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第4回 2010/10/25
「大般涅槃経」(大乗の涅槃経)という経典については、多くの高僧がしばしば引用・言及しているにもかかわらず、浄土経や、般若経、法華経と比べて比べて研究ははるかに数が少なくなります。しかし、大乗仏教の発展に際して、重要な役割を果たした経典であるという指摘もあり、研究の国際的・学際的深化が待たれていました。ドイツ在住の幅田裕美先生は、その涅槃経について、断片的に残されたサンスクリット原典を参照しながら研究を進めておられます。このたび、ミュンヘンにおいて、大般涅槃経国際ワークショップを主宰された先生に、会議の意義と様子についてご寄稿いただきました。
大般涅槃経国際ワークショップ(第2回) 於ミュンヘン![]() 第2回大般涅槃経国際ワークショップ(Second International Workshop on the Mahāparinirvāṇa-sūtra)が2010年7月27日から29日の3日間、ミュンヘン大学(Ludwig-Maximilians-Universität München)で開催されました。2008年7月に第1回大般涅槃経国際ワークショップがスタンフォード大学で開催されてから2年ぶりの国際集会となりました。 ヨーロッパの仏教研究の黎明期に近代仏教梵語文献学の基礎を築いたビュルヌーフ(Eugène Burnouf 1801-1852)が法華経の翻訳研究(Le Lotus de la Bonne Loi, Paris 1852)を出版して以来、法華経をはじめとする仏典の研究がすでに長い歴史をもつのに比べて、涅槃経の学術的な研究が日本の仏教研究の枠内に留まっている状況は、近年の日本における優れた研究出版が知られているとはいえ、国際的に議論する土台が築かれているとは言い難い段階にあります。これは、豊富な写本資料をもつ法華経や般若経とは対照的に、涅槃経のサンスクリット語写本1の完本が発見されていないことから、厳密な原典分析に基づく文献学を研究の基礎とするヨーロッパの仏教学では、研究対象にすることが難しかったということが理由のひとつとして考えられるでしょう。 「大般涅槃経」のサンスクリット語はMahāparinirvāṇa-sūtraですが、ヨーロッパでは、この仏典名は、ヴァルトシュミット(Ernst Waldschmidt 1897-1985)の校訂テキスト(Das Mahāparinirvāṇasūtra. Text in Sanskrit und Tibetisch, verglichen mit dem Pāli nebst einer Übersetzung der chinesischen Entsprechung im Vinaya der Mūlasarvāstivādins. Berlin, Teil I, 1950; Teil II, 1951; Teil III, 1951)を思い浮かべるのが通常です。このテキストは、パーリ経典Mahāparinibbānasuttantaに対応する義浄訳根本説一切有部毘奈耶雑事およびチベット語訳根本説一切有部’dul ba(vinaya-kṣudraka-vastu)を中央アジア出土の梵語断片と対照させて出版したものです。一方、日本で「涅槃経」と言えば、曇無讖が漢訳した『大般涅槃経』を連想し、その状況は異なっています。 仏陀の最期を扱った仏典の研究は、仏教学の重要な課題のひとつであり、フランスのプルツィルスキ(M. Przyluski)、バロー(André Bareau 1921-1993)の研究をはじめ、ヴァルトシュミットの研究(Die Überlieferung vom Lebensende des Buddha. Eine vergleichende Analyse des Mahāparinirvāṇasūtra und seiner Textentsprechungen. Göttingen, Teil I, 1944; Teil II, 1948)は総括的なものとして筆頭に挙げられるでしょう。これらの研究においても、曇無讖訳の『大般涅槃経』は考察の対象外に留まっています。しかしながら、ヨーロッパの仏教学者が『大般涅槃経』という重要な仏典があることを無視していたわけではなく、法華経や般若経とならんで重要な大乗仏典に涅槃経があること、その研究が長年待たれていたことは言うまでもないことと思われます。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― このような状況に鑑みて、筆者は涅槃経の文献学的な基礎研究プロジェクトをドイツ学術振興会(DFG: Deutsche Forschungsgemeinschaft: German Research Foundation)に申請し、「ブッダ最期の伝承--大乗伝承の校訂テキストと分析」(Die Legende vom Lebensende des Buddha: Ein Beitrag zur Überlieferungsgeschichte. Kritische Edition und Analyse der Mahāyāna-Fassung)をミュンヘン大学のインド学チベット学研究所(Institut für Indologie und Tibetologie)の受け入れで推進できることとなりました。 第2回大般涅槃経国際ワークショップは、このプロジェクトの一環としてオーガナイズされたものです。DFGの予算だけでは不足の為、仏教教団真如苑から資金援助を得て、参加者に不自由ない環境を整えることができたのは、大いにワークショップの成功につながりました。 2008年のスタンフォード大学における第1回の国際ワークショップは参加者が一緒に大般涅槃経のテキストを部分的に読む講読会形式のプログラムでしたが、第2回は参加者それぞれが、大般涅槃経にアプローチする際の問題点や各自の専門領域との接点を見つけ、それぞれのテーマについて発表し、討論し、あわせてそのテーマに関する大般涅槃経のテキストの部分を読むという形式で構成しました。筆者が準備中のチベット語訳校訂テキストがまだ出版されていない段階でのワークショップ開催となり、必要な部分の暫定的なデータを事前に提供することで基礎資料を準備しました。 大般涅槃経に関する研究会はヨーロッパでは初めてということもあり、第1回のスタンフォードのワークショップから協力関係にある日本の下田正弘、佐藤直実、アメリカのハリソン(Paul Harrison)、ブラム(Mark Blum)、またブラムがオーガナイズしたAAR(American Academy of Religion) 2009年大会の涅槃経パネルに参加したゴメス(Luis O. Gómez)に加えて、ヨーロッパの仏教学者の参加協力を得ることに努めました。幸い、ドイツ仏教学の重鎮でハンブルク大学名誉教授のシュミットハウゼン(Lambert Schmithausen)が大般涅槃経の肉食の問題について研究されていることから参加を諒解され、また欧米の仏教学会をリードするライデン大学のシルク(Jonathan Silk)も急遽参加となり、開催校のミュンヘン大学からはハルトマン(Jens-Uwe Hartmann)、ジン(Monika Zin)、メッテ(Adelheid Mette)の教授陣をはじめ、多くの若手が参加しました。若手研究者のなかではミュンヘン大学のフォン・クリーゲルン(Oliver von Criegern)、パリ大学のトゥルニェール(Vincent Tournier)、ライプチヒ大学のメルツァー(Gudrun Melzer)が、最新の研究成果から涅槃経への新たなアプローチの視点を提示しました。また、チベット語訳からの英訳を準備中のホッジ(Stephen Hodge)は健康上の理由の為、遠方への研究会参加が困難でしたが、ロンドンから陸路の旅で参加できることになり、チベット語訳の理解で大いに貢献しました。 第1回国際ワークショップに続いて参加予定だった佐藤直実とナティエ(Jan Nattier)が事情により急遽参加をキャンセルせざるを得なかったのは残念でしたが、欧米および日本の仏教学者の若手から重鎮までが参加する充実したプログラムを組むことができ、終始和やかな雰囲気の中で、積極的な議論がかわされました。 会議の概要は以上に述べたとおりですが、発表の欧文タイトルなどを知りたいと思われる方のために、プログラムを原文のまま掲載いたします。 第1日目 2010年7月27日
第2日目 2010年7月28日
第3日目 2010年7月29日
最終日の話し合いでは、今回のワークショップの後、涅槃経研究をどのように進めていくかが議題となりました。涅槃経をテーマに国際集会で研究者が集まるのは、2008年7月のスタンフォードのワークショップ、2009年11月のモントリオールのAAR Annual Meetingのパネルに続いて、今回のミュンヘンのワークショップが3回目となり、そろそろ研究成果の公表を考えてはどうかという提案がありましたが、それぞれの研究者が研究の手掛かりを見つけた段階で、論文集の刊行にはまだ研究集会を重ねていく必要があり、最終的に大きな学術大会が開催されてから、まとまった論文集を刊行できるように目標を定めるべきであるとの結論となりました。 小規模な国際研究集会の利点を生かして、発表討論に充分時間がとれるよう準備しましたが、発表も討論もし尽くしきれない場合が頻出し、涅槃経をめぐる問題の膨大さを再認識することとなりました。プログラムの合間にも積極的な研究交流が続けられ、研究者が会って話し合う機会の大切さを満喫した3日間となりました。 最後に、貴重な時間を今回のワークショップのために費やしてくださった参加者の方々、多方面で協力してくださったミュンヘン大学のスタッフの方々、また後援のDFGと真如苑に心から感謝申し上げます。 |
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