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仏教研究

宗教情報センターの研究員の研究活動の成果や副産物の一部を、研究レポートの形で公開します。
不定期に掲載されます。


2021/04/23

第6回 チュンダの供養ー初期仏教ー

仏教研究

佐藤直実(宗教情報センター研究員)

 前回第5回から、チュンダの供養について考察しています。
この供養について記す経典には、初期仏教と大乗仏教の二種類があり、いずれも『大般涅槃経
だいはつねはんぎょう』と題されるため、ここでは便宜的に、前者を小本〈涅槃経〉、後者を大本〈涅槃経〉と呼ぶこととします。

 今回は、これらのうち、小本〈涅槃経〉に描かれるチュンダの供養について見てまいります。なお、小本〈涅槃経〉には、サンスクリット1本、パーリ語1本、漢訳5本、チベット語訳1本の合計8本が現存しますが、ここではパーリ語に基づいて述べたいと思います。また、諸本の書誌情報については、前回
第5回で詳しく述べていますので、そちらをご確認ください。

固有名詞に関しては、サンスクリットに基づく読みをカタカナで記し、必要な場合は( )内にパーリ語の読みも併記します。

 

◎小本〈涅槃経〉の概要

釈尊がチュンダと出会い、供養を受けるまでの行程をおおまかに見てまいりましょう。

  1. ヴァイシャーリーにて、釈尊は自らの命を保つ力を捨て、入滅の覚悟を固める。

  2. その後、いくつかの町を訪問後、釈尊はパーパーに至り、そこでチュンダから施食の申し出を受ける。

  3. チュンダは翌朝、釈尊と比丘僧を食事に招待する。釈尊はメイン料理のスーカラ・マッダヴァを少し食すと、残りを穴に埋めさせた。比丘たちはその他の料理だけを食した。

  4. その後、釈尊はクシナガラを目指すが、道中、背中が痛みはじめたため、樹下に休む。そこへ、プトカサが現れ、釈尊との議論の末に改宗し、金色の布を布施する。すると釈尊の顔から光明が放たれ、入滅が近いことをアーナンダは告げられる。

  5. 釈尊はアーナンダに、チュンダの供養は尊く、成道時と入滅時(般涅槃時)の2つの布施の果報が等しいことを説く。

 チュンダは、パーパー(パーヴァー)という町に住む鍛冶屋、すなわち金属細工を生業とする職人[i]の家系に生まれました。

 大本〈涅槃経〉では、釈尊がチュンダと出会うのは、入滅の地・クシナガラですが、小本〈涅槃経〉では、クシナガラに向かう途上に立ち寄った町・パーパーと記されます。

 もう少し詳しく紹介しましょう。

 

1. 釈尊、命を保つ力を捨てる

 旅の途上、ヴァイシャーリー(ヴェーサーリー)で、釈尊は次のようにアーナンダに告げます。
 

「修行を完成した人(如来)は、もしも望むなら、寿命のあるかぎり、この世に留まり、あるいはそれ以上に留まることができるであろう」[ii]


 この時、釈尊はアーナンダに、釈尊の延命を願い出るチャンスを与えたのですが、アーナンダの心はマーラ
(魔)にとりつかれていたために懇願しませんでした。

 アーナンダがその場を立ち去ると、マーラがやってきて、ただちに入滅するよう勧めます。
 

「尊い方よ、かつてあなたは、『私の比丘たちが教えを理解し、実践し、他に正しく説けない間は私は涅槃に入らない』とおっしゃいました。そして、今や、比丘たちは皆そのように実践できるようになっています。ですから、今こそ涅槃にお入りください」

それを聞いた釈尊は、次のように言った。

「マーラよ、慌てるな。3ヶ月後に私は涅槃に入るであろう」
その後、釈尊は神通力によって自らの命を保つ力
(寿命の潜在力)を捨て去った。[iii]

 

 この記述によれば、釈尊の入滅は、この時点で決定していたことになります。一般的に、釈尊が入滅した原因は、チュンダの供養にあると理解されていますが、実はチュンダに出会う以前に、すでに涅槃に入ることは決まっていたのです。
 

2. チュンダの懇請と釈尊の承認

 ヴァイシャーリーを出発した釈尊は、いくつかの町を経て、パーパーに到着し、チュンダが所有する園林で説法を行いました。説法の後、チュンダが釈尊に施食を願い出ると、釈尊は何も語らず、黙ってその申し入れを承諾しました。

 

さて、鍛冶屋のチュンダは、世尊の法話によって教えられ、諭され、激励され、喜ばされて、世尊に次のように言った。

「尊い方よ、明日、世尊は比丘僧団と共に私と食事を[とることを]承諾してください。」

世尊は沈黙によって承認した。
[iv]

 

 サンスクリットやチベット語訳、漢訳など、パーリ語以外の経典には、この後、チュンダが釈尊に延命を懇請する話が記されます。釈尊は「諸行は無常であり、釈尊の入滅は必然であるから嘆いてはならない」とチュンダを諭します。
 

3. チュンダの施食と釈尊の体調不良

 施食の許可を得たチュンダは、支度のためにいったん自宅に戻り、翌朝、釈尊一行を迎えに上がります。すると、釈尊はチュンダに次のように命じます。
 

「チュンダよ、あなたの用意したスーカラ・マッダヴァ(一説によるとキノコ料理)[v]を私に給仕してください。[そして]他の用意した硬い食べ物と柔らかい食べ物を比丘僧団に給仕してください。」


 チュンダが言われた通りにすると、釈尊は続いて、次のように言いました。

 

「チュンダよ、残ったスーカラ・マッダヴァを穴に埋めなさい。チュンダよ、神・マーラ・梵天・修行者・バラモンの世界や、神ないし人間という生き物の中でも、それを食べて、正しく消化できる者を如来の他に、私は知らない」[vi]

 

 釈尊は、チュンダの用意した食事が消化できないことを察知していたようです。それでも、あえてチュンダの供養を受けたのはなぜでしょうか。チュンダの気持ちを無下にしないための配慮だったのか、チュンダに功徳を積ませるためだったのか、あるいは、チュンダに何かを託す思いがあったのか。真相はわかりませんが、いずれにしても、このエピソードには釈尊の大切な思いがこめられていると感じます。

 

4. プトカサの改宗と金色布の布施

 食事を終えた釈尊は、すぐにクシナガラへと出発します。ところが、その途上で、体(背中)が痛みはじめたため、樹の下で休むことになり、アーナンダに水を汲んでくるように頼みます。

 釈尊が休んでいると、プトカサ
(プッカサ)というマッラ族の修行者が近づいてきました。プトカサは、かつて釈尊も弟子入りしたことのあるアーラーダ・カーラーマ仙人の弟子です。

 プトカサは釈尊に様々な質問をし、議論を重ねた末に改宗し、釈尊に金色の衣を布施しました。すると、釈尊の顔が燦然と輝きました。アーナンダがその奇瑞の理由を釈尊に尋ねると「これは入滅の兆候である」と告げられます。
 

5. 二果報の平等

 釈尊一行はその後、川を渡り、マンゴー林で休憩をしました。その時、釈尊はアーナンダに次のように言いました。
 

 鍛冶屋の息子チュンダに、誰かが後悔を生じさせるかもしれない。
「友、チュンダよ、如来はお前の最後の施食を食べてから般涅槃したのだから、お前にはその利益がなく、お前にはその功徳がない」と。

 アーナンダよ、鍛冶屋の息子チュンダの後悔は次のように取り除かれなければいけない。「友よ、如来はお前の最後の施食を食べて般涅槃したのだから、お前にはその利益があり、お前にはその功徳がある。友、チュンダよ、私はこのことを世尊から面と向かって聞き、承った。

 これらの二つの食事は等しい実り、等しい報いがあり、他の施食よりもはるかに優れた実りと優れた功徳がある。二つとは何か。すなわち、如来が供物を食べてから無上正等覚を獲得したものと、如来が供物を食べてから煩悩の残りのない涅槃界に般涅槃されたものとである。これらの二つの食事は等しい実り、等しい報いがあり、他の施食よりもはるかに優れた実りと優れた功徳がある。鍛冶屋の息子の青年チュンダは寿命を延ばす業を積んだ。」


 アーナンダよ、鍛冶屋の息子チュンダの後悔は以上のように取り除かれなければならない。[vii]


 上記に対応するサンスクリット本は見つかっておりませんが、その他全ての諸本には、成道直前になされた供養
[viii]と、般涅槃の前になされた供養(チュンダの供養)には、等しい果報があると記されます。

 この逸話からは、釈尊のチュンダへの心遣いを感じます。チュンダが後悔しないように、また、周囲から批判されることがないようにとの配慮があったと考えられます。

 しかし、釈尊がもっとも主張したかったことは、チュンダの供養がすばらしいものであるという点です。チュンダの供養には、成道時の供養に匹敵するほどの功徳があり、尊いものであって、決して批判されるようなものではないと、釈尊はとらえていたのです。

 なお、釈尊は、この「二果報の平等」を説いたあとに、ヒラヌヤヴァティー河の畔へと移動し、涅槃に入ります。

 

◎小本涅槃経の特徴

 以上、小本〈涅槃経〉に記されるチュンダの供養について概観しました。
 

 くりかえしになりますが、釈尊の入滅は、チュンダの供養が直接の原因ではありません。しかし、状況からは、チュンダのふるまった食事が原因で釈尊が体調を崩し、入滅にいたったように見えるため、釈尊は自分なきあと、チュンダが人々から非難されることを心配します。

 釈尊入滅
(般涅槃)を大悲痛事ととらえたならば、チュンダの行為を非難する衆生の心情は当然といえます。しかし、釈尊にとっては、入滅、すなわち涅槃に入ることは尊いことであるため、チュンダの行為もすばらしいものとして評価しました。

 般涅槃へと導くチュンダの供養に対して、釈尊と人々とで評価が異なるのは、般涅槃の受け止め方の相違といえるでしょう。般涅槃を「釈尊という存在の滅」と考えた時には、それは大悲痛事となりますが、般涅槃とは「真のさとりの世界に入ること」であり、仏教の目指すゴールと受け止めたならば、それは喜ばしいこととなります。


 このように、小本〈涅槃経〉では、チュンダの供養について、釈尊と人々とで異なった評価がなされているのです。

 次回第7回は、大本〈涅槃経〉のチュンダの供養についてみてまいります。
 

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(注)本記事は、佐藤直実 2013「『大般涅槃経』における仏弟子チュンダとその供養」(『日本佛教学会年報』第78号, pp. 71-103)をもとに、一般向けに書き直したものです。また、和訳に際しては、中村元 1980『ブッダ最後の旅』岩波書店を参考にしました。

 

[i] サンスクリットでは karmāraputra、パーリ語では kammāraputtaと記され、漢訳では「大師」「工巧子」「鍛師子」、チベット語訳では mgar ba’i bu と訳される。
[ii] 第3章3、中村1980, p. 66。 
[iii] 第3章7−10,中村1980, pp. 69-72。
[iv] 第4章15,中村1980, p. 109。 
[v] スーカラ・マッダヴァは「豚肉料理」「キノコ料理」など、諸説がある。詳しくは第5回注[ii]を参照のこと。

[vi] 第4章18-19、中村1980, pp. 109-110。
[vii]  第4章42、中村1980, pp. 122-124。
[viii] 成道時の布施者には二つの伝承がある。すなわちスジャーター(Sujātā、善生)と、ナンダー(Nandā、難陀)とナンダバラー(Nandabalā、難陀波羅)の2人の牧女とである。大本〈涅槃経〉の漢訳北本では「難陀」「難陀波羅」と記される(大正新脩大蔵経12, p. 372b09)が、小本〈涅槃経〉には名前は記されない。下田正弘 1993『蔵文和訳『大乗涅槃経』(1)』山喜房佛書林, p. 112 注(4) 参照。