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2026/03/18

インド古典を専門とする入山仰世 (淳子 慶應義塾大学非常勤講師) のコーナーです。お楽しみください。
 

古典インドの藁智慧 7本目:動かない樹蔭、動いた枝 その5

エッセイ

入山仰世(Takase Iriyama)

その4からつづく)

 ひとは見事に、さまざまな(しょう)を持ち合わせるもの。
 だれもが最期(さいご)の供養について真意を得心できるよう、との計らいか。大乗「大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)」は最後の供養を受けた釈尊に、まだまだとばかり、弟子たちとの問答をつづけさせます。果てしなく。

 問いも出尽くしたか。ようやく(しま)いの巻[1] に辿りつくと、こんどは。

 未だ得心いかぬ。
 機を(のが)すまいと異見者らが樹林に乱入し、釈尊へ文字通り命がけの論戦を(いど)みはじめます。その一人に加わって、あの哲人もこの経文(きょうもん)を辿り「そのとおり。いいぞ、シャンカラ」という釈尊の声を聴いていたなら。

 ふと。その声に哲人は父を想わなかったかと。
 というのも、釈尊が自身と引き換えに母を失ってから、真の寄る辺を見いだしたのは三十五歳。シャンカラまた幼くして父と死に別れ。その早い終わりを自身もくりかえすことを知ってか、まもなく俗塵(ぞくじん)を離れています。俗身まで棄てたのが三十代。
 nitya-(ニッティヤ)(真に生きたい)。そう(うた)いながらシャンカラはだれに真の父を感じ、悦び合えていたのかと。

 (寄り道からサーラ樹下に帰ります。)
 異見者らが疑念ぶつけ食い下がる、その一々を今際(いまわ)の釈尊が余裕で晴らしているとき。対告(たいごう)また取持ちの役を務めたのはコンダンニャ (Koṇḍañña 憍陳如(きょうぢんにょ)[2] です。
 彼こそは釈尊が樹下に覚った内容を初めて明かした相手。聴き入れて反心越え、ついに心眼ひらいた初めの弟子です。
 

Atha kho Bhagavā udānam udānesi // // Aññāsi vata bho Koṇḍañño aññāsi vata bho Koṇḍañño ti // // Iti hidam āyasmato Koṇḍaññassa Aññāta-Koṇḍañño tveva nāmam ahosī ti // //

すると世尊は感に()えず声を上げ、「悟った!なんとコンダンニャは。悟った!なんとコンダンニャは」と。
こうして先達コンダンニャはまさしく“悟ったコンダンニャ”と名づけられた。

(相応部 諦相応「転法輪経」[3] )


 デジャヴュ。最初に摂受(しょうじゅ)されたコンダンニャがいま、最後の異見の場に立たされている。その姿になにを見たらよいのか。

 たとえば、そろそろ晩年を迎える釈尊が、ほかに手を挙げる弟子たちもいるなか(えら)んで、いつもその身に寄り添わせていたのはアーナンダでした。未達(みだつ)ながら”歓喜 (ānanda)”を意味するその名が、一面に釈尊の境涯を象徴しているとすれば。

 コンダンニャが、そして異見者も、そもそも彼らを登場させて"nitya- (真に生きる)"を明かす経文を編んだ者、またきっと、生きもがく中からこれを辿るわたしたち(と言ってもよいでしょうか)が(あか)し得るもの。それぞれは一ながら、常なるもの(といえば。やっぱりあれでしょうか)。

 コンダンニャは四人[4] を、チュンダは十五人を誘ったように、わたしも今日も周りのだれかと(誘われてくれますように)、経という叢林(そうりん)をたずね。サーラの樹を花満開にさせて待つ師へ、最後の供養をおささげしたい。

 「今日もお蔭をいただいてなんとか頑張れています。いつもどうしてか楽しくて、なにもかも有り難くなってきています。」
 「よく帰ったな。消化できたのか、えらいえらい。」空耳でいいから。

…・…・
 そんな釈尊の光言は、大儒シャンカラを生んだ南インドにも届いていたようです。
 

「此の経は南方に流布す。彼の(おお)くの邪異の説、非法の雲雨の漂没する所為り。時に彼の南方の護法菩薩、当に此の経を持し罽賓(けいひん)[5] に来詣して地中に潜伏す。」

(『仏説大般泥洹(だいはつないおん)経』 第十七 門菩薩品[6] )


 大乗仏教の影響を云われるガウダパーダ (Gauḍapāda 640-690頃)の学統に、孫弟子として出、自身も仏教との深い係わりを指摘されたシャンカラ。
 その辞句「己の真性は求め歩むところに実現する」[7] を試みに、釈尊の実践(生きる)主義に重ねてよめば。

 かつて釈尊に貸した"我(とは仏の義)"を、シャンカラはヴェーダの神々のもとに持ち帰りあらためて、(釈尊が原理としては説かなかった)"梵"との係わりから説いた、ともみえてきます。

…・…・
 バラモンとして教育を受けながら、釈尊を師と仰いだ俊賢がまた現れます。

その6へまだつづきます)

 

脚注

  1. 『大般涅槃経』(四十巻)の「憍陳如品」。“品”とは“章”のこと。『仏説大般泥洹経』(六巻)の末品相当につづく「現病品」から「憍陳如品」までは、四十巻本がもつ。
     
  2. コンダンニャ(Pāli)。音訳して“憍陳如(きょうぢんにょ)”。釈尊の誕生時に占術したバラモンたちのうちで最年少。父王の前で臆せず釈尊の成仏をきっぱり予言し、その出城を知るや他の占師の子四人を誘って釈尊に伴い苦行した。それから晩年に至るまでも、その純信を諸処逸話にかえて(まと)う。
     
  3. 底本:Saṃyutta-Nikāya, M. Leon Feer (ed.), Sacca-Saṃyutta LVI, Chp. II Dhammacakkapavattana-Vagga 11(1), 20, Pali Text Society, Oxford, 1898, p.424. 
     
  4. 釈尊ご誕生時に、その将来を占った師の子息たち。(先註2)
     
  5. Kaśmīr。北インドの国名の一。
     
  6. 大正新修大蔵経12,  859a. (「その3」に同経が伝える釈尊とチュンダとのやり取りにふれています。)
     
  7. 「その1」に引用の詩節です。