研究員レポート
2012/11/01
「世界の宗教事情」は、文字通り、世界のさまざまな国や地域ごとに、宗教・文化について、現地に住む人の視点で、リアリティ豊かに語っていただく試みです。研究者やその卵、現地駐在の方など、さまざまな方のお話を、宗教情報センターでとりまとめました。
世界の宗教事情 フランス編 |
こころと社会 |
前回のレポート( 「第一回:パリで復活祭を迎えて――街中編――」 )では、復活祭を控えたフランスのパリを舞台に、街の様子などについて報告を行った。今回は、フランスのカトリック教徒にとっての復活祭について、参加したミサの内容をふまえて報告する。
1.復活祭のミサ
【写真1:復活祭のミサと洗礼式が行われたパリミッション会(パリ外国宣教会)の聖堂】 |
4月8日の復活祭を前にして、その前日(7日)の夜21時からパリミッション会(パリ外国宣教会)の聖堂にて行われる前夜祭のミサに参加した。この前夜祭のミサこそが復活祭のミサにあたる[1]。ユダヤ人の日の数え方である、日没後に新しい一日が始まるという考え(午前零時からではなく)に由来しているのだ。 復活祭は春分の後の満月の日曜日に行われる[2]。一般的なイメージとして、キリスト教徒における一番大事な祝日はクリスマスだと思われるかもしれない。しかし、キリスト教徒にとって、実は復活祭はそれよりも重要な行事として位置づけられている。 |
【写真2:ミサの前にゲートでともされたロウソクの火】 アルファとオメガと書かれたロウソクの火は、キリストにより復活させられた命の象徴である。そしてその後に、1人ずつロウソクの火をもらい、教会内に入って行く。この火を貰う事は永遠の命に与(あずか)ることを意味する。 |
<湯沢さん>
復活祭とは、灰の水曜日[3]からおおよそ46日間後に行われる「洗礼を授ける日」を指します。またこの期間は、洗礼志願者にとって洗礼を授かるための準備期間となります。
この4月7日の夜に行われるミサは洗礼志願者の為の儀式であり、司祭が悪霊払いをして、「悪霊の支配を退けますか?」と問うた後に「神を信じますか?」[4]と問う儀式を行います。そして洗礼を授けられた志願者は、その1週間後の日曜日にあたる「白衣の主日(Dimanche in Albis)」に司教様から「特別な教え」をパリのサン・セヴラン教会で受けます。これはいうなれば信者としての心得のようなものです。それから白衣もしくは白い布を纏い、教会からほど近いノートルダム教会まで練り歩いてミサに参加します。この行程では、自分が洗礼を受けた事を全ての人の前に見せる、つまり、洗礼者にとって「信仰はプライベートなものでないという事を公の場に見せる機会」となります。また他方で、教会にとっては「これだけ多くの人々がキリスト教徒になったという教会の力を示す機会」となります。
<筆者>
ところで、上述したように、洗礼に向かっては、志願者には灰の水曜日から復活祭までの約46日間という準備期間が設けられている。しかしながら実は、志願者はそれ以前に2年間という長い準備期間がある。志願者は、復活祭と白衣の主日という入信日までの秘跡にいたるたどるべき過程として、この2年間を捉えているようだ。
このように洗礼と復活祭とは深く結びついている。では、これらの結びつきの端緒とは、いかなるものか。さらに詳しい話を湯沢さんから伺う事ができた。
【写真3:白衣式はパリのサン・セヴラン教会で】
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【写真4:サン・セヴラン教会その内部】
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<湯沢さん>
使徒のパウロは、洗礼を「キリストとともに死ぬ」と理解しています。キリストは十字架にかけられる前に40日間砂漠で断食をして、苦行をして、悪魔より誘惑を受けました。そのことを四旬節[5]において、洗礼志願者も経験するのです。昔は本当にそのように断食を行いました。また洗礼志願者を見守る人々も、自分たちの洗礼を思い起こすかのように、志願者と同じように実践を行いました。
またイエス自身も洗礼を受けましたが、マタイ福音書の言葉で「(イエスは)私は通らなければいけない洗礼がある」と述べております。それはイエス自身が実際に受けた洗礼とは別に、十字架にかけられた事を指します。この場合の十字架は死を意味します。そしてその「洗礼」、つまりイエスの死を我々は象徴的に経験します。
洗礼はフランス語ではbaptême(バプテーム)という語で表され、元々のギリシャ語では「潜る」という意味になります。今でも大きな浴槽の中に潜って洗礼を行うところもあります。浴槽の中に潜ることによって死を象徴的に経験し、さらにそこから出て来たことで、新しい命が与えられた事になります。この過程が意味することとは、まず古い基盤である自我を捨てて新しい人間になること、さらにはそのような新しく生まれ変わった自分の存在の基盤がキリストになる、という事なのです。パウロの言葉ですが「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」、とありますように、洗礼によって私はキリストの命に与(あずか)るのであり、それは復活でもあるのです。先ほどイエスは「私は通らなければいけない洗礼がある」と告げたと申しましたが、この「通る」という言葉はユダヤ教の「過ぎ越しの祭り」に由来しております。ここでのユダヤ語の「通り過ぎる」という言葉の「pesah・ペサハ」がフランス語を表す復活祭「Pâques・パック」の語源になります。イエスの受難は過ぎ越しの祭りの翌日の出来事であり、キリスト教では復活祭とはユダヤ教の過ぎ越しの祭りの成就であると考えます。つまり、この期間は人が苦しむ機会であり、自分を無にする経験であり、そこから新しい命が生まれる時機となるのです。
【写真5:サン・セヴラン教会からノートルダム寺院まで歩く信者の人々①】 |
【写真6:サン・セヴラン教会からノートルダム寺院まで歩く信者の人々②】 |
<筆者>
新しい人間になる事はキリストの命に与るという意味であるが、では、それ以外の意味はあるのだろうか。新約聖書の中でイエスは死人を生き返らせる話がある(例えば、ラザロを復活させた話など)。洗礼や復活祭における生まれ変わりは、それらとはどのように異なるのであろうか。復活祭の意義をさらに掘り下げて伺ってみた。
<湯沢さん>
イエスはラザロの復活の話が知られているところですが、それらの話はイエスが行った奇跡、つまり前表[6]として理解されます。 これはキリスト生誕の二千年前から存在する旧約聖書での預言を成就した事を意味します。パウロの言葉に依れば「キリストが初穂となった」という表現がなされます。最初に実るものが出てくると全体が実り、そのことによってキリストは決定的に死に打ち勝ったのです。ラザロも生き返ったけど死んでしまうわけです。キリストは死に打ち勝って霊的な体を持つ、その道を拓いたという事です。これが復活祭の意義になります。
2.復活祭のミサを通じて感じたこと
この度、筆者は復活祭のミサとその1週間後行われた白衣の主日を見学し、これら一連の行事について取材してきた。まず、フランスにおいてキリスト教会に若い人たちが戻って来ている、もしくはキリスト教に限らず若い世代のあいだで、信仰を持つ人が増えているような印象を覚えた。というのも以前フランスのプロテスタント系新聞に、イスラームの断食行・ラマダンの記事があり、若い世代が熱心に祈る姿が特集されていた、といったことがあったからだ。
そこで、フランスの若い世代が宗教に関心を持つ、もしくは信仰を求める傾向はもどってきているのか、少し湯沢さんの意見を伺ってみた。
<湯沢さん>
一つ指摘することがあるとすれば、最近ではキリスト教において幼児洗礼を受ける方が次第に少なくなってきているという事です。そして、大人になってから洗礼を受けることが、珍しくはなくなってきたことが挙げられます。
<筆者>
日本の若い世代には、「特定の宗教を信仰する事」に対して偏見がある反面、昨今のスピリチュアル・ブームにより宗教的な現象に注目は集まっているようです。フランスの若い世代は、宗教的な現象をどのように捉えているのでしょうか?
<湯沢さん>
フランスでは世代間の違い、特に若い世代と上の世代の考えの違いが大きいと思われます。
日本でもフランスにおいても、若い世代の宗教離れということが話題には上ると思います。フランスの場合、現在の親世代(中堅世代)とされる68年世代は宗教に反抗した世代でもあります。つまり親の世代がキリスト教に対抗的という事になるのですが、裏返せば対立項としてキリスト教に対する考えを持っているという事でもあります。それらを鑑みた場合、同じキリスト教という一つの共通の基盤から出発している、もしくは参照しているが故に信仰の面での対話は可能であると考えております。
しかしながら、若い世代との対話となると難しくなります。スピリチュアルに興味のある世代も多いです。キリスト教的な基盤の薄い人々もおり、中には、生まれ変わりに興味のある人もいます。一部の人は、生まれ変わることによって業(カルマ)を抜けだすことを願い、他方で、それとは矛盾しない形で星占いなどと両立させて考えているのです。さらに、ともすれば「生まれ変わることで現世の責任を取らなくて済む」という考え方が背景にあるような考え方も耳にします。そのような教義はキリスト教にはないですし、そのような生まれ変わりを重視するのであれば、キリスト教的な道徳が意味をなさなくなります。キリスト教においては「今」、「生きている現在」、そして「肉体」が大事でありますが、そうでなくては、罪の赦し、回心といったものが意味をなさなくなってしまいかねないからです。
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【写真7:教会内のミサの様子】 最初のロウソクの火、そしてミサの洗礼の際の水に重ねて、さらに成人の場合は「堅信」といって油を塗る儀式がある。油を塗られたものはヘブライ語ではメシアと言い、ギリシャ語ではキリストといわれる。昔は全身に塗っていた。昔のローマの古い教会では教会の外にある洗礼堂で明け方まで祈った後、洗礼を授けられ、油を塗られて、日が昇るのと同時に教会に入って行く。というのもキリストが復活したのが日曜日の朝だからである。ミサ中はキリストの復活の箇所を朗読し、音楽、香りなどシンボリックな形でキリストの復活を表現する。 |
3.まとめ
フランスといえば、キリスト教国という印象を一般的には持つかもしれないが、政教分離を支えてきたライシテの長い歴史があり、街中を見渡すとその世俗化された側面も垣間見えるのも事実である。
苦しむ人々の為に祈り、またキリストの復活に希望を抱き、さらに復活を信じて自らの信仰を重ねていく宗教者(人々)が、さまざまな問題を抱える社会や人々に対して今何が出来るのか。筆者にとって復活祭への参加は、そのキリスト教徒の想いの一端を垣間見るようであった。
さいごに、湯沢さんが語ってくれた、かれ自身の復活祭への想いを紹介しておきたい。
<湯沢さん>
私は個人的にどのように復活祭を生きているのかについてお話します。 復活を信じるとは、この世で苦しむ人――シリアで虐殺される市民、アフリカの内乱やテロの犠牲者、または病院で孤独の中に死んでいく人々、パリの路上でうずくまる浮浪者、身体または知的障がい者など――皆、キリストの十字架上の死と復活によって贖われた人々であり、神の子としての尊厳があるのだという信仰にほかなりません。信仰を共にする人々が教会に集い、救いの歴史を思い起こし、キリストの体であるご聖体を頂き、復活を祝い合う「復活祭」は、すべてのキリスト者にとって希望の証しであり、大きな喜びなのです。
【話し手】
・湯沢慎太郎
パリ日本人カトリックセンター信徒代表/パリ・カトリック学院神学部在籍
【参照】
・パリ日本人カトリックセンター
(URL : http://www.paris-catholique-japonais.com/index.html)