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日本国内で刊行された宗教関連書籍のレビューです。
約一ヶ月、さまざまな分野の書籍からピックアップしてご紹介します。毎月25日頃に更新します。
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最新の書評  2010/04/05

『スピリチュアリティ』世界の地図(1)

 近年、宗教とその周辺を形容するものとして、あるいは宗教の本質を表す特別な用語として、また、特定の宗教や団体に結びつけられないタイプの宗教性として、「スピリチュアリティ」という言葉が用いられている。この言葉は、実際には使い手のいろいろな思い入れを込めて語られている。このレビューは、いくつかの近年の著作を取り上げ、その世界の地図を提示しようとするものである。


「霊」や「力」や、心の感動や変化を表現する言葉として、「霊spirit」に関わる、あるいは人間の心魂(≒霊)に働きかけるなにかについて、この言葉は使われる。宗教という言葉が日本語でもあまり評判がよくないのに対して、(スピリチュアリティを重んじる人たちによれば)スピリチュアリティは宗教と違って束縛されない自由なものであり、制度や形式にとらわれない深いものである、とされる。
 熟考していただくと、ここまでの説明は相矛盾する内容をたくさん含んでいることがわかる。宗教のいいところだけを簡単に取り出せるかのような説明だが、実のところ、よしあしの判定は容易ではないし、束縛なしにどうやって深さを実現するのだろう、没頭しなければ人間は簡単に逃げてしまうのにと、さまざまな疑問がわいてくる。この言葉が、宗教のみならず、医療や社会福祉やサブカルチャーなどさまざまな領域で引き合いに出されたから、それぞれの領域の都合をも概念の中に担わされるようになった。病院のスピリチュアルケアでは「レイキ」などは御法度だが、般若心経や聖書や宗教文学を読むことはまあよい。思想や教養は、信念を越えて実践に変わってしまう、その手前であることが求められる。いっぽう、スピリチュアル・ヒーラーと呼ばれる人たちは、信じて実践してもらわなければ話にならないだろう。この二つを取り上げても、相容れないことが「スピリチュアリティ」という同じ言葉に押し込められていることがわかる。それで、「スピリチュアル」なケアそのものを怪しむ医師もすくなくない。


 この点で見取り図となる論文を二つ紹介したい。一つは、鳥取大の安藤泰至による包括的、建設的な論考「越境するスピリチュアリティ――諸領域におけるその理解の開けへ向けて」『宗教研究』80(2)、293-312頁、2006年(「生命・死・医療」特集)である。医療・心理をはじめとしたヒューマンケア専門職や、宗教者、占いや修行などを世俗的な文脈の中で提供する人々、現代文化の評論家たちなど、諸分野で異なった意味に、しかも重要な意味を担わされて用いられている「スピリチュアリティ」という語の、その用法を吟味する。これを無理にまとめると概念の二重性が損なわれてしまう。安藤が取り組んできた生命倫理研究の観点から、さまざまな用いられ方の含みを拾い上げようとする、味わい深い論文である。この論文は、情報学研究所の論文サイトCiNii(サイニィ)からダウンロードすることができる。


 もう一つは、伊藤雅之の『現代社会とスピリチュアリティ』溪水社の第1章「現代のスピリチュアリティ文化」である。伊藤は、大書店の「精神世界」コーナーに配置された「宗教っぽい」本の読者や、その内容の実践者たちを、社会学者のまなざしで、世界観と実践形態と、当事者の意識によって整理する。



諸宗教に通底されるものをみる視線

 「スローライフ」や「エコ」や「ロハス」などでいわれている言葉が指している中身は、実は宗教の世界では前々からなじみのあるものだ。宗派は違えど、大筋で近いことをいっている、どの宗教も根っこは同じ、という発想は、「スピリチュアリティ」というコトバの前提となっている。
 高度成長期から現在に至るまでの日本における、新宗教、あるいはニューエイジ、精神世界などと呼ばれる現象をとらえる上で、大きな影響を与えた論文が、対馬路人・西山茂・島薗進・白水寛子「新宗教における生命主義的救済観」『思想』第665号、1979年11月、である。諸新宗教(教団)のあいだに大きな差があるという外見にとらわれず、その基本的構造(生命主義的救済観)に注目するとき、これら諸新宗教が共通の民俗宗教という基盤に根ざし、また相互に影響し合っていることがわかる、とするものである(ここで分析対象になっているのは、黒住教、金光教、天理教、大本教、霊友会、生長の家、立正佼成会、PL教団、創価学会、世界救世教、天照皇大神宮教の11の教団)。生命主義とは、宇宙に満ちている、また人間などの生命を存在せしめている、より上位の生命の源泉を信仰の対象としてとらえる視点、と言い得られようか。
 この論文の視点は、新宗教教団の教義を介して、日本の民俗宗教に、また日本の文化の中に共有されているなにかをとらえようとすることであった。現在の研究は、実践の場のさまざまな多様性を押さえることにより力が注がれているものの、この論文の意義はゆらがない。
 「スピリチュアリティ」という言葉が研究対象になるほど、大衆的な文化になったのだろうか。2003年に、筆者は諸新聞の投書欄にどの程度「スピリチュアリティ」という言葉が出てくるかを数えてみたことがある。これは、新聞の投書欄の書き手たちが使えるほど「スピリチュアリティ」という概念になじみがあるかということを調べるためであった。2003年の時点で、たとえば新聞の社説などで「スピリチュアリティ」について語ったものをみることはそれなりにあったが、投書欄では皆無に等しかった。これを踏まえて、「スピリチュアリティ」はまだ人口に膾炙していないのではないか、また、にもかかわらず、「スピリチュアリティ」という言葉を積極的に定着させようとしている人々があるのではないか、ということを指摘した(葛西「スピリチュアリティを使う人々」湯浅編『スピリチュアリティの現在』人文書院、2003年)。
 スピリチュアリティ、あるいはスピリチュアルという言葉は、現在はもう少し聞き覚えのある言葉になっているといえるだろう。これに関わる事情をあげておくなら、「テレビ霊能者」(すごいネーミングだが、うまくその特徴を言い当てている)の活動、医学領域でのターミナルケアやスピリチュアルケアの意義についての議論、そしてこれに関連して、世界保健機関(WHO)が、WHO憲章にある健康を定義した一節に、「スピリチュアル」を要件として加えるかどうかという議論がある。WHOのこの試みは保留されたままである。この経緯については、宗教情報センターのサイトから葛西による論考(「WHOが"spirituality"概念の標準化を求めた経緯について」『国際宗教研究所ニュースレター』38号(03-1)、国際宗教研究所、2003.4.25)がダウンロードできるので、ご覧いただきたい。
 「スピリチュアル」という言葉に関心をもっていても、「スピリチュアル・カウンセラー」の江原啓之氏の本を読む人と、磯村健太郎の『〈スピリチュアル〉はなぜ流行るのか』PHP新書、2007年などを手にする人とは、別のカテゴリに属するだろう。前者は信じている人であり、後者は信じる人たちを外側からみて社会を観測する立場といえる。江原の本のレビューはここでやることではない。磯村の本は「スピリチュアル」の現場を尋ね、話を聞きながらその価値観を問うという、ジャーナリストとしての仕事で、この領域に関心を持つ専門家でない人に勧めるには一番てごろな本といえる。朝日新聞社のシンクタンクの連載をまとめ加筆したものであるが、新規な現象に丁寧な説明があり、読者に親切である。

 「スピリチュアル」周辺を学術的に捉えるうえで先駆的な仕事は、島薗進の『精神世界のゆくえ』(初版1996年、新版、秋山書店)である。既成教団の枠にはまらない、占いやヒーリングや聖地参りなどの実践をどうとらえるかを、自身が現場に参与しながらも学者としての距離感を持って観察し続けている。本書の中で島薗は、こうした実践を、手垢のつきすぎた「スピリチュアリティ」ではなく、「新霊性運動=文化」という言葉で包括的にとらえようとする。既成教団という枠を離れた「精神世界」の担い手が、逆に保守的な運動に惹かれていくという観察など、メディア報道を見ているだけでは見落とすような批判的な視点などは、たしかに、外から運動の「ゆくえ」を見届けるために必要なものだ。

 樫尾直樹『スピリチュアリティ革命』春秋社が3月に刊行された。樫尾の本の研究対象は、島薗と重なりつつ、日本の諸新宗教教団が持っている実践が、社会へと開かれることにより、よりよいものをもたらしうると述べ、処方箋を示すものである。ただし樫尾のスタンスは「求道者」として踏み込んだものであり、彼が「宗教の核心」と見なすスピリチュアルな諸実践についても、「中立」にとどまらず、積極的に評価し位置づけようとする。たとえばそのために、神智学の修行階梯論が参照され、諸宗教間に共通するモデルを考えようとする。また、複数の新宗教教団(これまで「スピリチュアリティ」の研究からは除外されることが多かった)が、実は「テレビ霊能者」よりもまっとうな「スピリチュアリティ」の担い手であるとする。彼は、宗教の中核にあるものは、人間にとって欠かせないなにかであるととらえ、それを保持するためにはどのようであればよいかという具体的な提言をいとわない。まえがきから「スピリチュアリティ」をめぐる現状と著者の考えが大きく示されるので、樫尾の立場は、「スピリチュアリティ」をめぐる理論的整備と同時に、彼が真正の宗教性、宗教の中核と考える「スピリチュアリティ」がよりよい形で人類に享受されるようにするというものである。読者が宗教研究の同業者や熱心な宗教実践者のインテリであればよいが、そうでない場合は、少し歯ごたえがあるかもしれない。


 樫尾の仕事と併せて考えてもらいたいのが、菅原浩の『スピリチュアル哲学入門』アルテ、2008年である(表紙も似ているといえるかもしれない。葛西にとっては、先に菅原の本を見ていたので、樫尾の本に触れたときに不思議な既視感があった)。本書は読みやすい小説仕立てで、私とは誰か、人間とは何か、私はなぜここにいるのかという哲学的な問いを、この宇宙をあらしめている存在と対話をすることにより考えさせようとするものである。著者は古今東西の哲学と、「スピリチュアル」な諸修行に通じた大学教員である。小説は若い女性が主人公の読みやすいもので、すっと読め、私たちを生かしている存在について思いをはせることができる。

 「スピリチュアリティ」をめぐる世界の地図、とうてい一回でまとめられるものではない。今回は、あまりに広い対象の全体像をなんとか捉えるための論文数点と、数冊を紹介した。この続きは、改めて。