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宗教情報センターの研究員の研究活動の成果や副産物の一部を、研究レポートの形で公開します。
不定期に掲載されます。


2011/07/06

震災に寄せての宗教者の発言は人々の心を救えたか?

宗教情報

藤山みどり(宗教情報センター研究員)

 

 2011年3月11日に起きた東日本大震災以降、東京都心のある書店では、作家・五木寛之と哲学者・梅原猛の対談集『仏の発見』(平凡社)や僧侶・小池龍之介の『超訳 ブッダの言葉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)などの仏教書がよく売れているという(※1)。今年は浄土宗の開祖・法然の800回忌で浄土真宗の開祖・親鷺の750回忌にも当たり、仏教への関心が高まったとも捉えられるが、人知を越えた自然災害に直面して宗教に救いを求める人々が増えたとも解釈されている。被災地にある宮城県石巻市の石巻キリスト教会では、日曜礼拝への参加者が震災前の2倍以上になったという(※2)。そうした人々に向けて、宗教者はどのようなメッセージを発したのか、宗教記事データベースを利用して集めてみた。
 目立ったのは、作家や学者を兼ねている宗教家の意見だ。天台宗の僧侶で作家の瀬戸内寂聴、臨済宗妙心寺派の僧侶で芥川賞作家の玄侑宗久、浄土真宗本願寺派の僧籍を持つ宗教学者の山折哲雄、浄土真宗本願寺派如来寺住職で相愛大学教授の釈徹宗などの意見が各紙に掲載された。若手では、浄土真宗本願寺派から離脱した僧侶で『考えない練習』(小学館)がベストセラーとなった小池龍之介(1978年生)が週刊誌などに登場した。このほかキリスト教関係者では、ローマ法王ベネディクト16世がカトリック教徒向け番組で被災少女からの質問に答えた発言や、修道女で上智大学グリーフケア研究所所長の高木慶子の意見があった。

■3つの災害観

 メディアに掲載された宗教家の言葉は、震災観、被災者に向けたもの、被災者への対応についてなどさまざまであった。まず、震災観から見ていきたい。
 『日本経済新聞』(2011年4月8日)も紹介したように、故・廣井脩・東京大学大学院情報学環教授(災害社会心理学)は、日本人の伝統的な災害観を3つ挙げている(※3)。1つ目は、災害は天罰とみる「天譴(てんけん)論」、2つ目は災害による人間の生死は定められた運命と考える「運命論」、3つ目が災害に対する心構えを強調する「精神論」である。天譴論は、「天が堕落した社会を改善するために災害を起こしてくれた」という「天恵論」や「天佑論」とも結びつく。これらは広義の天譴論とも言える。運命論は、災害による絶望を緩和する効用を持つとともに復興を促進する機能を果たすが、災害に対する諦念や忘却をも生み出す。精神論は、復興の際に物質的な復興よりも勤勉さや品行方正な生き方を奨励することや、被災者が神仏に祈る態度に見られる。今回の震災復興においては、「がんばろう! 日本」「ひとつになろう! 日本」や「絆プロジェクト」などのキャッチフレーズに、この精神論が伺える。
 震災後の3月14日、石原慎太郎・東京都知事が「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う(※4)」と天譴論を披瀝して批判を受け、翌15日に発言を撤回し、謝罪する騒ぎがあった。では、宗教者はどのような震災観を述べたのか。

■宗教者の説いた震災観
 東日本大震災では、地震と津波という自然災害だけでなく、東京電力福島第1原子力発電所(以下、福島第1原発)の事故があったため、科学との関わりについての天譴論が見られた。福島第1原発から約50キロの福島県三春町にある臨済宗妙心寺派福聚寺の住職である玄侑宗久は、4月に政府が設置した東日本大震災復興構想会議の委員にもなっており、各所で原発事故の問題について発言した。『読売新聞』(2011年4月2日)には、「天災は従容と受け止めるしかない。しかし、人災である原発事故に関しては従容としているわけにはいかないのだ」と政府や東京電力に不信感を募らせながら、「想定外」という言葉に対して「眼前の惨事は、予断に満ちた社会と、日本人が漫然と信じてきた安心・安全に対する重大な警告だ」と広義の天譴論とも取れる発言が掲載された。また、『サンデー毎日』(2011年5月29日)では、浄土真宗の教えにある「自然法爾(じねんほうに)」という「いかなる人為を尽くしたとしても、しょせんは落ち着く所に落ち着く。人為はやめて自然の流れに任せよ」との意を込めた言葉を挙げて、「自然は支配の対象ではなく、畏敬の念を抱くべきもの」との自然観、精神論を述べている。山折哲雄も同様に、東京電力の計画停電に触れたうえで、「近代科学には限界があることを認識しておくことも必要だ。それを忘れたところに現代の傲慢が隠されている。今回の大震災はまさにその虚を突いてきたといえるのではないか」(『日本経済新聞』2011年3月23日)と語っている。
 一方で、昨今の日本における心の問題に絡めた天譴論も見られた。1995年の阪神大震災で家族全員を亡くした浄土真宗本願寺派元総長の豊原大成は、宗教専門紙(『中外日報』2011年4月7日)では、「ここ数十年、国が敗戦から立ち直り物質的に恵まれるようになった反面、心の問題があまりにも等閑に付されてきた。(中略)『もっと真剣に生きよ』という国全体への警告が何等かの形できっとある・・・・・・。その警告をたまたま16年前には私ども阪神・淡路の人びとが受け、そして今回は東北、関東の皆様方が集中してあのような形でお受けになった。だから日本全体が、今回の悲歎、苦悩を分かち合うべきではないか。そして国全体が、心の問題の大切さをあらためて考え直すべきではないか、などと考えています」と心の問題を取り上げて広義の天譴論を述べている。だが、一般紙(『神戸新聞』2011年6月2日)には、「私たちは、いつも死と隣り合わせですごしています。東日本大震災は『想定外』といわれますが、大自然はルール通りに動いている。人間がそれを知らないだけ」と、運命論に近い発言が掲載された。社会活動に熱心な臨済宗妙心寺派神宮寺(長野県松本市)住職の高橋卓志も心の問題を取り上げて、今回の大震災を「私たちが忘れ去っていた『やさしさ』や『共苦』という、大切なものを取り戻す契機になるかもしれない」(『読売新聞』長野版2011年3月17日)と天譴論と精神論が組み合わさった展望を描いている。
 このほか、釈徹宗は、「今回のような大きな災害は、私たちが前提としている日常はいかに脆いものであるかを突きつけてくる」と無常観を伴う運命論を述べている(『産経新聞』大阪版夕刊2011年5月7日)。
 ちなみに今回、津波の被害が大きかった大船渡市は、過去にもしばしば津波の被害を受けている地域である。40年も前の古いデータではあるが、東京大学新聞研究所(現・東京大学大学院情報学環・学際情報学府)「災害と情報」研究班が1971年に大船渡市民800人を対象にした調査では、天譴論に共感する人は約10%、運命論に賛成する人は約65%、災害が起きたら神仏に頼る(精神論の極地の考え方)と答えた人は約75%だった(※3)。また、無常観を感じる人ほど天譴論への共感度が高く、かつ災害時には神仏に頼ると回答した。無常を説く仏教者が天譴論を説くのは調査結果とも符合するが、調査結果からすると天譴論は人々の共感を得がたいようだ。

■被災した宗教者が発した言葉
 次に被災者に向けての宗教者の発言を取り上げよう。まずは被災した宗教者から。震災から日が浅い時期は特に、被災者に掛ける言葉を選ぶのも難しかったようだ。自らも被災した玄侑宗久は震災早々、『河北新報』(2011年3月30日)のインタビューに対し、「被災者全体に向けて言える言葉なんかありません」と断ったうえで、最終的には天災を従容として受け止めるしかないけれども、それは時を経てようやくできることで、「今、それを言ってもしょうがない」と留めた。そしてもし、お釈迦様がいたら「自灯明、法灯明(自らをよりどころにせよ。そして、その自らが見た世界の法則をよりどころにせよ)」と言うだろうと述べ、今回の震災によって、日本社会の大きな転換期、つまり、その言葉から始まる道の原点を得たのだと語った。
 過去に被災し、立ち直った僧侶の言葉には、重みがある。阪神大震災で被災した豊原大成は、「通夜の挨拶では泣きましたが、『自分が残ったのは寺や門徒のためにしっかりやっていけということだ』と思い直し、多くの支援を得て、寺も復興できました。(中略)この世は『道場』です。打たれてもはね返す。逆にこちらから打ちこんでゆく。(中略)苦しいこともあるでしょうが、それを跳ね返すのが『道場』であると思うのです」と語った(『神戸新聞』2011年6月2日)。2007年の能登半島地震で全壊した曹洞宗興禅寺(石川県輪島市)の市堀玉宗は、被災者には「災害は自ら選ぶことのできない縁。その縁を受け入れて新しい生き方をしてほしい」と願い、ブログに「手を差し伸べてください。それに応える手が必ずあります。こころを開いてください。それに応えてくれる真心が必ず現れます」とのメッセージを綴った(『北陸中日新聞』2011年3月30日)。
 

■宗教者が被災者に向けて説いた言葉
 被災しなかった宗教者も言葉を失い、被災者の気持ちと寄り添う、あるいは被災者のために祈るという姿勢が見られた。
 被災地となった岩手県花巻市出身で、連絡が付かない親類がいるという山折哲雄は、「海が裂けるような大津波の恐怖を味わったみなさんにはどんな慰めの言葉もありません。言葉よりも今は、被災地の人たちをできる限り支えたいと思います。(中略)残念なことですが、私たちの力ではみなさんの悲しみを取り除くことはできません。悲しみを完全に共有することはできないのです。でも、みなさんに寄り添うことはできる。悲しみを抱えたまま立ち直っていくことはできるのです。それは、みなさんと『無常』を受け止めていくことだと思います」と語った(『朝日新聞』2011年3月17日)。岩手県の天台寺で約20年間、法話を続けてきたが、今は療養中で被災地にも行けないと嘆く瀬戸内寂聴は、「私は『無常』を、この世のはかなさを示す語と考えず、『この世は常ならず』と自分流に判断してきた。この世では同じ状態は決して続かない。(中略)私の『無常観』によれば、現在のこの世の地獄も、必ずどん底からの反動として、今に立ち上がり、希望の見える世の中に変わると信じて疑わないのである。私たちはどんな不幸の中でも決して絶望してはならない。暗闇の空に希望の星を見出す力を人間は与えられてこれまで生きてきた」と「無常」について講じたうえで、被災者に向けて「すでに避難所での暮らしのストレスも頂点に達しているでしょう。どうか緊張と不安を少しでもいたわり、控えめでつつましい日ごろの美徳を解放して、わがままになってください。難を逃れた私たちは日夜、夢の中までも、あなたたちの御苦労を分け持たせてほしいと、切に願い祈りつづけているのです」と呼び掛けた(『朝日新聞』2011年3月31日)。
 カトリックの頂点に立つローマ法王ベネディクト16世も同様に被災者に祈りを向けた。法王はカトリック教徒向けのテレビ番組で、自宅近くが液状化の被害を受けた千葉市在住の7歳の少女の「なんでこんなに悲しいことにならないといけないのですか」との質問に、「私も同じように『なぜ』と自問しています。答えは見つかりませんが、神はあなたとともにあります。この痛みは無意味ではありません。私たちは苦しんでいる日本の子供たちとともにあります。ともに祈りましょう」などと答えた(『読売新聞』2011年4月23日)。

■宗教者が被災者への対応について述べた言葉
 これらに対して、被災者への対応についての意見も掲載された。阪神大震災当時、神戸の修道院にいて避難民の対応に当たった高木慶子は、当時のことを「『神や仏はいない』という言葉を何度も聞いた。『忘れなさい』は周囲が決して言ってはならない、残酷な言葉だ」と振り返っている(『読売新聞』大阪版夕刊2011年3月24日)。また、阪神大震災の被災者への聞き取り調査で「頭が混乱し、精いっぱいの時期に、たたみかけられるように『頑張ってね』『時間が解決する』といった言葉を浴びせられ、傷ついた」という人がいたと述べ、「『あなたが生きていてよかった』。家族を失った人には、こんな言葉を掛けて、寄り添ってほしい。(中略)悲しみ、苦しみを伝えようとする人がいるならば『聞き手』に徹してほしい。接し方にマニュアルなどない。無理に声を掛けるのではなく、相手のことを考えながら、その時に最善と考える方法で接してほしい」(『神戸新聞』2011年3月28日)と述べている。

 

 

■宗教者が被災者や一般に向けて説いた言葉
 被災者を含めた広く一般に向けて、心の持ち方や価値観の見直しを呼び掛ける声もあった。釈徹宗は、「『はかないから、つまらない』ではなく、『はかないからこそ、愛おしい』『はかないからこそ、互いに慈しみ合う』へと転換する姿勢」が大切で、その転換は、「他者の喜びや悲しみを、自らの喜びや悲しみとして共鳴することで生まれる。その転換は、みんなで少しずつ自分の都合を捨てることでもたらされる(中略)何を大切にして生きているのか、何がいらないものなのか、自らを点検する作業に取りかかろう」と呼び掛けた(『産経新聞』大阪版夕刊2011年5月7日)。
 日本語の著作も多いスリランカ上座部仏教の僧侶アルボムッレ・スマナサーラは、自然災害を防ぐことはできない、「『あるはずがない』と思うから、悲しみが増す」のであって、「まずは現実を直視するべきでしょう」と説く。そして、悲しみの感情が起きるのは「物質への執着がゆえ」と分析し、「私たちは、物質のおかげで幸せになったのではなく、精神的な力で幸せになったのです。今回の震災という悲しい出来事をきっかけに、皆さんにはぜひ、幸せとは何かを考えていただきたい。そして、本当の幸せを知り、笑顔が絶えない人になってもらいたいと思っています」と語った(『週刊ダイヤモンド』2011年7月2日)。 
 上座部仏教のヴィッパサナー瞑想の指導も行う小池龍之介も悲しみの原因を分析し、事実の客観視を促す。「生じた事実はただひとつ『災害が発生した』ということだけ。それに対して生じている、嘆きや悲しみ、無力感といった精神的ダメージは脳内で現実を原料に情報加工された妄想にすぎません。それに翻弄されず、ただそこにある事実を事実として、客観的に受け止めることが必要なのです」(『SPA!』2011年5月3日)。「冷たすぎる!とおっしゃる方もいるかもしれません」が、薄情ではなく「『慈悲』の心にも冷静さ=『捨』が必要」だと付け加える。さらに、「この震災で自らの死をイメージし、刻み込むことは最大の学習になるはずです。(中略)『自分も確かに死ぬ』それを確実な事実として胸に落としていくということ。(中略)その事実をわずかでも理解できれば、快・不快に巻き込まれないニュートラルな心を育てることができます」と合理的な考え方を説く。

 

 

■一般の人々の宗教に関する意見
 一般の人々の投稿にも仏教用語や聖書の言葉を引用したものがあった。『朝日新聞』(2011年4月11日)には、仏教でいう「無財の七施(心施=やさしい心配り、身施=身体を使ってする手伝い、愛語施=温かい声かけ、和顔施=柔和な笑顔、慈眼施=慈しみあるまなざし、床座施=席などを譲る心、房舎施=一夜の宿を差し出すこと)」を被災地のために実施しようという呼び掛けが、また、『産経新聞』(2011年6月22日)には、仏教用語「小欲知足(欲望を少なくして、足りることを知りなさい)」の精神で節電に取り組みたいという意見が掲載された。
 このほか、散見されたのが、「神は、その人が克服できない試練は与えない」という言葉である。『読売新聞』(2011年3月24日)と『朝日新聞』名古屋版(2011年5月31日)の投書欄に、ともに出典が不明確な言葉として掲載され、被災者への励ましに使われた。この言葉は、『新約聖書』の「コリントの信徒への手紙1」10章13節にある「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(新共同訳)が下敷きと思われる。これと重なる「神様は乗り越えられる試練しか与えない」という言葉は、連続テレビドラマ『JIN-仁- 完結編』(TBS系列、2011年4~6月放送)で繰り返し用いられた。『朝日新聞』(2011年4月27日)には、この言葉を紹介したうえで、勇気と希望を与えるこのドラマを被災者に見てほしいという声が掲載された。この言葉が多く挙げられたのは、最終回の平均視聴率26.1%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)という人気を博したドラマの影響もあるだろうが、人々の心に響いた言葉であったことは間違いないだろう。

 

 

■人々の反応は?
 これらの宗教家の意見や宗教に基づく意見について、人々はどう受け止めたのだろうか。『朝日新聞』の投書欄には特に仏教界への要望が多く掲載されたが、名古屋版(2011年5月23日)には、東日本大震災で政治家、科学者、宗教者にがっかりしたという声が掲載された。「宗教は昔から世の真理について、言葉を磨いて説法してきたと思うのだが、この国難に誰も立ち上がろうとしない。ようやく宗教哲学者らが発言したが、期せずして口にした言葉は『世の無常』についてだった。世の中には常に定まったものはなく、生まれれば死に、形あるものは滅する。だから大災害はいつ起きても不思議はないというのだが、凡人は何を信じていいかますます分からず、迷うばかりだ」との批判だ。
 投稿の取捨選択は、そのメディアの編集方針が反映されるものでもある。1つの投稿を一般化するのは不適切であるが、この批判を宗教界への激励と受け止めてよいかもしれない。震災に寄せた宗教者の意見の中には、信心をしている人にはわかりやすい話でも、震災をきっかけとして宗教に目を向けた人にとってはやや難しいと思われる話も確かにあった。説法は、受け取る側の心の段階に応じて説かれるものでもある。また、説法にもタイミングというものがある。その点を踏まえると難しい点も多々あるが、果たして、宗教者の言葉は人々に納得感をもって受け入れられたのであろうか。阪神大震災以降、災害時の宗教団体による支援活動が当たり前になり、活動詳細がサイトで紹介されることも当たり前になったが、情報発信による心の救いについては、どうだろうか。震災で動揺した人々の心の琴線に触れる言葉を発しただろうか? 避難所における布教や押し付けがましい情報発信には問題があるだろうが、一般紙やウェブサイトなどの手段を活用しての情報発信ならば良いのではないだろうか。災害時に付け込む布教は遠慮すべきという意見もあるが、では日ごろから情報発信をしているのだろうか。今回、一般の人々の投稿でよく見られた宗教的な言葉が、テレビドラマで使われたフレーズというのが暗示的である。

 

 

※レポートの企画設定は執筆者個人によるものであり、内容も執筆者個人の見解です。

 



補追:『京都新聞』(2011年7月5日)には「震災と仏教 教団トップが見た被災地」として、5月11日に宮城県気仙沼市を訪れた天台宗の半田孝淳座主と、6月13~15日に岩手、宮城、福島の3県に入った臨済宗妙心寺派の河野太通管長の2人へのインタビューが掲載された。半田座主は、現地での慰霊法要で、「道心の内に衣食(えじき)あり(正しい心でいれば衣食はついてくる)」という伝教大師(最澄)の言葉を伝え、心を正常に戻してほしいと、あなたたちは1人ではないんだと激励したと語った。また、河野管長は、「さようならと言えずに亡くなった人がいて、生かされた人がいる。なぜそうなったのか。人間の智恵では説明できない。残された命を大切に生きる。生かされた者が日々を頑張ることが供養になる。今、頑張れとは言いづらいが、わたしはそんな祈りを込めて頑張れと言いたい」と語った。



参考文献
※1. 『サンデー毎日』2011年5月29日
※2. 『産経新聞』2011年5月2日
※3. 廣井脩『新版 災害と日本人 巨大地震の社会心理』(時事通信社)1995年4月
※4. 『朝日新聞』2011年3月15日
 

 


 

(宗教情報センター研究員 藤山みどり)