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第24回 2013/03/25
第24回 「安心して悩む」とは?
自死者3万人への取り組み
1998年以降、日本経済の悪化と軌を一にするように年間自死者が3万人を超え、15年間、高止まりが続いていましたが、昨年は27,788人となりました。自死者の増加に対して自殺対策基本法が制定され、行政と民間の双方のレベルで対策が立てられ、やっと功を奏してきたのでしょう。今年はまた3万人を超えるかもしれないので、昨年の数字だけで判断するのは早計とも言えますが、それまで把握できていなかった自死者の実態が徐々に明らかになってきたことが、効果的な方策の実現や自死者の減少に結びついていったということは考えられます1。
自死を防ぐという点での取り組みは広範囲にわたります。さまざまな危機要因がからみ合って自死は起こるものですし、属性や地域により効果的な対応策はさまざまです。うつ病、借金、生活苦、いじめ、虐待、家庭不和、職場の人間関係など、解決すべき問題は多岐にわたり、医療者や弁護士など専門家でなければ解決できないことも多々あります。
しかし、一人で複数の問題を抱え込んでしまう、悩みを誰にも言えないという、ある種の孤独が自死の可能性を高めていることから、とにかく苦しい胸のうちを吐き出せる場、相談できる窓口が必要とされています。いのちの電話や自殺防止センターなどの電話相談のほか、面談、ネットなどのツールを利用した相談窓口があります。とくに昨年3月からスタートした電話相談「よりそいホットライン」(http://279338.jp/yorisoi/)はただ気持ちを吐き出すための電話相談ではなく、相談者が何に困っているのか、どういう手だてが必要なのかを相談員が一緒に考え、そこから必要な機関につなぐというワンストップサービス。1日2万件とも3万件ともいわれるアクセス数が、苦しんでいる人の多さを物語っています。しかし、アクセスに対して応答できるのは1日1200件程度が現実であり、人員の増強がのぞまれています2。
また、忘れてはならないのが遺族を対象とするケア。1人が自死をすれば、5人が遺族になると言われますから、年間15万人、10年で150万人の自死遺族が生まれていることに。家族を自死により失った衝撃・悲しみや生活の問題だけでなく、周囲からの自死への偏見にも苦しむ遺族への支援が必要とされています。現在は、遺族が集って思いを語り合う「分かち合い」の集いが各地で開催されていて、当事者が主体となるセルフヘルプ的なもの、行政が主催するもの、NPOなど民間団体が主催するものがあります。
行動する僧侶たち
自死が社会的問題として取り上げられるようなった2000年代、自死に対して学ぶだけではなく、実際に何らかの行動を起こそうとする僧侶たちが、ごくわずかながらあらわれはじめました。
悩み相談を受けたり、遺族のケアをしたりということは、本来、寺院が担っていた役割であると言えます。法話など一個人を対象としていないものも、思考に影響を与え、苦難に出会った時のヒントになりえますから、一種の予防とも考えられます。法話に限らず、坐禅や念仏といった実践行も、悩んでいる人の力になるでしょう。今のお寺は檀家だけを相手にしているという批判がありますが、全国のお寺が檀家の中から自死者が生まれないように気を配るだけで、とても効果があるはずですから、私は檀家のみを相手にしていても内実がともなえば良いと思っています。
しかし、残念ながら、死んでしまいたいほどに苦しい時、お寺や僧侶が相談先として思い浮かばないのが現実です。
では、あらたに動き出した僧侶達はどういう取り組みを始めているのか。檀信徒以外の人たちを対象として、自死者追悼法要や「分かち合い」の開催、面談、手紙相談、SNSやメール、チャット等インターネットを利用した相談を行う僧侶があらわれています。
ここでは継続的、かつ宗派横断的に活動している団体をいくつかご紹介します。
いずれも追悼法要の開催を契機として2010年に結成された超宗派の会(東海・関西の追悼法要は2009年が第1回)。現在は、年に1回の追悼法要のほかに、隔月で遺族の分かち合いを各地で開催しています。
また、最近の注目すべき活動として、昨年11月に設立された一般社団法人メッターもご紹介しましょう。
長年、ネットを通じて若者と交流し、虐待やDV、生きづらさの相談を受けていた真言宗僧侶・今城良瑞氏が中心になって立ち上げた法人で、理事には宗派の垣根を越えて僧侶たちが名を連ねています。(メッターの役員の多くは「いのちに向き合う宗教者の会」でも活動をしています)目下、虐待から逃れて青少年たちが安心して生活するためのファミリーホーム(小規模住居型児童養育事業)の建設に向けて奮闘中。話を聞くだけにとどまらず、具体的に必要な救済策の実現に向かって動き出しているのです。私もいじめや親からの虐待を受けた方の相談を受けたことがありますが、小さい頃の体験が自己肯定感のなさやトラウマとして成人になっても深く残ってしまうことが多く、メッターのファミリーホームがその一助となるのではないかと期待しています。キリスト教や新宗教と異なり、宗教者と檀信徒の線引きが濃く、僧侶のみで活動をしてしまいがちな伝統仏教界にあって、メッターでは一般在家の人が加わっている点も目新しく感じられます。
活動している僧侶たちは、どのような思いを持っているのでしょうか。以下、私が聞き取り調査や一緒に活動するなかで僧侶たちから聞いた言葉から、抽出してみたいと思います。(今回は「自死・自殺に向き合う僧侶の会」のメンバーの話を中心にまとめてみます。)
活動のきっかけ
僧侶の多くは「なんとなく関わるようになってしまった」といいます。確固たる決意があったわけではない、誘われるがまま、あれよあれよと逃げられず今まで来てしまった、と。他方、「僧侶というのは人の話を聞くのが役目」、「苦しみに向きあうのが仏教者」という考えを持ちながら、「何かしなくちゃいけないんだけど、どうすればよいかわからないし、スキルもない」といった理想と現実のはざまでもがいていた人もいます。
では、なぜ、そもそも自死に関心を持ったかと聞くと、ある人は、「自死された方の葬儀で家族の悲痛な姿に胸を痛めたことが最初」といい、ある人は、「自分もよく死にたいと考えていた」と答えます。友達を自死で亡くして、他人事だった自死が一気に身近に感じるようになったという僧侶もいます。つまり、自死を観念で捉えるのではなく、身近な、リアルな体験として捉えているのです。実存的な自死への関心に、自身の描く僧侶のあるべき姿が重なり、活動に関わるようになっているようです。
取り組む姿勢
僧侶として何かできるのではないか、教えの力で悩める人を立ち直らせることができるのではないかという期待は、もろく崩れ去ることもしばしば。たとえば、「自死・自殺に向き合う僧侶の会」で行われる手紙相談では、1班3人で構成され、担当者が返信を書く際、他の班員のOKが出ない限り、清書・投函とはなりません。今まで、自分の宗派で当たり前に通用していた言葉が、「相談者の心情に寄り添っていない」とばっさりカットされることもあります。ある僧侶は「布教の現場で使ってきた言葉を、この悩みにはコレという感じで持ってきても、これではダメ、もっと相談者の悩みを受け止めて、あなたが感じた気持ちを書いてくださいと言われてしまった」といいます。今までは宗派のなかで、教義を伝えることを使命とされていた僧侶は、教義の言葉を取り上げられ、自分自身に向き合わされるのです。あるいは、仏教の教えを持ち出せば、「無意識に導こうとしているのではないか」と厳しい指摘を受けることもあり、実際には何もできないことを痛感させられるともいいます。
ある僧侶は「僧侶として相談を受けているつもりはない。つらさを受け止めることもできていないでしょう。同じ生きづらさを感じる一人の人間として共感するだけ」と語り、またある僧侶は「目の前で転んだ人がいて、教義では全てあるがままだから助ける必要はないとあったとしても、助けずにはいられない」というようなものだと語ってくれました。
教えに出会う
それでは、僧侶が、僧侶としての自覚を捨て、自分の宗派の教えを無視して、一カウンセラーとして活動に取り組むのかと言えば、決してそうではありません。むしろ、活動のなかで、教えを再発見・再確認し、自覚を深めていると感じます。たとえば、浄土系僧侶は、「活動のなかで自分の無力さを痛感して阿弥陀仏の救済を強く願うようになった」、禅系僧侶であれば、「活動のなかで禅の教えの深遠さを再認識する」、日蓮宗の僧侶は、「それまで仏と対峙していた感覚だったが、自分も含めて仏のいのちのなかにいるという法華経の仏の世界を感じるようになった」など。多くの相談者の「苦しみ」に向きあうなかで、苦の原因を我執にあるとした釈迦の教えに再会する人もいます。遺族と接するなかで、葬式仏教の可能性を再認識することもあります。
僧侶としてのある種の自信が失われ、自分自身と向き合い、他者の苦しみに共感をするなかで、相談者や自死遺族との上下関係(相談される/する、導く/導かれる等)もおのずと消えていきます。昨日までは順風満帆な生活をしていた人が、ふとした拍子で泥沼にはまり、死んだ方が楽という精神状態になってしまう。僧侶も次第に、「自死は決して他人事ではなく、縁に触れれば我が身にも振りかかる問題」、相談者の姿を「いつかの自分であり、かつての自分である」と考えるようになる。さらには、自殺念慮者や自死遺族から学ばせてもらっているという感覚になることもあるといいます。
一度、自信を失いかけたはずが、活動を通じて、再び教えに出会うなかで、逆に、仏教や自分の宗派への確信や自覚は増しているようです。それは自分自身に向き合わされるなかで、それまでテキストを通じて与えられた教え、知識としての教えを、自分のなかに消化する作業と言えるかもしれません。
モチベーションの維持
お金になるわけではない、檀家が増えるわけでもない、自分の宗派の布教にもならない、時間は取られる、相談は重い内容ばかり。どうしてこんな活動を続けていられるのでしょうか。一つには、仲間の存在があげられます。僧侶たちは、口を揃えて、一緒に活動をしている仲間といる時は、宗派の集まりよりも居心地が良いといいます。宗派の集まりが、多くの場合、僧侶本人の意思に基づくものではないという皮肉な現状に対して、自死に対して何とかしたいという目的を持って主体的に関わるという点で居心地の良さがあるのでしょう。また、主体的に関わり、活動のなかでの苦労を共有するからこそ、お互いを尊敬し、支え合うようにもなるのでしょう。「仏教には力があるとみんな信じているからではないか」と指摘する僧侶もいます。
もう一つには、修行として捉える考え方もあります。多くの苦に向き合い、自分自身と向き合うことを、僧侶としての修行と捉えるのです。はっきり修行とは言わないが、「活動をすることで、自分が僧侶であることを確認している」という僧侶もいます。
「活動しているのが普通になってしまって、活動をしてない僧侶の自分というのが想像できない」、「この活動を美談扱いされることは疑問。地道に続ける活動だと思う」といった声も聞かれます。面白いことに、「あまり強い決意とか情熱で始めると、かえって長続きしないかもしれない」という声が少なくありません。たしかに、重い相談を受け続けるには、ある種の諦念が必要であり、「僧侶としてやるべき」、「社会に貢献するぞ!」という理念やヤル気だけで維持できるものではないのかもしれません。
自死者数が減ればよいのか
こうした活動のゴールとは自死者数が減ることなのでしょうか。私がインタビューをしたある僧侶は、「自死をさせないことが目的なら、手足を縛ってできるかもしれないけれど、それほど苦しいものはないですよ」と言いました。
この発言は極論かもしれませんが、自死者数を減らすこと、つまり数字にとらわれてしまう私たちに示唆を与えてくれているような気がします。自死対策というのは、ただ自死をさせないことが目的ではないわけです。
「自死・自殺に向き合う僧侶の会」の目的には、「一人ひとりが生き生きと暮らし、安心して悩める社会づくり」が掲げられています。「安心」と「悩む」。相反するように思われるかもしれません。どんな意味が込められているのでしょう。
私たちは、生きていれば、何かしら悩みごと、苦しいことに出会うものです。でも、今の競争社会では、弱音を吐いたり、自分の弱い部分を他人に見せたりしたくない、いや見せてはいけないという考えが満ちているように感じますし、人に迷惑をかけてはいけないという考えも強くあります。生活保護の不正受給がニュースで取り上げられますが、そのいっぽうで、受給資格があっても「私なんかが受けては申し訳ない」と申請をしていない人が不正受給数よりも多いと聞きます。相談者から「私より苦しんでいる人がいるのに、こんなことで相談しても良いのでしょうか」「私なんかの話に時間を割いてもらってありがとうございました」という言葉を耳にすることも少なくありません。どうも悩みを口にしたり、誰かに相談したりすることが後ろめたい社会になっているようです。
「安心して悩める社会」というのは、「悩み」を全否定するのではなく、悩み、悲しみ、苦しみがやってきたときには、誰かに話せる社会であり、悩んでいる自分自身を否定しなくて良い、悩んでいる自分も「あり」と思える社会だと思います。自死を引き起こす経済問題や健康問題は専門家に委ねるしかないのかもしれませんが、悩むことも肯定する生き方を提示することは宗教者ならではの役割の一つではないでしょうか。
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