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日本国内で刊行された宗教関連書籍のレビューです。
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最新の書評  2016/11/09

『死者は生きている 「見えざるもの」と私たちの幸福』 町田宗鳳著 筑摩書房

 
2016年 6月 1600円 +税


■滋味あふれる自伝的法話録

 宗教学者・作家として多数の作品を刊行している町田宗鳳。しかしこれまで避けてきた重要なテーマは、「「見えざるもの」がこの世の人間に強い影響を及ぼしている事実」だという(p.9)。明快で言い訳がましいところがない語り口の町田が、冒頭でめずらしく「近代的学問の規範から外れる」、「学者としての見識を疑われるかも」、「比較宗教学者としての責任を果たす」、「心に抱いてきた本音の部分を本書では率直に書いてみたい」等々と、本書の意図と執筆の動機を重ね重ね述べている。まず、この点が興味深い。
 
 その「見えざるもの」の最たるものは、「死後の世界」や「死者の力」だと云う。しかし、それらを感じ取ることができる感性が失われつつある現代人はそれに気がつかないのだ、とも。こうした世界や力の働きを学術的に探究してきた営みのひとつが宗教学だが、実証主義的な方法でそれを研究成果を世に問うのはなかなか難しい。ではどうすればよいのか。
 
 町田が選んだ方法は、自身がこの「見えざるもの」とどのように出会い、それをどう考え、その思考をもとに何を実践してきたかを詳しく語ることだった。本書は、異端の学僧として歩む町田宗鳳が自らの世界観・死生観を綴った、滋味溢れる自伝的法話録である。以下、その内容を追ってみよう。

 
■見えざるものと精神の自由

 「見えざるもの」を感じとる感性があらためて求められている現代では、宗教の営みもまた再考されざるを得ない。「宗教は本来、生きているうちも、さらには亡くなってからも、人間の魂を自由な世界に解放するものです。現存の宗教は、人間の魂を拘束する面が強すぎます」(p.11)と、町田は述べる。ここでのキーワードは、「自由」だ。宗教学者・僧侶として町田は次のように語る。
 
日常と非日常のどちらか一方に堕ちることは、人間に与えられた精神の自由をみずから放棄することのような気がします。(p.12)
 
 「自由」とは日常・非日常の往復をする精神の自由のことであり、人間にとって所与のものとして本書では了解されている。この精神の自由がまた、「死者の力」の感受を可能にするというのだ。町田によれば、死者の力の感受と精神の自由とは深く結びついているのである。言い換えるならば、精神の自由を得るには死者の力を感受する必要があるということだ。この精神の自由と死者の力の感受との関係こそ、まず本書から読みとるべきテーマだと言える。

 
■死者と生者の交流

 「第1章 死は最高の幸せである」では、生者が死者から何がしかを受け取る<死者→生者>という方向と、追悼や供養などの<生者→死者>という方向の働きかけが説かれている。そしてこれらの考えが、僧侶としての町田自身の実践へと繋がっているのである。生者が唱える読経は、死者がそれを「聴いている」という観念なくしては意味を持たない。町田はここに更に、生者から死者への「愛と感謝」の念を重ねる。
 
ほんとうに死者を弔いたければ、「愛と感謝」というポジティブな想念をあの世に送り届けるしかありません。死者はこの世からいなくなってしまったわけではありませんから、こちらの想いは必ず届きます。(p.20)
 
 ここで前提になっているのが、人間の意識は不滅であるという考えだ。「死者の意識」は消滅せず、生者と何らかの交流ができるというのだ。こうした観点で供養を見れば、それは「あの世の意識とこの世の意識を結び合わせる大切なコミュニケーション」(p.59)にほかならない。町田はこのコミュニケーションを「ありがとう」の一語に凝縮し、それを唱える「ありがとう禅」を実践している。「「ありがとう」は世界最短のお経」(p.60)というわけだ。
 
 お経は、声に出して唱えるもの。町田は「声こそがあの世とこの世の「かけ橋」になる」(p.60)と述べる。そして、法事では僧侶にまかせきりにするのではなく、自分でも声を出して供養することを奨める。そうしてこそ、「神仏と人間の間に、双方向の交流である「感応道交」(かんのうどうこう)という関係が成立する」(p.61)というのである。
 
 感応道交とは、仏を求める人びとの心とそれに応じる仏の働きとが通じ合うことを意味する仏教用語である。町田はそれを「「見えざるもの」との交流が成立すると、何らかの可視的反応があります」(p.171)と述べる。生者と死者との交流回路があればこそ、「死者の力」も感受できるというわけである。
 
 続いて2章「昔の人は知っていた「死者の力」では、世界各地・諸文化における「死者の力」のはたらきの事例を紹介している。町田は折口信夫の死者論・霊魂論にふれながら、身内の死のあと近親者が喪に服すという習慣は「死者の力をわが身に受けるという積極的な意味がありました」(p.69)と述べる。日本における霊魂論は、考古学や古代文学、民俗学などの分野でも探究されてきたが、ここでは魂を「死者の力」としてシンプルに捉え直している。
 
 続いて町田は、死者の力・死者の想念が生者に与える影響について事例を挙げて論じている。その際たとえば、死者が生前使っていた道具を燃やしてあの世へ送り届けようとするアイヌの死者・霊魂観、他集団の男性の首を狩ってその力を得ようとした台湾先住民の霊魂観、立派な人物や近親者の死に際して火葬後の骨を噛む日本各地の「骨噛み」の習俗、ピラミッドやミイラによって「死者の力」への畏敬を示した古代エジプトの死生観、またカトリックの聖餐式・聖体拝領など、世界各地の多様な死の文化に言及している。時代も地域も異なるこれらの事象の中に「死者の力」への信仰という共通点を読み込むのは、まさに宗教学的アプローチそのものだが、これを平易に語り得ているのは著者の力技と言えよう。

 
■信仰と知 — 座禅は死の疑似体験

 さて、その町田宗鳳がいよいよ自身を語り出すのが3章「「見えざるもの」に導かれて」である。「心に抱いてきた本音の部分を本書では率直に書いてみたい」(p.9)との言葉どおり、町田がどのように宗教者となり、また学者となり、自身の中でそれらの立場をどのように統合してきたかを語った部分である。
 
 町田は幼少期、高熱で寝込むことが多かったという。そして、「そのつど自分が死ぬ恐ろしい夢を観て、人間は死んだらどうなるのだろうという疑問を抱いました」(p.96)と告白している。幼少・少年期に同じような疑問を持ち、何とも言えぬ寂しさに震えたという体験は、多くの人にもあるだろう。しかし、町田の突き詰め方は違っていた。「お坊さんになれば、その答えが見つかるような気がした」(p.96)ということで、14歳で出家し禅宗の修行に入る。そして、「座禅修行をするうちに、生死が断絶していないことは体感的に理解できるようになったので、子供の頃から抱き続けた死への恐怖は消えた」(p.96)という。
 
 深い座禅が一種の意識変容体験であるという点は、例えばトランスパーソナル心理学のケン・ウィルバーが、実践にもとづいて指摘してきたことでもある。町田は、禅によって「深い海底に潜っていくような感覚」(p.96)を得ており、その暗い闇の底が「一切の生命活動が停止する死の世界」(同頁)だと述べている。つまり、禅定体験(座禅の最中に起きる意識変容体験)は一種の臨死体験だというのである。以上が、僧侶として歩んできた町田の出家の契機であり、その意味づけである。
 
 町田はまた出家の理由を、別様にも語っている。その際に出てくるエピソードは、自身の「ルーツ探し」である。時代は、古事記のころまで遡る。町田家の本家は、今の埼玉・北関東で勢いをふるっていた豪族・多胡羊太夫(たごひつじだゆう)に関係しているとのこと。しかしこの羊太夫は朝廷から謀反の疑いをかけられ、討伐軍により征伐される。「町田本家がある馬庭の村には、首塚と言われる場所も存在し、そこを耕作する人間はみな変死すると伝わっています」(p.98)。自身のルーツを紐解きながら、町田は自身の出家の理由を次のように告白する。
 
ここからは、私個人のほぼ勝手な思い込みですが、羊太夫一族の無念の想いが馬庭の土地には今も残っていると思います。その無念の思いを晴らすために、自分は町田の家系に生まれ、仏門に入ることになったのではないかというのが、私が心のうちに抱いきた出家の真の理由です。(pp.99-100)
 
 「勝手な思い込みですが」と断りを入れつつ、「無念の想いを晴らす」ことと「仏門に入る」ことの町田自身における必然性が、ここでは明確に語られている。羊太夫の想いを、町田はどのように受容しているのだろうか。それが分かるのが、上の引用に続く部分だ。
 
 町田は「想念パターン」、「心理的DNA」という用語で、その必然性を整理する。想念パターンというのは、時空を超えて継承される先祖や先人の想念のことだという。また「心理的DNA」とは、ヴァージニア大学のヴァミク・ヴォルカンという心理学者の用語で、過去に異民族支配を受けて屈辱を味わった歴史が「心理的DNA」として現代の人間にも蓄積・継承され、紛争勃発の原因になると分析されているという。
 
私個人もどんなことが自分の身の上に起きようと、他者の責任にせず、自分が潜在意識に抱え込んでいる「心理的DNA」を超克することに、自分に課せられた責任があると考えています。それが、私の先祖に対する供養の仕方でもあります。(p.100)
 
 こうして町田は、個人的かつ歴史的な過去との関わりの中で、死、先祖の供養、仏門での実践を意味づけていく。他にも、渡米前に町田が暮らしていた京都大原の庵での「首のない武将の祟り」の話しや、砂漠の国の王だった過去・前世に世継ぎ問題で正室を責めたという「記憶」の話しなど、死者の想念や見えないものとの関わりの上に現在があるという町田自身の実感とエピソードが紹介されている。
 
 京都大原の町田のかつての庵には、その頃に京都大学へ客員で滞在していたロビン・ハーツホーン教授夫妻がよく訪ねてきていたという。夫妻との交流がもととなり、町田はハーバード大学で学ぶ機会を得る。30代半ばの人生の大展開に一番驚いたのは、本人自身。「日頃から自分が手を合わせていた「見えざるもの」のおかげで、自分が不可思議の道を歩まされていることをひしひしと実感しました」(p.105)と、当時を述懐している。
 
 ハーバード大学のあとペンシルバニア大学の博士課程に移り、比較宗教学をさらに深く学び、町田は法然の思想をテーマに博士論文に取り組んだ。念仏の力を信じ唱える者が救われるという法然の思想と実践に、町田は強く惹かれたという。現在唱導している「ありがとう禅」は声を出して実践する瞑想法だが、これも「口称念仏を樹立した法然上人との出会いがなければ、おそらく思いつかなかったこと」(p.122)だという。法然の存在、すなわち「死者の力」を、町田は強く感じているのだ。
 
 以上たどってきたように、死の問題、自分のルーツの自覚、出家と米国留学、研究者としての探究、そして「ありがとう禅」の創始と、町田の人生は常に動いている。きっとそれを町田は穏やかに、「死者によって動かされているんだよ」と言うだろう。
 
 続く4章・5章では、「人はなぜ生まれ変わるのか」、「「見えざるもの」と人の幸せ」と題し、「死者の力」の話しをさらに進めている。宗教的内容としての深みは、このあたりからさらに増してくる。
 

■「死者の力」を感じることと「ありがとう」の心

 輪廻転生の考えの核にあるのは、カルマ、業の思想だ。正しい修行によって業の苦の輪から逃れ、涅槃に入ることができる。仏教はそのように説く。しかし町田は、時間はかかるけれども「宗教を信じたり、修行を重ねたりしなくても、カルマの消滅はできるはずです。人生に真摯に向き合っているかぎり、人は自然にカルマを消滅させていきます」(p.125)と述べる。サラッと読めてしまう箇所だが、ここも町田の考えのポイントが示されているところだ。時間はかかるけれども、非宗教者・非修行者もカルマを消滅させることができる。こうしたことを説くには、教えや宗派を超えた宗教者としての顔が必要だ。
 
輪廻転生を信じようが信じまいが、そんなことはおかまいなしに、我々ひとりひとりが誰かの生まれ変わりです。死者が町を歩いていると言っても過言ではありません。もし我々が幽霊を目にしたら、さぞかしびっくりすると思いますが、幽霊の目から見たら、肉体を持っている我々の存在のほうが、あり得ないことが起きているわけですから、驚くべき存在なのかもしれません。(p.125)
 
 これらのメッセージは、宗教者・町田宗鳳だからこそ発することができるものだ。もちろん「死者の視点」、「他界からの視点」という仮説的語句でもって、これらを人文学的に説明することはできる。しかし町田は、宗教者として上の言葉を述べている。
 
 さらに町田は続けて、人間が肉体をもって生まれてくることの意味を説く。誰かの生まれ変わりである人間には、「この世に生きているうちに少しでも多くのことを学習し、魂の進化をさせる責任があります。なぜかと言えば、肉体が魂を進化させる最高の装置だからです」(pp.125-126)と。
 
 町田の他生観・人間観においては、「魂の進化」のための器として肉体があり、その肉体として時間を送るのが今生であり、「進化」のためには多くのことを「学習」する必要があるということになる。死は、これらの学習過程からの巣立ち、「カルマの重荷からの解放であり、大いに祝福すべきことです」(p.126)というわけだ。その上でさらに町田は「自分が抱え込んだカルマの深さを自覚しないかぎり、宗教心は芽生えません。それは、昔も今も変わらない真理です」(p.134)と述べる。宗教心の形成には、「カルマの自覚」が必須であるという。
 
「魂の進化」の内実や、「学習」の具体的な細目、カルマの重荷の意味とそれからの解放……。これらの考えのベースには、言うまでもなく仏教がある。町田も述べるように、これらは仏教思想の「アラヤ識」(過去の一切の行為の記憶)や「業異熟」(ごういじゅく:過去のカルマが熟して現実化する)などと深く関わっており、町田の言葉を理解するためにはこれらの探究も必要になってくる。
 
 しかし町田の語りは、別様に展開する。「業異熟」を理解するために町田は、キリスト教最大の神学者とされるアウグスティヌスの記憶論に言及する。自身の記憶との向き合いを、神に出会う自己超越の契機と考えたアウグスティヌスの思想。町田は、記憶の奥にある潜在意識(カルマの原因)を自覚しそれを突き抜けることで「仏性」に至るとする仏教の考えが、このアウグスティヌスの思想と近いことを指摘する。そして、潜在意識の先には「無意識の光」が待っていると述べている(p.139)。
 
「無意識の光」に出会えば、どれほど否定的な「記憶」も陽光に照らされた氷塊のように、たちどころに溶けてしまいます。なのに、その光をブロックしているのは、潜在意識の濁りです。(p.139)
 
 この潜在意識への階段を降りていくための実践が、仏教における読経や座禅。14歳で出家した町田は、それを続けてきた。そしていま町田は、「ありがとう禅」という新しい実践を始めている。それは潜在意識の濁りを取り、光に満たされる境地を得るための行である。唱えるのは「ありがとう」のひと言。「その感謝の心さえあれば、フィルムのネガをポジに変えることができる」(p.195)と町田は言う。
 
 この「ありがとう禅」によって、死もまたひとつの喜びのモメントとして位置づけることができるようになると、町田は語る。
 
死は恐れるものでも、忌み嫌うものでもなく、しばしの憩いなのです。ましてや死は敗北などではありません。死がどんな形相で訪れようとも、それを優しく受け止める心構えが大切です。(中略)できることなら元気で生きるところまで生かせて頂き、最後はニッコリ微笑んで死にたいものです。(p.197)
 
 町田は、感謝すれば不安は消えると言う。死の不安さえ、感謝で消えるというのである。その実践として、声に出して感謝の気持ちを表現する「ありがとう禅」があるというわけだ。ゆっくり唱える「ありがとう」は、「声のヨガ」、「声のラジオ体操((p.199)でもある。
 
 母音を含む言葉をゆっくりと唱えると倍音が出て、脳波はアルファ波となり、とてもリラックスして楽しい気分になる。瞑想で得られるのはこうした状態だ。従来の座禅の技法をイノベーションし、誰でも集中できるシンプルなものにしたのが、町田の唱導する「ありがとう禅」なのである。
 
 この実践は、木魚に合わせて「ありがとう」を唱える(1)ありがとう念仏、「あ~・り~・が~・と~・う~」一音一音ゆっくり唱える(2)感謝念仏、仰向けに寝て自身の願望に意識をフォーカスしながら「ありがとう」を唱える(3)涅槃禅の3つから成り立っている(pp.199-205)。そして不思議なことに、「対象が何であれ、深い感謝の念は最高の精神薬であり、人の心にある不安や恐怖を消してくれます」(p.202)とのこと。
 
 この「ありがとう禅」では、参禅者たちが「目に見えない死者の強い存在感や、その人との強いつながりが鮮烈に体感され、自分がその人に今も見守られているという認識」(p.202)に到達するという。幼い頃に亡くした父の声が聞こえたという女性や、幼児期に優しくしてくれた母親のイメージが浮かんできたことで生前は嫌いだった母親を許せるようになった女性の体験談などを紹介しながら、町田は、「「ありがとう禅」では、潜在意識の下に埋もれている無意識の蓋が開きますので、時間を超えた現象を垣間見るような体験が起きるのです」(p.204)と述べる。死者を身近に感受することで、自身も穏やかな死を迎えられるようになる。これが「ありがとう禅」の大きな賜物というわけだ。

 臨済宗大徳寺で修行を積み、その後、宗教学、人類学、平和学など広く学知のフィールドを歩いてきた末に独自の宗教活動としてこの「ありがとう禅」を始めた町田宗鳳。幅広い体験・知見から語られる言葉には、大きな説得力がある。本書末尾は、次のような提言で結ばれている。
 
中世の念仏信者にとっては臨終の場において、そこに集まった人々の「南無阿弥陀仏」の声に励まされて、極楽往生するのが理想でした。現代社会では宗教色を抜いて、みんなで「ありがとう」という言葉をゆっくりと唱えて、見送る者と見送られる者とが「愛と感謝」を共有しながら、最後の時間を迎えるというのはどうでしょうか。その時こそ、死という芸術作品が最高の美を輝かせるはずです。(p.210)
 
 本書は、「死後の世界」や「死者の力」といった見えざるものを感じとる感受性を主題として取りあげ、「ありがとう禅」がこうした感受性を育む方法であると証している。実践の詳細は、『こころと体が軽くなる「ありがとう禅」―潜在意識をクリーニングする瞑想CD付き―』角川学芸出版 2015 としても刊行されており、また2015年5月の全日本仏教婦人連盟主催の文化講座では、さっそく「ありがとう禅」を体験する機会も設けられている。
 
 町田は以前から「風の集い」というゆるやかな集まりを持ち、そこで「ありがとう禅」を定期的に行なっている。開催場所は、東京、名古屋、大阪、岐阜、札幌など日本全国である。
http://www.arigatozen.com/zen-meeting.php
 
 座禅やヨガは近年、気軽にできる瞑想入門としてとても人気がある。ただ、その広告や呼び込み文を見ると、「健康維持」や「ストレス解消」など、いわゆる生身の体の状態を良くするという謳い文句が目立つ。それと比較して「ありがとう禅」のユニークな点はやはり、見えない力、「死者の力」の感受をも射程に入れているというところだ。全ての参加者にとりこの点が参禅の主要動機というわけではないだろう。しかし、見えざるものへの問いとそれへの答えを、実践を通して解き明かし、導いてくれる機会になるという点で、宗教的実践としても「ありがとう禅」は相当に深いものだと言えよう。

 伝統仏教の修行法をシンプルに組みなおし、そこに「死」への気づきがあるとズバリ指摘し、この点にフォーカスしつつ穏やかな笑顔で「ありがとう禅」を展開している町田宗鳳。その生き方、その存在自体が、現代日本社会に吹く新しい風のようだ。そんな風が吹いている富士山麓・御殿場市の「ありがとう寺」(この名称もシンプルでユニークだ)を訪ねてみたい。
 
                          (宗教情報センター研究員 佐藤壮広)