シンポジウム「葬祭――現代的意義と課題――」記録』曹洞宗総合研究センター2004年2月
[7]粟谷良道「民俗と仏教の間で――民俗から宗旨へ――」曹洞宗総合研究センター編『僧侶――その役割と課題――』曹洞宗総合研究センター2008年3月
[8] 粟谷良道「民俗と仏教の間で――民俗から宗旨へ――」曹洞宗総合研究センター編『僧侶――その役割と課題――』曹洞宗総合研究センター2008年3月
[9] 『曹洞宗檀信徒必携』改訂委員会編『曹洞宗檀信徒必携』曹洞宗宗務庁2007年3月改訂第2版(1958年12月初版)
[10] 『曹洞宗檀信徒必携』改訂委員会編『曹洞宗檀信徒必携』曹洞宗宗務庁2007年3月改訂第2版(1958年12月初版)
[11]佐々木宏幹「死者と来世」、菅原壽清「アンケート調査結果の解説」奈良康明編『葬祭――現代的意義と課題――』曹洞宗総合研究センター2003年3月
[12] 佐藤俊晃「霊とどう向き合うか――曹洞宗の立場にたって」佐々木宏幹、藤井正雄、津城寛文監修『「霊」をどう説くか』四季社2010年7月
[13] 佐々木宏幹「基調講演 葬祭の意義と課題」奈良康明編『シンポジウム「葬祭――現代的意義と課題――」記録』曹洞宗総合研究センター2004年2月
[14] 椎名宏雄「宗旨と現場のあいだ」奈良康明編『シンポジウム「葬祭――現代的意義と課題――」記録』曹洞宗総合研究センター2004年2月
[15] 『曹洞宗檀信徒必携』改訂委員会編『曹洞宗檀信徒必携』曹洞宗宗務庁2007年3月改訂第2版(1958年12月初版)
[16] 下室覚道「道元禅師の著作にみえる中有観」奈良康明編『葬祭――現代的意義と課題――』曹洞宗総合研究センター2003年3月
[17]『曹洞宗檀信徒必携』改訂委員会編『曹洞宗檀信徒必携』曹洞宗宗務庁2007年3月改訂第2版(1958年12月初版)
[18] 角田泰隆「道元禅師の著作にみえる輪廻観」、p93下室覚道「道元禅師の著作にみえる中有観」奈良康明編『葬祭――現代的意義と課題――』曹洞宗総合研究センター2003年3月
[19] 出席者:椎名宏雄、菅原壽清、田中良昭、角田康隆、永井政之、奈良康明、松田文雄、松本皓一、安田剛一、司会者・佐々木宏幹「座談会 なぜ葬祭が必要なのか」奈良康明編『葬祭――現代的意義と課題――』曹洞宗総合研究センター2003年3月
[20] 日蓮宗公式サイトhttp://www.nichiren.or.jp/activity/basic/
日蓮宗宗憲第2条(宗旨)日蓮宗は、本門の本尊を帰依の正境とし、本門の題目を信行の要法とし、本門の戒壇を依止の戒法とする三大秘法を宗旨として法華経を行じ且つあらゆる思想を開顕して妙法に帰せしめ、もって即身成仏、仏国土顕現を理想とする。
[21] 日蓮宗勧学院監修、日蓮宗宗務院教務部編集『日蓮宗の教え――檀信徒版宗義大綱読本』日蓮宗新聞社1999年2月
[22] 日蓮宗編集『信行必携Ⅱ』日蓮宗新聞社2001年8月
[23] 日蓮宗勧学院監修、日蓮宗宗務院教務部編集『日蓮宗の教え――檀信徒版宗義大綱読本』日蓮宗新聞社1999年2月
[24]日蓮宗勧学院監修、日蓮宗宗務院教務部・日蓮宗新聞社出版部編『宗義大綱読本』日蓮宗新聞社1989年8月
[25]日蓮宗編『信行必携』日蓮宗新聞社1972年4月
[26] 今井見恵『B5版1枚にまとめた仏事のいろいろ』日蓮宗新聞社2013年1月改訂版(2011年10月初版)
[27] 日蓮宗勧学院監修、日蓮宗宗務院教務部編集『日蓮宗の教え――檀信徒版宗義大綱読本』日蓮宗新聞社1999年2月
[28] 日蓮宗現代宗教研究所編著『葬儀の心~青年僧のために』日蓮宗宗務院2011年7月
[29] 日蓮宗勧学院監修、日蓮宗宗務院教務部編集『日蓮宗の教え――檀信徒版宗義大綱読本』日蓮宗新聞社1999年2月
[30] 日蓮宗勧学院監修、日蓮宗宗務院教務部編集『日蓮宗の教え――檀信徒版宗義大綱読本』日蓮宗新聞社1999年2月
[31]小松邦彰、中尾堯、中澤浩祐、渡辺清明著、日蓮宗新聞社編『お寺への質問―日蓮宗の知識一二三――』日蓮宗新聞社1989年9月
[32] 日蓮宗勧学院監修、日蓮宗宗務院教務部編集『日蓮宗の教え――檀信徒版宗義大綱読本』1999年2月)
[33]今井見恵『B5版1枚にまとめた仏事のいろいろ』日蓮宗新聞社2013年1月改訂版(2011年10月初版)
[34] 奈良康明師、今岡達雄師対談「死者とあらたなかかわりを」浄土宗出版編『じゃあ、仏教の話をしよう』浄土宗2012年2月
[35] 正木晃『いま知っておきたい霊魂のこと』NHK出版2013年3月
[36] 大村英昭「シンポジウム――葬祭を考える」浄土宗総合研究所、伊藤唯真、藤井正雄編、『葬祭仏教』ノンブル社1997年6月
[37] 佐伯泉澄『人は死んでも生きている』高野山出版社1994年10月