研究員レポート

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こころと社会

宗教情報センターの研究活動の成果や副産物の一部を、研究レポートの形で公開します。
不定期に掲載されます。


2010/06/25

以下は、『中外日報』2009年11月5日号(27360号)に寄稿されたものである。

般若湯からの智慧

こころと社会

葛西賢太(宗教情報センター研究員)

 
酒と宗教のつながり

 「宗教学者として断酒自助会の研究をしている」と自己紹介すると、禁酒運動の研究家で、禁酒主義者に違いない、と思い込まれることが多い。確かに、宗教を背景に禁酒に取り組む人々は多い。しかし、宗教と酒との関係は、もっとさまざまである。
 まず、飲酒によって仲間意識を感じることは、宗教的にも重んじられていた。教義的な意味づけも多様である。キリスト教の中では禁酒主義者はプロテスタントが多い。カトリックは、ミサの中で、キリストの血としてワインを、またキリストの身体としてパンをいただき、キリストが人類の原罪を負って十字架にかけられたと想起する。新旧約の聖書の中では、酔っての愚行は戒められているいっぽう、美酒も含めた人生の享受がたたえられる箇所もある。イスラームでも、聖典コーランには、たとえば天国の描写に、どんなに飲んでも悪酔いしない美酒があると語られている。尊敬されていた人物が悪酔いして大切なラクダを惨殺してしまう事件で、多くの人の心を傷つけたことが、禁酒を定めるきっかけとなった。
 そのいっぽうで、酔う意識に覚醒の意識を対置する近代文明では、禁酒とさまざまなイノベーションが結びついた。有名なブドウジュース『ウェルチ』は、酒を使わないミサを真剣に模索した禁酒主義者の発明である。『中央公論』の前身たる『反省会雑誌』も、最先端の情報や思想を国内外から導入していたが、この反省会とは、西本願寺経営の学校を背景とした禁酒の会である。

酒と宗教

 しかし、私が興味をもってきた断酒自助会は、宗教的理由からの禁酒ではなく、アルコール依存症などで断酒したいと願っている人たちの運動だ(他人の飲酒には頓着しない)。
 断酒がいかに困難か、何度も試みた人たちはよくご存じであろう。無理に我慢して、本人も家族も苦労することもある。
 その断酒自助会の人たちは、全員でシュプレヒコールしたり、壁に禁酒と大書したり、といった方法でやめるのではない。みなで集まって、今の自分自身の姿を見つめて語るという方法を用いる。こんな方法でやめていく力になるとは、ちょっと信じられないだろう。もちろん簡単ではないが、可能なのである。

自分をありのままに見つめる

 アルコール依存になる原因は一つではない。もちろん身体が欲するから飲むのであるが、多くはその背景に、仕事や家庭の問題、また借金などの問題が山積になっていて、そこから目をそらすために飲んでいることがしばしばある。目をそらしている間に、山はどんどん大きくなっていき、依存症も悪化していく。
 依存症者は、借金を抱え込んでいる人に似ている。大量の借金があることは感じているが、恐ろしくて、自分の借金の総額を把握しようとしない。それを整理してやることで、返済の見込みをつけてやると、だらしないと思っていた本人がしっかりすることがよくある。同じように、アルコールや人間関係をめぐって心に引っかかっていることをひとつひとつ洗い出していく。それを受けて誰かがあれこれしろと指示をするわけではない。問題に取り組むのは自分だからだ。この断酒自助会の方法は、医学的にも認められ、精神医学の教科書には必ず載っている。
 この方法、歴史的には、カトリックの告解やプロテスタントの告白など、キリスト教の懺悔の伝統を受けているものなのだが、私たちには四諦八正道をも想起させる。心を観察する正見からスタートし、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定という徳目に取り組んでいくことで、問題や生活が見直され、解決策が形になっていく。四諦八正道、そのものではないか。
 酒を断つ、という結果は同じなのだ。だが、時間をかけて自分を見つめる過程を踏むか、踏まないでがむしゃらな努力だけをするかで、結果が違ってくる。彼らは、自分の弱さを知っているから、やめ続けられるように支え合う。自分を見つめるように導き、それを支える方法は、合理的であり、同時に宗教的な深みもある。流行り言葉でいえば、断酒というのは、実に「スピリチュアル」な行為たりうるのである。これが面白くて、日米で聞き取りを重ねた。

心の広がりをありのままに見つめる

 昨今、飲酒運転や薬物依存が問題になっている。福岡市職員が飲酒運転による事故で三人の幼児を死に至らしめ、懲役二〇年の判決を福岡高裁で受けたことは記憶に新しい。彼がハシゴして相当量の飲酒をしており、その状態でハンドルを握ったことを考えると、懲役二〇年は相応かもしれない。
 しかし私はもう一つの観点を付け加えたい。彼はこれまでも相当飲んでいたはずだし、きっとこれまでも飲酒運転したことがあっただろう。彼はアルコール依存症であったのではないか?周りの人もそれを疑っていたのではないか?誰も彼に治療を勧めなかったのか? 彼の友人や同僚を責める意図はまったくない。アルコール依存症であれば、周囲の警告には腹を立てるばかりで受け入れるのは難しいのが常であるためである。
 そして、もう一つ重要な理由は、アルコール依存症の実際の症状がどのようであるか、私たちはあまり知らないからだ。重度のアルコール依存症は、手の震え、妄想、大量発汗、失禁、記憶喪失などの特徴があきらかになる。しかし、軽度の兆候を正しく捉えることのできる人は、多くないはずだ。たとえば、適当なところで飲酒を切り上げることができなかったり、飲酒の問題を指摘されると腹を立てたり、でも飲み方に罪責感を感じたり、朝に迎え酒を飲まずにいられなかったりといった項目が一つでも該当すれば、アルコール依存症を疑う必要がある(これらはヨーロッパでよく診断に用いられる四項目である)。
 このような例を挙げたのは、読者に参考にしていただければと思うゆえでもあるが、何より私たちが、仏教がもともと卓越した心理学の体系であったことを知っているからだ。釈尊は精神医学をご存じなかったけれども、律や経の中には多様な問題をありのままに見て、ひとつひとつに取り組まれていた姿がある。しかし仏教の心理学、たとえば文献学的な唯識研究は、現代の諸問題に接続して検討されることはない。禅などの瞑想の心理学的・生理学的な研究も、どちらかというと瞑想状態の記録にとどまり、現代の諸問題とは切り離されてきた。

インサイトフル・マインドフルな仏教

 エンゲイジド・ブッディズムという言葉が定着し、仏教界のさまざまな社会貢献の必要が説かれ、試みられている。そこで重視されるのは、利他の心をあらわす四無量心のうち、慈悲の面、いわば仏教的な公共善の面である。私は強調したいのだが、ありのままに心を見つめる仏教の伝統――智慧の伝統――をしっかりと見直したならば、出家僧や在家仏教徒は、優れたボランティア以上のものになり得る。
 仏教は、私たちの日常意識の外側にあるもの(狂気や病理だけではない)についての、多様な経験と知識を積み重ねてきたはずだ。エンゲイジド・ブディズムの実践に、インサイトフルでマインドフルな仏教の伝統もますます広げていただきたい。祈りや瞑想は内向的な弱いものではなく、内側から私たちを支える強さでもあることを、社会に訴えていく責任が仏教徒にはあるのではないか。そう思い、スピリチュアルな断酒の研究を、比較瞑想研究という観点から見直しはじめているところである。

葛西賢太 宗教情報センター