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研究員レポート

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こころと社会

宗教情報センターの研究活動の成果や副産物の一部を、研究レポートの形で公開します。
不定期に掲載されます。


2010/04/05

※以下の研究レポート「エリザベス・キュブラー=ロスの姓について」は、もともと、葛西賢太研究員の著作『現代瞑想論』(春秋社、2010年)の一つのコラムとして収めるために執筆された。本としての構成を取捨選択する中で、掲載は見送られたが、情報の性格を鑑みて、ウェブ上で検索可能かつより多くの方に閲覧しうる、宗教情報センターの研究レポートの形で提示する。

エリザベス・キュブラー=ロスの姓について

こころと社会

葛西賢太(宗教情報センター研究員)

 スイス生まれの精神科医エリザベス・キュブラー=ロス(1926-2004)は、1960年代以降、末期患者に直接インタビューするという画期的な研究方法を通して、現代の終末期医療や死生観に広く影響を及ぼした人物である。医学生に対する講義の中で、彼女は、米国の医療が死の問題を避けようとしてきたと批判し、末期患者がそのことでどう苦しんでいるかをインタビューを通じて医学生に強く体感させる。インタビューの集約の成果をまとめた『死ぬ瞬間――死の過程について』(原題:On Death and Dying、中公文庫で読める)は世界的なベストセラー・ロングセラーとなった。彼女の仕事についてまだ触れたことのない方は、是非『死ぬ瞬間』を読んでいただきたい。
 しかしここでは、『死ぬ瞬間』の内容や彼女の仕事ではなく、彼女の姓の日本語表記という、小さな学術的問題を取り扱う。


 左は原著の表紙。下の著者名には、Kübler-Rossとある。
また右下写真にある、謝辞末尾のイニシャルは、E.K.-R.となっている。



 彼女は、スイスのチューリヒで、キュブラー(Kübler)家の三つ子の長女として生まれた。彼女が物心つく頃は、二つ目の世界大戦の予感で欧州が暗雲に包まれていた時代である。彼女は国際的なボランティア団の一員として各地を飛び回り、けが人や難民の世話などをしながら、医師を志す。かなり苦労して医学部に入り、そこで将来の夫エマニュエル・ロスと出会い、米国に渡ることになる。彼女は精神科医として活動を始める。
 さて、姓の問題である。彼女はアメリカ人として生活したので、アメリカ人としての姓名の表記であれば、半角スペースで区切り、日本語にするときにはナカグロ(・)で区切るということになるだろう。つまり、「エリザベス・キュブラー・ロス」だ。ところが、On Death and Dyingの表紙に記された彼女の姓名の一部には、上述のようにElisabeth Kübler-Rossとハイフンが入っている。本書の謝辞でも、イニシャル表記もE.K.-Rだ。エリザベス・キュブラー=ロスの名前をただ読むだけでなく、書き留めるとき、このハイフンはどう扱ったらよいのか? KüblerとRossの間のハイフンは何だろうか? これは、武者小路(むしゃのこうじ)などの日本語の長い姓と似たようなものなのか? 彼女の結婚前の旧姓がKüblerであり、夫の姓がRossであることを知ると、どこまでが姓なのだ?ということになってくる。


Elisabeth Kübler + Emmanuel Ross(夫)
    ↓
Elisabeth Kübler Ross (アメリカ式 結婚前の姓Küblerはミドルネーム)
Elisabeth Kübler-Ross (著者名などの実際の表記 スイス式)


 邦訳の場合、彼女の姓はほとんどキューブラー・ロスと表記される。訳者の皆さんもみな、Kübler-Rossで定着しているのをどう表現するか、かなり苦しまれたことが察せられる。



 書籍の邦訳では、表記はエリザベス・キューブラー・ロスで定着しているといえるだろう。彼女の本の新訳を提供している鈴木晶氏は「ハイフンが入っているのはスイスの習慣なので、ロスが姓と考えてかまわない」という。鈴木氏の訳では、本文でも「ロス博士」と表記されている。
 だが、彼女について姓のみで言及するとき、普通は、ロスとはいわず、キュブラー=ロスということがふつうだ。たとえば、「キュブラー=ロスの『死ぬ瞬間』」とはいうが「ロスの『死ぬ瞬間』」とはあまりいわない。鈴木晶氏の説明は筋が通っているが、では「キュブラー=ロス」と呼ぶのは間違いだったのか?
 私(葛西)は、こうした日本での事情も説明して、正確なところを子息のケネス・ロス氏(写真家)に尋ねてみた。ケネス氏の答えは、あっさりと問題を解決してくれた。それは以下のようなものであった。


 結婚前の姓と結婚後の姓をハイフンでつなぐのはスイスの習慣。彼女はその通りに処女作『死ぬ瞬間On Death and Dying』を書いた。そのあと、アメリカ式には、Kübler Rossとすべきだったと知る。だが、キュブラー=ロス(Kübler-Ross)は、彼女のペンネームの姓として、すでに公式なものとして定着してしまった。だから、書物や論文で、彼女の姓をキュブラー=ロスということはまったく問題ない。ただし、彼女と自分の姓(Family Name)は、ロス(Ross)である。


 「だからぼくも姓はロス」と、一通り事情を説明してくれたあと、彼は「ちなみに、名の方は、Elizabethと書いている人もいるけど、正しくはElisabethなので、これもよろしくね」と、私のスペルミスにも釘を刺された。
 つまり、法的にはアメリカ式に姓はロスであるが、キュブラー=ロスというペンネームの姓も定着してしまっているので、本人はそれを用いている、ということだ。


 ハイフンを挟んだKübler-Rossが(彼女のペンネームの)姓として欧米でも定着していることを考えれば、日本語でも「エリザベス・キュブラー=ロス」がよいと私は考えるのだが、いかがだろうか。


(かさいけんた)