文字サイズ: 標準

研究員レポート

バックナンバー

宗教情報

宗教情報センターの研究員の研究活動の成果や副産物の一部を、研究レポートの形で公開します。
不定期に掲載されます。


2021/08/23

オウム真理教事件の全死刑囚13人の死刑執行
――2018年の国内の宗教関係の出来事――

宗教情報

藤山みどり(宗教情報センター研究員)

2018年7月にはオウム真理教事件で死刑判決を受けた13人全員の死刑が執行された。この執行に、死刑の是非だけでなく、「真相は闇の中」「教祖だけ死刑にして、弟子たちにはカルト対策やテロ対策を語らせるべきだった」など多様な意見が交わされた。オウム真理教事件については、あまりにも多くの人が意見を述べており、すべてを網羅することはできなかったが、新聞報道と死刑囚らの手記を中心に検証した。死刑囚らの言葉から、何かを感じていただければ幸いである。

※被害者と遺族のほかは敬称略、太字は死刑囚

(1)異例の死刑執行

1995年3月に起きた地下鉄サリン事件では、国の中枢機関が集中する霞が関を通る地下鉄3路線にサリンが撒かれ、14人が死亡、約6300人が負傷した。この無差別殺傷事件の首謀者としてオウム真理教の教祖・麻原彰晃こと代表・松本智津夫(1955年生、逮捕時40歳)ら教団関係者が逮捕された。これを発端に坂本堤弁護士一家殺害事件、松本サリン事件など教団の犯罪が次々と明らかになり、死者は計29人(2020年に30人)に上った。1984年に発足したヨガ・サークル「オウム神仙の会」が前身のオウム真理教は約10年で急成長し、国内に信者約1万人を抱え、米・独・ロシアやスリランカに支部を展開していた。教団による凶悪犯罪は、高学歴の幹部がサリンのような戦争向け化学兵器を開発してテロを起こしたことも相まって世界中に衝撃を与えた。欧米の治安機関から警視庁には、都市部で起きた化学テロの手口に問い合わせが相次いだ1

以来23年。2018年1月には、17年間の逃亡ののち2012年に逮捕された元信者2人の判決が確定。1995年7月に始まった一連の事件の刑事裁判が終結した。計192人が起訴され、死刑13人、無期懲役6人、無罪2人となった。その半年後の7月6日に松本智津夫ら7人の、7月26日には残り6人の死刑が執行された。この執行は、通常は避けられてきた国会会期中に行われたなど下記のように異例な点が多く、議論を呼んだ2

  1. ①「判決確定順に執行」という通例に反して、確定死刑囚123人のうち40番目以降の松本らが処刑された3。刑事訴訟法は判決確定から6カ月以内(再審請求中や共犯者の判決確定までの期間を除く)の執行を定めているが、2017年までの10年間でみると、確定から執行まで平均で約5年2カ月だった4
  2. ②7月6日の1日7人の死刑執行は執行の事実を公表し始めた1998年11月以降最多。
  3. ③「同一事件の共犯者は同時執行」の慣例が守られなかった。教団内で高い地位だったものを先行したとみられる5。全員同時執行は設備上不可能で、「大量虐殺と国際社会から批判を受けかねない」懸念があった6
  4. ④1980年代に4件の死刑事件が再審で無罪となったこともあり、「再審請求中は執行回避」が通例であるが、13人のうち岡崎一明、土谷正実、端本悟を除く10人が再審請求中で、うち6人が1回目の請求だった。死刑囚のなかで唯一、1審は無期懲役だったが2審で公証役場事務長拉致事件での監禁致死(1審では監禁のみ)と地下鉄サリン事件での総合調整役(同、後方支援、連絡調整役)が認定されて死刑に覆った井上嘉浩は、弁護人が確定判決に明らかな事実誤認を確認して3月に初めて再審請求し、進行協議中に執行された7。再審請求中の死刑囚が8割近くと多く8、再審請求の目的は執行引き延ばしとの批判も強い。再審請求中の死刑執行が2017年に17年半ぶりに行われたが、オウム死刑囚の死刑執行への“地ならし”とみられた9
  5. ⑤法務省の正式発表前にテレビ各局で執行や執行手続き中であると報じられた10

この時期の執行は、「平成の犯罪を象徴する事件は平成が終わる前に決着をつける」(法務省幹部)11ためという。代替わりの慶事と重ねたくないことや、自民党総裁選とそれに伴う法相交代の可能性など政治日程も考慮されたとみられ、極めて政治的な判断による死刑執行だった。

(2)「真相は闇の中」なのか

異例といえば、松本智津夫・元代表が1審のみで死刑となったこともそうである。松本は1審の途中から沈黙し、弁護団との接見も拒否。弁護側が依頼した精神科医は7人とも、松本は拘禁反応の疑いがあり「訴訟能力がない」とする意見書を出したが、東京高裁に依頼された西山詮医師は「訴訟能力あり」と判断。弁護側が控訴趣意書を期限内に提出しなかったため控訴が棄却される異例の経緯で、1審で死刑判決が確定した(2006年9月)。松本が詐病か否かについては、意見が分かれる。オウム真理教事件で起訴された井上嘉浩ら元幹部らにも接見した浅見定雄・東北学院大学名誉教授は、松本は詐病で「万が一、死刑にならないと分かれば、元のほら吹きに戻るだろう」と語った12。だが、日常生活の観察をせずに3回の面接で明確に聞き取れたのが3語で「訴訟能力あり」とした西山鑑定13には、弁護側の鑑定医である作家で精神科医の加賀乙彦、野田正彰・関西学院大教授、秋元波留夫・金沢大学名誉教授などから批判が強い14。刑事訴訟法では心神喪失の場合は死刑執行が停止される。このため松本を心神喪失とみなす人は特に執行を非難した。

松本が1審の途中で沈黙したことに焦点を当てて「オウムの真相は闇の中」「なぜ凶行 闇のまま15」などの見出しを掲げたのは、朝日新聞や東京新聞だった。死刑制度に否定的な新聞社ともいえよう。「真相は闇の中」は、死刑制度を否定するための言葉のようにも思われる。オウム真理教を題材にドキュメンタリー映画を製作した映画監督の森達也は、信者たちが犯罪行為に加担したのは松本から指示を受けたからで、そこに宗教の原理が加担したと考える。指示を下した「動機を語れるのは麻原(松本)しかいない16。だが松本は「裁判中に精神状態が崩壊し、刑を執行する状態ではなかった。治療を受けさせ、裁判を再開して語らせるべきだった。肝心な首謀者の動機がわからないままふたをし、なぜ事件を起こしたかが不明なため不安と恐怖から逃れられていないのが今の日本社会だ17と松本の死刑執行を嘆く。森も死刑廃止論者である18

この「真相がわからない」という意見を、ジャーナリストの青沼陽一郎は一刀両断する。「麻原(松本)は事件について語っている。だが弟子たちが勝手にやったこと、なのだから、事件の動機など語れるはずもない19。松本は自身の法廷では精神異常を装ったが、弟子の法廷では饒舌に喋る、あるいは証言を拒絶するなどし、事件を弟子の暴走とした20。出廷・傍聴合わせて約500回も法廷で証言を聞いた「地下鉄サリン事件被害者の会」代表世話人の高橋シズエさんも、松本は弟子のせいにして語らなかったが弟子のほとんどは証言し、事件が起きた構造は刑事裁判でほぼ明らかになったと語り、「『真実が語られないままだった』とか『どうして事件が起きたのかわからなくなってしまう』と言う人には、『あなたはそのために何か努力されてきたのですか』と言いたい」と憤る21。事件のカギを握ると目された教団ナンバー2の村井秀夫(1960年生、教団の科学技術省大臣)は、当局聴取前の1995年4月に暴力団関係者に刺殺されたが、多くの事実が解明された。

人間の行動は、必ずしも合理的な動機によって裏付けされるものではない。また記憶は正確さを欠く。記憶違いは往々にしてあり、意図せざる欠落や歪曲も多い。そもそも物事の見方は千差万別で、同じものを見ても主観的事実は異なる。証言と資料の示す事実が合致しない場合でも、必ずしも記録が正しいとはいえない。大勢の異なる証言から全体像を推察するしかない。「動機がわからない」は「理解できない」と表裏一体かもしれない。

(3)教祖だけに責任があり、弟子は教祖の手足にすぎないのか

ジャーナリストの江川紹子も「真相は闇の中」という見方を否定する。事件については、多くの関係者の裁判を通して、動機も含めて刑事事件としては明らかになっているからだという22。だが、事件がもっぱら刑事事件として処理されたことには疑問を付す。

江川はまず松本智津夫・元代表のみ死刑とし、高弟たちは執行を急ぐよりも「今後のカルト問題やテロ対策のための研究対象や生き証人として活用」すべきだったと弟子の死刑執行に遺憾の意を示す23。教祖の犯罪として、教祖の責任を重視する意見は多い。教団脱会者を支援してきてオウム真理教から何度も殺害されかかった経験をもつ滝本太郎弁護士も「(松本の)他の12人は手足。手足を死刑にしてどうするんだ。時を経過させ、12人がどう話していくか知りたかった」とブログに記した24

オウム真理教の裁判では、「マインドコントロール」論が交わされた。社会心理学者の西田公昭・立正大学教授は、弁護側証人や鑑定人を担った井上嘉浩横山真人など幹部や信者11人について「全員がマインドコントロール現象にあった」と振り返る25。マインドコントロールとは、西田教授によれば「当人が気が付かないうちに他者がその精神課程や行動を操作し、組織の目標成就のために活動させる手法」である26。西田教授は公判で弁護側証人として「マインドコントロール下では犯行を回避するのは非常に困難27と社会心理学者としての見地から証言したが、司法判断には影響を与えられず、信者らは責任能力を問われた。松本の死刑が確定した2006年に日本脱カルト協会は、死刑判決を受けた弟子たちについて「教祖松本によるマインドコントロールと、LSDや覚せい剤まで使った洗脳」によって操られていたにすぎないとし、12人の弟子の死刑執行停止を求める声明を発表した28

だが井上嘉浩ら元幹部の弁護側証人となったほか、1999年から少なくとも5年、井上のカウンセリングを続けた浅見定雄・東北学院大学名誉教授は同時期に「サリンや銃製造などは、被告(松本)がすべて思いついたわけではない。弟子が提案し、被告が受け入れる形があったことも見逃せない。一方、一般信徒は教祖と幹部の実像を知らされないまま、修行と仲間意識に酔っていた」と語っている29

宗教とテロの結びつきや言動が先鋭化する過程を検証すべきという点は江川や滝本と同じだが、宗教学者の川村邦光・大阪大学名誉教授も教祖だけに責任があるとは見ていない。「松本死刑囚も、幹部らが自分を承認したことで、自らをカリスマ、絶対者だと認識していったのだろう。そういう意味では、オウムの危険な教義は、松本死刑囚一人の思い込みによるものではなく、信者や教団幹部との関係の中で作り上げられていったといえる30

<「ヴァジラヤーナ」の教義への傾斜>

オウム真理教では、“人が悪業を積む前に殺すことで魂を救済する”という殺人を正当化する「ヴァジラヤーナ」の教義が悪名高い。だが、教義の内容とその重みは変移している。

松本は阿含宗への入信経験はあるが、1984年発足の「オウム神仙の会」はヨガ教室に過ぎなかった。松本の空中浮揚が1985年に雑誌に掲載され、1986年に著書『超能力「秘密の開発法」』31が発刊されると、神秘体験を求める若者が押し寄せた。1987年に会が宗教団体「オウム真理教」に改まると、従来の会員の約3分の1から半数近くが抜けた32。だが「最終解脱した」と称する松本に帰依する者は残り、新規信者を得て教団は急拡大する。

1988年8月に松本は「ヴァジラヤーナとは煩悩から完全に解放されること33と説法し、殺人を正当化する教義としては説いていない。教団が宗教法人化に向けての動きを進めていた同年9月下旬、在家信者が修行中に事故死した。すると、松本は高弟を集めて「公表すると救済がストップするが、どうするか」と相談した。救済とは、松本が20世紀末に起きると予言していたハルマゲドン(最終戦争)からの人類の救済である34。松本は、解脱者(カルマ=業から解放された境地に到達した者)が3万人になればハルマゲドン、それに続く核戦争は回避されると予言していた。弟子はみな、遺体は松本に一刻も早くポア(魂をより高い世界に転生させる)されたほうが良いと隠蔽に賛成し、遺体を遺棄損壊した(真島事件35。弟子は宗教的理由から公表しない選択をした。これが分岐点となった。

真島事件に関わった出家信者が脱会を口にしはじめた1989年2月、松本は岡崎一明、早川紀代秀、新實智光(以上3人は死刑囚)、村井秀夫(故人)と幹部1人を呼び、唐突に「おまえはグル(師)が何でもしろと言ったらできるか」「おまえはグルが人を殺せと言ったら、殺すことができるか」など帰依を試す質問をした。そして信者の脱会意向を最終確認した松本は「ここはポア(より高い世界への転生=殺害)するしかない」と命じ、弟子は信者を殺害した(田口修二さんリンチ殺害事件)。殺人を正当化するヴァジラヤーナが本格的に説かれはじめたのは、この後である36。1989年11月には、オウム真理教に入信した家族の相談に応じ、教団の反社会性を批判していた坂本堤弁護士を妻・長男とともに殺害した(坂本堤弁護士一家殺害事件)。

1990年2月の衆院選で教団関係者25人が出馬し、全員落選したあとに松本は「マハーヤーナ(合法的な布教※)では救済できないことがわかったから、これからはヴァジラヤーナの救済で行く」と宣言した37

※通常、マハーヤーナは「大乗」、ヴァジラヤーナは「金剛乗」と日本語表記される。

(4)弟子たちはカルト対策やテロ対策を語っていないのか

では、松本の高弟が死刑に処されなかったら、カルト問題やテロ対策に活用されただろうか。滝本太郎弁護士らのオウム真理教被害対策弁護団、オウム真理教家族の会(旧・被害者の会)、日本脱カルト協会の3団体は、13人目の死刑が確定した2011年11月にすでに、松本死刑囚以外の12人の死刑を執行すべきではない、事件の証人として警鐘を鳴らし続ける役割を担わせるべきなどの声明をそれぞれ発表している38。それから10年近く、一連のオウム事件で初の死刑判決(1998年10月岡崎一明の1審判決)から約20年も動きがなかったとしたならば、死刑執行が延びていても同じだろう。

テロ対策のための高弟への事情聴取は、米国の専門家により行われた。接見が難しい死刑確定囚への聞き取りが何度も行われたのは、政府が特別の許可を出したからという39。政府はなぜ、日本の研究者に主導権を取らせなかったのだろうか。新米国安全保障センター(CNAS=米国政府機関にテロ対策のコンサルタントを務めるシンクタンク)のリチャード・ダンジッグ博士(元米海軍長官)らは、サリンやVX(もとは米陸軍が開発した神経ガス)を製造した土谷正実、生物・化学兵器開発に携わった広瀬健一中川智正、プラント建設を担った早川紀代秀ら死刑囚を含む元幹部らに2008年から2012年にかけて事情聴取し、教団の生物・化学兵器計画をまとめた40。テロリストに利用されないよう情報の一部は非開示である。2018年6月には、今でも証言から新事実が出てくるとして、未接触の元幹部らへの聞き取りを検討中と報じられた41。ダンジッグ博士の要請を受けて、松本サリン事件の真相解明に貢献した毒物研究の専門家であるアンソニー・トゥー・米コロラド州立大学名誉教授も、2011年から2018年にかけて中川智正と15回も面会し、教団の化学・生物兵器計画を究明した。

日本では事件を機に1995年11月、日本脱カルト研究会(現・日本脱カルト協会)が医師や宗教者、弁護士、研究者らによって設立された。現在、同協会代表理事を務める西田公昭・立正大学教授は、公判中に井上嘉浩横山真人ら11人の被告と接見し、2004年の松本の1審判決後に「弟子は基本的にまじめで優秀な若者。彼らが救済と信じて“宗教殺人”に突き進んだ、そのマインドコントロールの恐ろしさを解き明かすことができなかった。『オウムは宗教ではない』と切り捨てても、問題は解決しない42と宗教やマインドコントロールの視点から事件を解明できなかったことを悔やんだ。同協会の元代表理事で井上嘉浩ら元幹部とも接見した宗教学者の浅見定雄・東北学院大学名誉教授も、2006年の松本の死刑確定後に「裁判では、松本を頂点とするオウム真理教のカルト集団的側面が解明されなかったのが残念43と語っている。「松本の生い立ちと事件は切り離せない」とし、補助金目当てに盲学校に預けられた幼少期から松本の内面をたどる必要があり、なぜカルト教祖になったのかを究明する意志が警察や司法にあれば、公判前から精神科医やカウンセラーを付ける道もあったと述べている。なお、宗教学者の川村邦光・大阪大学大学院教授(当時)は早川紀代秀の弁護側証人となり、早川と手紙を交わしてカルト問題を考察した共著を2005年に発表した。

オウム真理教のようなカルト問題は、再発の危険が指摘されている44。だがカルト問題は司法の場では置き去りにされた。あまりにも大量の被告が出たオウム裁判では、裁判の長期化を避けるためにはやむを得なかったもしれないが、判決確定後も政府が死刑囚への接見を専門家に許可するなどしてカルト対策を講じようとした形跡は見当たらない。

死刑確定囚との面会は厳しく制限される。それでも監獄法では親族と弁護人、教誨師しか面会が認められなかったのに比べると、2006年施行の刑事収容施設法では、確定前から交流があった友人や支援者も認められるなど少しは緩和された45。このため、地下鉄サリン事件の実行犯である豊田亨(教団の科学技術省次官、1968年生、26日執行)には、東京大学物理学科で同級生だった作曲家の伊東乾が死刑確定後も面会を続けた。だが、豊田は面会時の発言について他言無用を伊東に頼み46、「自分が元気でいると伝わること自体、被害者を傷つける」として外部への発信を控えた47

同じく地下鉄サリン事件の実行犯で、担当した路線で死者は出なかったが同一事件の責任を負う「共同正犯」として死刑になった横山真人(教団の科学技術省次官、1963年生、26日執行)は、「サリンは人を殺すものとは知らなかった」と殺意を否認し、1審の途中から黙秘を貫いた。自分の秘密を指摘されたことから「読心力がある」と松本を恐れ、松本の公判に出廷したときも怯えて語らず、のちの公判で「検事さんが『調書に署名すれば、教祖の法廷には証人として呼ばない』って約束したから、協力したのに」と涙とともに訴えた48。横山は1999年の1審の最終弁論では「いくらお詫びしても償いができるわけではないから悩んできました」49と小声で述べ、1審死刑判決後、横山は弁護団に「本当のことを話したのに、うそを言っていると言われ、非常にショックを受けたが、死刑になったほうが少しでも被害者に納得してもらえるかもしれない」と話した50。弁護人に説得されて控訴したが51、控訴審でも沈黙を続けた。なお、1審で否定された「取り調べ中に警察官から歯が折れる暴行を受けた」という横山の主張は、2審では認められた52

黙して語らなかった者もいるが、事件の再発防止のために手記を残した死刑囚も多い。

<6日執行:井上嘉浩(教団の諜報省長官、1969年生)>

不思議な半覚醒体験をしたことからスピリチュアルや宗教に関心をもつようになった井上嘉浩は、仏教系進学校である洛南高校2年生だった1986年に16歳で入会。1989年に大学を1年で退学して出家した。「修行の天才」と称され、空中浮揚にも長けていた。1995年の逮捕時は25歳だった。同年12月に脱会し、信者にも「私達一人ひとりが何ものにも依存することなく、自分で考え修行し覚醒を目指そう」「私達の自分自身の内側に宿っている仏性こそが究極の真理である」と退会を呼びかけた53

2審死刑判決後の2007年に真宗大谷派の僧侶でもある高校の恩師の呼びかけで「『生きて罪を償う』井上嘉浩さんを死刑から守る会」が結成された。共通の恩師をもつ同窓の真宗大谷派浄専寺の平野喜之住職が事務局長に就いた縁で、同派僧侶が支援の中心となった。平野住職は手紙を130通以上交わし、30回以上も面会した。平野住職が2006年に初めて会ったとき、井上の罪の意識には疑問を感じた。だが僧侶らが遺族の声を届け、面会を重ねた結果、2009年には「罪が一番重いのは麻原(松本)」という意識が変化した54。井上は、教団内で最も多くの人を入信させた自身の行為が、教団に事件を起こす力を付けさせたと気づき、「麻原を信じてやったことに罪がある」と罪の自覚を深めた。2018年6月に井上は「『集まった人間はすごく良い人で、麻原みたいな詐欺師に出会ったから悪い人間に変えられて罪を犯した』と皆思うでしょう。だけどそうじゃない。麻原を教祖にした弟子の責任がある。自分たちは絶対的な存在を求めた。(略)最終解脱者、絶対に正しい人がこの世に存在してほしい、自分もその解脱者になる道があってほしいという欲望が、麻原を教祖として振る舞わせた。弟子にも責任があるんです」と語った55

井上はまた、死刑確定前に面会していたジャーナリスト・門田隆将に2013年秋に悔悟の念と被害者への謝罪を示した手記を送付した(『文藝春秋』2014年2月号掲載56)。その後も井上は、「自分のような若者が二度と出てほしくない」と執行直前まで5000枚以上の手記を書き続けた。井上の手記と父親の回想録は、門田隆将によりノンフィクション『オウム死刑囚 魂の遍歴』(2018年12月)として世に出された。

<6日執行:岡崎(執行時の姓・宮前)一明(教団を1990年に脱会、1960年生)>

岡崎一明は、教団に留まる信者に同じ過ちをさせたくないと、1998年12月から死刑が確定する2005年5月までの間に、東京新聞記者に70通を超える手紙を出すなどしてメッセージを発表した。岡崎は2歳で養子に出され、高校卒業後、職を転々とした。初期の会の家庭的な雰囲気に惹かれて1985年に入会した57。1986年に出家し、信者で2人目の解脱者となり、出版事業を担った。田口修二さんリンチ殺害事件、坂本堤弁護士一家殺害事件に関与したが、「当選見込みのない衆院選に教団が立候補を立てたことに幻滅した」58などとして、1990年2月に教団の資金約2億円を持ち逃げして脱会。資金は教団にすぐ取り戻されたが、坂本堤弁護士の長男の遺体遺棄現場の地図などを神奈川県警に送付し、教団から「口止め料」830万円をせしめた。神奈川県警は遺体を発見できず、同年9月に事情聴取された岡崎はしらを切った。自供したのは地下鉄サリン事件で教団に強制捜査が入った後の1995年4月だった。公判では「自首は自己保身のため」とみなされて刑は軽減されなかった。上告しない意思だったが弁護団が上告し59、2005年に教団元幹部で最初に死刑が確定した。

1審死刑判決後の1999年にはオウム真理教の復活に危惧を抱き、危機感の薄い若者に向けて①興味本位でセミナーなどに出席しない、②安価を理由にダミー会社(注:教団関連会社)の商品や機材を購入しない、などと手紙で訴えた。また、信者をつなぎ留める力となっている神秘体験については、「単なるインドヨガのプロセスをたどった体験にすぎない」と記した60

2001年には「どの宗教にも神との合一体験に法悦し、陥穽する危険が潜んでいます。衆生の魂を救済できるとする功徳の概念が(教団を)犯罪に駆り立てたポア(注:より良い世界へ転生させる=殺人)の背景であり、ヨガ的神秘体験と密教の瞑想法がグル(注:師=松本)との精神融合を深め、無償の帰依へと向かわせたのです」と記した61。また、オウム真理教の後継団体の信者に向けて「とらわれていた教義や信仰から気づいて下さい。救済を誓ったあの志が、別の方向に暴走したことに気づいてほしのです」と呼びかけた62

この後、岡崎は脱会信者を引き受けてきた玉龍寺の宮前心山住職に師事する。2004年5月、宮前住職は身寄りのない岡崎と養子縁組をし、同年11月に岡崎は得度した。2008年ごろから「言葉以外でないと表現できない」と水墨画に傾倒した。

<6日執行:土谷正実(教団の第二厚生省大臣、1965年生)>

筑波大学大学院生だった1989年に友人の勧めで入信、中退して1991年に出家し、神経剤のサリンやVX、幻覚剤LSD(信者に幻覚を松本の能力と思わせるために使用)、麻酔剤チオペンタール(スパイとみなしたものへの自白剤として使用)などを製造した土谷正実は、1995年11月の初公判前日に上方から光り輝く松本が現れる神秘体験をした。初公判では「麻原尊師(松本)の直弟子」と答え、2審には1度も出廷しないなど、松本への深い帰依がうかがえた63

旧知で2006年から接見し、2008年に獄中結婚した土谷の妻によると、地下鉄サリン事件が起きたときも土谷は教団の説明を信じて事件のためにサリンを作らされたと思わなかった。逮捕後に初めて知らされた事実が多すぎ、2審判決(2006年8月)後も現実を受け入れられないようだった。だが、土谷に問われて彼女が「麻原(松本)はペテン師だ」と松本を否定した翌日に脱会し、教団関係者との連絡を絶った64

土谷は2011年の最高裁判決を前にした手記で、松本の法廷に証人として出廷したときに証言しなかった松本を見て迷いが生じ、2006年末に雑誌記事を読んで松本は「詐病に逃げた」としか思えなくなり、帰依心が崩れたと告白した。「自分自身の考えでは上層部の指示や決定を『嫌だ』と思ったけれども、『無心の帰依』『無智の修行』だと盲従し」て凶悪犯罪に加担したことを「自分自身の気持ちに素直でいれば良かったんだな」65と悔悟した。

<6日執行:中川智正(教団の法皇内庁長官、1962年生)>

中川智正は京都府立医科大学を卒業する直前の1988年に入信し、1989年に出家した。松本の主治医となったが、サリンなど化学兵器の製造や坂本堤弁護士一家殺害、松本サリン事件などにも手を染めた。2011年11月には最高裁判決を前に、「宗教は人の心に平安をもたらし、平和な社会を築く肯定的な作用があるが、その反面、自らの正しさを強調するあまり、独善的・排他的になったりもする」と述べ、謝罪とともに「事件がどうして起こったのか、なぜ止まらなかったのかこうした議論をする裁判以外の公的な場があれば良かったのに」と朝日新聞記者に手紙を寄せた66。そんな中川は、テロ対策のために面会を求めた米国の専門家やアンソニー・トゥー・米コロラド州立大学名誉教授に教団の化学・生物兵器計画を開示した。トゥー博士の勧めで中川はサリン製造に関する警察発表と異なる真相を執筆し、手記は化学誌『現代化学』2016年11月号に掲載された。

その末尾で中川は、麻原(松本)は「ヨガや瞑想の指導者としての能力はきわめて高かった」とし、ヨガや瞑想の部分で絶対的な信頼をおいてしまった者が事件に関与した、逆にいえば、麻原は「自分を深く信頼している者を選んで、殺人や化学兵器の製造などを命じた」のだと述べた。さらに麻原は「教団内部の大部分の者に対しても、『実際に殺人を行う(行っている)』」とは言わなかったし、自分を含めて「教団が殺人を犯すなどと思って入信したものは皆無」だったと振り返る。「ある人物が、危険な宗教やテロ組織に入ってしまう背景と後にテロを実行する背景は、多くの場合、違っているように思われ、両者は区別すべきではないでしょうか。この辺りから考えていただくことが、今まであまり実施されていないテロ対策につながるのではないかと思います」と提案し、謝罪した67

教団内でVX中毒の治療経験があった中川は、2017年にマレーシアの首都クアラルンプールの空港で起きた北朝鮮第3代最高指導者・金正恩の異母兄・金正男の暗殺事件では、いち早くVXによる殺害の可能性を指摘した68。中川が書いたVXについての英語の論文は2018年5月に発表された(日本語の論文は『現代化学』2018年8月号に掲載)。

中川からトゥー博士への最後のメールには、「私が論文を書いたり、研究者に協力をしているのは、私がやったようなことを他の人にやって欲しくないからです。被害者を出したくないのもそうですが、加害者も出て欲しくないと思っています」「北朝鮮の政府内には、オウム真理教の起こした事件を研究していた部署があるそうです。VX塩酸塩のことは教団のやったことを研究しないと思いつかないと思います。いきがかり上、どうしても書きたいと思いました」と記されていた69

7月6日の執行直前、中川は「被害者の方々に心よりおわび申し上げます」と言い残した70。中川の死後、トゥー博士は一連のやり取りを『サリン事件死刑囚 中川智正との対話』(2018年7月)として出版した71

<6日執行:早川紀代秀(教団の建設省大臣、1949年生)>

精神世界に興味をもっていた早川紀代秀は大手建設会社などを経て1986年に入会、1987年に出家して、真島事件(信者遺体損壊事件)や田口修二さんリンチ殺害事件、坂本堤弁護士一家殺害事件を実行した。また、教団の武装化のためにロシアに頻繁に渡航してAK-47(カラシニコフ銃)やロシア製ヘリコプターを入手し、核兵器開発のウラン鉱探しにオーストラリアに行き、また、サリン開発のためのプラント建設にも関わった。

2審では、早川と同年代の川村邦光・大阪大学大学院教授(当時)が弁護側証人を引き受けた。川村教授は、読者にオウム真理教を問い直してほしいと、早川と共同で『私にとってオウムとは何だったのか』(2005年3月)72を著した。早川は、「クンダリニー(生命エネルギー)の覚醒」という神秘体験を経てグル(師=松本)への絶対的帰依の心が高まった過程や、グルを否定できず信者殺害の指示に従った心理を自己分析している。松本からのポア(殺害)の指示に逆らえなかった理由として、絶対的帰依をしていた人の指示だった、「ポア」の教えが説かれていた、絶対やりたくない気持ちがあっても「修行が足りないから」「自分の心が弱いから」そう思うのだと抑え込む思考回路が訓練でできていた、逆らえば自分もポアされる恐怖があった、などと述べている。そして、オウム真理教の事件は、グルの宗教的動機から起きたということと、グルへの絶対的帰依を実践するというグルと弟子の宗教的関係性によって、グルの指示に弟子が従って起きたという2点を、同様の事件が今後起きないためにも理解してほしいと述べている。

川村教授は、①オウム真理教では解脱のために出家が奨励され、社会との関わりを絶った信者たちが松本に絶対帰依し、松本の一元的支配体制が貫かれていたこと、②松本には神秘体験をさせて解脱させる霊的な力とポアする霊的な力があるという全面的な信仰が形成されていたこと、③松本にすべてを捧げるべきとして相互監視・管理体制が構築されており、自己滅却を実践するしかなかったことを指摘する。さらにオウム真理教の信仰と実践の構造を、日本帝国の軍隊組織、国家とのアナロジーで説明する。天皇のための聖戦と信じ込まれて戦われた太平洋戦争を例示し、「オウムだけを妄想集団としてあざわらうことはできない」と述べる。太平洋戦争では宣戦の詔書を渙発した天皇に責任があるのと同様に、オウム真理教事件も代表者である松本に責任がある。そして、大元帥、将兵、それを支えた国民にも責任があるのと同じく、盲目的な帰依によって殺害を遂行した信徒と一般信徒にも責任があるという。また、教団内で殺害を回避できなかったことを、軍隊では殺戮は合法で、上司の命令に背くことがほぼ不可能であったことになぞらえる。

<26日執行:広瀬健一(教団の科学技術省次官、1964年生)>

早稲田大学理工学部応用物理学科を首席で卒業し、大学院進学後の1988年に入信、修士課程修了後の1989年に出家した広瀬健一は、教団の生物兵器開発に携わり、地下鉄サリン事件では実行犯となった。広瀬はジャーナリスト・藤田庄市から大学生向けに「カルトに入信しないために」というテーマで執筆を依頼され、2008年6月に便箋58枚73に及ぶ手記を託した。そこには、入信の経緯も書かれている。「生きる意味」を問いていた学生時代、松本の著書を読んだだけで尾骶骨から熱いエネルギーが上昇する神秘体験をして「クンダリニーが覚醒した」と思い、松本をグル(師)と確信する。入信後も幻想的な宗教的経験を重ね、松本を「救済者=神」と信じ、遂には村井秀夫から指示を受けて“苦界に転生する人々の救済”のためにサリンを地下鉄に撒く。逮捕直後は、松本の関与と事件の動機(「ヴァジラヤーナの救済」の教義)を供述すると無間地獄に転生しかねないと「教義に反することへの恐怖心」から供述できなかった。だが少しずつオウム真理教のマインドコントロールから解かれた広瀬は、宗教的経験ゆえに非現実的な教義を受容したことを反省し、宗教的経験は「脳内神経伝達物質が活性過剰状態で起こる幻覚的現象」と解するようになった。また、「恐怖心の喚起」をする思想は有害であると指摘する。広瀬は、集団に関わる場合に確認すべき点を次のように列挙する74
・個人の規範意識を一般社会のものと異なるように変容させないか
・指導者や教えへの服従がないか
・過度に厳しい規制がないか
・自己を否定されないか
・会員が一般社会から離れ、集団生活に入る傾向がないか

とはいえ、広瀬は宗教の価値は認めている。超越的存在を否定することはできないが、自分の宗教的経験を科学的に厳密に証明することもできない、という。また、カルトの根絶は難しく、「各個人が『カルト』を理解し、その基準を定めるしかない」として、そのために自分の手記が役立つことを願った。

また、未完となったが、被害者側弁護士から再発防止のためにと依頼されて、手記を書き続けていた75。これらの手記は、広瀬を支援していた真宗大谷派圓光寺の谷川修眞住職によって『悔悟 オウム真理教元信徒広瀬健一の手記』(2019年3月)76として出版された。

前述7人のほか、末端信者だったが空手の腕を買われて坂本堤弁護士一家殺害の実行役に選ばれた端本悟(教団の自治省に所属、1967年生、26日執行)は、拘置所で現役信者に脱会を促す手紙を書き続けた77。地下鉄サリン事件の実行犯で、担当した路線では最多の8人の死者を出した林(執行時の姓・小池)泰男(教団の科学技術省次官、1957年生、26日執行)は1997年の初公判で脱会を明らかにし、謝罪した。また、逮捕後には獄中から信者に脱会を呼びかけていた78。2008年の最高裁判決前には「教祖は弟子に対して『自分のコピーになれ』教えていました。弟子は『自分』を殺して教祖のマネをするようになるんです。仏教の本来の教えは『自灯明』であって『自分』を生きることです」「特に教祖の身近にいた側近と言われる人々が教祖のクローン=ミニ教祖=となってしまい、それが暴走に拍車をかけたのかも」などと記した79。釈迦は亡くなる前に、自分の死後は「自分をよりどころにせよ(自灯明)」「教えをよりどころにせよ(法灯明)」と語ったが、オウム真理教は逆を教えていたと振り返った。だが、次の2人は異なる。

<遠藤誠一(教団の第一厚生省大臣、1960年生、6日執行)>

帯広畜産大学・大学院を経て京都大学大学院医学研究科博士課程に進学し、教団化される直前の1987年に入会、1988年に出家した遠藤誠一は、炭疽菌やボツリヌス菌など生物兵器の開発の責任者だった。遠藤が携わった生物兵器開発はことごとく失敗したとはいえ、ダンジッグ博士らへの協力を拒否し、黙して語らず、詳細は明らかになっていない80。遠藤は松本サリン事件の実行犯で、地下鉄サリン事件のサリン製造に関わったため死刑となった。遠藤は1審では松本と訣別したかに見えたが、松本の死刑確定後には「死刑は弟子の12人だけでいい。未来仏の尊師を死刑にしてはいけない81と述べ、処刑後の遺体はオウム真理教の後継団体Aleph(アレフ)に引き渡され、火葬された。

<新實智光(教団の自治省大臣、1964年生、6日執行)>

新實智光は、1986年に入会、出家した古参信者の1人で、坂本堤弁護士一家殺害事件など教団の7件の殺人事件すべてに関与した新實は、2001年の1審では「すべては因果応報。罪のない人が亡くなったのではなく、因があって亡くなったのです。その人たちが、未来世で私たちと縁ができて解脱悟りに導かれたら素晴らしい。今という一点から見ると非難されてしかるべきだが、長い輪廻転生から見れば、今生のこの事件は大いなる菩薩の所業として受け止めることができると思う」「グル(宗教上の指導者=松本)の指示であれば、人を殺すことにも喜びを感ずるのが私の理想の境地82と述べ、2005年の2審では「尊師(松本)が伝授したものが私の心にある限り、グルはグルです83と帰依心を示した。2012年にはAleph(アレフ)信者(本人談では結婚前に脱会84)と獄中結婚をした。2015年に元信者・高橋克也被告の裁判に出廷した際も、地下鉄サリン事件について(魂を高い世界に行かせる)救済の一環。今もそう思っている」85と述べた。拘置所でも瞑想を続け、信者へのメッセージでは“来世はグルと共に転生する”とも述べていた86

最後まで松本への帰依を貫いたとみられた新實だったが、1年後に妻が明かした事実は異なる。遺品の日記には、「誰かを崇めるような生き方ではなく、自分を信じる原点に戻るということ……」「同じような思いを今いる法友たちにはしてほしくない」「教祖をいろんな角度から見て判断してほしい。僕はもう教祖から背を向けている。ついていかない」87「あくまでグルという存在は(信仰の)補佐であり、インストラクター的存在である。しかし、(松本は)絶対的存在になってしまった」「神秘体験は教祖がきっかけだった。でも、帰依する必要はない」88などと書かれていた。彼は妻に「僕が教祖と決別したことは公開してほしい。法友たちのために。でも日記、手紙などの現物を公開しないでほしい」と願ったとして、妻は現物を公開していない89。死刑執行の4カ月前(2018年3月)に東京から大阪に移送された新實との面会に、妻は毎日通った。新實の変化は、生きることへの執着が生まれたからではないかと妻は捉えている。事件から23年、新實は自らを松本の「被害者」と認識しはじめたが、自らを「加害者」と捉えるには至らなかった90

土谷正実と新實智光が教祖との訣別に至った心情の変化には、妻との交流が果たした役割が大きいようである。オウム真理教事件で1995年に特別手配され、2011年12月31日に出頭した元幹部・平田信に「会いたい」と呼ばれた滝本太郎弁護士は、「平田信が反省して出頭したのはあの年に、ずっとかわいがって飼っていたうさぎが、自分のおなかの上で死んでしまったからです。その現実感と命の重さをつくづく感じたんだと思います。死刑囚はみな、ヒヤシンスを栽培させてやるとか、現実感覚を取り戻すことをやらないと、現実の反省を深めていくことができないのではないかと思います91と語っている。全死刑囚から有用な知見を得るには、このような方策も必要だったのではないだろうか。それでも死刑囚らが残した手記などからテロ対策やカルト対策を考えることもできなくはない。また、無期懲役で受刑中の元幹部ら6人のほか、服役を終えて社会にいる元幹部もいる。

松本の運転手を長く務め、地下鉄サリン事件では実行犯の送迎役を務めて無期懲役となった杉本繁郎(しげお)は、全死刑執行後に東京新聞に「私自身、やっと教祖の呪縛から解放されたような思いが心に生じたことも確かです92と手紙を寄せた。自身は「弟子の証言による事件の全容はほぼ明らかになった」という意見に近いと述べ、以下を綴っている。「彼ら(井上嘉浩、豊田亨、広瀬健一ら)が語ったことを今後、どう生かし、どう伝えていくかを考えるべきです」「オウムの教義は、仏教、ヨガからの転用であり、絶対的真理などではありません。信頼できる人が書いた本を読んだり、お寺のお坊さんに聞いたりして思索を重ね、自分の頭で考えてほしい。無条件に受け入れたら、私たちのような過ちを繰り返してしまう。再び事件を起こさなくても、精神を崩壊させてしまうのです」。

地下鉄サリン事件の実行犯では唯一死刑を免れ、1審で無期懲役が確定した林郁夫は、オウム真理教に関わった半生を早々に手記で発表した93。林郁夫によると、オウム真理教の「ポア」は、「戦争」や「死刑制度」のように価値観が異なることから容認される「殺人」とは異なる。「ポア」は、人は死んでも魂が生まれ変わるという輪廻転生の考えのうえに成り立つ。松本は、自分の宗教性を出家信者が肯定していることを前提に「ポア」を説いた。殺害対象の過去、現在、未来を見通せる松本にしか、“悪業を犯す前により高い世界に転生させる”という慈悲に基づくオウム真理教の「ポア=殺し」は成立しない。そこで松本は無差別殺人を考えた時点で、現代社会と異なる価値観をもつ「オウムvs.国家」という「戦いの構図」を信者に浸透させ、指示通りに戦う「オウム」を作り上げたのだという。

松本は1992年以来、教団に戦いが仕掛けられているという説法を繰り返した。1993年には毒ガス攻撃を受けていると語り、教団内では「強大な力をもった陰の組織が、日本の国家権力を動かして、オウムをつぶそうとしている」と信じられるようになった。1995年3月、林郁夫らは村井秀夫から「近く強制捜査がある。騒ぎを起こして、捜査のホコ先をそらす。地下鉄にサリンを撒いてもらいたい」「サリンを撒く対象とするのは、オウムを弾圧してつぶそうとしている国家権力の代表者たち、つまり公安警察、検察、裁判所に勤める人たちだ」と指示され、地下鉄サリン事件を起こしたという94

(5)カルトと宗教は切り分けられるのだろうか

カルト対策といっても、広瀬健一も述べたようにカルトと宗教の切り分けは難しい。洗建・駒澤大学教授(当時)も「“カルト”と宗教を明確に区別することは不可能」と述べている95。教祖による弟子の“マインドコントロール”は批判されるが、「説得力あるスピーチ、熱情を込めた説教とマインドコントロールの境界はどこにあるのか」96見定めることは難しい。

宗教とカルトを区別できないにしても、教育の場でカルトを含む宗教について学ぶ機会を増やすことが、対策につながるのではないか。日本脱カルト協会のサイトに記された、カルトの基礎知識やカルト対策も参考になるだろう97。近年は瞑想への科学的アプローチが試みられているが、神秘体験など宗教的経験を科学的に証明するのは難しい。量子力学の考え方は、従来の科学では説明できなかった現象の説明に役立つとして注目されている。だが、言語化されにくい感覚や体験の共有に価値を認め、科学偏重からの脱却を図ることも必要ではないか。科学偏重姿勢がかえって科学では説明できない宗教的経験の価値を高め、そこに魅せられる人々を増やすようにもみえる。心理学においてはジークムント・フロイトが説いた「無意識」やC.G.ユングが説いた「集合的無意識」の存在が当たり前のように説かれている。これらは科学的に存在を証明されたとは言いがたいが、広く受け入れられているのは、なんらかの感覚の共有があるからではないだろうか。 なお、死刑囚らの言葉からは、次のような注意点が挙げられるだろう。

  1. 神秘体験にとらわれない。
    神秘体験や空中浮揚は、オウム真理教では信者獲得のために重用された。だが空中浮揚だけでなく空中歩行が可能とされるヨガ行者・成瀬雅春は、瞑想で得られる神秘体験はほとんどの場合「ハプニングかアクシデント」で、「神秘体験をしたときに、どの程度冷静に対処できるか」が最も重要という。また、ヨガでは多くの神秘的能力を得られるが、むやみに使うものではなく、そういう能力が身につく前に「一人前の社会人として通用する人格」が形成されている必要があると述べている98
  2. 1人の人間への絶対的服従、妄信をしない。
    宗教においては、初期には師への服従によって「我=自分のとらわれ」を破ることも必要であろうが、最終的には③にたどりつくのではないだろうか。
  3. 自分の心の声に素直に従う。自分を信じる。

上川陽子法相は6日の記者会見で、「松本は、宗教団体を隠れみのに、宗教の解釈を都合のいいようにねじまげ、犯行を正当化、凶悪化させた99と述べた。松本の意図はともかく、憲法が保障する「信教の自由」のために、教団への捜査が及び腰になった側面はあろう。事件を機に「性善説にたったもの」100であった宗教法人法が改正され、所轄庁に宗教法人への報告を求め、質問する権限を付与するなどの規制が加えられた101。オウム真理教は東京都の宗教法人法に基づく解散命令によって解散され、1999年成立の団体規制法(無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律)によって後継団体(2018年時点で「Aleph(アレフ)」「ひかりの輪」「山田らの集団」の3団体)が観察処分の対象となった。

上川法相の発言は、事件後にオウム真理教を「あれは宗教ではない」と切り捨てた宗教学者などの宗教観と通じる102。だが宗教学者の高尾利数・法政大学教授(当時)は、オウム真理教事件の残酷さについて、「『宗教だからこそ』という視点を手放してはならないと考える」と語る103。宗教においては、「世間的常識」「一般社会的価値や規範」などを越えたものへの全実存的な自己投企の姿勢が土台になるため、出家・現世否定・反逆などが本質的な要素となり、逆説的にいえば「反社会的」なのは当然となるとも述べる。宗教は必ずしも、人間一般を無前提に「救う」ものではないという。

地球を第一に考える視点に立つと、「地球上で最も有害な生き物は人類」であり、地球のためには人類を抹殺するのが良いと言えなくもない。

(6)宗教団体の暴走を止めるのは誰なのか

宗教団体に自己制御が期待できないならば、その行動を制御するのは誰なのか。トゥー名誉教授は、1989年の坂本堤弁護士一家殺害事件と1990年の山梨県上九一色村(現・富士河口湖町)住民との間の施設建設に関するトラブルのときに警察が迅速に動いていたら、暴走は止まっていただろうと指摘する104。林郁夫が撒いたサリンによって霞が関駅助役だった夫を亡くした「地下鉄サリン事件被害者の会」代表世話人の高橋シズエさんは、「林郁夫を最も憎みますか」と尋ねられ、「一番恨んでいるのは警察」「坂本事件のときも、上九一色村の施設建設のときも、警察への訴えはみな無視された。もしあのとき警察が行動を起こしていたら、地下鉄事件も起こらず、主人が亡くなることもなかった」と答えた105

オウム真理教事件関連では警察の失態が目立つ。死者7人(のち8人)・重軽症者約600人を出した松本サリン事件(1994年6月)では、長野県警は被害者で第一通報者だった河野義行さんを犯人扱いし、河野さんは警察発表に基づく報道にも被害を受けた(河野さんの妻・澄子さんはサリン中毒で意識不明のまま2008年に亡くなった)。

警察庁長官狙撃事件(1995年3月)でも不手際があった。オウム真理教信者だった警視庁(東京都警察本部)巡査が1996年6月に犯行を自供したが、警視庁から警察庁への報告はなく、裏付け捜査も進まないうちに報道機関への内部告発で明るみに出た。事件は未解決のまま2010年に時効を迎えた。だが警視庁は記者会見で「オウム真理教信者によるテロ」と発表し、オウム真理教の後継団体Aleph(アレフ)から損害賠償を請求された(東京都が賠償金100万円を支払う2審判決が2014年確定)。

1995年5月から特別手配されていた元幹部の平田信が2011年12月31日に警視庁本部に出頭して名乗ったときも、対応した警官はまともに取り合わず警視庁丸の内署に行くよう促し、平田は警視庁丸の内署で2012年1月1日に逮捕された。

問題はあれども、宗教団体が非社会的な行動を起こした場合、歯止めをかける役割は、法律に則って取り締まる機関である治安当局に期待するしかないのだろうか。

(7)国家と宗教団体

松本智津夫が事件を起こした動機を別な角度から追った作家・藤原新也は、6歳で全寮制盲学校に入れられた熊本県八代市出身の松本は、水俣病が原因で視覚障害となり、それゆえ日本破壊を企んだのではないかと仮説を立てた。そして、松本の全盲の長兄から、松本を水俣病患者として役所に申請を出したが却下されたことを聞き出した106

熊本県水俣湾周辺の住民に生じた水俣病は、新日本窒素肥料(旧チッソ、現JNC)の工場廃水に含まれたメチル水銀化合物に汚染された魚介類を食べたことによって起きた中毒性の神経系疾患である107。水俣病は「公害の原点」とされ、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくとともに四大公害病の一つである。1956年に患者が公式に確認され、1959年に熊本大学が水俣病の原因を特定し、新日本窒素水俣工場を発生源とした。だが高度経済成長期の折、この研究結果は国と企業と御用学者によって否定され、被害は拡大した。1955年に生まれた松本の幼少期にあたる。ようやく1968年に政府が因果関係を認め、1971年には視野狭窄や運動失調、知覚障害などの症状があれば水俣病と認めて補償した。ところが補償金が膨らむと(1977年9月末までに認定患者1180人、補償金額307億円)、政府は患者切り捨て策に転じ、1977年7月に厳しい認定基準を課す108。このため政府などに損害賠償を求める訴訟が相次ぎ、1990年には東京地裁などで和解勧告が出たが、国は拒否。被害者側との板挟みとなって、環境庁の担当局長が自殺する事件も起きた109

1995年に政治解決が行われ、1件(関西訴訟)を残して他の訴訟は取り下げられた。そして提訴から22年経た2004年に最高裁が国と熊本県の行政責任を認定し、被害者が勝訴した。この最高裁判決以降、新たな訴訟が相次いだため、2009年には新たに「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」が成立し、2010年に新たな認定基準に基づく救済措置が決定された。この救済措置により3万7613人が救済されたが、認定を求める訴訟はまだ続いている。

水俣病は、松本が反国家的な事件を起こした一因かもしれないが、定かではない。国が人の健康よりも経済を優先したことは、松本が人の生命よりも“魂の救済”を優先したことと重なる。国を宗教団体に例えれば、“経済至上主義教”であろうか。

オウム真理教は1990年の衆議院選挙で惨敗して先鋭化した。作家の佐木隆三は、オウム真理教に殺人を正当化する教義があったことを念頭に置きつつも「宗教上の意味付与よりも、オウム真理教による一連の事件を『政治犯罪』ととらえることで、説明がつく」と、ドイツの詩人ハンス・エンツェンスペルガーの評論『政治と犯罪』を引用する110。「犯罪団体が組織されるやいなや、それは国家のなかの国家となる傾きがある。かかる犯罪結社の構造は、そのライヴァルであり商売仇である支配権力の形式を、忠実に模倣する」。

1988年すでに教祖は政治的独裁者になると公言し、その妨げとなる坂本堤弁護士を殺害した(1989年)。そして裁判所官舎を狙った松本サリン事件(1994年)を起こす直前に、国の省庁制を模倣した機構改革を発足させた。国家権力を行使する裁判所に攻撃すると決めたこのときに、それまでの「国家のなかの国家」から改めて「国家に対立する国家」として、自らの組織を位置づけたのだという。

戦争において、戦闘員の殺害や戦略兵器の開発・使用は推奨され、平時ならば処罰対象である殺人が正当化される。戦争が終わると、勝者の論理がすべてを支配する。先の大戦でもみられたように、民間人を無差別大量殺戮しても勝者は詭弁を弄して正当化する。勝者はまた、戦前には設定されていなかった罪を創設してでも敗者を裁いて処罰する。

オウム真理教は日本国家との「戦い」に敗けた。その認識は、政府にもあったのではないか。2011年12月に13人の死刑が確定し、未逮捕者を除く全員の刑事裁判が終了したときにも、執行が近づいた可能性が報じられた111。だが特別手配されていた平田信・元幹部が出頭し、執行は延期された。「平成を象徴する事件は平成のうちに」と不可解な理由で異例の死刑執行をしたのは、政府に処罰感情が強かったからだろう。

(8)人が人を裁く限界

死刑には冤罪の危険性や執行する刑務官の負担などの問題が指摘されており、人権を尊重する欧州先進国では死刑廃止が主流である。だが日本では死刑存続の意向が強く、内閣府が2019年に実施した世論調査では「死刑もやむを得ない」という回答が8割112である。

だが死刑の是非以前に、一部のオウム事件犯の量刑判断には疑問を投げかける人も多い。林郁夫は、事件の全容解明に貢献した自供が「自首」に当たるとして無期懲役となった。対照的に、岡崎一明は自首しながらも死刑となった。2人の取り調べ方法や担当捜査員の態勢の違いが大きく、「当局の対応次第では、立場は逆になっていたかもしれない」113という指摘や、林郁夫はたくさん話したが虚実ない交ぜだったという証言も114ある。

医師だった林郁夫は教団の治療省「大臣」として高い地位にあり、麻酔剤を用いて信者を監禁し、電気ショックにより信者の記憶を消去するなど教団で果たした役割は大きかった。指名手配された信者の指紋除去手術を麻酔科医の妻と行ったほか、公証役場事務長監禁致死事件にも関わった。6事件への関与で起訴され、地下鉄サリン事件では担当した路線で2人の死者を出したが死刑を免れた。

これに対して、サリン2袋のうち1袋しか撒布させることができず、担当した路線で1人の死者も出さず、教団での地位も科学技術省「次官」と低く、起訴されたのも2事件(地下鉄サリン事件と自動小銃密造)だった横山真人は死刑となった。

これら量刑の差を、中川智正はコミュニケーション能力や評判の違いと解釈しており、「死刑判決の宣告はあいまいで基準がない」と語った115早川紀代秀は2018年6月7日付の手記で地下鉄サリン事件を念頭に「自分では1人も殺していない者が死刑で、自分で2人も殺している者が無期というのは、どうみても公正な裁判とは言えません」と死刑制度への不信感を示した116。刑法が専門の土本武司・筑波大学名誉教授は、林郁夫と横山の差について、林の自白はあくまでも犯行後の情状の話にすぎず、「林受刑者は頭がよく、表現力もあったが、横山被告は口下手で、どちらかというと表現能力は乏しいとみられる」「反省の気持ちを態度に示せたかというあやふやな基準で、死刑と無期という天と地ほどの差が生じていることには疑問だ」と述べた117。開業医の息子で慶應中等部から慶應大学医学部に進んだ心臓外科医で、ともに出家して逮捕された妻も医師で著名デザイナーの姪だった林郁夫は、昨今の表現を用いるならば何かと配慮される「上級国民」であろう。

トゥー名誉教授は、量刑の差を「運」とみなす118。彼は、土谷正実は松本サリン事件では用途を知らずサリンを作成したとして死刑にならなかったのに、地下鉄サリン事件では村井秀夫(故人)にサリン製造を命じられた遠藤誠一中川智正が2人とも化学者でないため土谷に質問に行き、人の良い土谷が丁寧に教えたために死刑になったと驚いている119

(9)死刑制度の是非

死刑を支持する世論のひとつには、被害者の処罰感情がある。6日の7人の死刑執行後に、公証役場事務長監禁致死事件で父を亡くした假谷実さんは、「死刑という命で償う刑罰が適切と考えていた。執行されて安心感がある120と述べた。地下鉄サリン事件で夫を亡くした「地下鉄サリン事件被害者の会」代表世話人の高橋シズヱさんは、「麻原(松本)の執行は当然」「事件から23年以上かかり、(その間に)亡くなった人のことを考えると、執行のニュースを聞くことができなかったのは残念だったろう」と会見で話した121

一方で殺害された坂本堤弁護士の母・さちよさんは、「私も麻原(松本)は死刑になるべき人だと思うけれど、他方では、たとえ死刑ということであっても、人の命を奪うことは嫌だなあという気持ちもあります」と複雑な心境を吐露した122

松本サリン事件の被害者で冤罪被害者になりかけた河野義行さんは26日、死刑囚について「私はすでにすべての人を許している。(死刑囚13人のうち)4人とは面会し123、親しみを覚えていたので、悲しいという感情が出てきた」と会見で述べた124。河野さんは、「恨んだり憎んだりするという行為は現実には、夜も眠れなくなるほどの途方もない精神的エネルギーを要するものです。しかも何もいいことがない。不幸のうえに不幸を自分で重ねていく行為なのです。そんなことをあえて自分から選ぶ必要はないでしょう125という考えだ。恨みたい気持ちは理解できるというが、「人は間違うという前提があるのに、死刑制度が維持され続けているというのは命軽視だ」126と訴えた。

今回、この事件について書くにあたって多くの資料を読んだが、各資料で事実関係に齟齬がみられ、取捨選択が非常に難しかった。このことから推察すると、異なる証言から事実を認定し、「死刑」という重い判決を下す裁判官の職務には、能力の有無以前に筆者自身には耐えられそうにない。

宗教界からは、死刑執行のたびに声明を発表している真宗大谷派、大本・人類愛善会、「日本カトリック正義と平和協議会」が死刑執行に抗議する声明を発表した。宗教界の死刑に対する考え方や死刑制度の問題については、別の機会に取り上げる。

オウム真理教は解散したが、後継団体の主流派Alepf(アレフ)や「ひかりの輪」「山田らの集団」は存続しており、日本国内に信徒約1650人がいる127。松本の遺骨と遺髪は後継団体の信者の崇拝対象になるとして行方が注視されていたが、2021年7月に最高裁の決定で、妻でも松本が指定したとされる四女でもなく、面会を繰り返した次女に所有権が確定した128。遺骨争いは決着したが、後遺症などに苦しむ被害者たちの救済は滞っている。オウム真理教による一連の事件の被害者ら約1200人はオウム真理教被害者救済法(2008年成立)で後遺症などに応じた給付金を国から受け取っているが、オウム真理教犯罪被害者支援機構がAlephに未払いの賠償金を求めた訴訟で、約10億2000万円の支払いを命じる判決が2020年に最高裁で確定した。しかし、Alephはまだ支払っていない129。死刑執行が終わってもまだオウム真理教が残した課題は山積している。

 


  1. [1]『読売新聞』2018年7月14日
  2. [2]『東京新聞』2018年7月12日
  3. [3]『東京新聞』2018年7月12日
  4. [4]『朝日新聞』2018年9月23日
  5. [5]『産経新聞』2018年7月7日
  6. [6]『朝日新聞』2018年7月7日、『産経新聞』2018年7月27日
  7. [7]『朝日新聞』2018年7月11日。確定判決では、公証役場事務長の死亡時刻は、中川智正死刑囚の証言をもとに「中川がI信者に事務長を絞殺させるため上九一色村に連れてくるよう井上嘉浩に指示する電話をした間の1995年3月1日午前10時45分~11時頃」となっているが、井上は「中川から指示を受けたのは朝8時台か9時台。でなければ、大雪の中を午後に到着できない」と告げ、弁護士は当日の気象情報を確認し、井上の証言が正しいことを確認した。このため弁護士は、事務長の死は、「中川による不適切な行為があり、井上が関与した行為から生じたものではない」という1審の裁判長の指摘が正しい可能性がある、少なくとも中川証言は疑わしいと確信して再審請求をした。2018年5月8日、再審請求に関する第1回「進行協議」が行われ、第2回7月3日には井上の携帯電話の記録の存在(井上の証言が証明された)が認められ、第3回が8月6日に行われるところだった。
    門田隆将・紀藤正樹「オウム事件はまだ終わっていない」『Hanada』2019年4月号、門田隆将『オウム死刑囚 魂の遍歴 井上嘉浩すべての罪はわが身にあり』PHP研究所2018年12月
    ※中川智浩は、トゥー名誉教授に「(事務長は)麻酔剤を多く打ちすぎたことによる過失死でしたね」と聞かれ、「多く注射したのでなく、麻酔の状態が長すぎたのです」「通常の量をつかっていたのですが、麻酔の時間が延びてしまったのです。そのために体内に大量のチオペンタールナトリウムが蓄積し、事務長は副作用が起こりやすい状態となり、そのときに自分がそばにいなかったために亡くなった」と答えている。アンソニー・トゥー『サリン事件死刑囚 中川智正との対話』KADOKAWA2018年7月
    ※林郁夫は、拉致されて上九一色村に連れてこられた事務長にナルコ・インタビュー(麻酔剤を投与したあとのぼんやりとした覚醒状態で、信者である事務長の妹の居場所を知るために質問をした)を行い、血圧、脈、呼吸に異常がないことを確認し、午前9時もしくは9時半ごろ中川に呼吸状態に気を付けるよう注意して事務長の観察・管理を引き継いだ。同日の午後3時か4時ごろ、中川と会ったところ、「尊師からポアするよう指示を受けた。ポアの実行を新しく事件に参加したサマナ(出家信者)にやらせることになった。ポアの手段は塩カリ(塩化カリウム)の注射だ。それで、そのサマナを事務長のところに連れて行ったが、ポアするまでもなく、すでに亡くなっていた」と答えたと記している。林は、「このとき、私が中川に引き継いだ状態から考えて、事務長(本文は実名)がなにもしないのに亡くなったということは不可解だと思ったことを記憶しています」。林郁夫『オウムと私』文藝春秋1998年9月
  8. [8]『産経新聞』2018年7月29日
  9. [9]『産経新聞』2018年7月29日
  10. [10]逢坂誠二「死刑執行の報道に関する質問主意書」衆議院・質問第430号 2018年7月6日提出
    逢坂議員の下記のような質問に対し、政府は「法務省においては、従来から、死刑執行に関する適切な情報管理に格別の配慮を払ってきたものであり、同省として公表する前に死刑執行の事実等を外部に漏らすことはないものと承知している」と答弁したのみで真相解明はなされなかった。
    三 平成三十年七月六日、オウム真理教による一連の事件で死刑が確定した元代表ほかの死刑が執行されたこと、あるいは手続き中であることを法務省の公式発表以前にテレビ各局が報じたことは法務省内部の者が漏らしたのではないか。かかる事実はないのか。
    五 平成三十年七月六日、オウム真理教による一連の事件で死刑が確定した元代表ほかの死刑が執行されたこと、あるいは手続き中であることを法務省の公式発表以前にテレビ各局が報じたことは、国家公務員法第百条第一項でいう「職員は、職務上知ることのできた秘密を漏らしてはならない。その職を退いた後といえども同様とする。」に反する事実が存在しているのではないか。刑の執行にあたり厳粛さが求められる死刑執行にあたり不適切ではないか。
  11. [11]『読売新聞』2018年7月7日
  12. [12]『しんぶん赤旗』2006年9月16日
  13. [13]『毎日新聞』2006年3月28日
  14. [14]『東京新聞』2006年3月12日、『毎日新聞』2006年4月24日
  15. [15]「オウム 真相闇の中」『朝日新聞』2018年7月6日夕刊、「なぜ凶行 闇のまま」『東京新聞』2018年7月6日夕刊
  16. [16]森達也「麻原は生きていた。ならば語らせるべきだった」 『週刊金曜日』2018年7月13日号
  17. [17]『東京新聞』2018年7月6日夕刊
  18. [18]「死刑廃止 - 著名人メッセージ:森達也さん(映画監督)」アムネスティ・インターナショナル公式サイト https://www.amnesty.or.jp/human-rights/topic/death_penalty/moritatsuya.html
  19. [19]青沼陽一郎「教祖と弟子『13人の死刑執行』で闇は残ったか」『サンデー毎日』2018年8月12日
  20. [20]ジャーナリストの藤田庄市も「責任を弟子になすりつけた麻原の法廷発言も明瞭だ」(『仏教タイムス』2018年7月12日)と記している。
  21. [21]高橋シズヱさんインタビュー詳報『東京新聞』2018年8月4日
  22. [22]江川紹子「オウム事件『真相は闇の中』ではない」『Hanada』2018年9月号
  23. [23]江川紹子「オウム事件『真相は闇の中』ではない」『Hanada』2018年9月号
  24. [24]『東京新聞』2018年7月27日
  25. [25]『朝日新聞』2019年2月6日
  26. [26]西田公昭・静岡県立大学大学院助手(当時)がオウム真理教幹部・平田悟被告の公判で証言した定義。『産経新聞』1996年10月23日
  27. [27]『朝日新聞』1996年12月12日夕刊
  28. [28]『仏教タイムス』2006年9月21日
  29. [29]『しんぶん赤旗』2006年9月16日
  30. [30]『読売新聞』2018年7月7日
  31. [31]麻原彰晃『超能力「秘密の開発法」』大和出版1986年3月
  32. [32]門田隆将『オウム死刑囚 魂の遍歴 井上嘉浩すべての罪はわが身にあり』PHP研究所2018年12月
  33. [33]森達也『A3』集英社インターナショナル2010年11月
  34. [34]藤田庄市「オウム真理教事件の源流」井上順孝責任編集・宗教情報リサーチセンター編『情報時代のオウム真理教』春秋社2011年7月。林郁夫も、1997年のハルマゲドンと記している。林郁夫『オウムと私』文藝春秋1998年9月。川村邦光によると、早川紀代秀の公判調書では、ハルマゲドンは「1999年に始まり、2001年から2003年の間に核が使われる」と麻原(松本)が説いたと記している。早川紀代秀・川村邦光『私にとってオウムとは何だったのか』ポプラ社2005年3月。『しんぶん赤旗』1995年4月12日によると、麻原(松本)は、オウム真理教創設直後の1987年7月から「1999年から2003年までに確実に核戦争が起きる」と予言し、“3万人の解脱者を獲得すれば世界を核戦争から救える”と説いていたが、1993年に入ると「97年ハルマゲドンである」とより切迫感を強めるようになる。
  35. [35]藤田庄市「オウム真理教事件の源流」井上順孝責任編集・宗教情報リサーチセンター編『情報時代のオウム真理教』春秋社2011年7月
  36. [36]藤田庄市「オウム真理教事件の源流」井上順孝責任編集・宗教情報リサーチセンター編『情報時代のオウム真理教』春秋社2011年7月
  37. [37]広瀬健一『悔悟 オウム真理教元信徒 広瀬健一の手記』朝日新聞出版2019年3月
  38. [38]『日本経済新聞』2011年11月21日夕刊
  39. [39]『東京新聞』2018年8月4日 高橋シズヱさんの言葉
  40. [40]Richard Danzig、Marc Sageman、Terrance Leighton、Lloyd Hough、結城秀美、小谷瑠以、Zachary M. Hosford「オウム真理教:洞察 ― テロリスト達はいかにして生物・化学兵器を開発したか」2ndEd.※CNASのサイトからダウンロード可能。
  41. [41]『信濃毎日新聞』2018年6月22日
  42. [42]『読売新聞』2004年2月27日夕刊
  43. [43]『しんぶん赤旗』2006年9月16日
  44. [44]『しんぶん赤旗』2006年9月16日で浅見定雄名誉教授は「カルトはなくならない」と述べている。また、『産経新聞』2018年7月30日で、早川紀代秀死刑囚もジャーナリスト・藤田庄市との面会時に「事件は全て麻原の宗教的動機から起きていると、法廷で繰り返してきたが裁判では認められなかった。また(カルト集団による犯罪が)起こりますよ」と述べている。
  45. [45]アンソニー・トゥーによれば、死刑囚の面会は5人に限定されている。アンソニー・トゥー『サリン事件死刑囚 中川智正との対話』KADOKAWA2018年7月
  46. [46]伊東乾『さよなら、サイレント・ネイビー ―地下鉄に乗った同級生』集英社2006年11月
  47. [47]『産経新聞』2018年7月27日
  48. [48]『東京新聞』1999年6月1日
  49. [49]『東京新聞』2007年7月21日
  50. [50]『毎日新聞』1999年9月30日夕刊
  51. [51]『東京新聞』2007年7月21日
  52. [52]『日本経済新聞』2003年5月20日、『読売新聞』2003年5月20日。横山真人はまた、殺人罪で起訴される前に取り調べの検察官から「調書だけ作れば終わる」「絶対に心配ない。教祖の法廷には絶対呼ばれないから」と、白紙調書に署名指印するよう強く促され、初めて調書に署名した、という。横山は「検事さんとけんか別れしてしまうと、また警察官の取り調べに戻され暴力を受けると思った」などと説明した。実際には、横山は松本の法廷に呼ばれた。だが、横山は、ほとんど尋問に答えなかった。『朝日新聞』1997年11月28日
  53. [53]門田隆将『オウム死刑囚 魂の遍歴 井上嘉浩すべての罪はわが身にあり』PHP研究所2018年12月
  54. [54]『文化時報』2018年8月18日
  55. [55]『文化時報』2018年8月18日
  56. [56]門田隆将「オウム死刑囚『井上嘉浩』の獄中手記」『文藝春秋』2014年2月号
  57. [57]『東京新聞』2018年7月27日
  58. [58]『読売新聞』1998年10月23日夕刊
  59. [59]『東京新聞』2018年7月27日
  60. [60]『中日新聞』1999年6月27日
  61. [61]『東京新聞』2001年12月13日
  62. [62]『東京新聞』2006年9月16日
  63. [63]藤田庄市「オウム真理教 土谷正実の軌跡」『週刊仏教タイムス』2011年4月7日
  64. [64]土谷カナ(仮名)「サリン事件被害者の方々に夫に代わってお詫びします」 『創』2019年9月号
  65. [65]『毎日新聞』2011年2月16日
  66. [66]『朝日新聞』2011年11月15日
  67. [67]『現代化学』2016年11月号
    この手記で中川は麻原元代表について「麻原氏」と敬称をつけている。
  68. [68]アンソニー・トゥー『サリン事件死刑囚 中川智正との対話』KADOKAWA2018年7月
  69. [69]アンソニー・トゥー『サリン事件死刑囚 中川智正との対話』KADOKAWA2018年7月
  70. [70]『東京新聞』2018年7月13日
  71. [71]アンソニー・トゥー『サリン事件死刑囚 中川智正との対話』KADOKAWA2018年7月
  72. [72]早川紀代秀・川村邦光『私にとってオウムとは何だったのか』ポプラ社2005年3月
  73. [73]『週刊文春』2008年12月18日
  74. [74]広瀬健一『悔悟 オウム真理教元信徒 広瀬健一の手記』朝日新聞出版2019年3月
    ※手記の初稿は2008年6月25日、2008年10月27日改訂、2009年6月18日再改訂。
    ここでは、再改訂版を使用。
  75. [75]『朝日新聞』2019年3月20日
  76. [76]朝日新聞出版
  77. [77]『毎日新聞』2004年7月9日
  78. [78]『日本経済新聞』2018年7月27日、『毎日新聞』2018年7月27日
  79. [79]『東京新聞』2008年2月16日
  80. [80]アンソニー・トゥー『サリン事件死刑囚 中川智正との対話』KADOKAWA2018年7月
  81. [81]『産経新聞』2007年6月1日
  82. [82]『朝日新聞』2001年11月28日
  83. [83]『読売新聞』2006年3月16日
  84. [84]新實ユリ(仮名)「元オウム夫・新實智光に死刑執行がなされた日」『創』2018年12月号では、今から11年半前に夫と出会ってから「熱中の対象がアレフの修行から夫に代わったため、アレフは辞めてしまいました」と書かれている。また、『創』2019年9月号では、彼女は元オウム信者で2012年に新實智光と獄中結婚後、教団からは脱会したと書かれている。だが、『毎日新聞』2013年12月4日夕刊によると、新實智光死刑囚の妻でアレフ信者の新實**(※本紙では実名)容疑者が2013年6~7月、30代男性に「夫は10人以上を殺した」などとアレフに入信を迫った疑いで逮捕された。また、容疑者の自宅には松本死刑囚の写真が飾られ、水が供えられていた。
  85. [85]『読売新聞』2015年2月19日
  86. [86]『週刊新潮』2019年7月11日
  87. [87]新實ユリ(仮名)「夫が最期を迎えた時にはオウムとは決別していた」『創』2019年9月号
  88. [88]『週刊新潮』2019年7月11日
  89. [89]新實ユリ(仮名)「夫が最期を迎えた時にはオウムとは決別していた」『創』2019年9月号
  90. [90]『週刊新潮』2019年7月11日
  91. [91]『週刊朝日』2015年3月27日
  92. [92]『東京新聞』2018年8月27日
  93. [93]『文藝春秋』1998年7月号に手記が掲載され、その後、単行本( 林郁夫『オウムと私』文藝春秋1998年9月)が出版された。
  94. [94]林郁夫『オウムと私』文藝春秋1998年9月
  95. [95]『中外日報』2000年9月5日
  96. [96]『中外日報』(2000年9月5日)掲載の 仏プロテスタント同盟のド・クレルモン議長のコメント。フランスで2001年6月に公布された反セクト(カルト)法の成立前には、“マインドコントロール罪”が含まれるとして、マインドコントロールについての議論が沸騰した。だが最終的には、「無知並びに脆弱性に付け込んだ不法侵害罪」として条文に盛り込まれた。参考:中島宏「フランスのセクト​規制法――敵対か? 受容か?――」『宗教法』23号、2004年
  97. [97]日本脱カルト協会 「カルト問題Q&A」http://www.jscpr.org/qanda
  98. [98]成瀬雅春『瞑想法の極意で開く 精神世界の扉』BABジャパン2007年7月
  99. [99]『朝日新聞』2018年7月7日
  100. [100]文化庁の林田英樹次長の発言『東京新聞』1995年4月4日
  101. [101]宗教法人法改正1995年12月、1996年9月施行。改正のポイントは、ほかに①都道府県をまたがって活動する宗教法人の所轄は文部大臣、②所轄庁への財務書類の提出義務など。
  102. [102]宗教学者の島田裕巳(1995年11月当時、日本女子大学教授だったが、オウム擁護批判を浴びて退職)は、オウム真理教は「仏教の伝統を正しく受け継いでいる」(『週刊朝日』1991年10月11日号)など擁護発言を繰り返し、『宝島30』(1995年3月号)ではサリン製造施設を見学して「宗教施設であることはまちがいなかった」「オウム真理教はこの4年間の間により宗教教団らしい集団に発展してきた」と述べた(『しんぶん赤旗』1995年5月9日)。だが、『新潮45』(1995年6月号)では、「私はオウムに騙されていた」というタイトルで、「宗教団体は、いつの間にか世界最強のテロリスト集団に変貌していた」「もちろんこれまで推測してきたように、教祖を無視するかたちで裏の顔が教団を動かし、暴力団やテロリストを思わせる事件を起こしてきたのかもしれないが、彼らにつけこまれた責任はやはり教祖が負うべきであろう。(中略)お布施として入ってきた巨額の金が、化学プラントの建設など宗教とは無関係のことに使われることを許してしまった責任がある」など宗教とは別物と述べた。1995年5月17日『京都新聞』掲載の宗教教団・宗派アンケートでは、浄土真宗本願寺派の「学校や家庭で宗教教育が行われておらず、本物の宗教と偽物との区別がつかなかったのだと思う」東寺真言宗の「宗教的眼をもって見れば、これは宗教団体ではない」臨済宗大徳寺派の「オウム真理教を宗教教団とみることには強い抵抗を覚える」などの回答がみられる。
  103. [103]高尾利数「宗教だから起きたオウム事件 本来の『神秘』誠実に探求を」『朝日新聞』1995年7月20日
  104. [104]アンソニー・トゥー『サリン事件死刑囚 中川智正との対話』KADOKAWA2018年7月
  105. [105]アンソニー・トゥー『サリン事件死刑囚 中川智正との対話』KADOKAWA2018年7月
  106. [106]藤原新也『黄泉の犬』文藝春秋2006年10月
  107. [107]※のちに新潟県でも水俣病が発生。新潟水俣病については昭和電工(株)の工場から排出されたメチル水銀化合物が原因。
    環境省環境保健部環境安全課編・発行「水俣病の教訓と日本の水銀対策」2013年9月「水俣病の発生・症候」熊本県公式サイトhttps://www.pref.kumamoto.jp/soshiki/47/1707.html
    熊本県環境生活部・水俣病保健課『水俣の経験を未来へ』2014年度
    熊本県「令和元年度(2019年度)版(平成30年度(2018年度)のまとめ) 熊本の環境~環境白書~」
  108. [108]環境省環境保健部環境安全課編・発行「水俣病の教訓と日本の水銀対策」2013年9月是枝裕和『しかし…―ある福祉高級官僚 死への軌跡』あけび書房 1992年12月
  109. [109]1990年12月5日、水俣病和解交渉の国側責任者だった環境庁企画調整局長が自殺。
    是枝裕和『しかし…―ある福祉高級官僚 死への軌跡』あけび書房 1992年12月
  110. [110]佐木隆三「政治犯罪としてのオウム事件」『東京新聞』1995年9月13日夕刊
  111. [111]『日本経済新聞』2011年12月29日。
    ※毎日新聞の警視庁付記者によると2012年初めに執行する予定だった。アンソニー・トゥー『サリン事件死刑囚 中川智正との対話』KADOKAWA2018年7月 
  112. [112] 内閣府「基本的法制度に関する世論調査」2019年度 「死刑もやむを得ない」は80.8%で前回(2014年)調査より0.5ポイント増加。5年に1度実施しているが、4回連続で8割を超えた。
  113. [113]『神戸新聞』1998年7月7日
  114. [114]林郁夫を尋問した元警察官・稲富功によると、林は「全貌を話した」のではなく「たくさん話したのは事実だが、本当のこと、そうでないことも玉石混淆として喋った」と語っている。アンソニー・トゥー『サリン事件死刑囚 中川智正との対話』KADOKAWA2018年7月
  115. [115]中川は、岡崎は評判が悪く、林郁夫はコミュニケーション能力が高く、横山は口下手と評した。アンソニー・トゥー『サリン事件死刑囚 中川智正との対話』KADOKAWA2018年7月
  116. [116]『毎日新聞』2018年7月24日
  117. [117]『中日新聞』1999年9月30日夕刊
  118. [118]アンソニー・トゥー『サリン事件死刑囚 中川智正との対話』KADOKAWA2018年7月
  119. [119] アンソニー・トゥー『サリン事件死刑囚 中川智正との対話』KADOKAWA2018年7月
  120. [120]『毎日新聞』2018年7月7日
  121. [121]『朝日新聞』2018年7月6日夕刊
  122. [122]「坂本弁護士の母「終わったね。安らかにね」コメント全文」朝日新聞デジタル2018年7月6日https://www.asahi.com/articles/ASL764RXRL76UTIL02P.html
  123. [123]河野さんは、アレフ広報部長から「直接お詫びをしたい」という連絡があり、「その人達の気持ちが軽くなるならば、それでよい」と、2009年から2011年にかけて、井上嘉浩、中川智正、新實智光、遠藤誠一と面会をした。新實とは2回、他の3人とは1回。
    『創』2018年9月号
  124. [124]『信濃毎日新聞』2018年7月27日
  125. [125]『朝日新聞』2019年8月3日
  126. [126]『信濃毎日新聞』2018年7月27日
  127. [127]公安調査庁「国際テロリズム要覧2020」オウム真理教http://www.moj.go.jp/psia/ITH/organizations/ES_E-asia_oce/aum.html
  128. [128]『朝日新聞』2021年7月6日 ※執行直前に係員が本人の意向を確認した際に「四女」と答えたとされるが、松本の次女や三女、妻ら3つのグループが所有権を巡って争い、東京家裁は意思疎通の難しかった松本の状態からすると「確定的な意思表示だったとみるのは困難」で、面会を繰り返した次女側との関係が「最も親和的」と判断し、東京高裁も支持した。
  129. [129]読売新聞オンラインhttps://www.yomiuri.co.jp/national/20210717-OYT1T50302/ 2021年7月18日