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寄稿コラム


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第18回 2012/08/01

近代日本における戦争と宗教——―仏教界の視点から

1.生存競争としての戦争協力

 戦争と宗教。それは、もっとも遠いようでいて、もっとも近いテーマです。平和や共存・共生を願うはずの宗教が、紛争や戦争の原因となり、世界情勢の混乱要因とさえなっていることは、あらためて例を挙げるまでもない、近年の国際政治情勢でしょう。とりわけ、東西冷戦というイデオロギー対立が終焉して以降、紛争が地域レベルに拡散され、その主要因のひとつとして宗教の存在が注目されてきました。
 その際、特に注目を浴びるのはイスラム教であり、その過激派や原理主義といった考え方や勢力でしょう。一方で、9・11テロ以降、中東での戦争を継続してきたアメリカの兵士たちも、自らの信仰するキリスト教の神に勝利や生存を祈り、戦い続けてきました。冷戦終結直後に刊行された『宗教から読む国際政治』(日本経済新聞社)はかつて、「新しい国際秩序が形成されるなかで宗教が重要な要素になるならば、今後世界は、非妥協的な紛争に少なからず直面するのではないか。冷戦構造のタガが緩むと共に世界で発生した民族紛争の多くが宗教対立を背景にする事実は、不安な兆候である1」と予言しましたが、不幸なことに、我々はこの予言が当たっていないことを確言できる現実のなかに暮らしていません。
 では、日本人の多くが親しんでいる仏教はどうでしょうか2 。仏教では、その信者が守るべき戒めとされる五戒や八戒において、「不殺生戒」が第一に置かれています。その原理的・教義的観点からみるなら、明らかに戦争は殺戮行為であり、否定されなければなりません。しかし、近代日本の歴史を振り返ってみるとき、戊辰戦争から太平洋戦争まで、仏教勢力のほとんどは戦争に協力してきた、という歴史的事実が存在しています。戦争を行う国家に対し資金や人材、物資を提供し、従軍僧を派遣して布教や慰問に努め、戦争の正当性を僧侶が説いて回ったのです。
 それは、なぜでしょうか。最初の経験であった戊辰戦争が勃発したとき、発足したばかりの薩長を中心とする新政府が「官軍」となり、これに敵対する旧幕府軍は「賊軍」となりました。よく知られている通り、江戸時代において、寺院は戸籍の管理という行政の一端を担っており、その意味で、幕府ときわめて近しい関係にありました。その幕府が倒れてしまう。その現実を前に、いわば新時代における「生存」を賭けた承認競争がはじまります。たとえば東西両本願寺では、もともと倒幕側に肩入れしてきた西本願寺は継続して新政府軍に協力し、莫大な人材や資金を提供しました。一方、徳川家康の寄進によって設立され、それ以降も幕府との関係が密接であり続けた東本願寺は後手に回ることになり、必死になって旧幕府との関係を断ち切り、新政府軍に協力することで、その「生存」を勝ち取ろうとします。仏教だけではありません。神道の神職たちもまた、新政府からの承認を得ようとして自ら武器を取って立ち上がり、新政府軍に参加しました。「生存」のための競争。それが、政治権力の交代という大変動期にあって、仏教者たちの戦争協力を支えた論理であり、心理でした。

2.    国家間戦争と戦争協力

 戊辰戦争では新政府軍が勝利し、明治政府が以後、本格的な国家建設を進めていくことになります。目標としたのは西洋列強であり、対外的独立であり、近代化でした。そうした西洋化路線や、それを推し進める薩長藩閥政府への権限の集中、さらには、近代化のための改革によって特権が切り捨てられていく士族たちの間には不平が広がり1870年代、続々と不平士族の反乱が勃発していきます。
 最大の士族反乱となった1877年の西南戦争では、反乱の勃発地点となった鹿児島が新政府発足以降も半独立国状態で中央政府の統治が十分に行き届いておらず、それまでの長い歴史を踏襲して、浄土真宗の信仰を禁じていました。武士の支配社会を横断する講組織や、年貢が本願寺への寄進に流れる、といった点を警戒したためだといわれています。その禁止が、戦争勃発の前年に大久保利通や西郷隆盛の尽力で解かれたことから、本願寺は積極的な布教攻勢に出ます。戦争がはじまったあとも、政府に不満を持つ人々を鎮める、という論理で政府からの公認を得て、布教を続けていきました。かくして、いまの真宗王国・鹿児島が形成されていきます。
 「生存」から「拡大」へ。仏教勢力の視野がさらに広まった一幕でした。「拡大」の視野は、海外へも広がっていきます。明治の開国以降、日本の仏教は積極的な海外布教を展開していきますが、その重要な契機となったのが、日清・日露戦争でした。日清戦争では、不殺生戒という原理的課題に対して、あくまで戦争の廃滅を目標としながらも、日本がアジアの指導者として覚醒をはかるための「義戦」に参戦することは仏教の唱道するところである、などと解いて戦争協力を正当化しました。こうした姿勢の背景には、当時、布教や慈善事業・教育活動などを通して勢力を拡大してきていたキリスト教への対抗という意識もあったといわれています。そして、この戦争の勝利によって台湾を植民地化した日本側では、積極的に現地での仏教布教活動が展開されていくことになります。「生存」と「拡大」。その交差点に、戦争への協力が位置していました。
 日露戦争の際も本願寺派は、帝国未曾有の事変に際して挙国一致で対処すべきであり、真宗門徒は兵役や軍資募集などに積極的に応じ、「国民」として「王法」を守るよう法主・大谷光瑞は宣言し、日清戦争をはるかに越える規模の従軍層の派遣、軍資献納、恤兵品の寄贈、軍事公債応募の奨励、出征・凱旋兵の送迎・慰問、出征軍人の留守家族の慰問・救護、傷病兵の慰問、戦死者の葬儀、戦死者遺族の慰問・救護などにありました。従軍僧は、宣戦詔勅や法主のことばを基準にして法話・説教を行い、たとえば、真宗門徒の多い石川・富山・福井の3県の連隊から構成される第9師団の従軍僧となった佐藤厳英は、前線出動を控えた師団将兵に対し、この戦争が仏教の殺生戒とは矛盾しないこと、平和のための戦いであること、慈悲の精神から捕虜や非戦闘員を助けるべきこと、そして恐怖心が湧いた時は南無阿弥陀仏を唱えよ、国家のために死ぬのは名誉であり、靖国神社にまつられるのは身に余る幸せである、などと語っています。そしてこの第9師団は、有名な旅順総攻撃で一斉に「南無阿弥陀仏」と唱えながら突貫したと伝えられています。当時第9師団の士官だった林銑十郎(のち首相)は、「第一回の総攻撃で第九師団はほとんど全滅と迄言いわれた。・・・真宗門徒の半死半生の兵士は皆口の中では称名を唱へて居る。夜になると全部が『南無阿弥陀仏』をやるので囂囂と聞こえる位である。助けて呉れなどと言ふ者は一人もない。それに依つて私は北国に於ける仏教の力は茲だと云ふことを感じたのであります」と回想しています3
 こうした協力的姿勢、そして兵士への影響は、他宗派においても同様であり、一部の僧侶からは非戦・反戦の声はあがったものの、それは教団から非正当な主張として退けられていきました。

 3.国家行為と宗教行為

 「生存」と「拡大」。前者がほぼ保証された状況の中で、仏教者をさらに後押ししたのが後者でした。アジアへの日本仏教の拡大という課題が、アジアへの勢力を拡大する日本の国家行為と連動して捉えられていたわけです。
 この国家行為と宗教行為との連動を考える上で、重要なキーワードがあります。それは、「布教権」です。もし、中国大陸で日本仏教が自由に布教する権利を獲得していたなら、日本政府や日本軍のアジア戦略とは自立した形での布教活動が、可能だったかもしれません。実際、日露戦争に続く第一次世界大戦の際、日本政府は有名な対華二十一箇条の要求を中国側に突きつけ、日本仏教の布教権の獲得をその一項目に盛り込みました。すでに欧米諸国のキリスト教の布教権を中国側は承認しており、日本仏教もこれと同等の権限を保有すべきである、というのが、日本仏教側の主張でした4 。しかし、中国側はこれを含むいわゆる第5号要求の削除をもとめて日本政府もこれを受諾し、結局、布教権は設定されませんでした。それ以降中国では、終戦まで、結局自立した布教権が確立されることはありませんでした5
 このため、日本仏教の活動領域は、日本軍が公式・非公式に制圧した実効支配地域に限られることになり、必然的に布教をはじめとする宗教行為は戦争という国家行為と連動し続けることになります。実際、アジアに急速に勢力を拡大していった昭和期、仏教界は各戦争に積極的に協力し、そして敗戦によってアジアの支配権を失った瞬間に、日本の寺院も神社も、一斉にアジアから消えてなくなることになったのです。
 もとより、昭和の戦争期において、「生存」を考えるとき、非戦や反戦の声を上げることは簡単ではありませんでした。実際、日中戦争期に「戦争は罪悪である」などと発言した結果、陸軍刑法によって有罪判決を受けた真宗大谷派明泉寺の住職・竹中彰元は、法要座次を最下位に降格されました。宗教者個人としては国家的・社会的制裁と教団的制裁を覚悟しなければならない、そして教団としては国家的・社会的制裁を覚悟しなければならない、すなわち、「生存」を賭けなければならない、それが戦争協力をめぐる態度の是非を決定付けました。
 竹中彰元は2008年に大谷派によって名誉を回復されていますし、いま、仏教各派では戦争協力に対する反省や、戦争反対の声を上げた人々の名誉回復が進められています。それはたしかに必要なプロセスでしょう。ただ、なぜ、不殺生戒を掲げる仏教界が戦争に協力したのか、その「生存」と「拡大」をめぐる当時の状況や意欲はいかなるものであったのか、そうした実態の実証的分析なくして、反省を踏まえた次の一歩は踏み出せないのも事実です。現代に平和や共生を呼びかける資格、それは平和や共生をおびやかしてしまった過去の精算からしか生まれてこない。宗教学でも仏教学でもなく、政治学という門外漢の立場からあえて宗教界の歴史と現状をみつめてきた者として、そのことを痛感しています。


1 日本経済新聞社編『宗教から読む国際政治』(日本経済新聞社、1992年)、285——286頁。
2 以下、詳しくは拙著『近代日本の戦争と宗教』(講談社選書メチエ、2010年)、参照。
3 「仏教日本の示標を語る座談会」(『大法輪』1938年3月号)、91―93頁。
4 『東京朝日新聞』1915年5月2日付朝刊。
5 野世英水「近代真宗本願寺派の中国における活動」(『印度學佛教學研究』第56巻2号、
  2008年3月)、24頁。

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小川原正道先生

慶應義塾大学法学部准教授
 1976年、長野県生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒。慶應義塾大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程修了。博士(法学)。専門は日本政治史・政治思想史。近現代の日本の政治と宗教の関係について、政治史・行政史・政治思想史の観点から研究を続けている。
 従来、宗教学や仏教学などが研究対象としてきた政治と宗教の関係を、政治や行政の観点から見直すことによって、政治・行政にとっての宗教の意味や役割、そして、その政治・行政と向き合いながら信仰を守り、広め、育てていかねばならなかった教団や、宗教者の姿が、はじめて見えてくる。とりわけ日本のような行政主導国家の場合、宗教と行政の関係というのは、見過ごすことはできない。そして、その政治・行政の最大の行為こそが戦争であり、大衆を動員するために政治・行政は宗教を利用し、教団や宗教者はその政治・行政の要請、戦争の大義、戦争による殺戮、そして戦争の成果、といったものと向き合わねばならなかった。戦争と宗教という事例を研究することで、政治と宗教との関係のいわば究極的な形、そして象徴的、典型的形態をみてとることができると感じ、これまで近代日本の戦争と宗教について研究をしてきた。拙著『近代日本の戦争と宗教』(講談社)は、その成果の一部である。
 近代日本が数多くの戦争を闘った、というのは歴史的な事実ではあるが、それはその時代、時代における多様な選択肢のなかから、政府や軍が選んだ結果の集積に過ぎない。逆にいえば、戦争のみならず、政治形態も社会のしくみも、国家建設過程・国家運営過程においては、さまざまな他の選択肢があったということである。それを示してくれるのが、たとえば福沢諭吉をはじめとする思想家の政治思想であり、板垣退助をはじめとする自由民権運動家の政治目標であった。その意味で、これまで福澤諭吉や板垣退助、西郷隆盛をはじめとする思想家・政治家の政治思想・政治行動についても研究を重ね、近現代の日本が保有していた様々な思想的課題と可能性について探求してきた。『福沢諭吉の政治思想』(慶應義塾大学出版会)、『福沢諭吉―「官」との闘い』(文藝春秋)、『西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦』(中公新書)、などは、そうした取り組みの成果である。
 著書に、『福沢諭吉の政治思想』(慶應義塾大学出版会、2012年)、『福沢諭吉―「官」との闘い』(文藝春秋、2011年)、『近代日本の戦争と宗教』(講談社選書メチエ、2010年)、『西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦』(中公新書、2007年)、『評伝 岡部長職―明治を生きた最後の藩主』(慶應義塾大学出版会、2006年)、『大教院の研究―明治初期宗教行政の展開と挫折』(慶應義塾大学出版会、2004年)、などがある。