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研究員レポート

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こころと社会

宗教情報センターの研究活動の成果や副産物の一部を、研究レポートの形で公開します。
不定期に掲載されます。


2011/12/20

 私たちの同僚、蔵人さんは、機会あってインドネシアに留学しました。彼はイスラームの専門家ではありませんが、文化人類学の視点から、インドネシアでのイスラームの姿の一例として、犠牲祭のフィールドワークを報告してくれました。若き人類学者が見たインドネシアの犠牲祭、ぜひご覧下さい。

インドネシア・ムスリムの犠牲祭の楽しみ方【前篇】
― 供犠から饗食へ ―

こころと社会

蔵人

 イスラーム教の聖地「サウジアラビアのメッカ」にて年に一度だけ行われる「大巡礼」の最終日(Idul Adah)は、世界中のムスリムの人々にとって一年のなかでも大変重要な一日として位置づけられている。巡礼を成し遂げた者が「ハッジ(を成し遂げた)」というムスリムにとって偉大な称号と祝福が与えられることから、インドネシアではレバラン・ハッジ(Lebalan Haji)と呼ばれることもある。巡礼はイスラーム教の信仰行為規則である「五行」の一つであり、ムスリムなら一生のうち誰でも一度は行いたい宗教実践である。しかしながら、身体的または金銭的な理由などあり全てのムスリムがメッカへと行けるわけではない。例えばインドネシアから大巡礼に参加する場合、おおよそ片道30時間をかけ、さらには日本円にして少なくとも20~30万円もの大金を必要とする。そこで「メッカへと巡礼が果たせなかった者もその代わりに雄のヤギやヒツジ、ウシ、バッファローを犠牲として捧げ、この日を祝う」ということである。

 


【写真1:捧げられた動物の解体作業】
 また巡礼の行われるこの日に動物を捧げ祝う由来は『コーラン』の記述に遡ることができる。ほぼ同じ話が『旧約聖書』にあり、『コーラン』はこれを踏まえていると考えられる1。 簡単に紹介すると、神様がアブラハム(イブラヒム)に、わが子を殺して神への捧げ物にできるかと迫る場面があり、そしてアブラハム(とその息子)が実際に その覚悟を示したのをみて、神様はそれでよしとする。そこでアブラハムはかわりにヤギを犠牲にして神様に捧げる、といった内容である。そこで、神様にその信仰のあつさを讃えられたこのエピソードを記念し、さらにそれを思い出し原点に返るために、イスラーム教ではこの巡礼の最後の日に動物を供犠していただくということとなった。さらに供犠として捧げられた動物の肉は、皆で分け合うこと、とりわけ貧しい人々に分け与えることがムスリムにとって重要とされる。ちなみに、このようにムスリムが動物を神様に捧げるために供犠すること(Qurban)2から、この日を日本では一般的に「犠牲祭3」と呼んでいる。
 西暦2011年11月6日(アラビア暦では1432年第12月10日)、例年通りインドネシアでもこの日は犠牲祭が行われた。そこで今回の報告では、バンドゥンのあるムスリム家庭で行われた供犠の様子を中心に、メッカから地理的には最も遠く離れた、しかしムスリム人口世界最大の国であるインドネシアにおいて犠牲祭がどのように行われているのか紹介したい。

 

 なお紙面と内容を鑑み、今回の報告は【前篇】と【後篇】との二本立てにした。今回掲載した【前篇】では、筆者が終日御同行させて頂いたバンドゥンの「あるムスリム家庭の犠牲祭一日の様子を詳細に報告する」内容である。また、【後篇】では「インドネシア・バンドゥンにおける犠牲祭の意義について現地の社会的文脈に即した視点から報告を行う」ものである。【前篇】は、現代の日本においてはなかなか馴染みのない「供犠」とはどういうものなのか?多くの日本の人々にとっては異文化・異宗教であるインドネシア・ムスリム、彼らのあいだで行われる「供犠」という宗教実践に焦点をあて紹介したい。そして【後篇】では、その犠牲祭という日が、インドネシアのムスリムにとってどのような一日であるのか?犠牲祭という日の意義や、現地の人々が抱く想い、また犠牲祭に関わる社会の動きについて、個々の家庭ではなく「現地社会」というより広い視点から報告したい。

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1 なお、『旧約聖書』の中では神に捧げられたこの息子は(後にユダヤ民族の祖となる)イサクとされ、いっぽう『コーラン』の中ではこの息子は(後にアラブ民族の祖になる)イシュマエルとされている点が、両者の相違である。
2 インドネシア語の「qurban」という言葉は、英語では「sacrifice」と訳され、日本語では「犠牲」といった言葉に訳される。しかし 「qurban」という言葉がインドネシアでは同日のそのものを指して使われることから、本稿では訳として「(神に生贄をささげる)供犠」ないしは「犠牲祭」という日本語をあてることにした。
3  以下では、この日を指す言葉について、「犠牲祭」として記述する。


*11月5~6日:犠牲祭前夜から当日のお祈り
 前回報告したレバラン(8月31日)同様、犠牲祭の前夜はタクビラン (Takbiran)と呼ばれ、夜通し「アッラー・アクバル(Allahu Akbar 「アッラーは偉大なり」の意)」という祈りの言葉が街中に響く。バンドゥンは一ヵ月くらい前から本格的な雨期に入っており前回のレバランほど花火が打ち上げられるようなことはなかった。しかしながら、それでもモスクを中心とした賑やかな雰囲気に筆者はなかなか寝付くことが出来なかった。
  犠牲祭当日の朝も前回のレバランのように朝の6時過ぎから特別なお祈り(ソラット・イード)が行われる。そこで、多くのムスリムは5時前後に目覚め、シャワーを浴びて体をきれいにし、お祈り用の伝統的なムスリムの服装に身を包み、最後に自分がお祈りをするためのカーペットを持ち、家族皆でモスクやお祈り会場へと出かけていく。お祈りの順序も概ね前回のレバランと同様である。だいたい6時前後になると人々がモスクに集まり、各々が適当な場所を見つけてはカーペットを広げてそこに坐する。次第に会場が人で埋め尽くされていくと、お祈りに先立ちイスラーム教師(ウラマー)によるイントロダクションのようなお話が始まり、徐々に会場は静かになっていく。そして6時半頃から実際にお祈りがこの日モスクに集った皆で唱和され、その後イスラーム教師によるお話 (Khutbah)が行われた。お祈りが約15分、お話(Khutbah)が約30分、最初の導入のお話20分を併せると全体でおおよそ1時間強であっ た。
 そしてお祈りを終えた人々は家へと帰り、本日のメイン・イベントである供犠(Qurban)の準備を始めるのである。


【写真2:犠牲祭当日、モスクでのお祈りの風景】


*供犠として神様に捧げられる動物、とりわけヒツジのお話し
 ところで10月も半ばを過ぎた頃、たまたま筆者がジャカルタへと用事に向かうハイウェイの途中でトラックの荷台いっぱいに乗せられたヒツジを何度か目にした。翌月に迫った犠牲祭の為のヒツジが都会に向かって出荷されているのであろう。

【写真3:犠牲祭用に出荷されたヒツジ】
 犠牲祭において生贄として神様に捧げられる動物は雄のヒツジやヤギ、ウシ、バッファローとされている。ここインドネシアで生贄とされる動物はヒツジが一般的だが、特に裕福な家庭ではウシやバファローが捧げられることもある。そして犠牲として捧げられる各々の動物については「ヒツジ一匹で一家族分、またウシ一頭では七家族分の供犠が果たされたことになる」という。
 供犠として捧げられる動物は、だいたい農村部で犠牲祭用として飼育され、この時期にいっせいに出荷される。そして飼育場から出荷された後は、郊外の広場や街中の更地に設置された小屋に繋がれ、販売される。ちなみにヒツジは一匹あたりの価格は日本円にして1~1.5万円、ウシになると一頭が十倍近い8~15万円であった。インドネシアの大卒者初月給は平均すると約2万円程度といわれている ため、現地の人々にとっては一番安価なヒツジ一頭ですらなかなかの高い買い物である。
 ちなみにヒツジを供犠する家庭では、まず犠牲祭の概ね1~2週間程度前までに購入を済ませ、その後は売られている広場にそのまま置いてもらう。そして犠牲祭当日ないしは数日前までに取りに行くなどして自宅ないしは供犠を行うモスク近くの広場に運んでくるということである。

 
【写真4:出荷されたヒツジが町の郊外にある広場で売られている様子】
 


1.供犠から饗食へ ― アフマド君(仮名)宅の犠牲祭を中心に ― 
 朝のお祈りを終え、自宅に帰って朝食を済ませたちょうど9時くらい、そこから人々は供犠の準備を始める。以下では「犠牲祭」、なかでもメイン・イベントであるお祈り後に行われる「動物の供犠」それから「饗食の様子」について、筆者がこの度お邪魔したアフマド君ご家庭で行われた内容を中心に紹介していきたい。


*アフマド君のご家庭紹介と供犠の場所について
 まず簡単にアフマド君の家庭環境を簡単に紹介したい。筆者の友人であるアフマド君は現在大学生で、公務員のご両親と一人の妹の四人家族の長男である。ご家族の経済状況としては、ご両親がどちらとも公務員として働くというインドネシアでは比較的裕福な部類に属する。またイスラーム教の信仰状況としても、ご家族の皆さんは毎日5回のお祈りはもちろん、お母さんと妹さんは外出する際にジルバブ(イスラーム教徒のスカーフ)を被るなど、現地バンドゥンにおける一般的なムスリム一家である。
 それでは供犠を行う場所について紹介していきたい。まず人々は自宅や近所の畑に繋いでおいたヒツジないしはウシを取りに行き、その後モスクの広場や自宅の庭の一角で供犠を行う。アフマド君家族はちょうど現在の自宅から少し離れたところに新居を建設中であったため、その工事中の家で供犠を行った。ちなみに供犠を行う場所について、筆者の聞き取り調査によると現地の認識としては「(供犠の場所は)一般的にはなるべくモスクが良いけれど、広い庭のようなスペースがあれば家で行っても大丈夫です」ということであった。この点についてアフマド君によると、「これまでは毎年、近くのモスクへ行って供犠を行ってきた。しかし今回は新しい場所への引っ越しを間近にひかえ、そこで近隣の住民とも仲良くなる機会として新居で供犠を行い、さらに近隣の方に肉を配りたい」ということであった。


*供犠の具体的な過程
 では供犠の具体的な流れについて、アフマド君の新居で行なわれた内容を中心に、以下に述べていきたい。
 まず新居の裏庭にヒツジの首を落とすための土台を近くに落ちている廃材やレンガによって組み立て、同時に首を落とした際に流れる血を溜めておく穴を掘る。それが終わると、近くの畑に縄で繋いでおいたヒツジを裏庭へと運び、先ほど設置した土台の上にヒツジを乗せ、さらにヒツジが身動きをとれないように四足をひもで縛る。こうしてヒツジの首を落とす準備が完了する。ちなみにこのヒツジはアフマド君のお父さんが二週間前に近くの広場で購入したものである。

【写真5:供犠を行う準備】
 さて準備が整ったところで、いざヒツジの首を落とす。まずヒツジの首を固定して、おもむろに懐からナイフを取り出す。それからイスラーム教に則ってコーランの一節を読み上げ、それからヒツジを提供した者の名前を告げて、首を掻き切る(この方法がもっとも犠牲動物にとって苦痛が少ないとされている)。とはいえ首をすっぱり切り落とすのではなく、ちょうど脊髄の部分あたりまでナイフを入れて、残りの3割くらいはそのままにしておく。そして首を切られたヒツジは、しかしながらまだ死に絶えたわけではなく、また血を抜くことも兼ねて、その後も数分間は放置される。その数分間、血を噴き出しながらもがくヒツジは、 屠殺などの現場を見慣れていない筆者にとっては見るに耐えがたいものがあった。見慣れたインドネシア人でさえ、少し目を背むけていた。また現地の人の話によると、「この供犠の際に流れた動物の血は、その大地に恵みをもたらす」ということであった。
 ちなみに四人家族のアフマド君宅では毎年一匹のヒツジを供出しており、昨年はお父さんの名前で、今年はお母さんの名前でヒツジを供犠として捧げた。そして来年はアフマド君の名前で、その次の年は妹さんの名前でなされる。またどれだけお金がなくとも、ムスリムにとって「一生に一度は自分の名前」で動物を供出することが良いとされる。ところでこの供犠の様子について、男性はともかく女性はあまり直接目にはしないようである。アフマド君の妹さんは、これまで自分の名前で数回ヒツジを供出しているのだが、実際に直接ヒツジが供犠される瞬間を目にしたことはこれまでもないという。つまり逆にいえば、必ずしも「供犠において自ら手を下さなくとも良い」ということである。
 ヒツジを木で拵えた竿に括りつけて吊るし、ナイフで丁寧にヒツジの皮を剥いでいく作業が行われる。そしてひとたびヒツジの皮を剥ぎ終えたならば、今度はそこから各部位に沿って肉を切り取っていき、また胃や小腸及び大腸といった内臓はなかのモノを取り除いてから煮沸処理を行う。
 そうして各部位の肉を分配していく。だいたい「三分の一がヒツジを提供した家族」、そして残りの「三分の二が他者、とりわけ貧しい人々」に分配されるということである。はじめに述べたように、この日は「供犠として捧げられた動物の肉を皆で分け合うこと、とりわけ貧しい人々に分け与えることがムスリムにとって重要とされる」のである。ちなみに、ヒツジを供犠するのにおおよそ20分、そして肉の切り出しにおおよそ1.5時間程度を要し、全体の時間としてはだいたい2時間程度であった。

【写真6:木に吊るし、ヒツジの皮を剥いでいく様子】


*饗食の様子
 それでは肉が取り分けられたところで、お昼の12時くらいから食事の準備が始まる。この日、多くのインドネシア・ムスリムの家庭では、自宅の軒先で先ほど供犠したヒツジの肉をメインにバーベキューを行う。ただバーベキューといっても日本と異なる点は、基本的に肉を竹串に刺して、いわゆる焼き鳥ないしは串焼きのようにして調理する点である。したがって、まず肉を親指ほどの一口サイズに切り分け、それから大豆からできたソース(日本の醤油に似たような味)を ベースにピーナッツやコショウ、そして隠し味としてハチミツを加えたタレに漬ける。そうして20分くらい寝かせて肉に味が染みわたったところで、一切れひときれを竹串に刺していく。次に日本のいわゆる七輪のような器に炭を入れて火をおこし、アルミの網をかける。そしていい頃加減のところで、竹串に刺さった肉を置いていく。
【写真7:ヒツジのサテを焼く姿】
 ちなみにこの肉を竹串に刺して焼く食べ物をインドネシアではサテ(sate)という。普段からサテはインドネシアの人々に親しまれている 食べ物であるが、通常はインドネシアでもっともポピュラーな鶏肉で作られている。したがってヒツジないしはウシの肉でサテを食べられるという犠牲祭の日は、インドネシアの人々にとって特別なのである。
 
【写真8:楽しそうにサテを焼きながら食べるアフマド(仮名)君】
 アフマド君宅はヒツジの提供者であるから、ヒツジの解体後さっそく肉の「三分の一」を持ってきて、それから上述した準備を家族みんなで手分けして手際よくこなす。
 そうして時間はだいたい午後1~2時頃、やっとアフマド君の家庭でもサテを焼き始める。だいたい焼き始めてから数分後、煙とともにあまからい大変おいしそうな香りが部屋に漂う。その香りにつられて、家族が焼いている傍に集まってくる。まずアフマド君のお父さんが一番に串を手に取り、熱そうにしながらサテを食べ、それに続いて皆が串を手にして、食べ始める。
 日本ではないからビール片手にとはいかないけれど、そうして皆で楽しいひと時を過ごす。また串焼きには、日本のバーベキューほどバラエティさはなかったけれど、ヒツジの肉の他にも、ソーセージやトウモロコシなどもあわせて焼いて食べた。もちろん筆者もヒツジのサテをおいしく頂いた。だけれど「数時間前に生き生きとしていた、その後首を落とされた、そして親指くらいの肉の塊となった」という肉になるこれまでの過程を見ていたせいか、筆者はサテを口に運ぶのに少し抵抗があった。本音を言うと、ヒツジの首が落とされるという供犠の衝撃と、少しクサみのある食べ慣れないヒツジの肉よりは、マーガリンをたっぷり塗って焼いたトウモロコシの方が筆者にとってはウマかった。


*【前篇】のまとめ
 以上、「朝のお祈り」から「供犠」、そして「饗食」という犠牲祭一日の一連の流れについて、バンドゥンのとある家庭の一日を中心に報告したものである。しかしながらインドネシアのすべての家庭がヒツジをはじめとした供犠する動物を毎年準備できるわけではない。すでに述べたように、もっとも安価なヒツジでさえインドネシアの大卒者初月給の半分くらいの値段がつけられるのだ。
 したがって【前篇】では、犠牲祭において毎年動物を供出できる裕福な家庭、つまり「三分の一」の肉を食べる、あるいは「三分の二」の肉を他に提供する家庭について報告した。そこで【後篇】では、インドネシアの多くを占める毎年動物を供出できない家庭、あるいは「三分の二」を受け取る人々についての分析から、インドネシアの犠牲祭についてさらなる考察を展開していきたい。

 繰り返すが、この日、ムスリムにとって重要なこととは「供犠として捧げられた動物の肉は、皆で分け合うこと、とりわけ貧しい人々に分け与えること」なのである。

(蔵人)