コスモロジーと出会うよろこび【編集部から】
本連載エッセイでは、人類共通の記憶の宝庫ともいうべきコスモロジー(=世界観・宇宙観)の豊かさを武澤秀一先生が探究します。
建築家である先生は、ご著書『空海 塔のコスモロジー』『マンダラの謎を解く』『神社霊場ルーツをめぐる』に見られるように、3次元の存在である建築を歴史・宗教・文化の位相のなかに捉え、塔やマンダラや神社霊場が聖なる力を帯びていく様相を明らかにされてきました。そして今年3月に刊行された新著『伊勢神宮の謎を解く』は、とくに日本の特性を浮かび上がらせていて注目されます。本連載エッセイにあわせて、ぜひごらんください。これからの連載でも、日本列島において育まれてきたわたしたちのこころの特性に、さまざまな場面で気づかせてくれることでしょう。
さあ、コスモロジーに出会う旅に出発することにいたしましょう。わたしたちが無意識の底に置き去りにしてきた大切なものに、今、再び出会うために——。
建築家 武澤秀一のフォトエッセイ 世界遺産を巡る ― 時空を超えて
第5回 アジャンターの仏教窟 vs. エローラのヒンドゥー教窟(上・その1)
石窟とは石窟とはどういうものか、簡単に説明しておきましょう。インドには紀元前2~3世紀――日本列島でいえば弥生時代のころ――からはじまる石窟寺院の伝統がありました。自然の洞窟とは異なり、地上に建つ寺院の内部を、大地をくり抜いて再現したものです。外観的要素としては正面の再現にとどまるのがふつうです。本来、石窟が外界と触れるのがこの面だけですから、自ずとそうなります。人びとは鑿(のみ)と鎚(つち)を手にして果敢に岩盤に挑みました。 まず外観正面を削り出し、次いで高窓や入口といった開口部から奥に向かって作業が始まります。上の方から、天井面、そして梁が削り出され、つづいて下方に向かいます。柱、壁、ストゥーパ(=塔)やリンガ(=シヴァ神の象徴としての男根像)が削り出され、最後に床面に至ります。 造り方からすれば巨大な彫刻ですが、獲得された空間の形と規模、用途からすれば、建築といえます【写真A-1】【写真E-1】。
なぜ石窟という方法がとられたのか?諸説ありますが、恒常性・恒久性をもとめてという理由は、だれしも納得のいくところでしょう。また、適切な運搬手段や建設機械もなかった往時、地上に石造寺院を造るより、石窟のほうが技術的にまだ楽だったというインド人学者の指摘もあります。 さらには、石窟に向いた岩盤が十分にありさえすれば、巨大な空間を獲得することができますので――巨大な鍾乳洞をイメージしてください――、石窟は構造的問題から比較的自由なのです。 しかし、それだけではないように思われます。大地に包まれる安堵感、大地との一体感こそ、地上の寺院にない特質であるといえます。インドの石窟のうち、仏教窟が75%を占めていますが、このことは、石窟という在りかたが仏教によく合っていたことを物語るといえましょう。 仏教窟とヒンドゥー教窟の違い仏教の石窟寺院は、チャイティヤ窟とヴィハーラ窟の組合せからなります。チャイティヤ窟は祠堂(しどう)窟、または塔院(とういん)窟とも呼ばれ、ヴィハーラ窟は僧院窟とも呼ばれます。複数のヴィハーラ窟が1つのチャイティヤ窟をもつーー。これが仏教石窟寺院のはじまりの姿です。チャイティヤ窟はストゥーパ(=塔)をまつります。ストゥーパはチャイティヤとも呼ばれ、とくに窟内にあるものはチャイティヤと呼ばれるのがふつうです。チャイティヤは聖なる礼拝対象物一般を指しますが、そもそもは樹木崇拝に源泉をもっていたとみられています。 この観点に立つとき、チャイティヤは、垂直に立ち上がるユーパ‐ヤシュティ、そしてこれにかぶるチャットラに、より力点を置いた呼称といえるでしょう(部位名称については第2回【図S-2】を参照)。 ヴィハーラ窟は出家僧たちの居住する場です。大きな広間に、寝場所となる多数の僧房が付属します。ベッドだけでなく枕も(!)、石で削り出されています。 ブッダは出家者にたいし、死者を弔うことをせず、ただひたすら修行に励みなさい、ストゥーパをまつることは在世の者に任せなさいと教え諭しました(『ブッダ最後の旅』)。ストゥーパを建造すること、そしてまつることは在世の者たちがおこなうものとされたのです。したがって、寺院内にストゥーパがあらわれるのはブッダ入滅後、かなり後のことでした。 以上のことから、仏教の石窟寺院の形成は、まずはヴィハーラ窟からはじまり、これにチャイティヤ窟が加わる、というプロセスがあったと考えられます。 居住する僧の数が増えるとともにヴィハーラ窟も増えてゆきます。1つのチャイティヤ窟で対応するのがむずかしくなると、チャイティヤ窟がさらに増設される――。こういうプロセスを経て、石窟寺院が拡充されてゆきました。 このような仏教の石窟寺院のありかたは当時、地上に建っていた木造伽藍(がらん)のあり方を直接反映したものとみることができます。 伽藍とは仏教寺院を構成する建物群をいいますが、個々の建物を指す場合もあります。その語源は古代インドのことば、サンガーラーマ。仏教では家族との縁を断って出家し、サンガ、つまり生活共同体を営みながら修行するのが大原則でした。そのための施設がサンガーラーマです。漢語に音訳されて僧伽藍摩(そうがらんま)、これが簡略化されたのが伽藍です。 伽藍は出家僧たちの共同生活の場である僧院からはじまったとみられ、やがてストゥーパ(=塔)が伽藍に導入されるようになりました。同様のプロセスが石窟寺院にも見られたことでしょう。 ヒンドゥー教窟には、仏教のヴィハーラ窟(=僧院窟)に相当するものがありません。なぜなら、ヒンドゥー教には出家の概念はなく、基本的に在世・在俗の宗教だからです。この意味で、ヒンドゥー教は、宗教というよりは、インドの生活習慣や文化伝統の総体といったほうがいいかもしれません。 (ただし後世、エローラではありませんが、修道院のような形態も一部にあらわれました) 二つの石窟群の造営時期アジャンターにおける石窟寺院の造営は前期と後期に分かれます。紀元前2世紀末ころから2世紀初めまで、200年あまりにわたる期間が前期にあたります。その後、造営は長い休止期を迎えました。 ところが五世紀後半に突如再開され、6世紀前半までの短い期間に石窟寺院の造営は驚くべき活況を呈しました。これが後期です。 しかし、これもまた突然に、あっけなく造営が打ち切られてしまいました。資金援助をしていた地方王朝の没落が原因とみられています。 一方のエローラ石窟群は、アジャンターにだいぶ遅れて、6世紀ころからヒンドゥー教窟の開窟がはじまりました。仏教窟は7世紀の造営とみられます。 (ネット上ではエローラ石窟群の造営時期についてさまざまな情報が飛び交っていますが、慎重さがもとめられます) アジャンターでは6世紀前半に造営活動が止まりましたので、このころ、アジャンターと入れ替わるようにしてエローラで開窟がはじまったことになります。距離的にも65キロと近く、職人たちはアジャンターからエローラへと移動したとみられます。 アジャンターでは、5世紀後半に造営された第19窟を探訪します。この窟はアジャンターの後期を代表する石窟のひとつです【図A-2】【写真A-2】【写真A-3】。
エローラでは、第16窟を探訪しましょう。この窟はエローラの最後を飾る最大級の石窟で、その主要部は8世紀後半に造営されました。エロ-ラのみならず、インド石窟の終末期を代表する石窟です【写真E-2】。
ほのかな光に照らし出されたストゥーパ――《アクシス・ムンディ》 (その1)それでは、アジャンター第19窟の中に入りましょう。入口の上に大きく開けられた馬蹄形の高窓(=チャイティヤ窓)から光が入り、石窟内をほんのりと照らしています【写真A-4】【写真A-5】。
薄暗い奥にストゥーパ(=塔)が鎮座しています。もちろん、岩盤から彫り出されたものです【写真A-6】。
すでに見たサーンチーのストゥーパとくらべると、ヒョロリと背が高く、異様なプロポーションを見せています。実際には17メートルほどで、ストゥーパとしてそう高いわけではありませんが(サーンチーのストゥーパの高さは21メートル)、横幅との比でそう見えてしまうのです。同じアジャンター前期の、たとえば第10窟のストゥーパと比べてもきわだっています【写真A-7】。
アジャンター第19窟に戻ります。メ―ディーと呼ばれる高い基壇の上に、半球体というよりむしろ球体に近いアンダがかぶっています(部位名称については第2回【図S-2】)。 その下、基壇の正面にブッダの像が彫り出されています【写真A-8】。
このようにストゥーパが仏像をともなうことはサーンチーでも、アジャンターの前期窟でも見られなかったことです。それらは紀元前後に造営されたものですが、仏教では当初、仏像をつくることを禁じていたからです。 サーンチーのストゥーパでは、ブッダの存在は菩提樹や小さなストゥーパ、あるいは法輪などのレリーフで表現されていました(拙著『空海 塔のコスモロジー』を参照)。 菩提樹の下でブッダは悟りを開きましたので、菩提樹はその象徴であり、ストゥーパのレリーフは涅槃にいたったブッダを、法輪はブッダの説く仏法が世の中に勢いをもって広汎に伝わることを意味します【写真S-8】【写真S-9】。
サーンチーのストゥーパにも仏像が安置されますが、それは後世、5世紀ころとみられます。このアジャンター第19窟の造営とほぼ同時期になります。 サーンチーのストゥーパの東・西・南・北にあるトーラナの正面奥に安置された仏像は中心軸を背に四方に向くものでした。礼拝者は、これら仏像を順次右まわりに巡ることにより、それぞれの仏像を拝します。 一方、アジャンターの第19窟の、チャイティヤ正面に彫り出されたブッダ像は、窟内において著しい正面性があたえられています。ひとはその前に座して瞑想にふけります。 チャイティヤのまわりを列柱回廊が巡っていますので【図A-2】、そのまわりを回ることはおこなわれていたにちがいありませんが、正面に座って瞑想することが優先されていたことはあきらかです。 サーンチーでは回るという動の礼拝作法が、アジャンターでは座して瞑想するという静の礼拝作法が優先されていたのです。 同じ仏教でも、静と動の異なる礼拝法が共存していたことがわかります。 さて第19窟ですが、ストゥーパを垂直につらぬく中心軸(=ユーパ‐ヤシュティ)が分厚い傘(=チャットラ)をともなってグングンと背を伸ばし、ほとんど窟の天井に接触しているかに見えます【写真A-9】【写真A-10】
これはまさにインドのコスモロジーにおいて天と地をつらぬく《アクシス・ムンディ》を体現しています( 《アクシス・ムンディ》 については第3回を参照)。 ストゥーパの半球体は、これも第3回で述べたように、原初の海の深みから浮かび上がってきた土塊が、次第に拡大して出来た「山」でもありました。この山はメール山、あるいは美辞を頭につけてスメール山(=須弥山〔しゅみせん〕)と呼ばれます。 この山を核として世界が形成されたのですから、当然メール山が世界の中心をなすことになります。しかし、メール山はコスモロジーという心の宇宙のなかに聳える山であり、その位置が地理上に特定されることはありませんーー漠然とヒマラヤのあたりを想定しているようではありますが。 (日本の弥山〔みせん〕や妙高山〔みょうこうざん〕は須弥山を意味しますが、もちろん、それらはインドのコスモロジー生成のずっと後になってから、須弥山にあやかって名づけられたものです) 窟に射し込む日の光は大地の中で熱を奪われ、白く塗られたストゥーパは月の光を浴びているかのよう。灼熱の大地において月光は夢の世界を現出させて幻想的です。まさに心の世界に入り込んだような思いがします(アジャンター第19窟について詳しくは拙著『マンダラの謎を解く』を参照)。 |
武澤 秀一(たけざわしゅういち) 1947年群馬県生まれ。建築家/博士(工学・東京大学)。東京大学工学部建築学科卒業。同大学院を中退し、同大学助手をへて建築家として独立。設計活動の傍ら、東京大学、法政大学などで設計教育指導に当たった。20代、30代はヨーロッパ志向がつよかったが、40代に入りインド行脚をはじめる。50代以降は中国、韓国および日本列島各地のフィールドワークを重ねている。著者に、『マンダラの謎を解く』(講談社現代新書)、『空海 塔のコスモロジー』(春秋社)、『法隆寺の謎を解く』(ちくま新書)、『神社霊場 ルーツをめぐる』(光文社新書)、『伊勢神宮の謎を解く——アマテラスと天皇の「発明」』(ちくま新書)などがある。 |