コスモロジーと出会うよろこび【編集部から】
本連載エッセイでは、人類共通の記憶の宝庫ともいうべきコスモロジー(=世界観・宇宙観)の豊かさを武澤秀一先生が探究します。
建築家である先生は、ご著書『空海 塔のコスモロジー』『マンダラの謎を解く』『神社霊場ルーツをめぐる』に見られるように、3次元の存在である建築を歴史・宗教・文化の位相のなかに捉え、塔やマンダラや神社霊場が聖なる力を帯びていく様相を明らかにされてきました。そして今年3月に刊行された新著『伊勢神宮の謎を解く』は、とくに日本の特性を浮かび上がらせていて注目されます。本連載エッセイにあわせて、ぜひごらんください。これからの連載でも、日本列島において育まれてきたわたしたちのこころの特性に、さまざまな場面で気づかせてくれることでしょう。
さあ、コスモロジーに出会う旅に出発することにいたしましょう。わたしたちが無意識の底に置き去りにしてきた大切なものに、今、再び出会うために——。
建築家 武澤秀一の連載エッセイ 時空を超えて コスモロジーと出会う
第16回 ハスのコスモロジー(下・その2)
〈聖武天皇はなぜ大仏建立を?〉
東大寺の大仏は、空前の巨大さをほこる像を銅で鋳造するという、前例を見ない野心的な試みでありました。それは危険な冒険とすらいえ、失敗したなら、発願した聖武天皇の権威は失墜し、大混乱を招くことは必定でした。
【写真N-1】現在の東大寺盧遮那大仏。江戸時代の再建によるもの。像の高さは15メートル弱で、聖武天皇の発願により建立された大仏は今より1メートルあまり高かったと伝えられる/奈良
前回も述べたように、発端となったのは龍門石窟・奉先寺洞のビルシャナ大仏でしたが、それは岩盤から掘り出した摩崖仏です【写真R-3】(第14回に掲載)。巨大さはほぼ同等ですが、造り方がまったく異なります。鋳造には、それだけ複雑で困難な工程をともなうのです。 |
〈聖武天皇を襲った未曾有の国難〉
大仏建立にいたるまでの足取りをたどりますと、そこに尋常ならざる天変地異があったことがわかります。まさに3・11以降、今わたしたちが渦中にある大地震・大津波・原発事故という未曽有の事態に匹敵する、国家を揺るがす状況であったのです。 |
〈天神地祇に祈ったが…〉この年の5月に出された詔(みことのり。天皇のおことば)にはつぎのようにあります(一部要約)。 4月以来、疫病と旱魃が重なり、田の苗は枯れ果ててしまった。山川の神々に祈祷し、天神地祇(てんじんちぎ)に供物(くもつ)を捧げてまつったが、効験もあらわれない。依然として民は苦しんでいる。
つまり、日本各地の神々に疫病の鎮静化と五穀豊穣を祈願したが、いっこうに効果がないことを嘆いているのです。 |
〈ビルシャナ仏に救いをもとめる〉そして聖武天皇は、『華厳経』の教主であるビルシャナ仏と出会います。それは740年2月のことでした。その時のことを聖武天皇は749年の宣命のなかでつぎのようにふりかえっています(一部要約)。 河内(かわち)国の知識寺(ちしきじ)にいます盧舎那仏を拝み奉った時、われはすぐにもこのような仏を造りたいと思った。
さきにも述べたように、東大寺の大仏は洛陽近郊の龍門石窟・奉先寺洞のビルシャナ大仏に触発されて造られました。龍門石窟・奉先寺洞の大仏は則天武后が寄進したものでしたが、彼女は699年に完成を見た新訳『華厳経』(八十巻本)に序文を寄せています。実際には別の人物に書かせたとしても、そのインパクトは大きいものがあります。 |
〈『華厳経』の講説がはじまる〉
聖武天皇のために740年10月から、東大寺の前身である金鍾寺(こんしゅじ)で『華厳経』(六十巻本)の講説がはじまります(『東大寺要録』)。金鍾寺の僧であった良弁(ろうべん)が大安寺に身を置いていた新羅僧・審祥(しんじょう)を招いておこなわれたものです。当時、新羅は唐と頻繁な交流があり、『華厳経』の探究が大変さかんでした。 |
〈大仏建立がはじまる〉そして743年10月、盧舎那大仏建立の詔が発せられるのでした(一部要約)。 われは菩薩の大願を起こして、盧舎那仏の金銅像一体を造り奉る。 つづいて745年8月、いよいよ盧遮那大仏の建立工事がはじまります。 聖武天皇は御袖に土を入れて持ち運ばれ、御座に土を加えられた。 と『東大寺要録』は伝えています(一部要約)。
747年9月に大仏の鋳造工事がはじまりましたが、これに前後して、東大寺(この時はまだ金光明寺)では写経事業が進められました。それは『華厳経』(六十巻本)を20セット、つまり1,200巻を書き写すという大規模なものでした。実際に使用する目的にくわえ、建立されつつあるビルシャナ大仏に魂を込めようとする狙いがあったのでしょう。
【図N-2】現在の東大寺大仏殿。江戸時代の再建によるもの。正面入口の唐破風(からはふう)が目を惹くが、これは江戸時代のデザイン。また往時は建物正面の幅がもっとあった/奈良
しかし、巨大な仏身を光り輝かせるために必要な金の調達の目途がまだ立っていませんでした。
すると霊験(れいげん)あらたかなことに、本当に陸奥国(むつのくに)、現在の宮城県涌谷(わくや)町から日本で初めて砂金が採集されたとの報が舞い込みました。祈りが見事に成就したのです。 三宝(=仏法僧。ここでは仏の意)の奴(やっこ)としてお仕え奉る天皇として、盧舎那仏像の御前に申し上げます。
まず注目されるのは、「神にしませば」と謳われたのは天武天皇でしたが(拙著『伊勢神宮の謎を解く』を参照)、その曾孫である聖武天皇は自らを「三宝(=仏)の奴」と称していることです。天武天皇は、『古事記』『日本書紀』の神話によって権威づけられましたが、聖武天皇は仏教に帰依することに自らのアイデンティティをもとめるのです。置かれた状況がそれだけ違ったということでしょうか。 |
以上を振りかえりますと、未曾有の国難に直面した聖武天皇は事態の打開のために八方手を尽くし、日本古来の神々(=天神地祇)に再三にわたり丁重に、心をこめて祈りを捧げました。ところがその甲斐もなく、ただいたずらに歳月が過ぎるばかりだったのです。 〈ビルシャナ大仏の守護神〉
大仏本体(=仏身)の鋳造も終わった749年12月、宇佐(うさ)八幡神の平城京入京という一大イベントがありました。はるばる九州から宇佐八幡神が入京し、東大寺大仏を参拝したのです。孝謙天皇、聖武太上天皇、光明皇太后も行幸してこれを丁重に迎えました。 740年に河内国の知識寺にいます盧舎那仏を拝み奉った時、われはすぐにもこのような仏を造りたいと思った。 という宣命とは、749年に宇佐八幡神が入京したさい、八幡神にむけてなされたものでした。そしてつぎのことばがつづきます。 しかし、なかなか事がうまく運ばなかった。そのように困難な時、宇佐八幡神がつぎのように仰せられた。「神であるわれは天神地祇を率い誘って、必ずや盧舎那仏の造立を成就させよう」と。 つまり、宇佐八幡神こそ、天神地祇を率いて聖武天皇を援け、大仏建立を成功に導いてくれたと感謝しているのです。 |
〈なぜアマテラスではないのか?〉
ここでみなさんは不思議に思いませんか?
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〈アマテラスに断りを入れた?〉
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武澤 秀一(たけざわしゅういち) 1947年群馬県生まれ。建築家/博士(工学・東京大学)。東京大学工学部建築学科卒業。同大学院を中退し、同大学助手をへて建築家として独立。設計活動の傍ら、東京大学、法政大学などで設計教育指導に当たった。20代、30代はヨーロッパ志向がつよかったが、40代に入りインド行脚をはじめる。50代以降は中国、韓国および日本列島各地のフィールドワークを重ねている。著者に、『マンダラの謎を解く』(講談社現代新書)、『空海 塔のコスモロジー』(春秋社)、『法隆寺の謎を解く』(ちくま新書)、『神社霊場 ルーツをめぐる』(光文社新書)、『伊勢神宮の謎を解く——アマテラスと天皇の「発明」』(ちくま新書)などがある。 |