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日本国内で刊行された宗教関連書籍のレビューです。
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最新の書評  2014/05/14

『あわいの力 「心の時代」の次を生きる』 ミシマ社

 
2014年1月 1700円+税
  
本書は、能楽師であり古代文字の研究者でもある著者による精神文化論である。能にはシテとワキという構成上の役割がいる。面(おもて)をつけて舞い踊るのはシテである。その横でじっと座り、謡(うたい)で節をつけ拍子をとるのがワキの役割だ。「夢幻能」といわれる演目では、シテは異界の亡霊を演じ、ワキは現実世界の人間を演じる。ただしワキは、亡霊が残した恨みを晴らす手助けをする存在で、その身体によって異界と人間の世界をつなぐ「媒介者」である。この「媒介」を意味する古語は、「あわい・あはひ(間)」だ。この言葉を手がかりとして著者は、「ワキとは「あっちの世界」と人間を結ぶ「あわい」の存在」(p.25)だと述べる。

 ところで、能、シテ、ワキ、媒介と言われても、それが現代を生きるわれわれとどのように関係するのか、いまひとつピンと来ないだろう。しかし、身体によって外の世界と関わってきたのが人間だという身体観・人間観に立つと、われわれが生きている世界について、能を通して見つめ直す可能性も見えてくる。著者は、次のように述べている。
 
 つまり、身体というのは自分にとってのワキであって、すべての人間が「あわい」を生きているということができます。
  だからこそ人間は、身体という「道具」とのつきあい方に習熟することで、あらゆるものとつながることができると考えています。身体は、「あっちの世界」と人間をつなぐ、呪術性を帯びた「道具」なのです。
(p.27)
 
能のワキの有りようは、人間の存在の仕方そのもの。この観点からすれば、今は失われつつある、おのれの身体を通して霊や神、自然や社会とつながる力、「あわいの力」を取り戻すことが、現代の重要な課題のひとつとなるのも頷けよう。
  
本書の大きな問いはまた、「心」の副作用が大きくなってしまった現代で、いかにその副作用を消すことができるかにある。心の副作用とは、人間が「過去に対する後悔や悲しみ、未来への不安や恐怖を感じるようになり、ヘタをするとそういう感情に押しつぶされそうになって」(p.130)いることだという。さらに、「心」の最大の欠陥は「時間の流れに対して無力であること」(p.132)だという。時間意識の獲得が心の発生(と同時にその副作用の拡大)と結びついているという指摘は、宗教の発生論としても興味深い。生老病死という時間の中での人間の歩みと、そこに生起する心の作用に対し、じつに多くの宗教が安心立命を説き、そのための実践をしてきたからだ。例えば「刹那滅」という仏教の思想も、時間と自己意識を思索し詰めた先に出てきたものだ。

 さてこの「心」の副作用を減らすため、まず「心」という文字の発生に遡り、「心」以前、つまり心が生まれる前の事情を再検討する必要があるという。言及されているのは、例えば次のような事柄である。中国の殷の時代に生け贄とされていた羌族が、殺される恐怖を感じる心を持ち得たことで殷に対抗しやがて殷を滅ぼしたという歴史と、その頃に「心」という文字が出来たという史実の符号。三重苦を克服したヘレ・ケラーが最初に抱いた感情が「後悔」と「悲しみ」であり、これらは時間がなければ生じえない心の作用だということ。他にも、東洋・西洋・オリエントにおいても「心」が生まれることとそれを指す「文字」の発生が相関するという点など。その上で著者は、次のように述べる。
 
  つまり、「文字」が「心」を生み、「時間」をつくり出し、「時間」を知った人類が感じるようになった不安と向き合うために、孔子や釈迦やイエスの思想が生まれたのです。
  ということは、「心」に代わる何かが生まれるためには、「文字」に代わる何かが、その前に生まれる必要があるということです。
(p.133)
 
心に代わる何か、「文字」に代わる何かとは、いったい何か。7章「「心」がなかった時代の内蔵感覚」では、古代メソポタミアやギリシャの人たちが、内蔵を示す語でもって相手の感情と一体化する感覚(つまり心の働き)を表現していたことが紹介されている。例えば、横隔膜(ギリシャ語のフレーン)や内臓(ヘブライ語のラーハム)、子宮(シュメール語のアルシュフ)などだ。日本の『古事記』にも、内臓一般を指す「肝」という言葉がある。これらはすべて、現在でいうところの「心」を示す語だという。

 内臓感覚、身体感覚にいま一度立ち戻ってみなければならない。著者によればそれは、からだとこころの「統一体としての身体」を意味する、日本語の「身(み)」に立ち返ることでもある。「私たちは「統一的な身体」というものを、感覚としては知ることができます。(中略)しかし、それを把握してコントロールしようとしたとき、途端に他人の視線を介して想像で組み立てられたバーチャルな身体になってしまうのです」(p.223)。直接の言及はないものの、このあたりは「身体とアイデンティティ」という大きな問題圏に入る重要な指摘である。本書では、身体がもつ「あわいの力」の回復を、われわれがまず向きあうべき課題としている。

 次に、この「あわいの力」を回復する実践も紹介されている。それが、松尾芭蕉が歩いた道を句を詠みながら辿る、“「おくの細道」歩き”というウォークだ。参加者は引きこもりやニートの人たち。道中、彼らに劇的な変化がおこるが、歩きの中で「あわい」の感覚を得るからではないだろうかと、著者は述べている。
 
 自然のなかを歩くことで、自分が環境と「か身交ふ」状態が起こり、意識が「内」と「外」との「あわい」にたゆたうようになります。身体を媒介に自己と環境が交わり、環境の影響を受けて、意識が変化してくるのです。(p.227)
 
この変化は、雨でずぶ濡れになりながら歩いたあとに起こるのだという。雨を避けずに歩き続け、「知らず知らずのうちに、自分と雨が一体化している」(p.229)のを実感することによって、自己と外界をつなぐ「あわい」を持つことができ、それによって身体が目覚めるというわけだ。そのほか、息を深く吐くこと(深呼吸)も、意識を内から外へ向けるあわいの技法だという。ここまでくれば、日常生活のなかにも「あわいの力」を回復する所作や実践がたくさん含まれていることがわかる。

 第十章「「あわいの力」を取り戻す」では、現代におけるワキの担い手として、先生、教師が挙げられている。「あわいの力」は、教育とどう関係するのか。著者は、「「ここではない世界」を見せるのが、教育の本来の役割だと思うのです」(p.260)と述べ、社会に出て役に立つことばかりが中心となりつつある今の学校教育に疑義を呈する。
 
 実社会で生きていくには役に立たないことを学び、それによって人生を豊かに生きられるようにする。あるいは、そのままでは閉塞状態に陥るような社会を変えることができるような人を育てる。それが教育の場の力です。(p.259)
 
著者はまた、学校は「空白」の空間と時間であり、「何もない空間があるからこそ、そこに何でも流れ込むことができる。なんでもない人がいるからこそ、そこにいろいろな人が寄ってくる」(p.264)と述べている。また、「空白」の場所としてのお寺や神社の境内も、ふだんは「なんでもない」空間であり、だからこそ異界を呼び込むことがきたという。そこでの儀式は、まさに「あわいの力」が発揮される時間・空間だったと言えよう。
 
以上紹介してきたように、本書で論じられている「あわいの力」は、人と人、人と神霊との、身体を介した交わりを後押しする力としても理解することができる。ポスト「心の時代」における宗教のかたちは、この「あわいの力」をふまえてどのように展望できるのか。これは、あらためて考えてみるべき点だと思われる。
(宗教情報センター研究員 佐藤壮広)