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日本国内で刊行された宗教関連書籍のレビューです。
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最新の書評  2014/04/22

『借りの哲学』 ナタリー・サルトゥー=ラジュ  高野優監訳・小林重裕訳 太田出版

 
2014年2月 1728円+税
  
「今の私があるのは、○○○のお陰です」。
 われわれはふだんの生活のなかで、この「お陰さま」という言葉をよく耳にする。これは、人間が陰に日向に神仏の加護と恩を受けているという意識がもとになった慣用句だ。ただし○○○には、神仏だけでなく、広く人間や自然、科学技術などあらゆるものが入る。その中でも、原初的にお世話になる存在としてまず、育ててくれた親あるいは養育者が挙げられよう。そこにあるのは、見返りを求めない無償の愛、そして真心。そう言いたくなる。しかし一方で、親が子供の心を縛り、その人生までも操作するケースもたくさんある。また、精神的にも経済的にも親から「自立する」ことが一人前の条件となる社会では、親のスネをかじり、いつまでも親の世話になるのは恥ずかしいこととされる。無償の愛から離脱しなければ大人としては認められない。受けた恩への「お返し」が、徳のある行為として評価される。そこにあるのは実は、借りたものは(いつか)返すという関係だ。

 フランスの哲学者サルトゥー=ラジュは本書のはじめに、アウグスチヌスの「私たちの持っているもので、人から受けていないものがあるのだろうか」という言葉を紹介している。そして、人間はつねに誰かに、何かに、借りをつくって生きているという仮説から、新しい生き方と社会を展望しようとする。曰く、「家族は根源的に誰かが誰かに《借り》をつくるというかたちで成り立っている」(p.18)。ただし、これは悪いことではなく、「安心して《借り》をつくる状況さえできていれば、「他者を信頼する意識」や「お互いに支えあっていこうという意識」が形成される」(p.19)。この家族を「社会」あるいは「世界」に置き換えれば、著者の社会像、世界像が見えて来よう。著者は言う。「私たちは、いまこそ《借り》を見直さなければならない。《借り》を見直して、もう一度、社会のなかに取り入れるのである」(p.72)と。

 サルトゥー=ラジュが言うこの《借り》という概念は、「債務」を意味するdette(デット)をもとにしている。detteには、「負債」のほかに「恩」や「負い目」の意味があり、さらに「育ててもらった恩」、「世話になった負い目」という含意もある。そしてこの恩と負い目が、人類にとっての「基本的な状況」であり「普遍的な現実」なのだという。また、《借り》が発生する最も根源的な場として家族があるという。

 ところで、いわゆる近代が作り出した「自立した人間」をわれわれの理想の姿とした場合、恩や負い目を持って生きることは相手に「依存」することであり、それは自立からはほど遠い状態とされてしまう。しかし、そうだろうか。誰かに頼って生きるのが人間であるという見解は発達心理学や医療・福祉の現場ではむしろ常識的な見方であり、土居健郎『甘えの構造』やミルトン・メイヤロフ『ケアの哲学』などでも、依存することの積極的な意味が説かれている。以上に加え、安富歩・東京大学東洋文化研究所教授も「自立とは多くの人に依存することである」という命題を立て、これが21世紀の社会科学の根本原理になると述べている(『生きる技法』青灯社 2011)。「自立した人というのは、自分で何でもする人ではなく、自分が困ったらいつでも誰かに助けてもらえる人であり、そういった関係性のマネジメントに長けている人のことだ」(安富、p.33)と。この人間観は、サルトゥー=ラジュの言う《借り》の復権にも響きあうものだ。
 さて、この《借り》が人間の基本原理だとする主張に宗教はどう関連してくるのか、『借りの哲学』の記述を追ってみよう。サンスクリット語学・宗教史を研究するシャルル・マラムーを引用して著者は、物質的な負債よりも「神に対する債務」「前の世代に対する負債」のほうが、人間にとってより根源的だとする思想に言及する(p.98)。そして例えばバラモン教には、「人間が神から時間を限って「命」を借りている」とする「負債の神学」があるという(同)。ゆえに「人は生まれながらにして債務者なのである」(同)と。またマラムーによれば、前の世代や同世代に生きている人々に対する「負債」もあるのだという。サルトゥー=ラジュの言葉では、「人は他人がいることによって自分を確立し、他人に依存しているのを自覚することによって、自分らしく生きることができる」(p.151)となる。今度は、この文の「他人」のところを「神仏」に置き換えれば、多くの宗教で説かれている人間の生き方とその論理が、普遍性をもっているということが分かる。宗教を基盤とした福祉活動や、宗教が掲げる「社会貢献」「社会的責任」の根底に、自立・自律した人間ではなく、他人から恩を受ける人間どうしの関わり合いをおくこと。そしてそれを良しとすること。そうした価値があってこそ、援助は上からの施しではなくお互いの借りを貸し・返すという相互的なものになる。その意味で、災害や貧困の現場で宗教者・宗教団体が行なう支援も、《借り》の関係の復権、そのうねり作りとして大きく評価できるものだろう。

 「前の世代に対する《借り》を次の世代に返す。それはまさに、自分を超えて、自分が生きつづけることである」(p.211)という言葉は、多くの宗教者らが語る「命のつながり」というメッセージと重なり合う。そして最後にサトゥルー=ラジュが示すのは、返さなくてもよい借りを作れる社会である。《借り》からの解放には3つの方法があり、一つはお金で払うこと、二つ目は《借り》を帳消しにすること、三つ目は《借り》を返さなくてもよいものだと考えることだという。お互いに贈与しながら生きていくというシステムを作り、貸し・借りの関係を続けることで個々人が自立していける社会を、著者はひとつのモデルとして提示する。本書では直接は言及されてはいないが、神仏との貸し・借りの関係(宗教儀礼のいくつかはそれを企図したもの)を続けるという信仰モデルも、現代宗教の諸活動のなかで改めて考えてみるべき点だと思われる。

 本書は、聖書、モースの『贈与論』、ニーチェの『道徳の系譜』、そしてシェイクスピアの『ヴェニスの商人』などに交換と贈与の論理を探り、そこから《借り》の概念を生成し、新しい社会デザインを描こうとする意欲作であり、現代宗教を捉えるための重要な視点を提示する作品だ。
 
(宗教情報センター研究員 佐藤壮広)