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寄稿コラム


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第10回 2011/10/24

「無縁社会」の宗教――絆の創造をめざして

「無縁社会」論をめぐって


  最近、「無縁社会」という言葉をいろんなところで目にしたり、耳にしたりする機会が増えました1 。しかしこの言葉は古くから日本語として使われてきたわけではありません。この新しい言い回しが広く人口に膾炙(かいしゃ)するようになったのは、2010年1月から2月にかけて、NHKのNewsWatch9で、その名も「“無縁社会”ニッポン」とタイトルを付けられたシリーズが放送されたことがきっかけでした。このタイトルに使用された「無縁」の文字は、まずは、いわゆる「無縁仏」や「無縁墓」のように、「誰からも相手にされない死者」をイメージさせるものでした2 。 
  しかし、その後キャンペーンが展開されるなか、「無縁」はむしろ生前から進んででいることが明らかになっていきます。たとえば、65歳以上のお年寄りを中心にひとり暮らしの割合が急増しており、そのなかでも家族や地域社会とつながりの切れた人が増えていること、経済的に安定していないなどの理由で結婚に踏み切れない人が増えており、20年後には男性の生涯未婚率3 が30%に迫るとみられていること、30代や40代の働き盛りの人たちの間で突然「ひきこもり」になるケースが増えていること、「生活の困窮」や「夫婦間のトラブル」などの理由で子どもが置き去りにされるケースが相次いでいることなど、現代の日本では、「血縁」「地縁」「社縁」といった「伝統的な共同体」 が次第に機能しなくなっていて、その結果、孤立する人たちが次々に生み出されている状況が明らかにされていきました。2010年の年末から翌年始にかけて朝日新聞が特集した「孤族の国」もそれに続きました。
  「無縁社会」をめぐる議論の端緒となったジャーナリズムの立場は、基本的に「無縁社会」を否定的に捉えており、その論調には、社会に警鐘を鳴らす目的が顕著にうかがわれます。それに対し、アカデミズムの世界からは、「無縁社会」を近代化(とりわけ都市化と個人主義化)のなかで急激な変化をとげてきた日本社会の歴史の必然ととらえ、むしろ「無縁」を肯定的に評価しようとする動きも出てきています。たとえば、『おひとりさまの老後』(法研、2007年)や『男おひとりさま道』(法研、2009年)などを著した上野千鶴子氏は、ひとりになっても楽しめる老後の生き方を指南していますし、「『無縁社会』を生きるために」というそのものズバリのサブタイトルをもつ『人はひとりで死ぬ』(NHK出版新書、2011年)を書いた島田裕巳氏は、「ひとりで生き、死んでいく」ことを恐れず、十分に生きることを提唱します。この二人によれば、「無縁社会」は、現代人が個人を束縛する「家」や「ムラ」などの「有縁社会」から距離をとって主体的に生きることを求めた必然の結果だということになります。
  さらに、伝統的な社会のなかにも閉鎖された共同体を相対化する「無縁」の場が存在したことを積極的に評価する網野善彦氏や土屋恵一郎氏の論考も見逃せないでしょう。彼らによれば、「無縁」の場では、アイデンティティを保証する物語を全員で共有することで生み出される共同性ではなく、むしろアイデンティティを超えた次元で新しい共同性や公共性が自発的に生み出されるといいます4
  「無縁(社会)」をめぐる以上の議論をイデオロギー的対立軸に沿って整理すると、アカデミズムの議論がリバタリアニズム(上野や島田)やリベラリズム(土屋)の立場に近いのに対し、ジャーナリズムのそれはある種の共同体主義といえるかもしれません。リバタリアニズムが個人の自由を最大限尊重するよう主張し、現代のリベラリズム(自由主義)が自由を保証する社会的公正の尊重を目指すのに対し、共同体主義(コミュニタリアニズム)は個人の自由を認めつつも共同体の価値を重んじます。もっとも、ジャーナリズムのなかには、家族や地域社会が今よりも一体性を感じていた「古きよき時代」への単なる郷愁に過ぎないものも含まれるでしょう。
  このように、否定肯定両面から論じられている「無縁(社会)」ですが、宗教者はこれをどのように受け止めているのでしょう。一般の人びとと同様、宗教団体ないし宗教者の多くも、ジャーナリズムの影響を強く受けており、共同体(とその価値)への回帰を訴える傾向が(とくに伝統宗教の間で)強いようです。しかし、現代社会のさまざまな問題と正面から取り組んでいる宗教者たちの実践からは、異なる視点もうかがえます。

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(1)この言葉は、2010年の流行語大賞のトップテンにもノミネートされました。
(2)取材班によって編まれた『無縁社会』に付されたサブタイトル「“無縁死”三万二千人の衝撃」で用いられた「無縁死」の文字も、誰からも葬ってもらえない、誰からも祀ってもらえない「孤独死」からの連想で、「孤独な死者」をイメージさせます(NHK「無縁社会プロジェクト」取材班編著『無縁社会』日本放送出版協会、2010年)。
(3)50歳の時点で結婚していない人の割合。
(4)網野善彦『無縁・公界・楽――日本中世の自由と平和』平凡社ライブラリー、1996年、
     土屋恵一郎『正義論/自由論――無縁社会日本の正義』岩波書店、1995年。



 

<越境>による無縁=結縁の試み

  「野宿者(ホームレス)」の問題は、現代の「無縁」社会をもっとも鮮明に浮き彫りにしているといえます。あるいは「自死」や「孤独死」、「ひきこもり」や「ニート」などの問題、さらに「DV」や「児童虐待」なども「社会的孤立」すなわち「無縁」と直接関係してきます。これらの問題に日夜かかわっている宗教者たちの間から、逆説的に、「無縁」を現代社会における宗教の存在意義を見直す契機と捉える立場も生まれてきています。すなわち、既存の縁から断ち切られた状態(無縁)は「苦」を伴うものですが、その「苦」を契機として新たな関係が生み出される(結縁(けちえん))可能性を孕むものでもあるというわけです。
  フランス語に、故郷を喪失して根無し草状態になった人びとを指す「デラシネ」という言葉がありますが、既存の縁から切り離された人びとはまさにこのデラシネの状況にあります。それは、困ったとき悩んだとき苦しいときに帰る場所がない、安心して身をまかせる場所がない、という状態です。まさに精神的な「ホームレス」状態です。しかし、別の観点からみれば、このような状態にある人たちは、言葉の真の意味で「自由」といえるかもしれません。つまり、社会的・経済的な意味では「不自由」ということになりますが、自らの生を束縛するものとの葛藤の結果(あるいはそのプロセスにおいて)、今の「無縁」の状態に到達したとすれば、それを契機として、「私」という存在にアイデンティティを与える(押し付ける)枠組みから越境し、既存の関係を超越したより根源的な関係性、人と人とが無条件で向き合う関係性に開かれているということもできるのではないでしょうか。その関係性の帯びる越境性・超越性・根源性・無条件性のゆえに、それは限りなく宗教的なものとなります。
  そのような契機を生み出す可能性に満ちていると思われる事例をいくつか紹介してみましょう。

(1)宗派間(宗教間)の差異の越境(超宗派性)
・「寺ネット・サンガ」 http://teranetsamgha.com/
  大学院でターミナルケアを学んだ中下大樹氏(真宗大谷派住職)が、「生老病死」に関して悩む人たちのためのセーフティネットとして2008年9月に立ち上げたお坊さんたちのネットワークです。
・「支縁のまちサンガ大阪」 http://www.outenin.com/modules/contents/index.jsp?content_id=354
  自らホームレスの経験をもつ川浪剛氏(真宗大谷派住職)を代表として、釜ヶ崎を中心に、社会的困窮者の人びとが尊厳ある葬送を受けられるよう取り組む僧侶たちによって2010年12月に発足しました。
  この二つの事例に共通しているのは、仏教宗派間の境界を越境して協働していこうとする試みです。さらに宗教の違いを乗り越えての活動も見られるようになってきています。

(2)「宗教」の枠の越境(超宗教性)
・「NPO北九州ホームレス支援機構」 http://www.h3.dion.ne.jp/~ettou/npo/
  こちらも名前通りホームレス支援の取組ですが、代表(理事長)の奥田知志氏、副理事長の柴本孝夫氏ともにキリスト教の牧師です。2000年11月にNPO法人の認証を受け、北九州市、および市民とともに実り豊かな活動を幅広く展開中です。
・「大阪希望館」 http://osaka-lsc.jp/kiboukan/
  仕事と住まいを失って路上生活になる一歩手前の若者たちに対し、再出発の方向と方法を一緒に考えられる時間と場所を提供する目的で2009年5月に設立されました。代表幹事のお二人は、山田保夫氏(大阪労働者福祉協議会会長)と松浦悟郎氏(カトリック補佐司教)です。
  この二つの取り組みは、宗教者を中心にしつつも、行政や市民と積極的に連携することで社会的にも広く認知され、活動の幅も広くなっています。「宗教」の枠を越境する試みといえます。

(3)宗教研究の主体と客体の区分の越境
・「宗教者災害支援連絡会」 http://www.indranet.jp/syuenren/
・「宗教者災害救援ネットワーク」 http://www.facebook.com/FBNERJ
  前者は島薗進氏(東京大学大学院教授)、後者は稲場圭信氏(大阪大学大学院准教授) の、ともに宗教研究者が代表を務めています。3月の東日本大震災が起こってすぐ、各地の宗教団体や宗教者の救援・支援活動の情報を素早く提供し、また情報交換の場を準備して、宗教間の協力をより確かなものにしていこうとする活動です。ここでは宗教研究者が積極的に宗教者と連帯して、そのネットワークをともに構築していこうとする姿勢がうかがえることから、宗教研究という営みの主体と客体の区分を越境する試みといえましょう。

(4)「支縁のまちネットワーク」の取り組み
  (※「支縁のまちネットワーク」http://www.shien-no-machi.net/
  日本ではもっぱら閉鎖的で自己完結的とみなされやすい宗教活動ですが、以上のような「越境」の試みも次第に広がっています。筆者が共同代表の一人として参加している「支縁のまちネットワーク」は、上で紹介した3つの次元の越境性をすべて内包した試みといえるでしょう5 。このネットワークは、釜ヶ崎でのホームレス支援活動に従事してきた上述の川浪氏や渡辺順一氏(金光教教師)の、宗教の違いを超えた交流から生まれた集いで、宗教施設や宗教者による「たすけあい」としての「支縁」活動にかかわって、それらのネットワーキングやエンパワーメントを図る目的で今年1月に発足したばかりのゆるやかなネットワーク組織です。金子昭氏(天理大学教授)や白波瀬達也氏(関西学院大学研究員)など研究者も加わって、「宗教者が関わる『支縁』活動の促進と開拓」「行政や他の民間団体との交流と協働」「学術的な調査研究の実施」などを軸に活動を展開しようとしています。
  組織が発足してまもなく発生した震災では、その直後から、宗教者たちの献身的な救援・支援活動が数多く見られました。それらの活動は、物質的なものから精神的なものへと展開しつつあります。そこには、寄り添うことで共に悲しみ共に苦しむ(コンパッション)という、本来宗教者が深く関与してきた「たすけあい=支縁」の精神が見られます。支縁のまちネットワークは、確固たる絆(きずな)や縁(えにし)によって結ばれた人間性豊かなコミュニティの再生を祈り、「支縁」の輪が太く強くなっていくことを願って、7月16日に立正佼成会大阪普門館を会場に「東日本震災復興祈念集会」を開催し、大きな反響を得ることができました 。支縁のまちネットワークは船出したばかりの組織ですが、宗教者と宗教研究者が互いに協働することで、新たな「支縁」の可能性を広げていこうとする試みです。今後の展開を見守っていただければ幸いです。





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(5)「支援」ではなく、あえて「支縁」という言葉を用いています。人と人との心のつながりこそ、今の社会に求められていると信じるからです。

当サイト内の関連記事
・稲場圭信氏   「宗教と社会貢献―宗教的利他主義と思いやりが社会を救う!?」
・白波瀬達也氏 「沖縄におけるキリスト教系NPOのホームレス自立支援事業―親密圏の回復と自立の葛藤」

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宮本要太郎先生

関西大学教授(文学部・比較宗教学専修)
1960年宮崎県出まれ。筑波大学大学院、シカゴ大学大学院などで学ぶ。博士(文学)。新宗教をはじめ民衆宗教に関心を持ち続ける一方で、「物語」の有する宗教的構造についても考察を重ねてきた。現在は、「無縁社会における宗教の可能性」をメインテーマに研究を進めている。聖徳太子についてのさまざまな伝承を比較検討した博士論文、『聖伝の構造に関する宗教学的研究』(大学教育出版)の著書のほか、「聖なる 『家族』の誕生」(荒木美智雄編著『世界の民衆宗教』ミネルヴァ書房)、
「聖なる都市のコスモロジー」
(木岡伸夫編著『都市の風土学』ミネルヴァ書房)などの論文がある。