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宗教情報センターの研究員の研究活動の成果や副産物の一部を、研究レポートの形で公開します。
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2014/10/18

現代の伝統仏教の「死後の世界」観  

宗教情報

藤山みどり(宗教情報センター研究員)

 これまで3回にわたって、現代日本における「死後の世界」ブームの変遷ブームとなった「死後の世界」観現代日本人の「死後の世界」観を取り上げてきた。現代日本人は、「あの世」を「信じる」方向への傾斜がみられる。だが、一般の人々の考えとは異なり、公教育の現場では科学主義に基づき、「霊魂」や「輪廻転生」が否定される。第1次「死後の世界」ブームでは、「死後の世界」観を明白に語った新・新宗教に対して、伝統仏教界はほぼ口を閉ざしていた。では、伝統仏教界における「死後の世界」観とは、どのようなものだろうか。

一.現代の伝統仏教の「死後の世界」観
1.伝統仏教の「霊魂」観
 「死後の世界」についての科学主義的な原則論と世論との乖離に直面しているのは公教育の現場だけでない。伝統仏教界にも、教理と民俗的信仰の乖離の問題がある。
 仏教の開祖・釈迦は、「霊魂と身体の関係」や「死後の有無」などについては答えなかった(「無記」)。その理由として、毒矢が身体にささったときには毒矢を抜くことが最優先であるのに、それをせずに余計なことにこだわっていると毒がまわって死んでしまうという「毒矢のたとえ」がある。そのような問いは、生老病死などの苦の問題を解決するのに資することがないという考えからであろう[1]。とはいえ仏教は、あらゆるものに「永遠に変わらず独立的に存在し、主として支配能力がある実体[2]」は「ない」という「無我説」を説いており、「霊魂という実体的な存在を否定する」と一般に解釈されている。
 だが、インド仏教にはヒンズー文化の輪廻転生思想が取り入れられ[3]、それが中国を経て日本に伝来した。さらに仏教は日本古来の霊魂観と祖先崇拝という民俗的伝統を取り入れ、15~16世紀ごろに「葬祭仏教」として日本社会に定着した[4]。そこでは一般的に、死者は、僧侶による葬送儀礼によって仏(ホトケ)となり、子孫によって墓に埋葬され、子孫による祭祀を受け続けて先祖、つまり祖霊となっていくとされた[5]
 こうして、霊魂についてはインド仏教も、さらに日本各地の民俗信仰を吸収して展開した「日本仏教」も教理の矛盾を孕んだまま存在している。このため日本の伝統仏教は、教理の基本としては無我説に基づき霊魂の存在に否定的であるが、ほとんどの宗派が統一された公式見解を持たず、個人的見解も多様である。
 安斎育郎・立命館大学教授(現・名誉教授)が1995年と1997年、仏教各宗派を対象に行った調査(以下、1990年代の調査)[6]には、回答しなかった宗派も多く、主なところでは天台宗総本山比叡山延暦寺、浄土真宗本願寺派の浄土真宗教学研究所(現・浄土真宗本願寺派総合研究所)、高野山真言宗総本山金剛峯寺が回答したが、いずれも基本的には個人的な見解としての回答で、宗派の統一見解ではなかった。東北大学のグループが2013年に宮城県内の宗教者を対象にした調査でも、曹洞宗、浄土宗、浄土真宗それぞれの宗派の僧侶の見解はさまざまであった[7]。そこで、ここでは伝統仏教の「死後の世界」観を概観したあとに、主要な7つの宗派の霊魂観を各宗派の出版物にみられる言説から探っていく。
 
2.伝統仏教の「死後の世界」観
 「死後の世界」について、日本人には「地獄と極楽」が対比するものという考え方が定着している。これには、平安時代中期の天台宗の僧侶・源信(942~1017年)が著した『往生要集』の影響が強い[8]。源信は、地獄を生々しく描き、地獄に堕ちずに極楽へと往生するためには念仏が大切であると説き、日本の浄土教の基礎をつくった。なお、源信の『往生要集』には閻魔大王が罪人を裁くという審判の描写があるが、浄土宗の宗祖・法然(1133~1212年)もその後の浄土教も、このような審判は説かず、あくまでも前向きに浄土に生まれることを重視した[9]。仏が住むという仏国土(浄土)には、大日如来の密厳(みつごん)浄土、薬師如来の東方浄瑠璃(じょうるり)世界などたくさんあるが、浄土教の流行によって、阿弥陀如来の立てた誓願により「『あの世』へ往くと仏に成る」という考えが広まり[10]、「浄土」が阿弥陀如来の仏国土である極楽浄土の代名詞となった。
 「浄土三部経」(『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』)の1つ『阿弥陀経』に極楽浄土の描写があり、「西方(さいほう)十万億土の彼方にあり、いま現に阿弥陀仏が説法されて」いる、「その国をなぜ極楽というかといえば、その国の人々にはなんの苦悩もなく、ただ楽だけを受けるからである」[11]「・・・・・・極楽には七宝(しっぽう)の池があって、八種の功徳をそなえた水が、なみなみとたたえられている。池の底には、一面に黄金(こがね)の砂が敷きつめられ、・・・・・・階道(きざはし)を上ると、楼閣(たかどの)があって、それもまた、金・銀・瑠璃・玻璃(はり)・硨磲(しゃこ)・赤珠(しゃくしゅ)・碼碯(めのう)などで美しく飾られている。また、池の中には蓮華が咲いていて、その大きさは、ちょうど車の輪のようで、青色の花には青い光があり、黄色の花には黄色い光があり、赤色の花には赤い光があり、白色の花には白い光がある。そしてそれらは、いずれも、けだかい清らかな香りを放っている。・・・・・・[12]」などと描かれている[13]
 この浄土はキリスト教の天国と混同されがちであるが、カール・ベッカー京都大学教授によれば、浄土には死後すぐ行かれるが天国には行かれるにしても審判が下されるまで待たなくてはならない点と、浄土は完全な解脱に向けて向上発展していく可能性があり、この世に戻って人々を救うこともできる場所であるが、天国では永遠に同じ身体で生き続けるという点が異なる[14]
 浄土教の流行もあって、伝統仏教では、「死者は本尊等の浄土(仏国土)に行く」とするところが多い(後述参照)。だが、浄土についての教えも時代に応じて変化する。塩入亮乗・浅草寺法善院住職は、鎌倉時代には「浄土は来世(あの世)にある」もので、日蓮宗が「この世こそ仏国土」と説いたのは革新的だったが、現代では天台宗なども「この世こそ浄土」という教えに変わってきたと指摘する。時代の流れであるが、「あの世」を曖昧にしたい側のすり替えと言えなくもないともいう[15]
 伝統仏教教団が「あの世」を明確に説かなくなったのは、明治以降になって教学が整備されるにつれて、科学では説明ができない「あの世」が批判されるようになったからという見方がある(伝統仏教の「死後の世界」観参照)。しかし、近年は、危機に陥った葬式仏教の見直しが図られたことによって、一般的には“死者を「あの世」へ送る”とされる葬儀の意義を説くために「あの世」が見直されはじめている。
 
3.主な宗派の霊魂観と「死後の世界」観
 それでは、信者数が多い主要な7つの宗派の霊魂観と「死後の世界」観を見ていく(成立順であるが、内容を考慮して天台宗と高野山真言宗は順序を逆にした)。宗派内でも多様な見解があることと、教義の上では解釈が微妙な問題が多々あることから、簡潔な表現を得るために主として信者向けに各宗派が発行、監修、著した出版物や公式サイト、各宗派に付置された研究所が著した出版物、各宗派の出版社から刊行された出版物に準拠した。このため、各宗派の「死後の世界」は、基本的には「信者の死後の世界」である。霊魂観、「死後の世界」観とも微妙な表現が多々あるため、なるべく原典を引用した。出版物は最新版を探し、「葬儀」に関する出版物は重点的に調査したが、このような手法によるため、網羅できていない点、不備な点は了承いただきたい。
 
(1)高野山真言宗
 真言宗の教えを一言でいえば「即身成仏(そくしんじょうぶつ)=人はだれでもこの身このままで仏になることができる」[16]で、浄土教のように来世を説く教えではないが、檀信徒向けの基本書『高野山真言宗檀信徒必携』には死者のゆくえが明快に記されている。
●霊魂観
 宗派の統一見解はないが、霊魂の存在を肯定する傾向が強いと考えられる。1990年代の調査[17]では、個人的見解として高野山真言宗総本山金剛峯寺は「霊は実体をもった存在である」と回答している。また、檀信徒向けの『高野山真言宗檀信徒必携』のなかの中陰(後述参照)の説明で「」という言葉を用いており[18]、僧侶の妻向けの冊子『高野山真言宗寺族婦人必携』には、位牌は先祖の「み霊(たま)の依代」という表現がある[19]。真言宗は、現世利益を仏に祈る加持祈祷の本家[20]ともみなされている宗派である。いかに科学が進んでも、人力でどうにもならない災難を断つには仏の永遠なるいのちと加持の力が必要[21]と、科学を超越した力を肯定する。科学万能主義に陥っていないので、科学で説明できない「霊」や「死後の世界」を肯定することに違和感はないのであろう。
●死後の世界・・・・・・都率浄土(曼荼羅の浄土、阿字の世界)
 『高野山真言宗檀信徒必携』の生命観や葬儀に関する記述をまとめると、次のようになる。
 死亡から四十九日の「中陰(中有)」の間は「霊が浄土に行く途中の期間」で、7日ごとに仏(明王、菩薩)の前を通過し、その加護と功徳、そして遺族が供養を施す功徳によって、総本尊・大日如来がいる密厳浄土に到達して成仏する。密厳浄土の中にあって、真言宗の信者の死後の未来は弥勒(みろく)菩薩の浄土である「都率(とそつ)浄土」に迎えられ、そこで永遠の生命を得るとされる(都卒上生=とそつじょうしょう)。この都率浄土で、宗祖・弘法大師も生きている。
 霊の到着地としては、「曼荼羅の浄土」「阿字の世界」という表現も用いられている[22]
 7日ごとにその前を通る諸尊の名は、初七日が不動明王、次(二七日)が釈迦如来、3番目が文殊菩薩、4番目が普賢菩薩、5番目が地蔵菩薩、6番目が弥勒菩薩、7番目が薬師如来である。このため、それぞれの仏の前を通る前日の宵に、その仏に供養を行う。四十九日をもって浄土に到着するが、「魂は永遠に生きている[23]ので、追善供養が大切とされる。ちなみに百カ日法要の本尊は観音菩薩で、『高野山真言宗寺族婦人必携』には、死者の導き手としての年忌法要の本尊である十三仏[24]が対応する年忌とともに記されている。
 
(2)天台宗
 『法華経』を根本として多くの教えを融合させた天台宗[25]は、俗に「朝題目に夕念仏(朝は『法華経』を、夕には『阿弥陀経』を読誦する)」といわれる。「夕念仏」にあたる法儀(例時作法、常行三昧=じょうぎょうざんまい)は、阿弥陀仏の極楽浄土へ往生することを目的とする。また、葬儀や法事などで修される「光明供(こうみょうく)」は密教の法要であるが、死者が極楽浄土へ引導されることを祈念するものである[26]。ただし、現代の「天台宗の教え」は、「天台宗 一隅を照らす運動」公式サイトによると「・・・・・・仏性の開発に努め」、「現世をそのまま仏の国土として理想的な社会を建設していこう」[27]で、来世を説いていない。
●霊魂観
 霊魂についての統一見解はないようであるが、肯定的と見受けられる。1990年代の調査では、個人的見解で「霊は実体をもった存在である」と回答した。檀信徒向けの『檀信徒必携 信仰の手引』(2006年刊)は確認できなかったが、布教師向けの『天台宗布教手帳』(1991年刊)には、「霊魂」の項に、釈迦は“黙して答えなかった”という説明と並列して、「宗祖は、霊魂を願文の中で肯定しており、現実に、天台宗は仏像・仏具・仏塔・仏閣に入魂し、石塔・塔婆に開眼作法をして埋葬をしている。これは、明らかに霊魂を肯定し、その霊魂に来世があると信じるからである[28]との記載がある。
 また、塩入亮乗・浅草寺法善院住職は、次のように語っている。2005年以前の『天台宗布教師手帳(原文ママ)』では「無記」の態度を踏襲していたが、曖昧な結論に終始したことが民衆をかえって迷わせることになっていたとして、2005年以降の『手帳』では、宗祖・最澄が「魂魄(こんぱく)」という言葉を用いていることもあり、「霊魂(霊・魂・霊魂の違いはここでは触れない)」という言葉を用いることに躊躇する必要はないと執筆した[29]。ただし、現物を確認することはできなかった。
●死後の世界・・・・・・極楽浄土
 公式サイトの「天台宗の葬儀」にみられる「死後の世界」を端的に紹介しよう。
 天台の教えでは衆生は全て仏性を持っており、必ず仏に成ることができるので、儀式によって死者に仏弟子となってもらう。阿弥陀如来が来迎し、死者は仏弟子としてこの世(娑婆世)を離れ、仏の国(浄土)へと向かう。死後、娑婆世界(この世)と仏の世界との中間にいる期間(中陰)が49で、この間、7日ごとに供養の法要を行うことが本義である。浄土は極楽と言われ、娑婆に付き物の苦労から解放され、ひたすら仏の教えを信じ、実践するのに最適である[30]
 また、『天台宗布教手帳』によると、「浄土へ往生することは、自己の心の中にある本性の仏の世界に入ることを意味し、それを西方十万億土の先きの浄土往生といい、「真実の自己発見であり、自己の現前に本来有している仏の世界が現れてくること」である[31]。現世の話とも来世との話とも受け取れる説明である。

<浄土系>
 浄土教の系統として、浄土宗、浄土真宗本願寺派、真宗大谷派をみていく。
(3)浄土宗
 浄土宗は、念仏をとなえて阿弥陀仏の極楽浄土へ生まれゆくこと(往生)を願う教えである[32]。来世の成仏を説く宗旨であり、葬儀や法要の意義を説いた小冊子や、外国人研究者による浄土研究論集など、関連書籍が充実している。
●霊魂観
 檀信徒向けの基本書『浄土宗檀信徒宝典』[33]には、霊魂に関する記載は見当たらなかった。1995年に浄土宗総合研究所が開催したシンポジウムでは、「霊魂という言葉は、宗義として表現できるのか」という問いに、日本民俗仏教研究の権威である伊藤唯真・佛教大学教授(現・浄土門主)は、往生する主体は通常の理解として霊魂と言われている」と答えたが、宗義に詳しい藤井正雄・大正大学教授(現・名誉教授)は、「根本仏教的には『無記』」で、浄土宗の「宗典にしても宗義にしても、何も語っていない」と述べ、見解が分かれた[34]
 2012年に浄土宗が発行した仏教入門書『じゃあ、仏教の話をしよう。』[35]では、「死者と生きよう」という章を執筆担当した曹洞宗僧侶の奈良康明・駒澤大学名誉教授が、仏教の無我説とは矛盾するが、原始仏典『ミリンダ王の問い』と論書『倶舎論』には「霊魂」ともいうべき輪廻転生する主体「ガンダッバ(健達縛)」が記されていることを紹介した[36]。さらに、章のなかでは、“教理としては仏教は霊魂を認められないが、人々の生活文化のなかでは霊魂を認めても認めなくてもよく、実体的な霊魂の有無についての議論は棚上げしたほうがよい”という見解も披瀝された。
 また、公式サイトに掲載された「お盆の準備」としては、地方・地域によって様々なので近くの住職に問い合わせるよう促しているが、「精霊棚」の項に「キュウリの馬やナスの牛も先祖の霊がこの世との往復に使う乗り物として供えられる」などの説明がある[37]
 教義では霊魂を否定するが、霊魂を認める習俗、地方によって異なる習俗をも受容する方向性がうかがえる。
※浄土宗の霊魂観については、伝統仏教界の「死後の世界」に関する動向と併せてお読みください。
●死後の世界・・・・・・極楽浄土
 浄土宗は2010年に付属の研究機関である浄土宗総合研究所に要請して葬儀の意義について統一見解を示した小冊子『浄土宗の葬儀と年回法要について』[38]を作成し、各寺院に配布した。そこでは、死後の行き先については、「極楽浄土で、南無阿弥陀仏ととなえて阿弥陀仏にお迎えしていただく」とされた[39]。2009年に浄土宗総合研究所が宗内全寺院を対象に実施した調査結果でも、死者についての説き方は「極楽で仏となるために修行している」が他の選択肢を引き離して1位で、従前から宗義に沿った説き方で統一されていた様子がうかがえる[40]
 なお『浄土宗檀信徒宝典』には、追善法要の説明で「亡くなれば、すぐ浄土に往生しみもとにいける」[41]と書かれており、『お葬儀はなんのため? だれのため?』には、「最期のときには阿弥陀仏に迎えられ極楽浄土に向かう」と書かれている。極楽往生の目的の1つは、先立った人たちと再会を果たす(倶会一処=くえいっしょ)ため」である。もう1つは、極楽浄土で菩薩として修行を積み、さとりを得て成仏を果たし、苦しみからの救いを求めている有縁無縁の人々を救うために、またこの世に還ってきて人々を救い導く(還相回向=げんそうえこう)ためである[42]
 極楽浄土とは、『浄土宗檀信徒宝典』によれば「阿弥陀仏が仏になる前の法蔵菩薩の時に、『命ある者すべてを救いたい』と願って四十八の本願(ねがい)をたて、その願いが成就されて築かれた世界」である。うち十八番目が「念仏往生の本願」で「南無阿弥陀仏を口にとなえるものは、皆極楽に往生できると説かれている」。
 「往生」について小冊子『浄土宗のしおり』には次のように説明されている。
 「阿弥陀」とは「無量の光」「無限のいのち」を意味し、「往生」は単に「死」を意味するのではなく、阿弥陀仏の「無量の光」に包まれ、「無限のいのち」に抱かれていくことである。「死」は「終わり」ではなく、「新たないのちの誕生」である[43]
 参考までに、浄土宗総本山知恩院発行の月刊誌『知恩』(2014年8月号)には、極楽浄土に向かうときの詳しい描写がある。
臨終には、「阿弥陀仏が極楽から観音菩薩、勢至菩薩などを従えて」来迎する。往生する人は観音菩薩が持ってきた「蓮台に自動的に乗り」、「蓮の花びらが閉まって、阿弥陀仏に導かれて極楽に一瞬で移動」する[44]
 なお、浄土宗では、(念仏をとなえるものは)「亡くなれば、すぐ極楽浄土に往生し仏のもとに行ける」ので、真言宗や天台宗のような「中陰」の概念はないが、「日本の良い伝統」という位置付けで追善法要を実施している[45]
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 浄土は「空想」と思われがちである。だが、ジョナサン・ワッツ浄土宗総合研究所研究員らは、「現代は、法然上人の時代のように阿弥陀仏や浄土を立証するような体験をもつ敬虔な浄土教徒を探すのも容易ではない」が、浄土の教えは遺族を慰めるための方便でも「おとぎばなし」でもない、真実の教えであると主張する[46]。典型的な臨死体験の要素は『観無量寿経』や『阿弥陀経』のなかに見出せる現象であると『死の体験』[47]で指摘したカール・ベッカー京都大学教授は、世界的に多くの人が臨終時に見たと報告されている「光の姿」が「阿弥陀(無量光、無量寿)」で、「浄土」とは来世体験に対する東アジア文明の思想の一つであると述べている[48]
 
<浄土真宗>
 浄土真宗は「門徒もの知らず」と浄土真宗の信者を揶揄する表現があるように、日の吉凶を否定し、葬儀に「友引」を避けるのは迷信とする。加持祈祷を行わず、占いやおまもり札も否定する[49]。死者の旅装束を不要とし、先祖の霊が戻るというお盆の考え方を否定するなど、他の宗派と異なる独自性をもつ[50]。この姿勢は、霊魂観の反映でもある。
 浄土真宗では、浄土への往生は信心によって決まると説き、同じ浄土系でも、念仏をとなえることによって往生できるとする浄土宗とは異なる。
 浄土真宗本願寺派僧侶でもある山崎龍明・武蔵野大学仏教文化研究所所長(現・武蔵野大学名誉教授)によれば、同じ浄土真宗でも浄土真宗本願寺派と真宗大谷派では「往生」観が異なる。浄土真宗本願寺派は「往生の先は浄土」という往生観であるが、真宗大谷派は、「信心定まるとき往生定まるなり」(『親鸞聖人御消息』)という立場で、「往生はこの世」と説く[51]
 
(4)浄土真宗本願寺派
 浄土真宗本願寺派の教義は、「阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩み、この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還って人々を教化する」[52]となっており、死後まで規定されている。「往相回向(阿弥陀仏の力によって浄土に往生する)」だけでなく「還相回向」が教義に盛り込まれており、浄土宗よりも「還相回向」が強調されている。また、浄土真宗本願寺派では、命を終えて浄土に往生するとすぐに仏に成ると説くが、浄土宗では浄土で修行してから仏に成ると説く[53]
 
●霊魂観
 1990年代の調査[54]に、浄土真宗本願寺派の教学研究機関である浄土真宗教学研究所(現・浄土真宗本願寺派総合研究所)は「仏教者として『霊』の存在を認めることについては承認できない。『霊』の存在を認めること自体、仏教の無我説と矛盾があると思われる」と霊に否定的な回答をしている。門徒向け基本書『浄土真宗必携』[55]には霊への言及はないが、勧学寮(門主の諮問機関)が編集した『今、浄土を考える』では、浄土に往生する主体について、仏教では無我説を説くので「霊」や「魂」などとは言わず、注釈書(『往生論註』[56])には「仮に人と名付けるもの[57]」とあるが、つまるところ、「が往生する」としかいいようがないと述べられている[58]。また、「私たちが考えるような生まれ方として浄土に往生しているのではない(無生の生=むしょうのしょう)」とも記されている。
 本願寺出版社が発行した書籍にも、「霊」を否定する記載が多い。45万部を突破した書籍の改訂版『新・仏事のイロハ』には、「『霊』という言葉が、固定的実体的な霊魂を意味しているとすれば、それは仏教、特に浄土真宗の味わい」ではない、「浄土真宗で位牌を用いないのは、仏教にそぐわない霊魂観に基づいたものだから」などの記述がある[59]。『浄土真宗はじめの一歩』にも、「霊や祟りはない」「仏教に『霊』の観念はなく、浄土真宗ではすでに仏になられているという教えなので(弔辞や弔電に)『ご霊前』はふさわしく」ない、とある[60]
●死後の世界・・・・・・極楽浄土
 『浄土真宗必携』には、死後と死の意味が簡明に記されている。
阿弥陀仏の本願(すべての人々を救うという誓い)を信じて念仏するものは、「浄土に生まれて阿弥陀仏と同じ仏(ぶつ)になる[61]、ただし、仏になって終わるのではなく、死は、無量のいのちと智慧を得て衆生(しゅじょう)を救う仏としてのはたらきをする出発点でもある[62]
 『「浄土真宗本願寺派 葬儀規範」解説』には、用語を含めた説明がある。
 阿弥陀仏の本願を信じ念仏するものは、往生することができる身に定まっており、命を終えると、ただちに阿弥陀仏の浄土に往生して、さとりを開いて仏となることができる[63]。浄土では、「ともに一処に会(え)する=倶会一処[64]が、「浄土に往生してさとりを開いたものは、再び迷いの世界に還り来たって他の衆生を救うはたらきにでる=還相回向[65]ことになる。
 『今、浄土を考える』では教学に踏み込んで浄土について記されているが、煩雑になるので、死者のゆくえについて対話形式で記された導入部から要点のみ紹介する。
 この世の寿命が終わってから極楽浄土に生まれるが、阿弥陀如来の呼びかけに順うことによって浄土への往生が決定するので、死んでからではなく、この世で浄土往生が決定する(往生決定=おうじょうけつじょう)。浄土とは真実・清浄であるさとりの世界で、往生するのは仏の世界に生まれてさとりを開くことに意味がある。阿弥陀如来の力に導かれて往生し、阿弥陀如来の力によってさとりを恵まれて仏になる。西方浄土というが物理的な世界ではなく、夕陽に一日の終焉を感じることから人生の終焉を西によって示したのかもしれない。浄土に生まれるとさとりを開くので、苦悩する人々に寄り添って浄土に導くことが喜びになる。私たちは、この世の縁が尽きたとき、必ず浄土で再び遇うことができる[66]
 このほか中陰についての考えを『新・仏事のイロハ』などから補足すると、死者は死後ただちに浄土に生まれ、追善の必要がない仏になっているので、死者の旅支度をする必要も、修行の手助けや冥福を祈る必要もなく[67]、中陰法要を実施するのは阿弥陀仏への「報恩感謝」のためである[68]
 
(5)真宗大谷派
 真宗大谷派の教義は、「宗祖親鸞聖人が、佛説無量寿経に基づいて、顕浄土真実教行証文類を撰述して開顕した本願の名号を体とする往還二種廻向を要旨とする」[69]となっている。往相回向と還相回向(往還二種回向)が教義に盛り込まれており、やはり浄土宗よりも「還相回向」が強調されている。現世志向が強く「浄土=死後の世界」という考え方に否定的で、浄土真宗本願寺派のように「この世の縁が尽きるとき浄土に生まれる」とは書かれていない。
●霊魂観
 真宗大谷派は、数多くの出版物を刊行している。ただし、門徒向けのロングセラー『お内仏のお給仕と心得』[70]と、その最新版ともいえる門徒必携の『真宗の仏事』[71]、小冊子『南無阿弥陀仏の葬儀』[72]には、浄土真宗本願寺派のように「霊魂」を明確に否定する文は見当たらなかった。「霊、霊魂」という言葉を用いることに慎重であるように見受けられた。そのなかで次のような記述からは、「霊」に否定的な姿勢がうかがえる。
 公式サイトでは、インドの輪廻思想や「人は死んだら霊となり、その霊となった死者に対して、生者が慰霊・鎮魂・祭祀をしないと、死者に祟られ、災いをもたらされる」と考える「日本の霊の宗教」は、自身の愚かさに目を向けることを妨げるものと否定している[73]。また、「真宗生活入門講座Ⅳ」として発行された小冊子『法事をつとめる』には、「(親鸞は)亡くなった方の霊魂とやらを想定して、それに対して、何か呪術的なことを加えることによって、お慰めしたり、また霊を安らかに鎮めてみたり、そういうことを考えることは、まったく死者の心を踏みにじる、生者の無明そのものの姿ではないかと、言いきっておられる」[74]とある。「霊魂」という考え方を否定し、祖先崇拝も「迷信」と断言している[75]
 ただし、『お内仏のお給仕と心得』(1966年初版、1981年第2版)と『真宗の仏事』(2013年初版)の記述を比べると、葬儀にかかわる迷信や、精霊が戻るとされる「お盆」など日本の習俗に対して「『門徒もの知らず』大いに結構」と容赦なく否定する態度から「『迷信』としてただ否定すればよいということでは大切なものが見落とされていく」という柔軟姿勢に変化したことがうかがえる[76]
 ●死後の世界・・・・・・仏の国、さとりの世界 ※要注意
 『真宗の仏事』には明記されていないが、『お内仏のお給仕と心得』には、「現生に信心が決定したとき、ただちに浄土に生まれることに定まる(正定聚不退転位=しょうじょうじゅふたいてんい)」、そして、「この世界の寿命のつきたとき、ただちに仏の国、さとりの世界に入る[77]と書かれている。この「浄土に生まれる」とは、迷いの人間が考えるような「生まれる」、迷いの「生まれ方」ではないという[78]。死後ただちに仏の国に入るため、中間的存在という「中陰」はなく、中陰とは、亡き人をしのび、念仏し、教えを聞く期間と心得るべきであるとしている。
 ただし、『南無阿弥陀仏の葬儀』では、誰でも死んだら自動的に仏に成る、極楽浄土へ生まれると決まっているわけではなく、念仏の信心によって浄土が開かれ、故人が自分にとっての諸仏となると書かれている[79]。同じ著者による『念仏に生きるとき』から補足すると、仏に成るということは「自分が自分になりきれるということ」だから、成仏するのは死んでからという発想を一度、白紙にしないとわからなくなるという。「大切な人の死をとおして、自分の人生を受け取り直した人が仏」で、「亡くなった人がその人にとっては仏」であると記されている[80]
 小冊子『本願――念仏成仏の教え』では、「死んだらどうなるか」という問いに「いのち終われば輪廻転生ではなく、入滅する」という考え方が仏教であるとする。「私などもともと無い」、「ただ私を私たらしめて」いた「縁がすべて消えていく」。「私のいのちの本当のゼロの世界に帰っていく」。その世界が「浄土」であるという[81]。ただし、公式サイト内の「人は死んだらどうなるの?」という項では、自分の「現在」を問わずに、このような問いを考えることは惑わせるだけだと説いている[82]。『念仏に生きるとき』に記された「死んだ子供がどうなったのか?」という問いへの答えも同様である。「地獄へ行った」「仏に成っている」という2つの異なる答えを紹介したうえで、その2つの回答の本質は同じで、「一番大事な人の死を通して自分の人生をどう受けとったらいいかということ」であるという。自分の要求や願いを仏にかけるだけでなく、自分が受けた傷をきちんと見つめている仏の目があると気付くことが大切だという[83]
 また、公式サイト内の「いま浄土とは・・・・・・」の項には、浄土とは私たちが普通に考えているような死後の世界としての「あの世」ではない、と明記されているので、「浄土=死後の世界」というイメージは不適切であろう。浄土とは、安楽国とも安養(あんにょう)国ともいわれる阿弥陀如来の国土で、阿弥陀経に「倶会一処(ともに一つ世界に生きる)」とあるように、人々がともに生きることのできる世界で、「あの世」でも理想郷でもなく、人間を見失ったものに人間を回復させる仏の世界だという[84]
 浄土を「死後の世界」と捉えられることへの拒否感は、『真宗を学ぶ』にも見られる。要旨は次の通りである。
 インドで彼岸が浄土として語られているときは、「さとりの世界」を表していたが、日本で先祖供養、墓参りというものが加わってきたら、「死後世界」にすり替わった。浄土が「死後世界」と考えられたために、死ぬときに浄土へ往って、それから還ってくるという話になって、往相回向と還相回向が、わけの分からないものになるのである[85]
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 次回は、曹洞宗、日蓮宗について見ていく。
 
●11月28日追記
 釈迦の「毒矢の譬え」や「死後の世界」観に関して広まっている一般論について、『葬式仏教正当論』(興山舎)で葬式仏教批判に対する反論を展開した鈴木隆泰・山口県立大学教授は、『月刊住職』2014年11月号で「誤解である」との説を展開している。詳細は原本をお読みいただきたいが、簡潔に紹介しておく。
 「霊魂や死後の世界を考えることは、さとるために無益である」というのは誤解である。①釈迦は、『スッタニパータ』ほか初期仏典(原始仏典)のいたるところで、「死後の世界」について言及している。②『ジャータカ(本生譚=ほんじょうたん)』など仏典のいたるところで、「死後の世界」だけでなく、生前の世界(前世、過去世)についても語られている。

●2015年4月追記
 宗派の統一見解というものがほとんど明文化されてない霊魂観について、『檀信徒必携』のような宗派の信徒向け出版物や宗派の付置研究所の出版物をもとに探るという、従来なかった手法で探った本レポートについて言及する際にはタイトル名、筆者名、URL(あるいは「宗教情報センター」サイト)、掲載日を明記ください。言及の際には、各業界における倫理を遵守ください(一般誌では、タイトルと筆者名のみでも可)。学術界における論文には学術界のルールを遵守ください。タイトルと掲載日(参照日)の漏れがないよう、よろしくお願い申し上げます。
 
[1] 石上和敬・江田昭道・爪田一壽著、武蔵野大学編『「阿含経典」を読む』角川学芸出版2006年12月
[2] 我=常一主宰(じょういつしゅさい)なるもの、参考:総合仏教大辞典編集委員会編著、『総合仏教大辞典』法蔵館1987年12月 
霊魂観については、無我説、非我説を根拠に「仏陀は霊魂の実在を否定した」というのが近代仏教の金科玉条で、大学の仏教学部ではそのように教えていることが多いというが、近年は異論が出てきている(正木晃『お坊さんなら知っておきたい「説法入門」』春秋社2013年10月など)。無我説、非我説の解釈もいろいろある。
[3] 藤原聖子『三大宗教 天国・地獄 QUEST』大正大学出版会2008年10月 
※輪廻観は執筆者の立場により異なることが多いので、仏教系(天台宗、真言宗豊山派、真言宗智山派・浄土宗)大学の出版会による教科書的なものを選んで参照文献として挙げた。駒澤大学名誉教授で曹洞宗僧侶でもある奈良康明師が執筆し、浄土宗系列の出版社から刊行された下記にも、原始仏典古層の経典(『スッタニパータ』)の特に最古層の部分は輪廻に否定的、消極的だが、指導者たちが当時のヒンドゥー世界の民俗である輪廻などの観念を無視できず、認めるようになったため、時代とともに輪廻が仏教文化の中で重要性を増したという同様のことが記されている。(奈良康明「死者と生きよう」浄土宗出版編『じゃあ、仏教の話をしよう』浄土宗2012年2月 )
 なお、末木文美士・東京大学大学院教授(当時)は、”原始仏教の思想も古代インドの枠組みの中にあり、アートマン(我)とブラフマン(梵)は否定するが、業と輪廻の説は受け入れている。だが、苦は輪廻を前提しなくとも理解ができるため曖昧で、仏教が広まったのは、このような曖昧さが思想の普遍性につながったのではと推察している。同様に、「仏陀(如来)は死後も存在するか否か」が形而上学的問題とされており、当時すでにこの問題について議論が絶えなかったことがわかるが、これは理想とされる境地が奇妙なことに曖昧で、その曖昧さがかえって多様な解釈を可能にし、仏教の多様な発展を促した”とみている。(末木文美士『仏教思想』放送大学教育振興会1997年3月)
[4] 伊藤唯真「仏教と葬祭」伊藤唯真・藤井正雄編『葬祭仏教』ノンブル社1997年6月
竹内弘道「日本仏教と葬祭の関わり」奈良康明編『葬祭――現代的意義と課題――』曹洞宗総合研究センター2003年3月
※ただし、奈良仏教は、葬式を行わない。
[5] 伊藤唯真「仏教と葬祭」伊藤唯真・藤井正雄編『葬祭仏教』ノンブル社1997年6月
[6]安斎育郎『霊はあるか』講談社2002年9月
[7]高橋原「霊に取り憑かれた人に僧侶はどう向き合うか」『月刊住職』2014年5月号、『朝日新聞』2013年12月31日、高橋原「霊に取り憑かれた人に僧侶はどう向き合うか」
[8] 中村元『往生要集』岩波書店1996年9月
[9] カール・ベッカー「生と死を通じて浄土を理解する」ジョナサン・ワッツ、戸松義晴編『寄り添いの死生学』浄土宗2011年9月
[10] 「『来世をどう説くか』シンポジウム」、中野東禅、藤井正雄、山崎龍明監修『来世をどう説くか』四季社2007年6月
[11] 『浄土宗檀信徒宝典』編集委員会編『浄土宗檀信徒宝典』浄土宗2002年3月第2版(1996年3月初版)
[12]浄土真宗本願寺派教学振興委員会編『浄土真宗必携』本願寺出版社1990年12月改訂版(1973年6月初版)
[13] 原文は、教学伝道研究センター編纂『浄土真宗聖典―註釈版 第二版―』本願寺出版社2004年5月(1988年1月初版)などを参照のこと。
[14] カール・ベッカー「生と死を通じて浄土を理解する」ジョナサン・ワッツ、戸松義晴編『寄り添いの死生学』浄土宗2011年9月
[15] 「現代仏教は『霊』をどう説くか 座談会」佐々木宏幹、藤井正雄、津城寛史監修『「霊」をどう説くか』四季社2010年7月
[16] 新居祐政『高野山真言宗檀信徒必携』高野山真言宗教学部2012年3月13版(1989年9月初版)、高野山真言宗公式サイトhttp://www.koyasan.or.jp/shingonshu/about/kobodaishi_koya/13.html
[17]安斎育郎『霊はあるか』講談社2002年9月、以下「1990年代の調査」はすべて同じ
[18] 新居祐政『高野山真言宗檀信徒必携』高野山真言宗教学部2012年3月13版(1989年9月初版)
[19] 高野山真言宗布教研究所編『高野山真言宗寺族婦人必携』高野山真言宗教学部2006年3月
[20] 新居祐政『高野山真言宗檀信徒必携』高野山真言宗教学部2012年3月13版(1989年9月初版)
[21]新居祐政『高野山真言宗檀信徒必携』高野山真言宗教学部2012年3月13版(1989年9月初版)
[22]新居祐政『高野山真言宗檀信徒必携』高野山真言宗教学部2012年3月13版(1989年9月初版)
[23]新居祐政『高野山真言宗檀信徒必携』高野山真言宗教学部2012年3月13版(1989年9月初版)
[24] 十三仏事は、真言宗だけでなく他宗でも信仰されている。『天台宗布教手帳』によれば、十三仏事は14・15世紀ごろに広く浸透し、のちに十五仏事、二十仏事にまで広がった。『寺族婦人必携』には、一周忌は勢至菩薩、三回忌は阿弥陀如来、七回忌は阿しゅく如来、十三回忌は金剛界大日如来、十七回忌は胎蔵大日如来、二十五回忌は愛染明王、三十三回忌は虚空蔵菩薩との記載がある。
[25]「天台宗の教え」天台宗一隅を照らす運動公式サイト http://ichigu.net/person/teach.html参照:天台宗宗憲第5条(教義)「天台宗は、宗祖大師立教開宗の本義に基づいて、円教、密教、禅法、戒法、念仏等いずれも法華一乗の教意をもって融合し、これを実践する」
[26] 天台宗公式サイト「天台宗の法要」http://www.tendai.or.jp/houyou/index.php
[27]「天台宗の教え」天台宗一隅を照らす運動公式サイト http://ichigu.net/person/teach.html参照:天台宗宗憲第4条(宗旨)「天台宗は、法華一乗の教えを根本として、仏性の普遍と尊厳とを自信し、自行化他の菩薩道を並べ行い、正法興隆、人類救済の聖業に努め、かつ、国家社会の文化開発に尽くし、皆成仏道の実現と仏国土の建設とにあらゆる宗教的努力をすることを宗旨とする」参照。
[28] 天台宗務庁教学部編『天台宗布教手帳』天台宗務庁教学部1991年12月
[29] 塩入亮乗「『霊的存在について』どう説くか--天台宗の立場にたって」佐々木宏幹、藤井正雄、津城寛史監修『「霊」をどう説くか』四季社2010年7月
[30]「葬儀と供養について」天台宗公式サイトhttp://www.tendai.or.jp/sougi/
[31] 天台宗務庁教学部編『天台宗布教手帳』1991年12月
[32] 浄土宗出版編『浄土宗のしおり』浄土宗2009年4月、浄土宗公式サイトhttp://jodo.or.jp/naruhodo/index2.html には、宗旨として、「阿弥陀仏の平等のお慈悲を信じ、「南無阿弥陀仏」とみ名を称えて、人格を高め、社会のためにつくし、明るい安らかな毎日を送り、お浄 土に生まれることを願う信仰」と記されている。
[33]  『浄土宗檀信徒宝典』編集委員会編『浄土宗檀信徒宝典』浄土宗2002年3月第2版(1996年3月初版)
[34] 浄土宗総合研究所伊藤唯真・藤井正雄編『葬祭仏教』ノンブル社1997年6月
[35]藤腹明子・奈良康明著、林田康順・戸松義晴・今岡達雄対談、浄土宗出版編『じゃあ、仏教の話をしよう。』浄土宗2012年2月
[36]奈良康明著「死者と生きよう」浄土宗出版編『じゃあ、仏教の話をしよう』浄土宗2012年2月、奈良康明「死後の霊魂の存在を仏教はいかに説いているか」『寺門興隆』2012年3月号
[37] 「お盆の準備」浄土宗公式サイトhttp://jodo.or.jp/knowledge/obon/index1.html
[38]浄土宗総合研究所編著『浄土宗の葬儀と年回法要について』浄土宗2010年10月
[39] 奈良康明師、今岡達雄師対談「死者とあらたなかかわりを」浄土宗出版編『じゃあ、仏教の話をしよう』浄土宗2012年2月、「浄土宗の葬儀と年回法要について」浄土宗総合研究所編『現代葬祭仏教の総合的研究』浄土宗総合研究所2012年3月
[40] 浄土宗総合研究所編『現代葬祭仏教の総合的研究』浄土宗総合研究所2012年3月
[41]  『浄土宗檀信徒宝典』編集委員会編『浄土宗檀信徒宝典』浄土宗2002年3月第2版(1996年3月初版)
[42]武田道生、熊井康雄、今岡達雄著、浄土宗出版編『お葬儀はなんのため? だれのため?』浄土宗2011年11月
[43] 浄土宗出版編『浄土宗のしおり』浄土宗2009年4月
[44] 安達俊英「浄土宗の基礎知識(下)」『知恩』浄土宗総本山知恩院2014年8月号
[45] 『浄土宗檀信徒宝典』編集委員会編『浄土宗檀信徒宝典』浄土宗2002年3月第2版(1996年3月初版)
[46] ジョナサン・ワッツ/戸松義晴「“浄土”はおとぎばなしの世界? それとも真実?」ジョナサン・ワッツ、戸松義晴編『寄り添いの死生学』浄土宗2011年9月
[47] カール・ベッカー『死の体験』法蔵館1992年6月
[48] カール・ベッカー「生と死を通じて浄土を理解する」ジョナサン・ワッツ、戸松義晴編『寄り添いの死生学』浄土宗2011年9月
[49]浄土真宗本願寺派教学振興委員会編『浄土真宗必携』本願寺出版社1990年12月改訂版(1973年6月初版)、新居祐政『高野山真言宗 檀信徒必携』高野山真言宗教学部2012年3月13版(1989年9月初版)
[50]末本弘然著『新・仏事のイロハ』本願寺出版社2012年11月、菊池祐恭著、真宗大谷派宗務所本廟部監修『お内仏のお給仕と心得』真宗大谷派宗務所出版部1981年9月第2版(1966年7月第1版)より
[51] 「『来世をどう説くか』シンポジウム」、中野東禅、藤井正雄、山崎龍明監修『来世をどう説くか』四季社2007年6月、同様に藤井正雄・大正大学名誉教授 も「真宗大谷派では、親鸞は信心決定後の生活が往生であるという立場」であると述べている。山崎龍明・武蔵野大学教授はまた、『大法輪』2012」年5月 号で、親鸞の往生についての考えに2つあり、1つは信心が定まるとき往生が定まるという「即得往生(そくとくおうじょう)」で、もう1つがこの身の業が尽 きて清浄なる仏土に入るという「臨終一念の夕べ、大槃涅槃をさとる」という往生であるとする。
[52] 浄土真宗本願寺派公式サイトhttp://www.hongwanji.or.jp/mioshie/
[53]勧学寮編『今、浄土を考える』本願寺出版社2010年5月
[54]安斎育郎『霊はあるか』講談社2002年9月
[55]浄土真宗本願寺派教学振興委員会編『浄土真宗必携』本願寺出版社1990年12月改訂版(1973年6月初版)
[56] 北魏の曇鸞(476~542年)著
[57]「浄土の仮名人(けみょうにん)」「穢土の仮名人」
[58] 勧学寮編『今、浄土を考える』本願寺出版社2010年5月
[59] 末本弘然著『新・仏事のイロハ』本願寺出版社2012年11月
[60]森田真円、釈徹宗著『浄土真宗はじめの一歩』本願寺出版社2012年8月
[61] 浄土真宗本願寺派教学振興委員会編『浄土真宗必携』本願寺出版社1990年12月改訂版(1973年6月初版)
[62] 浄土真宗本願寺派教学振興委員会編『浄土真宗必携』本願寺出版社1990年12月改訂版(1973年6月初版)
[63]本願寺仏教音楽・儀礼研究所編『『浄土真宗本願寺派葬儀規範』解説』本願寺出版2010年12月
[64]本願寺仏教音楽・儀礼研究所編『『浄土真宗本願寺派葬儀規範』解説』本願寺出版2010年12月
[65]本願寺仏教音楽・儀礼研究所編『『浄土真宗本願寺派葬儀規範』解説』本願寺出版2010年12月
[66] 勧学寮編『今、浄土を考える』本願寺出版社2010年5月
[67]末本弘然著『新・仏事のイロハ』本願寺出版社2012年11月
[68]本願寺仏教音楽・儀礼研究所編『『浄土真宗本願寺派葬儀規範』解説』本願寺出版2010年12月
[69] 真宗大谷派宗憲 第八条(教義)http://www.higashihonganji.or.jp/about/history/pdf/rule.pdf
[70]菊池祐恭著、真宗大谷派宗務所本廟部監修『お内仏のお給仕と心得』真宗大谷派宗務所出版部1981年9月第2版(1966年7月第1版)
[71] 真宗大谷派宗務所出版部編『真宗の仏事』真宗大谷派宗務所出版部2013年11月
[72] 二階堂行邦『南無阿弥陀仏の葬儀』真宗大谷派宗務所出版部2007年12月
[73] 尾畑文正「人は死んだらどうなるの?」真宗大谷派公式サイトhttp://www.higashihonganji.or.jp/sermon/leaflet/08.html
[74] 池田勇諦講術『法事をつとめる』真宗大谷派宗務所出版部1987年4月
[75] 池田勇諦講術『法事をつとめる』真宗大谷派宗務所出版部1987年4月
[76] 『お内仏のお給仕と心得』p70では、お盆について、「わたくしたち真宗門徒としては、雑多な迷信的なものをすべてぬぐい去り、(そのために門徒もの知ら ずなどと言うひともありますが、むしろこころよいことと受け取るべきであります)」とあるが、『真宗の仏事』では、「(お盆は)歴史が古いだけに これまでいろいろと民間信仰とも結びつき、また地域によってもさまざまな行事が伝えられてきています。私たちの長い歴史のいとなみのなかで、死はけっして 単に死んで終わりということではなく、いつも死者として私たち生者と共にあったのではないでしょうか」とある。また、葬儀にかかわる迷信について、『お内 仏のお給仕と心得』には、「それぞれの地方によっていろいろ荒唐無稽なことを申します。一切の迷信にまどわされず、正しい法(みのり)にしたがっ て心をこめた礼を尽くすことがよいのです。『門徒もの知らず』大いに結構」とあるが、『真宗の仏事』p98には「いずれにしても死は私たちに悲しみととも に不安や怖れをもたらしますが、そのために生みだされた習俗をただ守りさえすればよい、あるいは『迷信』としてただ否定すればよいということでは大切なも のが見落とされていくのではないでしょうか」とある。
[77] 菊池祐恭著、真宗大谷派宗務所本廟部監修『お内仏のお給仕と心得』真宗大谷派宗務所出版部1981年9月第2版(1966年7月第1版)
[78] 菊池祐恭著、真宗大谷派宗務所本廟部監修『お内仏のお給仕と心得』真宗大谷派宗務所出版部1981年9月第2版(1966年7月第1版)
[79] 二階堂行邦『南無阿弥陀仏の葬儀』真宗大谷派宗務所出版部2007年12月
[80] 二階堂行邦『念仏に生きるとき』真宗大谷派宗務所出版部2007年4月
[81] 小川一乗著、真宗大谷派宗務所出版部編『本願――念仏成仏の教え』真宗大谷派宗務所出版部2012年4月
[82] 尾畑文正「人は死んだらどうなるの?」真宗大谷派公式サイトhttp://www.higashihonganji.or.jp/sermon/leaflet/08.html
[83] 二階堂行邦『念仏に生きるとき』真宗大谷派宗務所出版部2007年4月
[84] 尾畑文正「いま浄土とは・・・・・・」真宗大谷派公式サイトhttp://www.higashihonganji.or.jp/sermon/leaflet/05.html
[85] 平野修『真宗を学ぶ』真宗大谷派宗務所出版部2004年3月