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仏教研究

宗教情報センターの研究員の研究活動の成果や副産物の一部を、研究レポートの形で公開します。
不定期に掲載されます。


2019/07/10

第5回 チュンダの供養ー2つの涅槃経ー

仏教研究

佐藤直実(宗教情報センター研究員)

 古代インドには、尊敬する人に敬意を示す方法として、食事や香などを捧げる〈供養(プージャー pūjā)〉という習慣がありました。それが仏教にも取り入れられ、特に仏法僧の三宝に捧げることが尊ばれるようになりました。

 中でも、釈尊に最上と言わしめた2つの供養があります。すなわち、スジャーター
 (Sujātā) [i] の乳粥と、チュンダ (Cunda、純陀) の ”スーカラ・マッダヴァ(豚肉料理やキノコ料理など諸説あり)[ii] ” です。前者は、釈尊が成道する直前に施されたもので、後者は、入滅する直前になされました。スジャーターの供養は、それをきっかけに釈尊がさとりを得たために最高と評されます。一方、チュンダの供養は、それを食した後に釈尊が入滅したため、「最後の供養」として評価されました。

 しかしながら、チュンダの供養については、必ずしも良い評価ばかりではありません。釈尊は、チュンダの用意した食事を食べた後に腹痛をおこし、体調を崩したため、釈尊の入滅を早めた行為として非難する見方もあったようです。

 これから数回にわたって、このチュンダの供養の相反する評価について考察します。今回は、チュンダの供養を描く2つの経典について紹介し、その様子を概観します。

◎2つの涅槃経
 チュンダの供養を描く主な経典には次の2種類があります
[iii]

・初期仏教の〈大般涅槃経
 だいはつねはんぎょう(Mahāparinirvāṇa-sūtra)
・大乗仏教の〈大般涅槃大経
 だいはつねはんだいきょう (Mahāparinirvāṇa-mahāsūtra)

 いずれも、サンスクリットの題名は「マハーパリニルヴァーナ
(大般涅槃)」で、釈尊の入滅、すなわち〈涅槃 nirvāṇa〉を扱っています。前者は、ラージャグリハ (Rājagṛha) からクシナガラ (Kuśinagara、Kuśinagarī) に到るまでの釈尊最後の旅と、入滅後の火葬や舎利分配の様子を描いています。後者は、入滅直前の弟子との問答に焦点を当てており、前者で記されるような旅の様子や入滅、火葬、舎利分配の記述はありません。

 このように、両経典は構成や内容を異にするものの、チュンダを〈最後の供養者〉として登場させる点は同じです。

◎初期仏教の涅槃経 
 初期仏教の〈大般涅槃経〉
(以下、小本〈涅槃経〉)には、サンスクリット原典が1本、パーリ語原典が1本、漢訳が5本、チベット語訳が1本、合計8本が現存します[iv]。これら諸本は、細かな相違はありますが、大筋では一致します。

 小本〈涅槃経〉は、先述したように、釈尊の最後の旅と、入滅後の火葬及び仏塔建立を記しています。物語のような体裁をしているため、読みやすく、多くの現代語訳が出版されています。中でも広く読まれているのは、パーリ語の『マハーパリニッバーナ・スッタンタ』と漢訳『遊行経
ゆぎょうきょう』です。

 釈尊は、クシナガラに到る間に、様々な都市に立ち寄り、説法を行いました。チュンダと出会うのはクシナガラの直前に訪れた都市、パーヴァーにおいてです。


 チュンダは鍛冶職人、アクセサリーなどを作る金属細工師です。当時のインドでは決して高い身分ではありません。その彼からの供養の申し出を釈尊は快く引き受け、翌朝、チュンダの自宅に赴きます。ところが、食事を終えた後に腹痛をおこし、次の滞在場所のクシナガラで入滅します。あたかもチュンダの供養が原因で入滅が早まったかのように記されるのですが、実は、パーヴァーを訪れる前に、釈尊はすでに体調を崩しており、自分の入滅が近いことを同行の弟子アーナンダに告げています。

 チュンダの供養と釈尊の入滅の因果関係は明確ではありませんが、それでも、釈尊は自身の入滅後、チュンダが後悔したり大衆に非難されることを懸念し、アーナンダに、チュンダの行為は成道時の供養
(スジャーターの乳粥)に匹敵するほどの功徳があり、彼(チュンダ)を非難してはならない、と申し渡します。

 このように、小本〈涅槃経〉では、チュンダの供養は必ずしもよいものとして記されません。チュンダの供養を最上と述べているのは釈尊だけであり、しかも、その意図は、チュンダへの批判を回避するものとも受け取れます。


◎大乗仏教の涅槃経
 それでは、大乗の〈大般涅槃経〉
(以下、大本〈涅槃経〉)にはどのように記されるでしょうか。

 まずは資料について紹介します。
 大本〈涅槃経〉には、サンスクリット断片が3種類、漢訳が3本、チベット語訳が2本現存し、小本〈涅槃経〉よりもはるかに大部の経典です [v]

 大本〈涅槃経〉は、六朝時代
(5、6世紀)特に南朝では、学問仏教の大きな柱として読まれていました。小本〈涅槃経〉に比べると、釈尊の生涯についてではなく、教理教学面への関心から読まれていたようです。

 
漢訳には「法顕 ほっけん 訳」と「曇無讖 どんむしん 訳」、そして、これら2訳をもとに編纂された「南本」の合計3本があります。中国や日本で読まれていたのは、読みやすく、最も整備された「南本」です[vi]

 また、チベット語訳には、インド原典から直接翻訳されたものと、漢訳・曇無讖訳からの重訳の2種類があり、チベットでは重訳が広く読まれていました。

 
チュンダが登場するのは、大本〈涅槃経〉の前半三分の一部分であり、曇無讖訳では「寿命品 じゅみょうぼん[vii] 及び「一切大衆所問品 いっさいだいしゅしょもんぼん[viii] の2品です。

 大本〈涅槃経〉は、釈尊が神通力で、世界中の王族や神々、魔物、一般の人びとにいたるまで、あらゆる生き物に、自身の入滅が近いことを知らせるところから始まります。入滅の知らせに気づいた人びとは、ぜひとも最後の供養を捧げたいと馳せ参じるのですが、皆、悉く断られます。ところが、チュンダが仲間を引き連れて現れ、供養を申し出ると、釈尊はあっさりと承諾されます。人々は驚愕しつつも、おおいに喜び、チュンダを讃歎します。やっかみや嫉みを述べる者は誰もいなかったようです。釈尊自身も、チュンダの供養は成道時の供養と等しく尊いものである、と讃歎します。

 このように、チュンダの供養を批判するのは小本〈涅槃経〉のみであり、大本〈涅槃経〉では、チュンダは皆から賞賛されます。小本と大本とでは、その供養の評価が分かれるのです。しかしながら、釈尊のチュンダに対する評価は、両経典共に等しく、一貫して成道時のスジャーターの供養と等しい価値があると記されます。

 ここまで、小本〈涅槃経〉と大本〈涅槃経〉に記されるチュンダの供養について概観してきました。次回以降では順次、小本〈涅槃経〉と大本〈涅槃経〉各本の該当箇所の和訳を紹介し、最終的に、なぜチュンダの評価が二極化したかについて考察したいと思います。
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[i] ナンダーとナンダバラーという二人の娘という説もある。
[ii] パーリ語で sūkaramaddava と呼ばれ、何を指すかは今なお定説を見ない。スーカラは「豚」を、マッダヴァは「柔らかい」を指すことから、「豚肉料理」と解する註釈書がある。別の資料では「乳粥のような米を使った調理名」「不老長寿薬の調合法」「薬草名」「豚が好むタケノコ」とも記され、「豚が踏みならした土地に生えるキノコ」という解釈もある。漢訳『遊行経』には「栴檀樹耳」「栴檀耳」(大正新脩大蔵経1巻p.18c)と記される。栴檀樹に生える「キノコ」を指すと考えられ、「キノコ」説も有力である。(中村元『ブッダ最後の旅』岩波文庫 p.259 訳注参照)
[iii] 2種類の涅槃経の書誌情報については、下田正弘『涅槃経の研究―大乗経典の研究方法試論』春秋社, 1997/2000,pp.40-48 及び『大般涅槃経(南本)I』(新国訳大蔵経 涅槃部1)大蔵出版,2008年,pp.13-97 に詳しく述べられている。
[iv] 小本〈涅槃経〉一覧:
梵文原典 Mahāparinirvāṇa-sūtra(Waldtschmidt1986, 26.1-29.9)
パーリ語原典 Mahāparinibbāna-suttanta(Dīghanikāya II, 4.13-43)
失訳『般泥洹経』全2巻(大正新脩大蔵経1, No.6, pp.183a-184c)
西晋・白法祖訳『仏般泥洹経』全2巻(大正新脩大蔵経1, No.5, pp.167c-168c)
後秦・仏陀耶舎,竺仏念訳『遊行経』(『長阿含経』第2-4巻,大正新脩大蔵経1, No.1(2-4): pp.18a-20a)
東晋・法顕訳『大般涅槃経』全3巻(大正新脩大蔵経1, No.7, pp.196c-199a)
唐・義浄訳『根本説一切有部毘奈耶雑事』第35-40巻(大正新脩大蔵経24, No.1451: pp.390b-392b)
蔵訳 Vidyākaraprabha,Dharmaśrīprabha, Dbar ’byor,’Dul ba phran tshegs kyi gzhi(北京版no.1035,デルゲ版no.3)
[v] 大本〈涅槃経〉一覧:
梵文原典(断片のみ)Mahāparinirvāṇa-mahāsūtra(Habata2007:pp.27-55,松田1988: pp.35-44,72/C1)
東晋・法顕訳『大般泥洹経』全6巻18品(大正新脩大蔵経12,No.376: pp.857c-859b, 896a-c)
北涼・曇無讖訳『大般涅槃経』全40巻13品(大正新脩大蔵経12,No.374: pp.371c-373b,pp.423c-424c)
宋・慧厳, 慧観, 謝礼運編纂『大般涅槃経』全36巻25品(大正新脩大蔵経12,No.375: pp.611b-613a,pp.665a-666a)
蔵訳 Jinamitra,Jñānagarbha,Devacandra 訳
’Phags pa yongs su mya ngan las ’das pa chen po theg pa chen po’i mdo(『中華大蔵経』54巻 no.788:45-,北京版no.788,デルゲ版no.120)全13巻4章
蔵訳曇無讖訳からの重訳)Wang phab shun,Dge ba’i blo gros,Rgya mtsho’i sde 訳,’Phags pa yongs su mya ngan las ’das pa chen po’i mdo(『中華大蔵経』52-53巻no.787:43-,北京版no.787,デルゲ版no.119)全42巻15章
なお、チベット語訳資料の詳細については以下に詳しい。Akira Yuyama,'Sanskrit Fragments of The Mahāparinirvāṇasūtra', Koyasan Manuscript (Studio Philologica Vuddhica. Occasional Paper Series IV), Tokyo, 1981, pp.8-13.
日本古写経にも漢訳が発見されており、七寺には全巻、部分訳としては、聖語蔵、金剛寺、興聖寺、新宮寺、妙蓮寺に現存する。
同じく釈尊の入滅を描く有名な経典として『遺教経』と称される鳩摩羅什訳『佛垂般涅槃略説教誡經』全1巻(大正新脩大蔵経12,No.389: pp.1110c-1112b)があるが,同経は馬妙作の Buddhacarita(『仏所行讃』大正新脩大蔵経4,No.192)や『仏本行経』全7巻(大正新脩大蔵経4,No.193)との関係が深く、本稿が取り上げる大本〈涅槃経〉とは異種のものである。
[vi]  法顕訳と曇無讖訳はいずれも4世紀初頭に成立し、約20年後に両経典をもとに南本が再編された。曇無讖訳は完訳と考えられ、法顕訳はその前半三分の一に相当する分量しかない。発見されているサンスクリット断片及び、ジナミトラ等のチベット語訳も、法顕訳と同内容までしかない。曇無讖訳は、少なくとも前半三分の一はインド原典からの翻訳であるが、後半三分の二についてはその由来は不明のままである。この他にも、大乗経典の中に、釈尊入滅後の火葬と仏塔建立についてのみ記す若那跋陀羅訳『大般涅槃経後分』全2巻(大正新脩大蔵経12,No.377)があり、チベット語の重訳は、同経典の翻訳を曇無讖訳の末尾に付している。
[vii] 法顕訳では「長者純陀品」、南本では「純陀品」。
[viii] 法顕訳では「随喜品」、南本では「一切大衆所問品」。