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第14回 2012/04/26

「いのちへの問い」と生命倫理―宗教に問われているもの

 昨年(2011年)秋に、拙編著『「いのちの思想」を掘り起こす―生命倫理の再生に向けて―』(岩波書店)が出版されました。この本は、上原專祿(歴史学者)、田中美津(ウーマンリブ運動)、中川米造(医学哲学者)、岡村昭彦(戦場写真家)という、これまでまったく並べて論じられたことのなかった四人の個性的な人物の思想を「いのちの思想」として、今日「生命倫理」と呼ばれているような営みの先駆としてとらえ直すとともに、日本に生命倫理(学)を紹介し、根づかせようとしたさまざまな開拓者たちの思想やその背景を歴史的に概観しようとしたものです。
 

 副題に生命倫理の「再生」という言葉が使われているのは、「生命倫理」という語が人口に膾炙し、それをめぐる議論が盛んに行われるとともに、学としての 「生命倫理学」の制度化が進みつつある現在、逆に、私たちを生命倫理という営みに駆り立てるような根源的な問いの力が失われてきているのではないか、とい う思いをずっと抱いてきたからです。
 

1.生命倫理との出会い

 私は現在、大学医学部に勤めており、医学部のなかでは主として生命倫理学や死生学を教えていますが、もともとは文学部出身の宗教学者です。英米のバイオエシックスの翻訳書を含め、日本で生命倫理(学)に関する本が出はじめたのは1980年代の後半になってからのことですが、私は1996年に現在の職場(医学部)に赴任するまでは、あまりそうした本を読んだこともなかったのです。そういう私が、いきなり医学部で「生命倫理学」という講義をしなければならなくなった(!)というのが、(振り返ればおそろしいことですが)今では運命的なものを感じる、私と生命倫理との出会いです。
 
 もっとも、これは後になって気づいたことですが、そうした職務上の、いわば外的な出会いと同時に、私のなかには個人的な人生経験を通じて、生命倫理との内的な出会いが準備されていたようにも思うのです。私は一人っ子で、両親と祖父母の5人家族だったのですが、20代の10年間で自分以外の4人の家族をすべて亡くしました。特に1989年の2月と4月に両親を立て続けに(しかもほとんど突然死に近いようなかたちで)亡くしたことは、私にとって大きなショックであったとともに、人間の生と死というものを深く考えるきっかけになりました。また、これも偶然ですが、私が深い喪失の傷からようやく立ち直りかけたころに、世界の諸宗教の死生観・来世観を論じた“Death and Afterlife”1という本の翻訳の仕事をさせていただいたことも、生命倫理という領域に私が入っていく上での助走路のようなものになったのかもしれません。

2.生命倫理学への疑問

 そういうわけで、生命倫理(学)についてはほとんどなんの専門的な知識も教養もなく、生命倫理関係の学会にすら入っていないような状態で、大学で生命倫理学を教えるということになったのですが、最初の3年間ぐらいは、とても生命倫理の研究などというレベルではなく、この分野に関するありとあらゆる本を読みまくり、現在どのような議論がなされているのかをなんとか把握するだけで精一杯でした。
 ところが、私は、ほんの一部のものを除いては、巷に出ている生命倫理学の本やそこで行われている議論のほとんどに納得できないというか、論理的な部分では一応うなずけるものであっても、体感的な部分ではまったく腑に落ちないことが多かったのです。自分で納得できない内容を学生に講義するのも気が咎めてしまったので、とりあえずは既存の「生命倫理学」の議論を紹介しつつ、そのどこに自分が違和感を覚えるのかをできるだけ言語化して学生に伝え、考えさせる、といったかたちで講義をするようになったのですが、後にそれを学会発表や論文の形で公にすることで、既存の生命倫理学という枠組みのなかで何かを論じるというよりは、問題自身の深みを見据えながら、そこにうまく届いていない生命倫理学や生命倫理の言説それ自体を批判的に対象化するという私のスタイルが徐々に形成されていったと言えるでしょう。
 さて、私が当時の生命倫理学の議論に対して感じた疑問は主として次の三つです(これは今でも同じです)。一つは、哲学・倫理学系の生命倫理学研究者に多いのですが、生命倫理の問題について、自分自身の人生を棚に上げたようなかたちで、論理的なパズルを解くかのように考察するというやり方でした。もちろんそういう議論には知的な興奮を覚えることも多いのですが、人間の生と死という各人に固有な歴史をもった一回限りの出来事に関わる問題を考察するにあたっては、あまりに深みがないというか、不遜とも言える印象を抱きました。逆に、医療系、実践系の生命倫理学者に多いのですが、医療の現場にいる専門家、医療従事者がもっとも生命倫理への発言権をもっている、というような考え方にも疑問をもちました。「現場のことは現場の人間にしかわからない」「現場の実践に役立つ議論を」といった言葉は一見もっともに思えたりするのですが、こういう発想では、現代の生命倫理のさまざまな問題を引き起こしている現代医学・医療そのもののシステム2やその前提となっている世界観、価値観というものを批判的に問題視することは難しいと思いました。さらに、法学系の生命倫理学者たちは、患者の権利や人権ということを盛んに言うのですが、たとえば生殖医療や臓器移植のように、ある人の生命やいのちを守ろうとすることが必然的に別の人の生命やいのちの犠牲を伴う場合があるように、現代の生命倫理問題が、単に欲望の充足とか機会の平等といった観点だけでは扱えない生と死の「神秘3」のようなものに関わっているという事態が十分にとらえられていないように感じました。


3.いのちへの問いと生命倫理

 生命倫理の諸問題、とりわけ生殖医療や臓器移植などの先端医療技術や安楽死・尊厳死などの問題は、「生とは何か」「死とは何か」「(人間が死すべき存在であるということを含めて)私たちが生きているということはどういうことか」といった根源的な問いを私たちに突きつけています。こうした「いのちへの問い4」は元来、宗教という営みの根本にある問いでもありますが、それが現代の生命科学や医療技術の飛躍的な発展のもとでもう一度新しいかたちで問われるようになったと言えます。ところが、現代の生命倫理学というのはこのような根本的な問いを棚上げにしてしまっているというか、その問いを十分に問わないままで単なる利害や権利の調整や「倫理的な問題もきちんと検討しましたよ」というお墨付きを与えるためのある種の手続きになってしまっているように思えたのです。
 新しい医療技術や生命科学研究に対して、性急に「是か非か」を迫るような生命倫理学の議論は、それが私たちにどういう問いを投げかけているのかをじっくり考える余裕を与えてくれません。生とは何か、死とは何か、といった根源的な「いのちへの問い」は、それに対してみなが納得するような答えが得られないという理由で、個人個人の価値観や死生観という領域に追いやられてしまい、結局は公的な議論からは棚上げにされてしまうのです。「~~については絶対に倫理的に認められないという根拠は存在しない」といった言い方は、既存の社会に蔓延している浅薄な価値観や死生観を問い直すことなく、国策や産業利益と深く結びついた新しい医療技術や生命科学を推進する方向に後押しすることになります。臨床現場における意思決定についての実効性を求める生命倫理学の議論もまた、私たちの生老病死という神秘を既存の医療やケアの枠組みによって解決可能な「問題」のみに還元してしまうことで、「個人の価値観や死生観の尊重」を唱いつつも、実質的には同じように「いのちへの問い」を個人に預けたまま、専門家主導の医療文化をますます強化するような方向に与しているように思えました。

4.宗教や宗教学に問われているもの

 私には、上記のような現代の生命倫理(学)の議論には、広い意味での宗教的な観点というか、人間存在、あるいは人間の生と死の現実そのものに含まれている宗教的な次元というものが十分にふまえられていないように感じられました。とはいえ、特定の宗教的な信仰をもっているわけではない私には「宗教の立場から」生命倫理を論じることはできませんし、ほとんどの人が自分を「無宗教」と見なすような現代の日本社会のなかでは、そうした「(特定の)宗教の立場から」の議論はあまり効力をもたないでしょう。
 現代の生命倫理問題との関わりにおいて、宗教や宗教学に求められているものがあるとすれば、それは何らかの宗教的教義やその世界観に基づいて生命倫理問題への一定の「答え」を出すことではなく、むしろ、宗教そのものの根底にある「いのちへの問い」に立ち返って、それを徹底的に「問う」ことのなかにあると思います。一般の生命倫理学においては深く問われぬままに棚上げされている「いのちへの問い」をきちんと問い続けること5。そのことは、宗教や宗教者にとっては、現代の生命倫理という新しい問題をいわば触媒にしてそれぞれの宗教的な伝統やその教義、世界観そのものを問い直すことになるでしょうし、「宗教」を敬遠することで、実は人間存在にとって本質的な「宗教的な問い」を避けたまま通り過ぎようとしている多くの人々にとっては、もう一度自分たち自身の問題として宗教を考えるきっかけにもなるのではないでしょうか。

 
〈注〉
1. ヒロシ・オオバヤシ編・安藤泰至訳『死と来世の系譜』時事通信社(1995)
2. 拙論「「先端医療」をめぐる議論のあり方―選択と選別のロジックを中心に」(佐藤光編『生命の産業―バイオテクノロジーの経済倫理学』ナカニシヤ出版(2007)251-302)は、生殖技術と臓器移植を主たる対象に、私たちの生死における「選択」の強調が必然的にある種のいのちの「選別」につながっていく現代の医療システムを批判的に問題にしたものです。
3. フランスの哲学者ガブリエル・マルセルは、人間が取り組むべき問いを「問題(プロブレ―ム)」と「神秘(ミステール)」の二つに分けています。「問題」はそれを外側から分析し、対処・解決することができますが、「神秘」にはそれを自ら生きるというかたちでしか答えを与えることができません。私たちの生老病死がその典型です。以下の拙論は、マルセルのこの区別にヒントを得て、病いという経験に焦点を当て、医療専門職のプロフェッショナリズム(専門家中心主義)の限界を論じたものです。
安藤泰至「〈病いの知〉の可能性―プロフェッショナリズムを超えて―」、『医学哲学・医学倫理』第23号(2005)77-86
4. 生命倫理の分野で私が書いた処女論文「人間の生における「尊厳」概念の再考」(『医学哲学・医学倫理』第19号(2001)16-30)は、生命の尊厳、人格の尊厳、人間の尊厳といった概念の問題点とそれが引き起こす混乱について、日本語で生を表す四つの語(「生命」「生活」「人生」「いのち」)の間に見られる意味、次元の差を手がかりに論じたものです。
5. 拙編著『「いのちの思想」を掘り起こす』で取り上げた四人の思想家は、それぞれの人生における深い痛みを伴った「いのちへの問い」に徹底的に向き合い、それを「いのちの思想」として表現していった点で、私たちを生命倫理の問いへと向かわせる本質を自ら体現して生きた人々だと思います。


+ Profile +

安藤泰至先生

鳥取大学医学部准教授

1961年大阪生まれです。よく、みずがめ座&B型の典型と言われます。
京都大学文学部とその大学院で宗教学・宗教哲学を学びました。米子工業高専に9年間勤めた後、現在の鳥取大学医学部に転勤し、はや16年になりました。
最初は、フロイトの思想研究を中心に、宗教と心理学・心理療法の相互関係をめぐる思想史的な研究を行っていましたが、医学部に転勤してからは、生命倫理や死生学に関する研究や、現代社会における「スピリチュアリティ」をめぐる研究に重心が移ってきています。
コラム本文と注に挙げたもの以外の主な著書・論文としては、「精神分析とスピリチュアリティ」(鶴岡賀雄・深澤英隆編『スピリチュアリティの宗教史 上 巻』[2011]リトン)、「死生学と生命倫理―「よい死」をめぐる言説を中心に」(島薗進・竹内整一編『死生学[1]』[2008]東京大学出版会)、「「宗教と生命倫理」とは いかなる事柄か」(『宗教哲学研究』[2008]第25号)、「越境するスピリチュアリティ」 (『宗教研究』[2006]349号)などがあります。
2006年から2007年にかけて、有名な生命倫理学者ジェイムズ・チルドレスが所長を務めるヴァージニア大学実践倫理研究所のフェローとして、アメリカ合衆国で在外研究をすることができました。そのときの様子は、ブログ 「ヴァージニア日記」に書きましたので、ご覧下さい。
それを読むとバレバレですが、ほとんど職業である読書以外の趣味は、音楽(ピアノ演奏はクラシックのみ、聴く方はクラシックとモダンジャズ)、競馬(最近なぜか調子がよいです)、お酒&グルメ(食べ・飲み歩きと料理作り)です。


 「越境するスピリチュアリティ」 CiNiiで全文読めます。

「ヴァージニア日記」