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世界の宗教

コスモロジーと出会うよろこび【編集部から】

本連載エッセイでは、人類共通の記憶の宝庫ともいうべきコスモロジー(=世界観・宇宙観)の豊かさを武澤秀一先生が探究します。
建築家である先生は、ご著書『空海 塔のコスモロジー』『マンダラの謎を解く』『神社霊場ルーツをめぐる』に見られるように、3次元の存在である建築を歴史・宗教・文化の位相のなかに捉え、塔やマンダラや神社霊場が聖なる力を帯びていく様相を明らかにされてきました。そして今年3月に刊行された新著『伊勢神宮の謎を解く』は、とくに日本の特性を浮かび上がらせていて注目されます。本連載エッセイにあわせて、ぜひごらんください。これからの連載でも、日本列島において育まれてきたわたしたちのこころの特性に、さまざまな場面で気づかせてくれることでしょう。
さあ、コスモロジーに出会う旅に出発することにいたしましょう。わたしたちが無意識の底に置き去りにしてきた大切なものに、今、再び出会うために——。

建築家 武澤秀一の連載エッセイ 時空を超えて コスモロジーと出会う

 

第20回 北の仏国土 (下)


それでは、「中尊寺供養願文」のこころは、どのような信仰にもとづいていたのでしょうか。それを、もっとも信頼のおける「寺塔已下注文」が伝える当初の伽藍や仏像のありようから紐解いてみましょう【図H-4】

【図H-4】:創建当初における中尊寺伽藍配置図


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〈中尊寺は『法華経』の寺〉

「寺塔已下注文」で最初に挙げられた建物は、第18回で触れた、

当国の中心を計りて、山上に一基の塔を立つ。

と説明された塔です。これについては何の説明も加えられていませんが、「当国の中心」がここ中尊寺にあることを示すために建てた塔なのでしょう。これにつづいて2番目に、

寺院の中央に多宝寺あり、釈迦・多宝の像を左右に安置す。

とあります。寺域の中央に多宝寺と呼ばれるお堂があり、釈迦如来と多宝如来の二仏が左右に並んで安置されていました。釈迦如来と多宝如来の二仏並座(にぶつびょうざ)は、『法華経』の有名な場面に出てきます。場所はインドの霊鷲山の山頂、釈迦が大勢の人たちを前にして説法を終えた時のことです(以下要旨)。

その時、会衆の真ん中に、途方もなく大きく、宝石で色とりどりに飾られた塔が大地の中から湧き出すようにあらわれ、空中に浮かんだ。そして塔の中からつぎのことばが発せられた。
「よいかな、よいかな。お釈迦さまは平等の大慧(だいえ。偉大な智慧)をお説きになられた。かくの如し、かくの如し。皆これ真実なり」

ここにいう「平等」とは、人びとは地位や立場を超えて皆、等しくほとけの智慧を得るという意味です。これは「中尊寺供養願文」にあらわれていた、

鐘の音は世界の隅々にまで響きわたり、分け隔てなく平等に、だれからも苦しみを取り去り、だれにも安らぎをあたえてくれる。

という文脈における「平等」に通じています。つまり、鐘の音は、ほとけの声でもあるのでした。この塔から発せられた声の主は多宝如来(たほうにょらい)といって、『法華経』が説かれる所に塔(=多宝塔)とともに地中からあらわれ出でて、必ず「よいかな、よいかな」と賞讃の声を上げるのです。

多宝塔というと今日では密教の塔を指す場合が一般的ですが、本来は、ここに見るように多宝如来のおわす塔を意味しました。

そして多宝如来は塔の中に釈迦のためのスペースを空け、そこに坐るように勧めるのでした。もちろん、釈迦はこれに応じて塔の中に入り、二仏が結跏趺坐(けっかふざ)をして並びます。そして釈迦はこういいます。

わたしが滅しても、多宝塔の中にいるのである。『法華経』が説かれる所に、わたしは必ずあらわれる。

つまり、『法華経』が説かれる所に釈迦如来と多宝如来が並坐する多宝塔があらわれ、そこはまぎれもなく仏国土となるのでした。そこから、つぎのように論理は展開します。

釈迦如来と多宝如来の並坐する多宝塔を建立して供養すれば、この世はたちまちにして、色とりどりに光り輝く宝石で飾られ、かぐわしい香りに満ちた浄土と化す。

中尊寺の中央に建立された「多宝寺」とは、このようなものであり、『法華経』に依拠するものだったのです。中尊寺は、なによりもまず、『法華経』にもとづく釈迦信仰の寺だったのであり、それはあの世ならぬこの世の浄土の中心に位置する寺でした。

では、なぜ中尊寺の中央の建物を、多宝塔とは呼ばずに、「多宝寺」と呼んだのか?

おそらく、その建物が、塔と呼ぶには塔の形状から遠かったためでしょう。塔というよりは、むしろお堂に近いかたちの建物の中に、釈迦如来と多宝如来の二仏が並座していたのでしょう。

なお「多宝寺」は室町時代の初め、1334年(建武元年)の文書「中尊寺大衆訴状」において「最初院」と呼ばれ、1105年に造立されたとあります。塔は「院」とは呼ばれませんので、やはりお堂と見なされていたのでしょう。「最初院」という名は、「最初」に造られた「院」から来ていると判断されます。


〈百一体の釈迦像〉

中尊寺3番目の伽藍として「寺塔已下注文」が挙げるのは、

釈迦堂、一百余体の金容(こんよう)を安んず。すなわち釈迦像なり。

金色に輝く釈迦像が「一百余体」安置されていました。中尊としての大きな釈迦像1体とその周囲に小さな釈迦像100体、つまり大小101体の金色の釈迦像が安置されていたとみられます。

というのは、絶大な権力をきづいた藤原道長の造営になる、平安京の大伽藍・法成寺(ほうじょうじ)の一画に、その名も釈迦堂が1027年に建立されており(現存せず)【図H-5】、それは丈六(像高=4.8メートル)の釈迦像を中尊とし、等身大の釈迦像を100体安置したお堂でした(その他に四天王像なども)。

規模こそ異なれ、大小101体の釈迦像をもつ中尊寺の釈迦堂は、この法成寺の釈迦堂の影響の下に造られたとみられます。この建物は1108年に完成されました(斉藤利男)

【図H-5】:法成寺伽藍配置復元図(清水擴)


とはいえ、法成寺では、最初に阿弥陀堂が建ち、ついで法華堂、そして金堂(大日如来が本尊)、薬師堂とつづきました。そして釈迦堂は添え物的な位置づけになっています。つまり、法華信仰(=釈迦信仰)より阿弥陀信仰が優先していたのです。

この点、これまでみてきたように、中尊寺では寺域の中央に最初に建てられた「最初院」が釈迦堂だったのであり、なによりもまず釈迦信仰が優先されていたのでした。

ところで、この101体の釈迦像をもつ釈迦堂も、さきに引いた『法華経』の場面に由来します。釈迦如来の高弟が「多宝如来のお姿を拝見したい」と希望を述べます。これにたいし釈迦如来はつぎのように答えるのでした。

多宝如来は「十方(じっぽう)におけるすべての仏国土で説法をしている釈迦如来の無数の分身を集めたなら、姿をあらわそう」といっておられる。

「十方」とは、東西南北の4方位に東北・東南・西南・西北の中間4方位、それに上方と下方をく わえた10の方位、つまりはあらゆる方角を指す。そこにおけるすべての仏国土で説法をおこなっ ている釈迦如来の無数の分身を、100体の釈迦像で象徴的に表しているのです。


〈密教の要素があった〉

「寺塔已下注文」が4番目に挙げるのは、

両界堂、両部の諸尊は皆木像たり、皆金色なり。

両界とは、密教世界を形成する金剛界・胎蔵界の二つの曼荼羅を指します(両部も同じ)。つまり、金胎両部の金色の仏像が安置されていました。当時の仏教界は密教に席巻されていましたので不思議なことではありませんが、平安京から遥か遠い平泉にまで密教の波が及んでいたのは、やはり驚きです。『法華経』信仰にもとづく仏国土の建設を進めつつ、時代遅れにならぬよう、都の流行も採り入れていたようです。


〈巨大な阿弥陀如来像を納めた「二階大堂」〉

「寺塔已下注文」が5番目に挙げるのは、

二階大堂。大長寿院と号す。高さ五丈(15メートル)。本尊は三丈(9メートル)の金色の弥陀像。脇士九体、同じく丈六なり。

ここにはじめて阿弥陀像を安置するお堂が出てきます。それは「大堂」と記されているように大変大きな建物で、その高さが15メートルもありました。高さ9メートルもの巨大な阿弥陀如来像を納めるのに必要な高さだったのでしょう。

ただし、「二階」とありますが、2階建てだったわけではなく、裳階(もこし)と呼ばれる下屋が付いていたと考えられます。2階建てのように見えたので、そのように記されたのでしょう。本尊の阿弥陀像の脇には丈六(高さ4.8メートル)の9体の像が安置されていました。

この建物の跡が発掘されています。東西の柱間(はしらま。柱と柱の間)が4以上、南北の柱間が4の建物遺構が出てきました(柱間の寸法は4.2メートル、礎石の大きさは直径1.2メートル)。規模と形状から、これは「二階大堂」の跡と判断されます。この建物は1107年に完成されました(斉藤利男)。

「二階大堂」は阿弥陀如来像を本尊とする阿弥陀堂ですが、さきの「両界堂」にまさる規模と内容であったとみられます。都において、密教と浄土教(=阿弥陀信仰)は融合し、密接不可分に結びついていましたが、平泉では、阿弥陀信仰が密教を凌駕していたようです。


〈金色堂の本質は霊廟〉

そして、ようやく金色堂が出てきます。(「寺塔已下注文」の記述はすでに第19回で見たとおりです)
金色堂は阿弥陀如来像を本尊としますので、阿弥陀堂であることに違いありません。しかし、きわめて特異なものでした。その小ささにおいて、その荘厳の密度において、そしてなによりも藤原氏四代の遺体を安置していることにおいて。

阿弥陀堂としては「二階大堂」が本格的であり、そこがもっぱら阿弥陀信仰の場として機能していたと考えられます。阿弥陀仏を拝むのはこちらでなされたことでしょう。
これにたいして金色堂は、奥州藤原氏歴代の棟梁の遺体を納める霊廟としての意味を担ったのでした。


〈鳴り響いていた通奏低音〉

これまでたどってきた「寺塔已下注文」の記述を振りかえりますと、最初に奥州の中心地点に塔を建て、「最初院」(=多宝寺)に釈迦・多宝の二仏を安置したことにはじまり、藤原氏四代の遺体を安置する金色堂の記述に収束します。この後には平泉に勧請された神社のこと、経典を納める経蔵などについて、「注進にいとまあらず」と述べ、その他の扱いになっているのです。

「最初院」とも呼ばれた「多宝寺」は1105年に造立されたとありました。「釈迦堂」の完成が1108年、「二階大堂」が1107年、そして金色堂の上棟が1124年でした。このように振りかえりますと、「寺塔已下注文」の記述はほぼ、建物の造営の順に沿ってなされているとみていいでしょう。

そこからうかがえるのは、中尊寺はなによりもまず『法華経』にもとづく釈迦信仰の寺として発足したことです。それは『法華経』が説かれるこの世こそが浄土であるという世界観です。そして途中、都を風靡していた密教を導入しつつも、最終的には、あの世にある阿弥陀浄土への信仰に重点を置いてゆく。つまり、この世の浄土からあの世の浄土へ、というながれです。

しかしながら、このながれのなかに常に通奏低音として鳴り響いていたのは、「中尊寺供養願文」で謳われている、分け隔てなく平等に、だれからも苦しみを取り去り、だれにも安らぎをあたえてくれる浄土の実現を願うこころであったといえるでしょう。



** おわりに **

これまで20回にわたり、世界遺産のなかにコスモロジーを探る旅をつづけてきましたが、今回をもってひとつの区切りにすることと致します。
もちろん、まだまだ数多くの世界遺産のなかに、コスモロジーがひっそりと眠っています。しかしこれからは、あなたみずから、世界遺産からコスモロジーを紡ぎ出すことを試みていただきたいと思うのです。そうしてその時、これまで連載してきたものが道標になることを切に願うものであります。

世界遺産は、人類の叡智の結晶というべきコスモロジーの宝庫です。その扉をあけ、生きぬく糧としてコスモロジーを紡ぎ出し、体感していただきたい――。
この連載がその扉をあけるきっかけとなることを、こころから願っています。

長い間、お読みいただきましたことにこころから感謝致します。ありがとうございました。


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《第18・19・20回 図版出典》

【図H-1】:『トランヴェール』 2004年9月号 P27に掲載の図を一部変更
【図H-2】:『日本遺産』 通巻27号「平泉」 朝日新聞社 P13に掲載の図を一部変更
【図H-3】:入間田宣夫/豊見山和行 『日本の中世5 北の平泉、南の琉球』 中央公論新社 P114 に掲載の図をもとに作成
【図H-4】:斉藤利男 『奥州藤原三代』山川出版社 P40
【図H-5】:冨島義幸 『平等院鳳凰堂』 吉川弘文館 P17


《第18・19・20回 参考文献》

須藤弘敏・岩佐光晴 『中尊寺と毛越寺』 保育社
『歴史読本』編集部編 『ユネスコ世界遺産「平泉」と奥州藤原四代のひみつ』 新人物往来社
佐々木邦世 『平泉中尊寺』 吉川弘文館
入間田宣夫『都市平泉の遺産』 山川出版社
斉藤利男 『平泉』 岩波新書
斉藤利男 『奥州藤原三代』 山川出版社
五味文彦 『日本の中世を歩く』 岩波新書
及川司 「平泉の世界」『史跡で読む日本の歴史 5 平安の都市と文化』 吉川弘文館
冨島義幸 『平等院鳳凰堂』 吉川弘文館
坂本幸男・岩本 裕訳注 『法華経 中』 岩波文庫

 


武澤 秀一(たけざわしゅういち)

1947年群馬県生まれ。建築家/博士(工学・東京大学)。東京大学工学部建築学科卒業。同大学院を中退し、同大学助手をへて建築家として独立。設計活動の傍ら、東京大学、法政大学などで設計教育指導に当たった。20代、30代はヨーロッパ志向がつよかったが、40代に入りインド行脚をはじめる。50代以降は中国、韓国および日本列島各地のフィールドワークを重ねている。著者に、『マンダラの謎を解く』(講談社現代新書)、『空海 塔のコスモロジー』(春秋社)、『法隆寺の謎を解く』(ちくま新書)、『神社霊場 ルーツをめぐる』(光文社新書)、『伊勢神宮の謎を解く——アマテラスと天皇の「発明」』(ちくま新書)などがある。