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第17回 2012/07/25

イスラーム社会サウジアラビアの横顔(2)-サウジアラビアの宗教政策


※高尾先生のコラム「イスラーム社会サウジアラビアの横顔」(1)はこちらからご参照ください。

サウジアラビアの宗教界
 前回のコラムでは、サウジアラビアがイスラーム的基準の実践を条件に建国に至ったこと、そしてその条件を履行するためにサウジアラビア政府が様々な政策に取り組んでいる様子を紹介しました。今回はその「イスラーム的基準の実践」を宗教的権威によって保証する立場にある宗教界の活動を通して、同国のイスラーム社会実現の取り組みを瞥見したいと思います。
 さて、「宗教界」とは一体何を指すのでしょうか。宗教と政治が分かちがたく結びついているイメージが強いサウジアラビアにおいても、それは政界や世俗とは別の機関あるいは権威として存在するのでしょうか。前回述べたように、サウジアラビアには他の多くのムスリム社会で確認される神秘主義教団や聖者信仰といった在野の宗教集団、また宗教権威が少なくとも公式には存在しません。国王はというと、憲法に相当する統治基本法や「二聖モスクの守護者」という敬称からうかがえるように、宗教を国是とする同国の治安維持を役割としており、その権威は政治的なものだと言えます。その国王の政治権威を損ねることなく、むしろ支える格好でサウジアラビアには幾つかの宗教権威が存在します。
 まずはウラマー、即ち宗教学者です。国内の、特に専門的な学識によって裏付けられる宗務は幾つかの官庁が担っており、政府の諮問的役割を果たす最高ウラマー委員会はその最上位機関となります。委員長を務めるアブドゥルアズィーズ・アールッシャイフは公式宗教職として国内最高位のイスラーム法国家最高諮問官(大ムフティー)を始めとする重要な宗務職を兼任しており、サウジアラビア宗教界の頂点に立つ存在と言えます。
 ある分野において優れたものとして信頼されているという意味での権威がウラマーだとすると、他の者を服従させる威力という意味での権威に長く該当してきたのは勧善懲悪委員会、通称「宗教警察」です。勧善懲悪委員会はウラマー委員会と同様にサウジアラビアの庁機関の一つであり、その長は大臣等級です。サウジアラビアはこの二種類の宗教権威をいわば飛車角として、イスラーム社会の実現に取り組んでいます。ではこのウラマーと勧善懲悪委員会、どのような活動を行っているのでしょうか。

ウラマーの活動
 まずウラマーですが、「ウラマー」は聖典学や伝承学等の伝統イスラーム諸学を修めた知識人を指す語で、学者に対する尊称として広く、時に曖昧に用いられます。一方で大ムフティーを頂点とするウラマー委員会は厳格なメンバーシップに基づき、2011年12月の時点では委員長を含めた19人のウラマーが委員として登録されています。
 ところでサウジアラビアにおいてイスラームに関する学識の象徴たるこのウラマー委員会、設立は1971年とそう古くはありません。設立前の1960年代、ムハンマド・イブン・イブラーヒームという人物が大ムフティー職を始めとした宗教に関する要職を独占し、政府たる王宮府に対しても様々な提案を行った時期がありました。その反動で1969年に大ムフティー職は一時廃位となり、それに代わってウラマー委員会の設立を始めとした宗教機関の細分化が行なわれたのです。以降は,ウラマーの性格として政府への連携姿勢が強く現れているようにも見られます。
 一方で、ウラマーは市民にとって身近な存在でもあります。現在大ムフティーを務めるアブドゥルアズィーズ・アールッシャイフを例に挙げますと、2011年7月29日付の当地新聞オカーズ紙(6面)が彼への密着取材の結果を次のとおり掲載しています。

【大ムフティーの一日】
○日の出前の礼拝後、人々の質問に答えて(ファトワー)を出す。その後朝食を取り、朝のニュース
 を聞いて、8時にオフィスに行く。
○新聞記事を聞き(筆者注:彼は盲目です)、南中後の礼拝まで電話で人々の質問に回答する。
○南中の後の礼拝の後、昼食を取って夕刻の礼拝までニュースを聞く。夕刻の礼拝後、日没直後
 の礼拝までラジオで人々の質問に回答、教え子の相手をする。
○日没直後の礼拝の後、夕食を取って客人を迎え、講義や議論をしたりする。その後夜の礼拝を
 行なう。
○半時間、クルアーンを暗唱しながら散歩をする。オフィスに戻ったら法裁定に関する人々の質問
 に答え、翌朝に備えて早めに寝る。
○その他、外国の代表団や国内の要人または学生の訪問を受けたり、TVの宗教番組に出演した
 り、金曜礼拝での説教の準備をする等々。

 勿論、日によっては様々な公務が発生しますが、随分と市井への対応に忙しい大臣生活ではないでしょうか。日々の報道ぶりでうかがい知る大ムフティーの声明や活動には、国内外の武装勢力に対する政治上の批判や事案もありますが、少年院入所者の慰問、宗教学校の卒業式や合同結婚式への来賓、家族が夏休みや祭日をどう過ごすかの助言といった具合に、善導役として人々の日常に関わる姿が多く見られます1。「父」と言い表される国王と比べると、大ムフティーはウラマーの語が意味する通り、市民にとって「先生」のような存在と言って良いでしょう。
※アブドゥルアズィーズ大ムフティー。Arab News紙より

勧善懲悪委員会の活動
 勧善懲悪委員会は、外国人が用いる「宗教警察」の呼称からもうかがえるように、警察官を伴った市中でのパトロールがその活動の中心となります。彼らに対して用いられる呼称「ムタウウィウ」は従者、志願者、ボランティアを意味するアラビア語で、神に奉仕して宣教に献身する敬虔な者というニュアンスを含みます。
 ウラマーが人々にとっての「先生」なら、勧善懲悪委員会は同じ「先生」でも生活指導の担当だと考えればしっくり合うかもしれません。彼らの取り締まり対象は、アルコール飲料の密造・密売、女性の服装(肌の露出)や未婚男女の交流、礼拝の不徹底、参詣や儀礼、神秘主義教団の集会等です。その中でも報道ぶりからうかがい知ることができる取り締まり事例は、断食月や巡礼月等の祭事の場合を除けば、女性の服装や未婚男女の交流に関するものが多く、パトロールはショッピング・モールのような多くの人が集まる場所で重点的に行なわれています。
 市民の娯楽を監視するという活動の性格上、ムタウウィウは人々にとって恐怖や嫌悪の対象ともなり、取り締まりの際の恫喝、暴力等を理由に市民から提訴されることもあります。1903年設立という老舗であり、社会の最前線で「イスラーム的規準の実践」に努める委員会に対しては、政界やウラマーから労いの言葉もかけられますが、その中には「市民に忍耐強く接するように」といったムタウウィウを諌めるような意見も多く、同じく社会の「イスラーム的規準の実践」に努めているウラマーと比べると、人々の「憎まれ役」を負っているようにも見えます。
 そうした否定的なイメージの改善を図るため、2012年1月に勧善懲悪委員会の委員長に就任したアブドゥッラティーフ・アールッシャイフは、「我々は悪事を行なうこと無しに悪事を防ぐ」、「(女性の失業問題への取り組みの一環として)女性のメンバーを雇用する」と発言する等、委員会の改革姿勢を積極的にアピール中です。既に実施された具体的な改革として挙げられるのはボランティア・メンバーの廃止です。ボランティアとは、正規メンバーと同様に市中をパトロールして自主的に市民の言動を監視、注意する人々ですが、正規メンバーほどの宗規的素養を必ずしも習得しておらず、また取り締まりを巡っては市民とトラブルを起こすことも少なくありません。正規メンバーでない人がパトロールすることに対しては人々から常々不満の声が上がっており、報道ではボランティア廃止によって新体制を迎えた委員会への評価が市民の間で高まっているという声も耳にします。
※勧善懲悪委員会のアブドゥッラティーフ委員長。筆者撮影。

 一方で据え置きになっているのが、ムタウウィウの取締り対象に偏りが見られる、という批判への対応です。「勧善懲悪」は、聖典クルアーンにも現れるイスラームの基本教義であり、また中世では市場監督、即ち不正な商取引が発生しないよう監視する役割を指す語としても用いられました。しかし先に述べたように、委員会の主な取り締まり対象は特に女性を中心とした若者であり、社会における弱者を目の敵にしているような印象も報道ぶりからは受けることがあります。こうした背景を受けての批判に勧善懲悪委員会が今後具体的にどのような対応を行なうのか、引き続き注視が必要です。2

その他の宗教権威
 以上、サウジアラビアにおける二つの宗教権威の活動を眺めてきました。勿論、サウジアラビアには宗教に関する学識と権威を持った公的な存在が他にもいます。例えば大ムフティー以外のウラマー委員会メンバーの中には日刊紙に定期的にコラム記事を寄稿する等して個別に活躍している人がいます。他の官庁ですと、2012年5月に二聖モスク庁の長官に就任したアブドゥッラフマーン・アッスダイスはマッカの聖モスクの説教師としてその発言内容がしばしば新聞紙面を賑わしていました。またイスラーム事項・寄進・宣教・善導省のサーリフ・ビン・アブドゥルアズィーズ・アールッシャイフ大臣も無視できません。このサーリフ大臣、名字がアブドゥルアズィーズ大ムフティーや勧善懲悪委員会のアブドゥッラティーフ委員長と同じ「アールッシャイフ」です。この名字はサウジアラビア建国理念の思想的祖であるイブン・アブドゥルワッハーブの末裔であることを指しており、1960年代に宗教界を席巻したムハンマド・イブン・イブラーヒームもその一人でした。イブン・アブドゥルワッハーブの系譜が今日の社会においても影響力を持っている様子がうかがえます。
 サウジアラビアにおけるイスラーム社会実現の取り組みにおいて重要な役割を担う宗教権威について紹介してきました。彼らはサウジアラビアの政治、社会、日常といったあらゆる面におけるイスラーム性を保証する立場にあります。しかし多くの場合、それらが直接に社会を変化させるわけではありません。彼らへの信託を否定しない社会の心性が、逆に彼らの権威を保証していると見ることもできるでしょう。

1 実際、人々が大ムフティーに謁見するのは簡単です。リヤド市の大モスク(イマーム・トルキー・モスク)の礼拝に参加すれば、彼の説教を聞き、礼拝後に会うことができます。
2 なお勧善懲悪委員会の歴史については資料の中でもばらつきがあり、いつをその誕生と(何をその祖型と)するかに悩んでおりますが、今年3月に発売された『サウジアラビア王国百科事典』によれば、次のとおりです(注:比較的新しい、逮捕権を巡る問題やボランティアの廃止といった項目には触れられていません)。
1917(1336):四人のウラマーによる政府機関として設立(アブドゥルアズィーズ国王の任命により二名が追加)
1924(1343):メッカ支部設立
1926(1345):メッカを本部とするヒジャーズ(※メッカを含む地方の名称)委員会設立、委員資格と活動要領についての内規制定
1930(1349):情報組織として再編
1936(1355):公安機関として再編
1937(1356):司法機関として30項からなる条項制定。
1952(1372):公安機関から王宮府直属の庁機関として再編。支部が全国展開
1972(1/9/1396):リヤドを本部とする現在の勧善懲悪委員会として確立
※( )内数字はヒジュラ歴

 
付記:
本稿の内容は全て筆者自身の観点に基づくもので、筆者所属の在サウジアラビア日本大使館の意見を何ら代表するものではありません。



※高尾先生のコラム「イスラーム社会サウジアラビアの横顔」(1)はこちらからご参照ください。

 

+ Profile +

高尾賢一郎先生

1978年、三重県松阪市生まれ。現在、同志社大学大学院神学研究科(博士後期課程)に所属する傍ら、在サウジアラビア日本国大使館にて専門調査員という身分で奉職中です。宗教、特にイスラームに関心を持ち、中東地域を中心に調査・研究を続けています。
もう10年以上も前になりますが、フランスの大学(リヨン第3大学)に在籍していた時、北アフリカをルーツとするイスラーム教徒の人々と出会い、初めて宗教イスラームに興味を持ちました。当時のフランス、あるいはEUは、統一通貨の市場流通を迎え、いよいよもって「ヒト・モノ・カネの移動の自由」が果たされるヨーロッパ統合への熱気に満ちていました。また一方で、移民排斥やイスラモフォビア(イスラームへの嫌悪、恐怖症)の主張が高まりを見せ、市民権を持ちながらその統合から除外される存在であるイスラーム教徒の現実が浮き彫りになった時期でした。ヨーロッパにとっての他者同士、私とイスラーム教徒との距離は自然と縮まった面があったかもしれません。
その後、イスラーム社会について学ぶことを決め、シリア・アラブ共和国の首都ダマスカスでスーフィー(神秘主義)教団やイスラーム学者の調査・研究を行いました。シリアを選んだ理由は、アラビア語の方言がそう強くはない、物価が安い、軽犯罪が少ない等の生活面の利点が中心でしたが、振り返れば研究意欲を高める場所として最適でした。と言うのも、シリアを舞台とした研究は考古学、歴史学、現代政治が大半で、現代の宗教事情に関するものはほとんどなく、おこがましくも自身の責任は重いと考えたからです。
それから随分と時間が経ち、今はサウジアラビア王国で調査・研究を行なっています。アラブ、イスラーム圏であることからシリアと同じ中東地域として括られることも多いサウジアラビアですが、その首都リヤドはこれまで中東地域を支配した歴代王朝においては辺境の地であり、ダマスカスとも文化的に異なります。そのリヤドを中心とする今日のサウジアラビアに関しては、湾岸地域の中心国として日本の報道でも取り上げられる機会が多くなっている印象を受けます。しかしどちらかと言えば、世界最大の原油埋蔵量を誇る日本の経済的パートナーとしての話題が中心でしょうか。宗教事情に関心を有する者として、シリアでの調査時と同様、サウジアラビアにおいてもその研究責任は重いと感じている次第です。