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研究員レポート

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こころと社会

宗教情報センターの研究活動の成果や副産物の一部を、研究レポートの形で公開します。
不定期に掲載されます。


2010/06/25

以下は、キッペス神父の主宰するカトリック系の終末期のケア研修機関、臨床パストラル教育研究センターの機関誌『スピリチュアルケア』47号、2010年4月10日に寄稿・掲載されたものである。

人の弱さを知る、その先に、スピリチュアリティはある

こころと社会

葛西賢太(宗教情報センター研究員)

平安の祈り

 神さま私にお与えください
 自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを
 変えられるものを変えていく勇気を
 そして二つのものを見分ける賢さを

 スピリチュアルケアについて取り組んでおられる皆さんは、すでになんどかこの「平安の祈り」に触れる機会があったかもしれません。一読しただけで、この祈りが力強いものであることが、とりわけ本誌の読者には実感されるでしょう。
 この祈りは、1943年に、ニューイングランドの小さな教会で、高名な神学者ラインホルト・ニーバーによって唱えられたことが知られています。彼の友人が、ニーバーの許諾を得て聖公会の祈りの本にこの祈りを掲載し、祈りはカードなどで伝えられ、大きく分けて三つのルートで伝えられました。一つは、神学やキリスト教史の伝統の中に伝えられ、神学者の大木英夫氏によって『中央公論』誌に邦訳もされています。第二に、聖公会の祈りの本は、戦場に向かう兵士たちを励ますためのカードになりました。戦場のどうにもならない状況の中で、受け入れざるを得ないことと、変えることができるものを見分け、なんとか正気を保つために、将校たちはたびたびこの祈りを唱え、混戦の中で兵士たちを導き、生還させようとしました。第三に、アルコール依存症者が助け合う団体、アルコホーリクス・アノニマス(以下、AAと略記します)のメンバーに伝えられ、自分がアルコールに屈したことの自覚と、そこからの新しい出発を力づける祈りとして用いられました。この団体を通して、「平安の祈り」は、クリスチャンでない人も含めた世界の人々に知られるようになりました。(高橋義文「ニーバーの『冷静さを求める祈り』」およびAA Grapevine Archiveによる)


スピリチュアリティと道徳を、一度切り離して考える

 私は、アルコール依存症からの回復を目指す団体AAの、歴史とささえあいの研究をしてきた、宗教学者です。
 教会が道徳的見地から禁酒を説く運動には数百年の歴史があります。でも、上で述べたAAはこの禁酒運動ではありません。飲酒の罪を自覚させる宗教的な禁酒運動は、一度も飲まない人にとってはよいのですが、依存して再飲酒してしまった人の罪責感をうまく扱うことができないのです。身体を痛めつけ、周囲に迷惑もかけながらも、飲酒への強力な生理的欲求に苦しむ人は、「罪深い」自らをこの世から消し去るために、間接的な自殺としてもさらに飲みます。この段階では酒は美味どころか、身体が受け付けず嘔吐しながらでも飲まずにはいられないのです。
 AAは、飲酒をめぐる問題を自覚した人が、自分を見つめ直して断酒していく運動です。依存症の自分を見つめることと道徳的課題とを、同じ苦しみを知る依存症者とともに別々に整理することで、変えられることは変えていく道をつけていこうとするのです。
 自分の見つめ直しは、実は、一人ではうまくできません。他人(同じアルコール依存症に苦しむ仲間)のための世話が、からまった状況を手放させます。やがてその世話が、家族や友人や同僚にも自然に広げられるころ、無理な我慢なしに酒を飲まないで済む生活も作られていくのです。こんなAAは、アルコール依存症の困難な治療にもっとも効果のある方法として、『カプラン臨床精神医学テキスト』などの精神医学の標準的な教科書にも載っています。


スピリチュアルなケアのさじ加減

 米国のある調査では、自分の教会と違う教派の人から「スピリチュアルな」ケアを受けて、闘病がつらくなった事例が挙げられます。同じ宗派であっても、ちょっとした宗教観の違いから、そのあとのコミュニケーションがとりにくくなった方もおられるでしょう。
 神仏の存在を実感していればいるほど、自らの苦境や試練がなぜ与えられたのかという苦しみも生じます。医療者やケアワーカーの中には、宗教を巡ってつらい思いや不快な経験をしている人も少なくありませんから、「スピリチュアルなケア」というとそれだけで怪しまれてしまうこともあるでしょう。ですから、スピリチュアリティの問題を避ける、あるいは「信教の自由」として踏み込まずに受け流すケアワーカーは少なくありません。
けれども、ケアに身をゆだねるときには、人間が他人に見せない部分についてさらすわけですから、ケアはそもそもスピリチュアルなものにならざるをえず、またスピリチュアリティが実感できる場ではないでしょうか。


スピリチュアルなケアは完全無敵?

 そんな現代日本において、スピリチュアルなケアに「あえて」取り組むということは、強い信仰を持ちながらその表現については「つつしみ」も持った、猛風を受け流す柳のようなしなやかさが求められることでもあります。そのために力が入ってしまうのでしょうか、パストラルケアや介護をなさるから、疲れを見せてはいけない、という、変な思い込みが感じられることがあります。特にその人が信仰者である場合、タフさは信仰心の証明であり、疲れを見せることは信仰の否定であるかのような。いつも笑顔でポジティブな気持ち、否定的な感情を表に出さない強い人。同僚とはタフさを競い合う。それは、私たちが目指すべき理想でしょうか。
 考えてみていただきたいのです。十字架にかけられたイエスは、十字架の上で苦痛を感じなかったのでしょうか。神の恩寵に浴して随喜にひたっていたのでしょうか。それは幻想でしょう。痛みや疲れを知らないケアワーカーというのは、誤った理想ではないでしょうか。疲れ、悩み、悼み、時に間違いもおかす人としての自分を受け入れ、そして、変えられるものは変える勇気と、変えられないものは受け入れる落ち着きを求めていくのが、人に与えられた課題なのでは? 傷の痛みがなければ、他人の痛みを知ることもできません。痛みは、共感・傾聴の力ともなるでしょう。
 米国でチャプラン(病院付き牧師)に「本当に参ってしまうようなことがあるとき、どうするんですか?」と話を聞いたとき、彼らの答えは、「そんなことはありません!」「神を信じていれば大丈夫!」というものでは、もちろんありませんでした。「そういうとき頼りにできるような同僚をふだんから押さえておくのがポイントかな」というものでした。タフさで信仰の強さをはかるのではなく、頼りにできる仲間を作り、また自分も頼りにしてもらえるように励む、聖書でいう「地の塩」ってこういうものなのではないかなと思いました。

 ケアする人に痛みの麻痺を求めるような祈りではなく、痛みに気づきながら、それを生かしていく伝統が、世界のさまざまな宗教の中にあります。たとえばサンフランシスコ禅センターに付属するホスピスでは、過去の悲嘆を踏まえて、ケアボランティアのトレーニングをします。こうした伝統は、世界遺産などと同じく、世界的な資産・資源であり、多くの方に知ってもらいたいと思いました。それで、宗教間の壁や宗教の枠を越えた、心の揺れや苦難への最先端の取り組みをみる『現代瞑想論』(春秋社)という本を、この3月に刊行させてもらいました。ご興味のある方は是非お手にとってみてください。

宗教情報センター  葛西賢太