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世界の宗教

コスモロジーと出会うよろこび【編集部から】

本連載エッセイでは、人類共通の記憶の宝庫ともいうべきコスモロジー(=世界観・宇宙観)の豊かさを武澤秀一先生が探究します。
建築家である先生は、ご著書『空海 塔のコスモロジー』『マンダラの謎を解く』『神社霊場ルーツをめぐる』に見られるように、3次元の存在である建築を歴史・宗教・文化の位相のなかに捉え、塔やマンダラや神社霊場が聖なる力を帯びていく様相を明らかにされてきました。そして今年3月に刊行された新著『伊勢神宮の謎を解く』は、とくに日本の特性を浮かび上がらせていて注目されます。本連載エッセイにあわせて、ぜひごらんください。これからの連載でも、日本列島において育まれてきたわたしたちのこころの特性に、さまざまな場面で気づかせてくれることでしょう。
さあ、コスモロジーに出会う旅に出発することにいたしましょう。わたしたちが無意識の底に置き去りにしてきた大切なものに、今、再び出会うために——。

建築家 武澤秀一の連載エッセイ 時空を超えて コスモロジーと出会う

 

第19回 北の仏国土 (中)


1


〈金色堂の今と昔〉

平安末期の1189年、源頼朝は平泉を陥落させ、奥州藤原氏を滅亡に追いやりました。その頼朝に寺僧が提出した文書「寺塔已下注文」に、中尊寺金色堂はつぎのように記されています。


上下四壁、内殿は皆金色なり。堂内に三壇を構ふ。悉く螺鈿(らでん)なり。阿弥陀三尊、二天、六地蔵、定朝(じょうちょう)これを造る。

「上下四壁」とは、天井・床・4周壁のこと。つまり堂内すべてが金色であるといっています。そこには三つの須弥壇(しゅみだん)があり、ことごとく螺鈿細工で飾られている。
本尊は阿弥陀如来で、左右に2体の脇侍(観音菩薩・勢至菩薩)をもつ。
その他、2体の天部像(持国天・増長天)と6体の地蔵菩薩像がそれぞれの須弥壇の上に安置されている、としています。

これらは定朝の作によるものとしていますが、定朝は平等院鳳凰堂の阿弥陀仏を造った仏師として知られ、没したのは1057年。前回述べたように金色堂が上棟したのが1124年ですから、時間的に合いません。「定朝様」(じょうちょうよう)であることから、寺伝のなかで定朝作となってしまったのでしょう。

以上の記述は金色堂の現状と整合しているといえますが、天部像は相互に入れ替わっていることが指摘されています。(例えば、現状で中央壇にある天部像は、むかって右の壇にあったもの。現状でむかって左の壇にある天部像は、当初は中央壇にあったもの)

阿弥陀仏の左右に3体ずつ、計6体の地蔵菩薩(=六地蔵)が配されているのがきわめてユニークです。

阿弥陀仏は西方極楽浄土の主。ところが六地蔵とは、死後,生前の善悪によって行き先が分かれる6つの苦界(=六道。地獄,餓鬼、畜生、修羅、人間、 天上からなる)のそれぞれにおいて導いてくれる6体の地蔵なのです。

清衡には、やむを得なかったとはいえ、多くの血を流してきたその半生に、地獄に墜ちる不安が消えることはなかったのでしょう。極楽浄土に往きたいのはもちろんですが、かりに地獄に落ちても救い上げてもらおうという願望のあらわれでしょうか。


〈遺体が眠る霊廟だった〉

「寺塔已下注文」には書かれていないのですが、江戸時代の史料に、三壇の中に奥州藤原氏三代の遺体が納められているとし、実際に棺を検分したり、金色堂の修理に際して棺を移動した記録があります。そこで昭和25年、遺体学術調査がおこなわれ、その結果、じつは驚くべきことが確認されています【図H-2】

・中央壇;清衡の遺体
・むかって右の壇;秀衡の遺体か
・むかって左の壇;基衡の遺体か + 泰衡の首
(秀衡の遺体と基衡の遺体を上記と逆に見る説もある)

金色堂内にある三つの須弥壇には、奥州藤原氏三代の遺体が火葬されずに安置され、さらには四代目泰衡の首も、ともに置かれていたのです。泰衡の頭蓋骨には、眉間(みけん)のあたりに釘が打ちつけられた痕があるといいます。

金色堂は、たんに阿弥陀仏を拝する阿弥陀堂ではなく、なによりもまず、霊廟として造営されたことがわかります。

【図H-2】:中尊寺金色堂平面図。3つの須弥壇それぞれの中に清衡、基衡、秀衡の遺体および泰衡の首が納められている

〈棺の寸法が決めた金色堂の規模〉

このことを裏付けるのが、金色堂の小ささです。間口・奥行ともに、1.6メートル-2.2メートル-1.6メートルの柱間からなり、全体として5.5メートル×5.5メートルの正方形をなしています(床面積は30平方メートルに過ぎません)。そして扉の高さは1.5メートル弱で、頭がつかえてしまいます。大勢のひとが出入りすることは想定していない造りです。

ふつう、阿弥陀堂といいますと、阿弥陀仏を安置する須弥壇が中央にあり、その周囲をぐるぐる回る常行三昧のためのスペースがあるものです。清衡一体が納められている状態でも、この狭さでは常行三昧は無理でしょう。

現在は建物保護のため鉄筋コンクリート造の鞘堂に包まれているので、気づきにくいかもしれませんが、建築物としては非常に小さいのです。中央に安置される清衡の棺の寸法に合わせて須弥壇が作られ、これにもとづいて建物の大きさが決められたことによるとみられています(須藤弘敏)。


〈極小世界だから実現できた〉

金色堂がなによりもまず霊廟として建てられたとして、それでは、なぜ、これほどまでに小さくする必要があったのか?
霊廟はみな小さいというわけではありませんから、当然出てくる疑問です。

それは建物の内外を金箔で覆い、そして堂内を精巧な螺鈿で埋め尽くすためでしょう。つまり、建物の規模を極小にすることにより、装飾の密度をより高めることが可能になります。清衡には、自らが眠る霊廟空間の荘厳を美術工芸品のレベルにまで高めたいという気持ちがあったのでしょう。

これもあまり気づかれていないことですが、金色堂の屋根は焼き物の瓦ではなく、いちいち瓦のかたちに彫った木(=木瓦。こがわら)で葺かれています。大変珍しい例で、現存しているのはここだけです。

なぜ木瓦葺きなのか?

現状では、屋根から金箔は剥げ落ちており、改修に際してもここには手がつけられていませんが、わたしは屋根にも当初は金箔が施されていたと思っています。そしておそらく、金箔を施すのに瓦より木のほうが、ノリがよかったから、木瓦葺きだったのではないかと思うのです。この霊廟は金箔、そして螺鈿細工に徹底してこだわり、それによって完璧な極楽浄土を実現したのでした。

 

 

2

〈金色堂と平泉館の関係〉

阿弥陀仏の極楽浄土は西方にあり、したがって多くの場合、阿弥陀堂は西を背にして東面します。つまり、ひとは西に向いて拝むことになります。
阿弥陀仏を本尊とする金色堂もご多分にもれず、東面しています。精確には、金色堂は真東にむいているのではなく、やや南に振れ、東南東に向いています。

ところでさきに引いた「寺塔已下注文」が掲げる8項目のうちの7番目に、藤原三代の政庁であった平泉館(ひらいずみのたち)のことが記されています。

一 館の事〈秀衡〉
金色堂の正方、無量光院の北に並べ、宿館〈平泉館と号す〉を構ふ。

平泉館と呼ばれる秀衡の宿館は金色堂の「正方」、つまり真向かい建てられていたのです【図H-3】。平泉館は金色堂からかなり離れた平地にありますが、山上の金色堂と平地の平泉館は対面し合う関係にありました。平泉館から正面に関山を仰ぎ、山上に煌めく金色堂を拝していたのです。


【図H-3】:中尊寺金色堂と平泉館の関係図。阿弥陀堂でもある金色堂は真東にむくのが本来のありかただが、やや南に振れて東南東にむき、平泉館と正対する関係にあった

この関係がいつからなのかが、つぎの問題となります。
東南東にむく金色堂に正対するように秀衡が館を建てたのか?
あるいは、清衡の時代に最初から金色堂と平泉館はセットで造られていたのか?

実際、館周辺から清衡の時代の遺物が出土していますので、両者は当初からセットで造られていたことが実証されました。金色堂が真東に向かず、やや南に振れていたのは、平泉館との関係が原因だったのです(五味文彦)。


〈宙に浮く「中尊寺供養願文」〉

さきに「中尊寺供養願文」を引きましたが、これは国の重要文化財に指定された有名な文書です。しかし、この文書をめぐって、じつは大きな論争が巻き起こっているのです。

この「願文」は、「鎮護国家の大伽藍一区」の落慶(=落成・竣工)供養に際して捧げられたものですが、「大伽藍一区」の具体的な内容として以下が挙げられています。

・三間四面檜皮葺堂 一宇 左右廊二十二間あり
・三重塔婆 三基
・二階瓦葺経蔵 一宇
・二階鐘楼 一宇
(以下、門や垣、橋について記述がつづく)

この記載内容は現状と合わないだけでなく(金色堂に関する記述もない)、当時の伽藍の状況をもっとも精確に伝えているはずの「寺塔已下注文」とも合わないのです。

これはいったい、どうしたことか?

「中尊寺供養願文」と呼ばれているが、そのなかに中尊寺の文字が見えないこともあり、これはまったく別の寺院(毛越寺)についての願文とする立場と、いや、やはりこれは中尊寺のことであって、今後の発掘に期待をかける立場とが拮抗しています。

論争はなお決着をみていないのが現状ですが、五味文彦氏らの指摘を参照しつつ、問題点をわたし流に整理してみましょう。
 

(1) 「願文」に中尊寺と記されていない
(2) 「願文」は当初のものではなく、南北朝期の1336年ないし1337年に書写されたとみられる
(3) 1337年3月、中尊寺は金色堂と経蔵を除き、ほとんどの堂塔を焼失した(野武士の放火による)
(4) 「願文」は「寺塔已下注文」とほとんど一致しない
(5) 「願文」の日付が天治三年三月廿四日となっているが、西暦1126年のこの年は、正月二十二日に大治と改元されており、天治三年三月廿四日という日付はありえない

こうなりますと、「中尊寺供養願文」そのものの信憑性に疑問が出てきます。五味氏は、この願文は「清衡を願主に想定して後世に作られた」としています。中尊寺が鎮護国家の大伽藍として復興されることをもとめて、この願文が作られたというのです。

「願文」は後世、つまり南北朝期の1336年ないし1337年に書写されたとみられますが、この時に、これから造りたい伽藍の概要が「願文」として書かれた疑いがあります。

1337年3月に中尊寺は金色堂と経蔵を除き、ほとんどの堂塔を焼失しています。この事態を受けて、「願文」が新たに起草されたのではないか。書写されたのではなく――。
(この場合、「願文」が新たに起草されたのは火災が起きた1337年3月以後ということになる)

このように立派な大伽藍がかつて存在したのに、今はない。これを「復興」することを是非とも許可し、援助してほしい――。多くの堂塔を焼失した今、書写を装って、じつは起草した「供養願文」を復興の根拠とし、新たな大伽藍建立のための芝居を打ったのではなかったか。

つまり「大伽藍一区」とは、焼失してしまった中尊寺の多くの堂塔が存在していた「一区」なのであり、そこに新たに造営したい建物を書き連ねたのが、ほかならぬ「中尊寺供養願文」だったわけです。

そういえば、「三間四面檜皮葺堂 一宇 左右廊二十二間あり」とか、「二階瓦葺経蔵 一宇」とか、「供養願文」にしてはやたらと具体的で、あたかも「工事計画書」のような感があります。

すでに落成した伽藍を供養する「願文」なら、「三間四面檜皮葺堂 一宇 左右廊二十二間あり」は「釈迦堂 一宇」、「二階瓦葺経蔵 一宇」はたんに「経蔵 一宇」でいいように思われます。必要にして十分な援助が得られるよう、建物の規模や仕上げを具体的に訴えることが目論まれたのではないか。
実際にはこれは実現されませんでした。現在までにおこなわれた発掘調査の結果は「寺塔已下注文」に記載された内容に近く、「中尊寺供養願文」に記載された伽藍に相当するものは皆無に等しいと報告されています。

 


〈「中尊寺供養願文」のこころは永遠に〉

しかしそうなると、「願文」における、前回紹介した清衡の感動的なことばはどうなってしまうのでしょう。それは上記の「二階鐘楼 一宇」の鐘の音に託して述べられたことばなのでした。

わたしはつぎのように考えたいと思います。たとえ清衡自身が唱えたことばでなくても、その想いは中尊寺に脈々と受け継がれてきたのであり、それがこの「願文」に反映されているのだと――。


                                                                                                                                                                (つづく)


註記:図版出典および参考文献は、第20回「北の仏国土(下)」において纏めて掲げます。


武澤 秀一(たけざわしゅういち)

1947年群馬県生まれ。建築家/博士(工学・東京大学)。東京大学工学部建築学科卒業。同大学院を中退し、同大学助手をへて建築家として独立。設計活動の傍ら、東京大学、法政大学などで設計教育指導に当たった。20代、30代はヨーロッパ志向がつよかったが、40代に入りインド行脚をはじめる。50代以降は中国、韓国および日本列島各地のフィールドワークを重ねている。著者に、『マンダラの謎を解く』(講談社現代新書)、『空海 塔のコスモロジー』(春秋社)、『法隆寺の謎を解く』(ちくま新書)、『神社霊場 ルーツをめぐる』(光文社新書)、『伊勢神宮の謎を解く——アマテラスと天皇の「発明」』(ちくま新書)などがある。