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寄稿コラム


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第1回 2010/04/01

ファトワー:イスラームと暮らす

試験としての人生:ムスリムの生活とイスラーム

「現世はいわば、試験です。来世で天国に行けるかどうかを試すための」
 シェリーフはそう言って笑いました。彼は20代後半の敬虔なムスリムで、現世を試験に例えた言葉を聞くのはそれが初めてでしたが、その言葉にはその後フィールドで幾度となく出会うことになりました。ムスリムは来世をも視野に入れて毎日を生きています。最後の審判と来世を信じることはイスラームの六信に含まれており、それを信じないものはムスリムではないのです。彼/彼女は来世で天国に行くために、善行を積み、悪行を控え、イスラームにのっとった毎日を送りたいと思っている――はずです。敬虔さや世代、環境による個人差はとても大きいけれど。
 イスラームは日常生活の行為を以下の5範疇に分けています。しなければいけないこと(ファルド)、した方がいいこと(マンドゥーブ、スンナ)、してもしなくてもいいこと(ムバーフ)、しない方がいいこと(マクルーフ)、してはいけないこと(ハラーム)。例えばファルドには礼拝、ラマダン月の断食、喜捨などが、マンドゥーブには任意の断食・礼拝、結婚、小巡礼などが、ムバーフには売買やくしゃみなどが、マクルーフには離婚や自慰などが、ハラームには棄教、飲酒、豚食、姦通、利子などがあります。過ちの償い方も定められており、挽回もできる仕組みになっています。どの行為が5範疇のどこに入るかには、ウラマー(イスラーム法学者)や法学派によってずれがあることも珍しくなく、また個人の価値観によっても可変的です。例えば顔を覆うニカーブという被り物は、サウジアラビアのワッハーブ派の法解釈ではファルドですが、エジプトなどではマンドゥーブです。
 このようなずれはあるものの、ムスリムは良いムスリムでありたいと思う限りにおいて、日常生活の中で5範疇を意識し、この行為は何に当たるのかを気にかけて暮らしています。敬虔なムスリムであれば、ファルドを全て行い、マンドゥーブもできる限り行い、ハラームだけでなくマクルーフからも遠ざかるでしょうし、さして敬虔でないムスリムなら、最低限のファルドをし、ハラームをしないことだけを心掛けているかもしれません。マクルーフにあたる離婚を一度してしまったから、償いにマンドゥーブである任意の礼拝を毎日して、神の赦しを請うという人もいました。
 ある行為が5範疇のなかのどれにあたるのか、判断できるのはシャリーア(イスラーム法)の専門家であるウラマーです。だからこそ、人々はファトワーを必要とし、様々な質問をウラマーに寄せるのです。来世で天国に行くための試験の、いわばルールを知るために。ファトワーとは、シャリーアの適用に関するムスリムの質問に対し、資格のあるウラマーから文書または口頭で出される法的見解です。法的拘束力はありません。
 ファトワーは公的なものと私的なものに大別されます。日本の新聞等で時折報道されるファトワーは公的なファトワーで、これは政治・社会問題に関し、著名なウラマーが公表を前提に出すものです。大統領によって任命されるエジプトの大ムフティー(現在はアリー・グムア 1953-. 在任2003-)が出す国事に関するファトワーは、公的なファトワーの好例です。対する私的なファトワーは個々人の質問に答えて出されるごく個人的なもので、質問者のためだけに出され、基本的には公表を前提としません。今回取り上げるのはこの私的なファトワー、特に現代のエジプトのファトワーです。


ファトワー:イスラームと暮らす

 若い女性の、やや声高で早口な声が電話から流れてきます。
「私はいつも、欲しいものがあった時には神にお願いしてきました。今、私はとっても欲しいものがあって、神にお願いしているんですけど、神はそれを私にくださいません。神には深遠なお考えがあるというのはわかりますけど、私はそれがどうしても欲しいんです。たとえ問題があるとしても、私にとってはどうしても必要なものなんです」
 やはり電話で、質問に回答するウラマーの声は噛んで含める調子でした。
「神は私たちにとっていいことしかなさいません。神は我々にとって善いものを下さる、という信念は信仰の基礎です。神のくださったものを受け入れる気持ちが大事です」


 カイロの高級住宅街、モハンデシーン地区。ここに、ファトワーを電話で出すエジプト初のNPO組織、「イスラーム電話」の事務所があります 。イスラーム電話にはエジプト内外から、一日およそ80~110件の質問が寄せられます。私は06年から07年にかけてここでフィールド調査を行い、1300件を超えるファトワーを採取しました。手軽で、かつ匿名性が確保できる電話という手段を使って寄せられた質問は率直で内容も多岐にわたり、彼/彼女らの欲望や願い、悩みを雄弁に物語ります。質問と、回答であるファトワーをいくつか紹介します。


質問 「サウジアラビアで仕事をしていました。メッカのモスクで、当時の同僚を呪ってしまいました。その後、その同僚にはついてないことばかり起きています。私は自分が呪ってしまったことを悪かったと思っています。どうすればいいですか?」
回答 「もしその同僚があなたに不当なことをしていて、それに対する恨みによって呪ったのだとしたら、それは許されることです。でも、そのような不当なことを同僚がしていなかったのなら、あなたには呪う権利はありませんから、彼のために祈りなさい」

質問 「ええと、この前ビールを…アルコールを飲んでしまいました。懺悔したいんです。悔い改めたいんです。でもどうしたらいいのかわかりません。ラマダンまでに、悔い改めを受け入れられないのが怖いんです。どうしたらいいでしょうか」
回答 「悔い改めることは常に開かれています。悔い改めが受け入れられ、全ての善行が受け入れられる程に身が清められるには40日かかるというのは迷信です。今からでも大丈夫です。おお神よ、と祈願をして泣き、悔い改め、後悔して、神に縋るのです。懺悔の条件は、神に赦しを乞うことと、後悔と、二度としないことです。その後は礼拝するなどのいいことをしてください」

質問 「夫がケチです。料理する時も買い物する時も、必要経費をいつも出し渋って、お金が無いっていつも言ってます。でも彼はお金、持ってるんです。食費を、彼に無断で貰ってもいいですか?」
回答 「それはマクルーフです。それは解決策ですし、ハラームではありません。ただ、許しをもらえばより良いです。生活費を貰うことはあなたの権利ですから、それについてはちゃんと彼の許可を得ましょう」

質問 「罪があるかどうかお聞きします。姑が病気で、疲れていて、私が面倒を見ています。お風呂に入れたり…。なんだか私、お手伝いさんみたいで。彼女の子供たち、娘たちがすればいいと思ってしまいます。それか夫がやればいいのです。私が介護して、面倒を見るのはいいのですが、でも娘たちがやったほうがいいのに、と思ってしまうのは間違いですか?」
回答 「思うだけなら罪にはなりません。何もない、大丈夫ですよ。あなたが不正を働いたときにのみ、それは罪になりますけれども。娘たちに面倒を見るように求めるのは罪にはなりません。あなたは少し我慢して、そして神の許しと解決を待ちなさい」

 日々の暮らしの中の様々な悩み事や相談事を、イスラームにのっとって解決するという役割が、ファトワーにはあるのです。介護に疲れたり、夫の吝嗇に怒ったり、自分の所業を後悔したり…質問からは彼らの暮らしが見えてきます。ウラマーがハラームである飲酒に対しても、厳しく怒ることなく回答しているように、犯してしまった過ちを責め立てるファトワーはあまりありません。またファトワーを出し慣れているウラマーは聞き上手、さとし上手でもあります。
 スンナ派には4つの法学派があり、それぞれ法解釈に違いがあるため、同じ問題に対し出されたファトワーの回答に違いがあることも珍しくありません。この違いについて、カイロのあるウラマーはこう言いました。「ハディース(預言者ムハンマドの言行録)は『差異は恵みである』と言っています。回答が様々であることは、質問者にとっての神の恵みです」。
初めから質問者に選択の余地を与える以下のようなファトワーもあります。


質問 「銀行の利子は合法か違法か教えてください」
回答 「銀行の利子が変動利率の場合は合法で、固定利率の場合は違法であると多くの学者は言っています。固定利率を、ごく少数のウラマーが合法だとしています。この二つの意見から、あなたはよく考えて選びなさい」

 ファトワーには「神はあなたがたに容易さを望み、困難を望まない」というクルアーンの一節(2:185)もしばしば引用されます。


質問 「ラマダンの断食についてお聞きします。疲労がひどくて、断食ができないんです…。タンターに旅行に行くんですが、2-3日行くと断食に影響します。旅行の場合は、断食を解いても大丈夫だと聞いたのですが本当でしょうか。タンターには15日間くらいいます。本当に、疲労がひどくてだるくてどうしたらいいかわからなくて…。本当のところを教えてください」
回答 「『神はあなたがたに容易さを望み、困難を望まれません』。そういう状況であれば断食を解きなさい。そして毎日3-4ポンドほど施しをしなさい。断食できるときは断食して、無理な時は施しをしなさい。どうしても無理なら毎日施しでもいいですが、1日休んで2-3日断食してまた休むとか、工夫しなさい。1日断食するだけでも疲れるのなら、断食を解きなさい。病気なら、2日断食し、2日断食を解くという感じで行ったらどうでしょう」

 実生活レヴェルのイスラームは、臨機応変なものとしてあるのです。サウジアラビアなど、国家規模で統一見解を作ろうとする国もありますが、エジプトをはじめ多くの地域ではウラマーたちは差異を肯定的に捉え、個々の問題について統一見解を作ろうとはしていません。この違いを利用し、自分の納得のいくファトワーを貰うために何人ものウラマーに同じ質問をする質問者もいました。質問者とウラマーの双方向の交渉の結果がファトワーとして結実していく様子が、ファトワーからは窺えます。シャリーアという原理原則を変えることはできませんが、その運用としてのファトワーによる解釈の多様性を認めることで、より質問者の実情に即したイスラームが、臨機応変に生まれているのです。
 シャリーア解釈の柔軟さ、日常に寄り添うウラマーたちの姿勢、質問者とウラマーとの交渉と交流…生きられているイスラームの姿が、ここにあります。


イスラーム電話やそのファトワーについての詳細は拙稿[嶺崎寛子 2010「生活の中のイスラーム言説とジェンダーエジプト「イスラーム電話」にみるファトワーの社会的機能」『アジア・アフリカ言語文化研究』no.78 pp.5 -41]をご参照ください。調査にご協力くださったイスラーム電話の事務責任者シェリーフ氏とスタッフの皆様、イスラーム電話をご紹介いただいた同志社大学の中田考先生に深謝いたします。

+ Profile +

嶺崎寛子先生

 イスラーム――世界の主要な宗教のなかで、日本人に最も馴染みがないもの。テロ、原理主義、女性差別…日本人のイスラーム認識はそんなものでしょう。
 しかしイスラームがテロを称揚する、女性差別の宗教なのだとしたら、なぜイスラームはこれ程までに広がったのでしょう。女性信徒がいるのはなぜでしょう。
 「保守的」で「原理主義的」な宗教が、世界三大宗教のひとつであるわけはない。イスラーム認識はどこか間違っているのではないか。女性信徒は「女性差別の宗教」といわれるイスラームをどうやって信仰し、生きているのだろう。その生の姿を知りたい。生の声が聞きたい。
そう思ったのが研究の原点でした。
 アラビア語は思いのほか難しく、日本で挫折すること数回。「フィールドで起こったことは殺されない限り全部データです」という先生の言葉を胸に、エジプトで最初の住み込み調査を行ったのは修士在学中、2000年でした。知りたい、話したいという気持ちのおかげか、机上で文法に苦しんだのが嘘のように、生きたアラビア語会話は面白いくらい身に付きました。カイロの下町にホームステイし、理解できない行動に目を白黒させる日々。礼拝の仕方を習い、クルアーンを暗唱し、断食をし…。イスラームに興味を示す異教徒を、彼らは暖かく受け入れてくれました。
 預言者聖誕祭には子供たちや恋人に人形を贈り、ラマダンの夕食で親族が集まり、ラマダン明けの祭りのために洋服を新調する。彼らの暮らしは季節ごとの行事に彩られていました。そのなかにイスラームがいかに自然に溶け込んでいることか。
 日本で流通するイスラームに関する言説は、残念ながらオリエンタリズムと無縁ではありません。フィルターにかけられた情報からは、彼らの倫理も感覚も願いも日常も、伝わってはきません。
 フィールドではできるだけ良い目と耳でありたい。そして宗教的で人間的でたくましい彼らの日常と、そこに息づくイスラーム――オリエンタリズムの向こう側の風景を、研究を通じて正確に伝えたい。そんな気持ちで日々、資料と向き合っています。

学習院大学文学部史学科卒、お茶の水女子大学大学院博士後期課程修了、博士(学術)。専門は文化人類学、ジェンダー研究、中東地域研究。JICAエジプト事務所在外専門調整員等を経て、現在日本学術振興会特別研究員PD(東京大学東洋文化研究所)。主な著作として「イスラーム法と女性――現代エジプトを事例として」『ジェンダー史叢書第3巻 思想と文化』、明石書店、2010年。