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研究員レポート

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こころと社会

宗教情報センターの研究活動の成果や副産物の一部を、研究レポートの形で公開します。
不定期に掲載されます。


2010/12/28

臓器移植は身近になったのか

こころと社会

葛西賢太(宗教情報センター研究員)

 名古屋の藤田保健衛生大学にて行われた日本生命倫理学会(2010年11月)に参加し、シンポジウムを企画する機会を得た。また、臓器移植の推進・反対・慎重それぞれの立場の人々に集中してお会いすることができた。私は、臓器移植について賛成も反対もしない立場を意識的にとっており、また、臓器移植のための脳死判定については慎重を期すべきという考えを持っている。今回の学会で、集約されたかたちで脳死臓器移植についてのデータや考えが提示され、特に推進派の諸氏の言葉を直接聞くことができたことは、その背景となる世界観や事実も確認でき、有意義であった。今回の生命倫理学会からみえてきたことは、法律改正で脳死臓器移植が身近になっていくのでは、あるいは少なくとも私たちが判断を求められる事態が増えてくるのでは、という予想である。
 生命倫理をめぐる諸問題について、宗教者に意見を求められることは少なくなかったが、満足のゆく回答をしていくことは容易ではない。仏教やキリスト教やイスラームの開祖の時代は、臓器移植など思いも寄らなかった。現在は、移植や臓器保存のための技術だけでなく拒絶反応をコントロールする技術も進んでいるが、提供者遺族や生体肝移植の臓器提供者や臓器移植の受け手が問題に出会わないわけではない。今後、私たち自身や、私たちの周囲の誰かが、臓器移植の現場に出会う時、私たちはどうあればよいか、それを考える材料を提供したい。(大会プログラムとあわせ、同サイト上の藤山みどり研究員によるレポート「臓器移植法に賛成ですか? 反対ですか?」も参考にして頂きたい。)

「シンポジウム~宗教はいのちをどう語ってきたか

 まず、シンポジウムの構成は以下のとおりである。

 (当日の座長配布資料はここからダウンロードできる。)

宗教は「いのち」をどう語ってきたのか?――近現代における「いのち」観の変遷――


オーガナイザー(座長):葛西賢太(宗教情報センター)、島薗進(東京大学)

 

シンポジスト:

1.金子昭  (天理大学おやさと研究所)「新宗教の『いのち』観―その深められた現世救済と生命倫理への関わりを問う―」

2.土井健司 (NCC宗教研究所・関西学院大学神学部)「キリスト教における生命至上主義批判とQOLの概念」

3.新田智通 (武蔵野大学仏教研究所)「真宗大谷派における「いのち」をめぐる言説と生命至上主義」

 

 この内容については、「生命倫理学会ニュースレター」が2011年の春には刊行される予定であり、またシンポジストからの学会誌『生命倫理』22号への寄稿も検討されているので、詳細はそちらに譲ることにして、シンポジウムのねらいのみかいつまんで紹介する。
 「いのち」の尊厳という価値観は、普遍的に通有され、また人類の歴史を通じて尊重されてきた、とみなされがちである。医療の場をめぐる議論や文部科学省『心のノート』などでもしばしば引き合いに出される。もちろん原則としては重要だ。しかし、宗教的文脈では、殉教や生命の放棄さえも選択されることがあるし、また、「いのち」の尊厳を〈説く必要がなかった〉時代と社会もあった。現在では、このようなことが忘れられ、まるで水戸黄門の印籠のように、持ち出されると反論の余地はないように用いられるようになっている。だか、実際はかなり多様であるし、論じる人の立場によって、「いのち」の、なにが、どのように尊厳であり、どうすればよいのかという判断は大きく変わってくるのではないか。
 このシンポジウムで私たちが目指したのは、「いのち」をめぐる諸宗教の言説・その多様性を、宗教の現場に引き寄せて検討することであった。臓器移植に直結する具体的な指針を提示することではなく、それらを準備するための基礎的な研究である。そうした研究が欠かせないこともずいぶん理解されるようになってきたと思われる。
 80名超の聴衆を迎え、報告者同士の意見交換もあり、諸宗教の言説を確認しつつその意義を問う充実した場となった。基礎研究に近い立場のこのシンポジウムで、諸宗教の臓器移植に対する見解をその場で問うようなやや性急な質問に対して、臓器移植そのものと脳死判定については、諸宗教はそれぞれ区別して意見表明しているとの回答があったことが印象深かった。多くの宗教は、移植という行為自体やそこにある善意は否定しないが、臓器がモノとして扱われる懸念をいだいている。また、脳死判定およびその基準、そして脳死判定にスタートする臓器移植にたいしては、慎重な対応を求めたり、あるいは明確な反対意見を表明しているのだが、仏教界の声は、なかなか臓器移植の実際の現場には届きにくい。質問のおかげで、このことを会場にアピールできたのだ。
 宗教者の声は、どのようにして臓器移植の現場に反映されうるのか。声明の発表というかたちも重要でありまた有意義であろう。だが同時に、個々の当事者の福祉に資するためには、現場に持ち込みうるかたちで提供されることが求められるのではないか (*1)。以下では、臓器移植推進の現状を確認しつつ、この点に即して考えてみたい。

臓器移植の推進の現場に触れる

大会での積極的なアピール

 今回の大会においては、臓器移植の現状について示すことにひとつの力点が置かれていたと思われる。主催者が藤田保健衛生大学の臓器移植再生医学講座ということもあってか、大会長講演、特別講演や3つの大会企画シンポジウムは、いずれも脳死と臓器移植をめぐるテーマであった。
 大会長の杉谷篤氏自身、改正臓器移植法の2010年7月17日施行直後(8月10日)に最初の移植手術(膵臓・腎臓同時移植)を行った外科医でもある。内視鏡手術の実際の術式をもビデオでみせながらの基調講演は情報量の多いものであり、また、前任の九州大学時代から彼が直面してきた批判と献身的な努力についても言及され、一定の共感も覚えさせるものであった。また、息子さんが臓器提供者となった方、腎臓移植を受けた方の体験は、臓器移植が持つ可能性と現状の問題をわかりやすく示すものであった。

臓器移植法改正の事情

 改正臓器移植法は、2009年7月に制定され、一年後の2010年7月に施行された(*2) 。今回の改定の特徴は、
1.    脳死を一律に人の死とみなす
2.    脳死者の家族の承諾だけで脳死判定後の臓器提供を行うことを認める
3.    15歳未満の子供についても、脳死判定後の臓器提供を認める
という三点にある。臓器提供者候補の範囲を大幅に拡張するかたちで進められた。この三点の内容を以下で簡単に述べよう。
 人の死を明確に確認することは難しく、確認できないままでは、臓器を取り出すことはできない。脳死「判定」は、これ以上は回復の見込みがないという状態の一線を引こうとしたものであるが、同時に、回復の見込みがないとわかった時点で、その方の臓器がそのまま「無駄になってしまう」ことを差し止めようとするものである。したがって、1は、臓器提供者候補に対する手続きを開始するための条件のひとつを確保するものであると考えられる。

 臓器提供の意思表示をするドナーカードは、現在は、運転免許証や健康保険証の裏面にも設けられるようになった。ここに明確に「提供しない」の意思表示を本人がした場合を除いては、遺族などを説得すれば、脳死の場合臓器を摘出する可能性がひらかれるということである。これが第二の点にかかわる。
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 第三の点については、たとえば腎臓病の小児に長期間人工透析を続けるのは費用においても身体への負担においても現実的ではないので、現在の小児科では臓器移植をゴールに考えることが多いという。小児の場合、大人の臓器を移植できないこともある。15歳未満の子供からの臓器提供が模索されるゆえんである。法改正にあたっては、15歳未満の子供自身が明確な意志決定をすることの難しさとともに、被虐待児が臓器提供者とされる危険性もあるとの議論があった。
 このような法改正の背景には、臓器の確保が国際的な課題となり、外圧として国内の法整備が求められたともいえよう。日本でなかなか臓器移植手術が難しかったために、海外に滞在してチャンスを待つ患者のエピソードが、テレビドキュメンタリーで扱われたりするのを、ご覧になった人も多いだろう。もちろん、海外にて移植待ちをするということは、その国の移植待ちの人たちと競合することになる。また臓器(そして人身の)売買などを結果としてもたらす状況もある。この課題に取り組むため、2008年の国際移植学会では、自国で死者からの臓器移植体制を整備推進するための取り組みを各国が行うべきであるという「臓器取引と移植ツーリズムに関するイスタンブール宣言」(邦訳、原文はこちら)がまとめられた。また翌年の世界保健機関(WHO)の総会にて加盟国間でこの方針の踏襲が確認された。


自分も関係者となる可能性

 私は、2004年にカリフォルニアで自動車運転免許を取得した際に、届いた免許証に臓器移植提供意志の有無を表示する書類が添付されていて、運転にともなう責任を思い、身震いしたことを記憶している。ちょうど米国で運転免許証に意思表示をする制度ができた直後であった。異国で家族と離れて生活している状況や、緊急時に医学的なやりとりをできる能力への不安などから、右のように、提供意志なしと署名した。
 右の書類にはピンクのシールがあるが、これは、「提供意志なし」の書類を隠されて移植をされたりすることがないための工夫である。ピンクの「donor(提供者)」シールが免許証の顔写真のところに貼っていなければ、移植の意志はないということが示しうるわけだ。気が変わった場合は拒絶の意志をこの書類に示し、また免許証を更新してシールを変えることができる。
 この制度が、6年遅れで日本にも導入されたのが現在だ。

 
  
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臓器移植をめぐるデータ

 さて、このような制度改正を反映して、日本での臓器移植は増えたのか。改正法施行後の8月から、少しずつ移植手術の実施例は現れてきているが、2009年以前の数字と比較して、移植手術は大きく増えた、というほどではない。
101228-03-255x266.jpg  101228-04-253x281.jpg   改正臓器移植法施行後の8月から、脳死下の移植件数が、一桁ではあるが加わっていることに注意(右上図)。総数をみると、ぐっと増えているとは言い難い。表は、日本臓器移植ネットワークのホームページより2010年12月28日ダウンロード。

 日本での臓器移植実施状況のデータをみていただこう。臓器提供のドナー(提供する側)とレシピエント(移植を受ける側)との橋渡しは、移植をする医師ではなく、社団法人日本臓器移植ネットワークが中立的にかつ適合性を判断して行うことになっている。臓器移植ネットワークのホームページのトップには、最近の移植実施状況が掲示されている(*3) 。
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 2010年11月末現在で、移植を希望する人は12,619人。いっぽう、移植を受けた人は241人。実際に移植を受けられる人は約1.7%。とても少ない数字だ。
 この数字は、改正臓器移植法の下で、今後増加するだろうか。もちろん、増加の可能性はある。なぜなら、改正法によって、移植臓器の提供者となる範囲が拡張されたからである。もう一つ、世論調査からは、臓器移植に対する一定の理解と評価が現れていることがうかがわれる。
101228-06-280x365.jpg     脳死後に臓器を「提供したい」という人は、平成14年の内閣府(旧総理府)調査時点で「提供したくない」を上回り、平成20年の時点では「提供したい」人は43.5%に上る(左のグラフ参照)(*4) 。 
 ただその一方で、提供される臓器の数には限界があるのではないかという懸念も小さくない。臓器提供数そのものはぐんぐん増えるわけではない。交通事故等による脳死者は法改正に伴って増えるわけではないし、脳死者(その家族)が実際に提供を同意するかどうかも定かではない。先に挙げた内閣府の世論調査では、意思表示カードの所持率は一割前後であったし、その記入率は平成20年の時点で4.2%であった。個人カードになった健康保険証や運転免許証の裏面が意思表示カードとなっている現在は、所持率はかなり高いであろう。しかし、カードを持ってはいてもそこに記入して意思表示している人の数はまだ多くはない。日本臓器移植ネットワークの2010年ニュースレターによれば、2010年7月16日(改正臓器移植法施行前)の時点で、亡くなられた方が意思表示カード・シールを持っていたという情報が1872件あり、そのうち脳死下臓器提供の意思表示がされていたのは約7割の1306件であったという。この数字をみると、意思表示はまだ「意識の高い少数の人」しか行っていないのではないかとうかがわれる。ここで問うてみたい。この数は、啓発によって大きく増えるようなものであるのか、否か。カードに記入しないのは、ただ「意識が低い」のか、忙しいのか、それとも、意識的あるいは無意識的な抵抗が存在するのか。
101228-07-281x136.jpg       移植の「先進国」である米国の事情は日本のゆくえをみるのに参考になるだろう。移植待ちの人の数は11万人、実際の移植実施数は2万件、提供者は1万3 千~1万4千人程度と見積もられる。「先進国」においても、やはり希望者に追いつかない状況が厳然として存在しているのである(*5)。日本においても、制度として実動した将来も、かなり多くの方が移植を待ちながらも間に合わずになくなっていくという状況が続くであろうと思われる。

移植現場の未整備の問題

 万が一、身内の脳死に直面し、臓器提供するかどうかを判断しなければならない事態が生じたら、とても悩むだろう。実際の提供は、回復困難であることが確認され、医師との相談ののち、臓器移植ネットワークのコーディネータが入った話し合いを踏まえて行われる。しかし、新鮮な臓器の提供という性格上、この話し合いと決断は迅速に行われなければならず、ゆっくりじっくりと考える時間はない(*6)。
 さて、当事者が判断を求められる場で、宗教は有効な働きをすることができるだろうか。教義からひねり出した判断基準だけではなく、未知の事柄を考える枠組みを提供することができるだろうか。
 「愛の行為」「いのちのリレー」という譬えは、説得をするにも思考を停止させるのにも使われる。「いのちの尊厳」をどう読み込むかによって、私たちは臓器提供にすすむ結論も、拒否する結論も導きうる。臓器提供者やその家族にとってはつらい出来事の中で、次善の判断を支援することができれば、それは有効な働きができたと考えられるのではないだろうか。仏教の譬えが許されるのなら、身体にとらわれずに身を捧げる「捨身飼虎」や「月の兎」が語られるだけでなく、仏教には“事実関係を智慧の目で見つめて責任ある判断をしていく”という面もあることを強調しておきたい。
  
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 生命倫理学会では、臓器提供者の家族や、移植を受けた人の話も聞くことができた。また、小児科医や救命救急医の現場からの話や意識調査のデータもあった。全体として受けた印象は、移植医療の最先端の成果は「本当にすごい」けれども、そのあとにはまだ未整備の事柄がたくさん残っている、というものであった。われわれの誰もが関係者になり得るという状況がすでにあるので、判断材料として、私が聞き得たことをいくつかかいつまんで紹介しておきたい。
 当日特別講演を行った神野哲夫氏(脳神経外科医)は、脳死の現行の定義が未だ流動的であり、確定したものとはいえないことを指摘している。あわせて氏が指摘されたのは、脳の機能を回復させるための技術(幹細胞を活用した再生医学や脳幹電気刺激などの方法)の進展を挙げ、脳死が回復不可能な状態といえるのかと疑問を呈していた。現行の、脳死をもって臓器移植を行う方針は、理論上は難点がないわけではないということだ。実際の脳死事例では、そのまま急速に状態が悪化して死に至る場合と、状態が安定している例とがわかれ、両者の判別がなかなか難しいという指摘もあった。
 日本移植学会に所属する移植医は9割以上がドナーカード所持者だが、小児腎臓病学会での会員医師のカード所持率はそれほど高くない(37%)という指摘(星井桜子氏の調査報告)や、小児救急医のなかでわが子が脳死状態になった場合に臓器提供に同意するかという調査には、32%がイエスと答えた、という報告もあった(植田貴也氏)。
 提供する側、あるいはその身内になることは、できれば避けたい。しかしそのような場におかれ、短時間で判断を求められるような状況で、私たちにはなにができるだろうか。宗教的な智慧の有効性もこうした話し合いの場で問われているのではないかと、私には思われたのである。

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*1.2010年6月の「宗教と社会」学会において、筆者は、医師と患者(臓器提供候補者)「遺族」と移植コーディネータとの話し合いの場に、宗教的な価値観を活用しうるかという点からコメントした。コメントは『宗教と社会』17号、2011年6月刊行予定に寄稿済み。
*2.「〔法律〕臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律」『官報』平成21年7月17日、第5115号、2-3頁。
*3.米国の臓器移植ネットワークUNOSでは、先月末ではなく、リアルタイムの(毎日午前2時25分現在での)移植実施状況がトップページに表示されている。米国では2003年に運転免許取得にあわせてドナーカードを持つようになる。
*4. 内閣府(旧総理府)による臓器移植に関するアンケート調査(臓器移植法施行後の平成10年10月、平成12年5月、平成14年7月、平成16年8月、平成18年11月、平成20年9月に実施)した。
*5.美馬達也「死・臓器移植・法」『思想』、1026号、岩波書店、2009年10月、2-5頁。最新の数字で確認(その日の午前2時25分現在のデータが掲載される)すれば、待機数の膨大さが実感されるであろう。
*6.移植の受け手と提供者との橋渡しがどのように行われるかについては、日本臓器移植ネットワークのホームページにわかりやすく図示されている。シンプルに描かれてはいるが一つ一つが重い選択であることを想像してみてほしい。