文字サイズ: 標準

寄稿コラム


バックナンバー

第16回 2012/06/25

イスラーム社会サウジアラビアの横顔(1)-サウジアラビアの宗教政策

※高尾先生のコラム「イスラーム社会サウジアラビアの横顔」(2)はこちらからご参照ください。

古き新しきサウジアラビア
 2011年9月、サウジアラビア王国が建国記念日を迎えるにあたって、国内のメディアは建国以来同国を統治するサウード王家の努力に惜しみない賛辞を送りました。周辺の中東諸国に政変「アラブの春」が広がった同年、その余波を免れたサウジアラビアにとって平穏無事に建国記念日を迎えたことの意味ははなはだ大きかったように思います。
 マッカとマディーナというイスラームの二大聖地を擁するアラビア半島、サウジアラビアはその半島の大部分を占める国家です。そしてよく知られているように、イスラームの教えの厳格な実践を国是として存立しています。しかし一方でその歴史は1744年以来(連続した歴史を持つ国家としては1902年以来)と新しく、二大聖地を支配してきたウマイヤ朝からオスマン朝に至る歴代のイスラーム王朝とも連続性を持っていません。悠久なるイスラーム文明の精神的中心という顔を持ちながら、同時に新興の国民国家の一つであるサウジアラビア。同国がイスラーム社会たるべくどのような取り組みを行なっているのか、その横顔を今月から二回にわたってお話ししたいと思います。

イスラームによるサウジアラビア建国
 サウジアラビアを語る枕として「厳しいイスラームの国」という言い回しをしばしば見ます。本質的には「厳しいイスラーム」も「厳しくないイスラーム」もありませんが、冒頭に述べたようにサウジアラビアはイスラーム的規準の厳格な施行を条件に建国の思想的後見を得たため、必然的にそうあるべく意識し、努めてきたと言えます。まずはそのサウジアラビアを造った建国時の思想的基礎について簡単に説明します。
 現在のサウジアラビアは第一次王国(1744/5~1818年)、第二次王国(1820~1889年)に次ぐ、アブドゥルアズィーズ国王以来の第三次王国(1902年~)と位置付けられます。第一次王国の始まりは、現在の首都リヤド市の郊外にあるウヤイナ出身のイスラーム学者、ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブ(1703~1791年)と、同じくリヤド市郊外のディライーヤの豪族、ムハンマド・イブン・サウード(1687~1765年)との間に結ばれた1744年の政教盟約に遡ります。その盟約においてイブン・アブドゥルワッハーブは、イスラームの聖典であるクルアーンと預言者ムハンマドの言行であるスンナに悖った偶像崇拝や多神崇拝等を排した宣教、善の命令と悪の禁止、公権力の下でのイスラーム法の施行を求めました。そしてサウード家はそれらを実現する社会を造ることを条件に、「真性」イスラームの旗を掲げてリヤド一帯の覇者となること、また支配地から租税収入に代わって戦利品を得ること等が認められたのです。
            

※ウヤイナにあるイブン・アブドゥルワッハーブの生家(跡、と言って良いでしょう。個人崇拝の類を禁じているからなのか当地では「超」の付く高名な人物の生家であるにもかかわらず何ら特別扱いは無し、野晒しで古代遺跡のようです)。筆者撮影。

 
 イブン・アブドゥルワッハーブの名に因み、今日巷間で「ワッハーブ派」と呼ばれるサウジアラビアのイスラーム言説の中心は、一神教の徹底にあります。彼の著した教学書『一神教の書 Kitab al-Tawhid』は、サウジアラビア以前のリヤド一帯で廟参詣や神木信仰、また御利益祈願といった、偶像崇拝あるいは多神教的な慣習が根付いていたことを示唆しており、イブン・アブドゥルワッハーブにとってのサウジアラビア建国の意義は、それらの悪習を排し、クルアーンとスンナを体現した預言者ムハンマドの時代に倣うことによって神のみを崇拝する一神教世界を確立することにありました。一方で、イブン・サウードにとっての建国意義は「サウジアラビア王国」、即ち「サウード家によるアラビア王朝」の建設です。盟約によってディライーヤ周辺の政・軍・宗務を司る長となったサウード家は、その後二度の撤退を余儀なくされますが、最終的には1902年、アブドゥルアズィーズ・イブン・サウードの時代にリヤドを奪回し、アラビア半島の大半を制圧しました。
 サウジアラビアは、アジア・アフリカ地域で広く見られる聖者廟参詣や預言者生誕祭の禁止、また刑法分野に及ぶ宗教法制度の施行等の点から、他のムスリム(イスラーム教徒)社会と比べても特殊な面を持っています。預言者ムハンマドの時代に倣うということは、その時代以前、即ちイスラーム以前の慣行の否定を指すとともに、その時代以後、即ちイスラーム史の中世の慣行(例えば法学者や神学者、また神秘主義者の権威等)の否定を指します。その点においてサウジアラビアは、中世の伝統が根付くアナトリアや西アジア、北アフリカ、またペルシアとも異なるわけです。これは先述のイブン・アブドゥルワッハーブが求めた徹底した一神教、そして社会におけるイスラーム法の施行が反映された結果と言えるでしょう。1992年にファハド国王が発布した統治基本法(憲法に相当)では、「王国の宗教はイスラームであり、その憲法はクルアーンとスンナである」(第1条)、「王国の統治理念はクルアーンとスンナの教えにより、クルアーンとスンナが本法ならびに王国のすべての法令を支配する」(第7条)、「王国はイスラームの教義を保護し、イスラーム法を適用し、善行を勧め、悪を罰し、イスラームの求める義務を履行する」(第23条)とあります。先述の政教盟約において求められたイブン・アブドゥルワッハーブの理念が今日のサウジアラビアにおいて国家原則として明文化されている様子がうかがえます1

サウジアラビアによるイスラーム政策
 建国史を通してイスラームがサウジアラビアという国を造ったことについて述べました。次は逆の視点で、サウジアラビアがどのようにイスラームを形作っているか、つまりサウジアラビアが国策としてどのようにイスラームを実践しているかについて、官公庁の活動を通して述べたいと思います。
 サウジアラビアには宗務行政を司る省庁が多く存在します。最も広範な役割を担うのがイスラーム事項・寄進・宣教・善導省でしょう。同省は国内のモスクの礼 拝指導者や説教師の選任、イスラーム法に基づいた寄進財の管理を行う他、宗教に関する各種講演やセミナー等を自治体や教育・研究機関と連携して行なってい ます。同じくその名前に宗務担当の性格が表れているのは巡礼省です。これはよく知られているマッカ巡礼に関する業務において主幹となる機関です。そして庁以下の官公庁になると、更に多くの機関が宗務を担います。宗教的背景により義務付けられた喜捨(ザカート)を管理する喜捨・国税庁、マッカとマディーナの二大聖地のモスクを管理する二聖モスク庁、また市中での宗教風紀取締りを行う勧善懲悪委員会等です。これらの機関は制度面やインフラ面、また品行の面からもサウジアラビア社会がイスラームを体現するものとなるよ うに様々な活動を行なっています。

※リヤド国際図書展のイスラーム事項・寄進・宣教・善導省のブース。各国語に翻訳されたクルアーンや教学書を来場者に無料で配布しています。筆者撮影。
 

 さて、以上の機関を含めた多くの官公庁が共同で取り組む宗務といえば、やはりヒジュラ歴(イスラームの太陰暦)の巡礼月に行われるマッカへの聖地巡礼(ハッジ)でしょう。聖地の保護と巡礼者の安全は経済収入の面やイスラームの盟主を称する国家としての矜持の面から、また国王に対して用いられる称号「二聖モスク(マッカの聖モスクとマディーナの預言者モスク)の守護者」の沽券に係わるため、その成功が義務づけられた一大国事となります。それ故巡礼に関する業務には、巡礼省を主幹としつつも他の多くの官庁がその準備・運営にあたります。2011年の巡礼期間を例にとると、まず目立つのはセキュリティ面の努力です。今日では巡礼にあたって事前に許可証の取得を必要としますが、内務省や移民管理局による取り締まりによって巡礼目的以外の聖地侵入や巡礼後の不法滞在の防止が図られています。またその他の犯罪としては、マッカ州と食品薬品庁が偽物の貴金属品や宗教規準に則っていない屠殺肉の販売、及び衛生規準を満たさない食料の販売を取り締まり、動物のペスト検疫も行っています。偽物の貴金属品の取り締まりについては、巡礼者が聖地訪問の思い出に同品を購入するケースが例年多いことを受けての措置であり、巡礼者の信頼を裏切らない努力がなされている様子がうかがえます。
 また巡礼者へのサービスという点では、赤新月社(赤十字社に相当)による病人やけが人の空輸、地元スタッフによる身体障害を持った巡礼者の補助、更には現地語であるアラビア語を解さない巡礼者のための通訳が用意されています。後者のスタッフは無職の若者を中心とし、彼らにとっては経済収入を得るに留まらず、聖地において同胞の信仰実践を助ける、即ち神に奉仕する栄誉に預かる機会となります。信徒の連帯を強める機会である祭事らしい取り組みと言えるでしょう。
 そして以上のような物理的な安全面に加え重要となるのが、正しい巡礼の指導です。巡礼月が近づくと新聞紙面の多くが巡礼作法の記事に割かれ、国内最高の宗教権威である大ムフティー(イスラーム法最高諮問官)は、喫煙や写真撮影、また樹木の伐採や持ち出しといった聖地での禁止事項に触れ、巡礼の意義について見解を述べます。また現地での巡礼指導としては、勧善懲悪委員会が以上の禁止事項が徹底されているかを監視する役割を負う他、巡礼者のキャンプ・サイトを訪問する説教師を 二聖モスク庁が選任し、巡礼者の様々な質問に答えられるよう配慮がなされています(今後は女性の巡礼者のために、女性の訪問説教師が選任されるという計画もあります)。これらは、特別な行状が求められる禁域としての聖地の維持、また義務としてその作法が定められた巡礼の達成という、聖地の保護と巡礼者の安全という面における格別に重要な意味を持っています。




※巡礼する老婆と彼女に連れ添う聖地スタッフ。Saudi Gazette紙より。


 以上簡単にではありますが、イスラーム社会を目指すサウジアラビアの取り組みを政策面から述べてきました。次回コラムでは、これら各種政策に思想的後見を与える宗教学者と、社会の宗教風紀を構成する勧善懲悪委員会から成るサウジアラビア宗教界の活動を通して、同国のイスラーム社会実現への取り組みを眺めてみることにします。




1 ただし「支配地から租税収入に代わって戦利品を得ること」に関してはその限りではありません。特に1920年代のアラビア半島統一の過程でサウード家は一部支配地に課税を行い、そのことは国内の宗教勢力(イフワーンと呼ばれた宣教を使命とする屯田兵)との対立を生みました。サウード家はその対立に勝利しましたが、1992 年発布の統治基本法では「必要性と正当性がある場合を除き、租税公課が課せられることはない。法令に定めのある場合を除き、租税公課の徴収、修正、廃止、免除は認められない」(第20条)と、その方針に曖昧さを残しています。

付記:
本稿の内容は全て筆者自身の観点に基づくもので、筆者所属の在サウジアラビア日本大使館の意見を何ら代表するものではありません。


※高尾先生のコラム「イスラーム社会サウジアラビアの横顔」(2)はこちらからご参照ください。


+ Profile +

高尾賢一郎先生

1978年、三重県松阪市生まれ。現在、同志社大学大学院神学研究科(博士後期課程)に所属する傍ら、在サウジアラビア日本国大使館にて専門調査員という身分で奉職中です。宗教、特にイスラームに関心を持ち、中東地域を中心に調査・研究を続けています。
もう10年以上も前になりますが、フランスの大学(リヨン第3大学)に在籍していた時、北アフリカをルーツとするイスラーム教徒の人々と出会い、初めて宗教イスラームに興味を持ちました。当時のフランス、あるいはEUは、統一通貨の市場流通を迎え、いよいよもって「ヒト・モノ・カネの移動の自由」が果たされるヨーロッパ統合への熱気に満ちていました。また一方で、移民排斥やイスラモフォビア(イスラームへの嫌悪、恐怖症)の主張が高まりを見せ、市民権を持ちながらその統合から除外される存在であるイスラーム教徒の現実が浮き彫りになった時期でした。ヨーロッパにとっての他者同士、私とイスラーム教徒との距離は自然と縮まった面があったかもしれません。
その後、イスラーム社会について学ぶことを決め、シリア・アラブ共和国の首都ダマスカスでスーフィー(神秘主義)教団やイスラーム学者の調査・研究を行いました。シリアを選んだ理由は、アラビア語の方言がそう強くはない、物価が安い、軽犯罪が少ない等の生活面の利点が中心でしたが、振り返れば研究意欲を高める場所として最適でした。と言うのも、シリアを舞台とした研究は考古学、歴史学、現代政治が大半で、現代の宗教事情に関するものはほとんどなく、おこがましくも自身の責任は重いと考えたからです。
それから随分と時間が経ち、今はサウジアラビア王国で調査・研究を行なっています。アラブ、イスラーム圏であることからシリアと同じ中東地域として括られることも多いサウジアラビアですが、その首都リヤドはこれまで中東地域を支配した歴代王朝においては辺境の地であり、ダマスカスとも文化的に異なります。そのリヤドを中心とする今日のサウジアラビアに関しては、湾岸地域の中心国として日本の報道でも取り上げられる機会が多くなっている印象を受けます。しかしどちらかと言えば、世界最大の原油埋蔵量を誇る日本の経済的パートナーとしての話題が中心でしょうか。宗教事情に関心を有する者として、シリアでの調査時と同様、サウジアラビアにおいてもその研究責任は重いと感じている次第です。