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宗教情報センターの研究員の研究活動の成果や副産物の一部を、研究レポートの形で公開します。
不定期に掲載されます。


2014/05/26

初歩から考える尊厳死の問題(2)宗教と尊厳死

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藤山みどり(宗教情報センター研究員)

 「初歩から考える尊厳死の問題(1)」では、尊厳死法制化の流れと、尊厳死法制化に対する意見を紹介した。(2)では、尊厳死法制化や尊厳死についての宗教界の考えや取り組みを見ていく。
 
1.尊厳死法制化に対する宗教界の意見
 宗教界は尊厳死法制化や尊厳死について、どのような意見なのだろうか。各教団とも慎重な表現で態度表明しているので、簡便な区分は難しいが、「尊厳死法制化を考える議員連盟(以下、議員連盟)」が2005年11月に法案要綱骨子を発表し、法案を作成し始めたころの2006年1月に読売新聞社が公表した調査への回答[1]や各教団の発行物などを参考に主な教団をあえて分類すると、次のようになる。
 A.法制化に反対・・・大本、臨済宗妙心寺派、崇教真光
 B.法制化には否定的で、尊厳死については個人の判断・・・浄土宗
 C.法制化には態度保留で、尊厳死には反対・・・天理教
 D.法制化には態度保留(検討余地あり)で、尊厳死は否定しない                  
                          ・・・カトリック中央協議会、幸福の科学 
 E.法制化に賛成・・・なし
 F.法制化については個人の判断・・・真言宗豊山派、曹洞宗、日本基督教団  
                                                    ※曹洞宗は、栄養・水分補給の中止は問題とする
 
 2006年当時、「まだ見解がまとまっていない教団が多い」と報じられたが、そのなかで現在までに旗幟を鮮明にしたのは大本のみのようである。当時、真宗大谷派は「背後に『いのちを選別する』意識が働いていないかなどを問うことなく、尊厳死が語られるとすれば問題」と回答し、創価学会は、過剰な延命治療には疑問があるが「必ずしも尊厳死を認めることが最適な解決の道とはいえない。難病患者など弱者への十分は配慮が必須条件」、金光教は、個人の尊厳は尊重されるべきだが“経済的な理由等で心ならずも通常の延命治療を中止するケースはいのちの軽視につながるので慎重な検討を“と答えるなど、法制化への要望は多く示された。この間、浄土真宗本願寺派、日本宗教連盟や新日本宗教団体連合会(新宗連)がシンポジウム等を開催し、法制化が拙速に進められないよう要望する「『尊厳死の法制化』に関する意見書」を新宗連が議員連盟に提出したものの、宗教界が尊厳死について議論を十分に喚起したとは言えない状況のまま、法制化が迫っている。
 
(1)法制化や尊厳死に否定的な教団
 では、法制化や尊厳死について見解を表明した教団の意見を見てみよう。
 大本(人類愛善会)は、2012年春に「『尊厳死』法制化反対」という声明を発表した[2]。反対理由として「患者の意思表示や医療側の判断が適正に行われない可能性がある」「マニュアル化され、医療側に『尊厳死』判断を委ねるケースが増える」という2点を挙げる。教義のうえで「理想世界(みろくの世)になれば、人間の寿命は長くなる」とされているので長寿社会は喜ぶべきと訴える。そもそも人間は「授けられた、あるいは与えられた生命を生きている。自己決定権として、人間の終期や終わり方を選択できると考えるのは、自殺する権利を認めるのに等しく、人間の思い上がりもはなはだしい」と自己決定権を根拠にした尊厳死に反対する。
 臨済宗妙心寺派は、四大五蘊(しだいごおん=身体と精神の構成要素)の縁が去り、消滅することが人の死という教義から、「作為的な延命装置の打ち切りには賛成できない」と尊厳死への反対から、法制化にも反対する。崇教真光は、「法律的判断で生命の尊厳を歪めないよう慎重を期すべき」と法制化に反対を表明した[3]
 浄土宗(浄土宗総合研究所)は、法制化した場合に障害者や高齢者に「尊厳死」を強要することになりかねないとして、「いのちの尊厳」を守る立場から「尊厳死は法によって制度化されるべきでも、また法によって規制されるべきものでもない」と否定的である。一方、宗祖・法然が「どのような死に方でも日ごろの念仏に応じて阿弥陀仏が来迎する」と説いていることから、尊厳死は否定されていないとする。このことから、尊厳死もリビング・ウイルも、個人の判断に委ねるとする。ただし、患者が自分自身の場合と家族の場合とでは往々にして考え方が異なるうえ、希望の死に方は「周囲の理解と支援があってはじめて実現できるもの」で、大切なのは「尊厳死」にこだわらず、どのような形で死が訪れようとも大丈夫だという確信を得ることだと説く[4]
 天理教(天理やまと文化会議)は、法制化については2006年に「詳細不明なので保留」と報道された後、態度表明はまだのようである。ただし、生死は神のはからいによるもので「『死の自己決定権』なるものは、人間の側にない」という考えで、“尊厳ある死”は“尊厳ある生“を生き抜いた結果としてもたらされるものであること、さらに、人はさまざまな人と人との関係の中に生きており、人の死は、かかわりを持つあらゆる人々にとっての死でもあることから[5]、「意図的な死は認められない」と尊厳死を否定する[6]
 なお、曹洞宗は法制化については「個人の判断」としたが、「栄養・水分補給の中止は問題」と考えており、尊厳死に否定的な姿勢が伺える[7]。公式サイト上に掲載された曹洞宗総合研究センターの研究報告でも“尊厳死を安易に容認することが、次第に、いわゆる質の低い生命は不要であるという考えを増幅させ、やがて障がい者や重病人や高齢者などを切り捨て抹殺していくような社会を作らないとも限らない”と危惧を示している。尊厳死の「自己決定権」についても、「さまざまな縁によって今の自己があり、自己の意思も結果に及ぼす諸縁のひとつである」という仏教者の立場から、“他との関わりの中で生きているのに、他を切り離して自己だけで決定できるか”と疑問符を付ける[8]
 参考までに、2006年に議員連盟のヒアリングに招請された神社本庁理事で宮司の薗田稔・京都大学名誉教授は、個人的見解と前置きしながら「尊厳死の法制化に反対ではないが、いのちの捉え方は個人に特化して考えられない」として、「いのちは人と人との関係性の中にある」「一人の決定権のもとに尊厳死の決定を委ねるべきではない」と述べた[9]
  これらをみると、宗教界では「授けられた命だから」「人間は関係性のなかで生きているから」などの理由から、死を「自己決定権」する尊厳死に否定的な意見が多いようだ。法制化への要望なども合わせてみると、「いのちの尊厳」「いのちの選別、弱者への配慮に欠ける」などが法制化を否定する根拠になっている。
 
(2)尊厳死を否定しない教団
 これらに対して幸福の科学は、「立法には検討の余地がある」が「過度の延命治療で安らかにあの世へ旅立つ権利が害されることがある」として「尊厳死そのものには反対していない」[10]
 カトリックも尊厳死を否定しない。ローマ法王庁は1980年5月に「安楽死に関する宣言書」を発表し、「生命は神の賜物」で“意図的にひき起こされる死や自殺は殺人と同じく悪である”と積極的安楽死を否定した。ただし、「不可避の死が迫っている時には、同様の病人に通常施される治療が中断されない限り、生命の厄介な引き延ばししか保証できないような治療方法を拒むこと」は認めた。また、「危険を伴い、負担となる技術」の拒絶は自殺ではなく、むしろ「人間らしさを受け入れること」で「過度の出費を家族や社会に押しつけたくない望みであるとみなされるべきである」とした[11]。このほか、「安楽死」という言葉が、家庭や社会に過度な負担を押しつける惨めな生活から不治の病の患者を救うための「慈悲ある殺人」という意味で使用されていることや、病人が「殺してほしい」というのは助けと愛を求める願いであって言葉通りに解すべきではないということにも触れた[12]
 ローマ法王ヨハネ・パウロ2世(在位1978~2005年)は1999年に改めて、教会は「非人間的な治療」「高齢者や苦しむ人の無視」「安楽死」に反対するが、「人間としてのケア」「苦痛緩和のためのケア」「社会的連帯と医療機関の刷新」を勧告すると語った[13]
 これを受けて、日本カトリック司教団(カトリック中央協議会)は「過剰医療を中止し、必要な苦痛緩和によって結果的に死期が早まったとしても、それは許されること」で、「延命治療だけの医療を中止し、ふさわしい苦痛緩和に専念する」のは「生きているものの尊厳を尊重するため」[14]と述べ、栄養・水分補給は「原則的には義務」とした[15]
 宣言書では認められるものと認められないものを明快に区分しているが、尊厳死と自殺の線引きは微妙で難しいものがあると考えさせられる。
 
2.宗教から考える尊厳死の問題
(1)尊厳死の肯定にも否定にもなる論拠
 各教団の尊厳死についての態度は、その教団の脳死臓器移植(以下、臓器移植)についての態度を彷彿とさせる。尊厳死に反対する大本は「脳死は人の死」と認められない教義であるため臓器移植にも反対で、尊厳死を肯定するカトリックは臓器移植を「愛の行為」として肯定する。「脳死は人の死」と認めず臓器移植に反対する教団は多いが、自己決定による臓器移植の提供については、「仏教の慈悲心にかなう行為」(日蓮宗)、「布施の行為」(天台宗)という考えから賛成とした仏教教団もある[16]。微妙なところもあるが、このような考え方からすると、家族や社会に負担をかけまいと尊厳死を選ぶことも「愛の行為」や「慈悲心にかなう行為」と捉えられるのだろうか。
 宗教的な考え方は、尊厳死を否定する論理に肯定する論理にも展開しうる[17]。尊厳死を選ぶ「自己決定権」は「人は関係性のなかで生きている」という理由で否定されるが、逆に「関係性のなかで生きている」からこそ「自分のことだけでなく他人をも慮って、尊厳死を選ぶ」という発想もあり得る。また、「神仏の命・自然の摂理を甘受する」[18]という考えは、「選択をせずに運命に任せて延命治療を受ける」という論理にもまた「延命治療(人為的介入)を拒否して自然の摂理に任せて死ぬ」論理にも転換しうる。「自然の摂理」に神仏をみる宗教者は多い。「自然の摂理」に反するとして「妊娠中絶」に反対する宗教者ほど、「自然の摂理」に任せて延命治療(人為的介入)をせずに死なせることには否定的であるようにも見受けられる。このような点からすると、尊厳死そのものについては、教義から一義的な解釈を導き出すのは、難しいのかもしれない。
 
(2)仏典から考える「尊厳死」
 葛葉睦山・臨済宗妙心寺派桂香寺先住職は、「生死一如」という言葉から、生まれるときに(記憶はないが)胎児が母体ともに苦痛を味わうように、死ぬことは本来、最大の苦痛を伴う現象と認識すべきで、痛みの「執着」から離れることを説く仏教が示す心の境地を会得しなければ、平穏な死は望めないと述べる[19]
 仏教では「生老病死」を苦と捉える。「平穏に死にたい」「まともに生きられないならば死にたい」という「尊厳死」願望は、「死」さらには「老病」の苦まで避けようという欲望にもみえる。島薗進・東京大学大学院教授(2007年当時)が「苦しみを癒やす医療から欲望を満たす医療へと医療の持ち分が拡大している」[20]と指摘したように、尊厳死にせよ出生前診断にせよ、昨今の生命倫理の問題の本質は「苦を避けたい」欲望から生じている。「欲望」を「自己決定権」という体裁の良い言葉に置き換えているだけではないだろうか。
 仏典には、終末期の苦痛に苦しむ比丘の自殺を「迷いからの解脱」を要件にして、仏陀が黙認するという話[21]がある。中野東禅・曹洞宗総合研究センター講師は、この要件を簡単にいえば「人生に感謝し、心にこだわりがない」ことであるとし、安楽死にも、迷いによる死と解脱した人の死があるという[22]。この事例に倣えば、仏陀は、尊厳死の是非は一概には言えないということになる。ただし、「平穏な死」へのこだわりから尊厳死を望むというならば、それは非とされるのではないだろうか。
 
3.尊厳死の今後と宗教界の取り組み
(1)尊厳死の流れの行く末は
 中野東禅・曹洞宗総合研究センター講師によれば、尊厳死の流れの元は基本的には、近代ホスピスである[23]。近代ホスピスの嚆矢は、「末期患者に過剰医療を施しても苦しめるだけ」と、緩和ケアを施すことで患者の生活の質(QOL)を高めようと1967年に英国に創設された聖クリストファー・ホスピスである。近代ホスピスと尊厳死の両者を貫くのは「過剰治療の否定」である。カトリックが尊厳死を認め、「緩和ケア」を勧めるのも辻褄が合う。ホスピスはキリスト教の伝統に基づくもので、日本でも緩和ケアはキリスト教系の病院(ホスピス)から始まり、仏教版ホスピス(ビハーラ)ができるなど裾野が広がっていった。
 医療者側の「過剰医療をやめて苦しみを癒やす」という慈愛の心から生まれた緩和ケアは、患者側に「過剰医療の拒否」を認める尊厳死へとつながっていった。耐え難い苦痛を取り去るための「安楽死」が、苦痛とは無関係の「尊厳死」に変化したように。そして「過剰医療の拒否」による尊厳死が認められた国では、植物状態や要介護の重症者になる可能性が高い患者への「無益な治療の中止」を医療者側が判断する問題が生じているという[24]
 海外の尊厳死事情に詳しいライターの児玉真美は、このような「すべり坂」を警戒する。尊厳死法制化によって「終末期患者の死を認める」ことが「重病人や障がい者、高齢者、貧困者に死の選択を迫る」ことにつながっていかないか――。尊厳死法制化を推進する日本尊厳死協会(創設時は日本安楽死協会)の初代会長・太田典礼が優生思想の持ち主だったこともあり、尊厳死法制化に反対する人々は、法制化の先に生じるものを強く危惧する[25]。法制化の真の目的が高齢者の医療費削減であるならば、現代版「棄老」政策ともいえそうだ。
 宗教界の意見をみると、尊厳死法制化あるいは尊厳死が「いのちの選別」や社会的弱者の切り捨てにつながりかねない問題を認識していることがわかる。しかし、これまで見たように積極的に発言する教団はほとんどない。尊厳死について、教義からは一義的な判断ができないためであろうか。しかし、危惧されているような事態が現実化したあとでは対処が難しいことを先例に学ぶ必要があるだろう。
 
(2)宗教界の取り組み
 尊厳死法制化に対して宗教界の反応は鈍いが、尊厳死に関連する取り組みを行っているところもある。尊厳死を個人の判断に委ねるとした浄土宗は、尊厳死や終末期への対応を詳説した内部向けの冊子を発行している[26]。また、「人は関係性の中で生まれて死んでいく存在」という仏教の考え方から、希望の死に方を個人の問題としてではなく、家族などと話しあって考えてもらうために、「エンディングノート」の作成を進めている。「老病死」を考えることは、とりもなおさず「尊厳ある生き方」を考えることにもなるからだ[27]
 カトリックのなかでもスペインのカトリック司教総会では1990年、信者にリビング・ウイルを書くように勧める指針が出されたが、日本ではこのような指針は出されていない[28]。教団ではないが、京都仏教会理事長の有馬頼底・臨済宗相国寺派管長のグループが、宗教系の病院の患者と家族と医療者を対象に調査を実施して、延命治療を続けるか尊厳死を選ぶかの数値指標を作成しようという試みもあるようだ[29]
 終末期医療に関しては、キリスト教ではチャプレンが、仏教ではビハーラ僧が患者のケアや遺族のグリーフケアに取り組んでおり、新しいところでは超宗派の活動として2012年から始まった臨床宗教師の取り組みが広がりを見せている[30]。日本医師会が2014年3月にまとめた生命倫理についての答申には、「宗教からみた終末期医療」の項目が設けられている。緩和ケアチームにおける聖職者の存在の必要性が述べられたあと、人は理想の死を迎えられるとは限らず、「死に方によって個人の尊厳が決定されるのではないこと」や、「患者の尊厳は、医師と患者、患者と家族との思いやりに満ちたつながりのなかで育まれる」ことまで記載されている[31]
 高齢社会が進み「大量死」時代への突入を控え、宗教界は「終活」や終末期医療の現場へと活動範囲を広げつつある。尊厳死が法制化されると、宗教団体を母体とする病院、宗教者が関わる「終活」や終末期医療の現場で、あるいは信徒との関係のなかで、尊厳死の問題に直面することになるのは必定である。尊厳死法制化の問題に対する宗教界の反応を見ていると、人々の「心に寄り添う」ことも大切であるが、その周辺で起きている問題に対して、もう少し関心を寄せてもよいのではないだろうかと思わざるを得ない。
 
 
 
 
 
[1] 『読売新聞』2006年1月11日大阪版夕刊
[2] 『人類愛善新聞』2012年春号、『文化時報』2012年4月14日
[3] 『読売新聞』2006年1月11日大阪版夕刊
[4] 浄土宗総合研究所編『総研叢書第5集 いのちの倫理』浄土宗2008年3月 
[5] 天理やまと文化会議編『道と社会』天理教道友社2004年10月
[6] 『読売新聞』2006年1月11日大阪版夕刊
[7] 『読売新聞』2006年1月11日大阪版夕刊
[8] 曹洞宗公式サイト「曹洞禅ネット」
[9] 『神社新報』2006年4月10日
[10] 『読売新聞』2006年1月11日大阪版夕刊
[11] 松本信愛、ダニエル・L・ロワリィ共著『安楽死に関するカトリック信者への指針』
中央出版社1983年5月
[12] 松本信愛、ダニエル・L・ロワリィ共著『安楽死に関するカトリック信者への指針』
中央出版社1983年5月、宮川俊行『安楽死について』中央出版社1983年9月
[13] 日本カトリック司教団『いのちへのまなざし』カトリック中央協議会2001年2月
[14] 日本カトリック司教団『いのちへのまなざし』カトリック中央協議会2001年2月
[15] 中央カトリック協議会『読売新聞』大阪版2006年1月11日夕刊
[16]藤山みどり「臓器移植に賛成ですか、反対ですか」宗教情報センター 2010年9月
[17] 安藤泰至・鳥取大学医学部准教授は、宗教で語られることの多い「人の有限性の自覚」が、生に執着せずに延命治療を拒否することを後押しする側面もあると指摘する。「対談 超高齢社会における尊厳死」『現代宗教2014』国際宗教研究所2014年3月
[18] 中野東禅「生きる矛盾・・・安楽死を考える」『中外日報』2001年5月31日
[19] 葛葉睦山「人の死は本来安らかか 臨終期の痛みの必然」『中外日報』2013年1月29日
[20] 島薗進「問われる望ましい医療」『中外日報』2007年1月1日
[21] 中野東禅「生きる矛盾・・・安楽死を考える 求められる仏教の応答」『中外日報』2001年5月31日著者注:ヴァッカリの話を指すと思われる。※「病いあつきヴァッカリ」(相応部22・87)長尾雅人責任編集『バラモン教典、原始仏典』中央公論社1979年2月、「ヴァッカリ」中村元監修、前田專學編、及川真介・羽矢辰夫・平木光二訳『原始仏典Ⅱ 相応部経典 第三巻』
[22] 中野東禅「生きる矛盾・・・安楽死を考える 求められる仏教の応答」『中外日報』2001年5月31日
[23] 『正論』2013年7月号
[24] 児玉真美『死の自己決定権のゆくえ』大月書店2013年8月
[25] これがあながち杞憂とは言えない。日本で議論の末1997年に制定された臓器移植法では、臓器提供の要件は「本人の書面による意思表示」だったが、2010年の改正法では、「家族の同意」で済むようになり、移植件数は飛躍的に増加した。現在の尊厳死法律案では、尊厳死の要件は「本人の書面」と「2人以上の医師による終末期の判断」であり、「尊厳死した者の生命保険の扱いは自殺者としてはならない」とある。これが「家族の同意」で済むようになった場合、弊害が生じる可能性がある。加藤尚武・鳥取環境大学名誉学長は、弊害を除去するために「患者が回復不能であることがセカンド・オピニオンによっても医学的に明らかにされること」「家族が尊厳死を口実にして遺産や保険金の取得が早くなることを期待しているというような悪意に基づく決定をしているのではないこと」が判明しなくてはならず、このためには、医師側と患者家族の側の言い分を聞き取って判定する第三者的な機関の設置が必要(『産経新聞』2006年4月23日)と提案する。
[26] 浄土宗総合研究所編『総研叢書第5集 いのちの倫理』浄土宗2008年3月、浄土宗総合研究所編『総研叢書第7集 共に生き、共に往くために』浄土宗2012年3月
[27] 戸松義晴・浄土宗総合研究所主任研究員「対談 超高齢社会における尊厳死」『現代宗教2014』国際宗教研究所2014年3月、浄土宗総合研究所編『総研叢書第7集 共に生き、共に往くために』浄土宗2012年3月
[28] 日本カトリック司教団『いのちへのまなざし』カトリック中央協議会2001年2月
[29] 中野東禅『正論』2013年7月号
[30] 藤山みどり「「臨床宗教師」資格制度の可能性を探る(前編・後編)」宗教情報センターサイト 2012年6月1日・7日参照
[31] 日本医師会 第ⅩⅢ次 生命倫理懇談会「平成24・25年度生命倫理懇談会答申 今日の医療をめぐる生命倫理――特に終末期医療と遺伝子診断・治療について――」2014年3月