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2016/05/16

『「やさしさ」という技術 賢い利己主義者になるための7講』  ステファン・アインホルン著  池上明子訳  飛鳥新社
 

 
2015年 12月 1500円 +税

■やさしさは資質・性格ではなく技術である
 
 著者のステファン・アインホルンは、スウェーデンのカロリンスカ医科大学のがん専門医。原著の刊行は2005年で、スウェーデン国内では30万部のベストセラーとなった。その後、18の言語に翻訳され世界中で読まれており、本書はまさにグローバルに評判となっている作品だ。扱っているテーマが「やさしさ」という点も重要である。なぜならば、貧困や紛争・戦争の拡大する世界情勢の中では、この「やさしさ」の共有こそ課題だと言えるからだ。
 
 アインホルンは、「やさしい人」を「倫理にしたがって生きている人である」(p.12)と定義する。ここで、やさしさと倫理が結びついて語られる点が重要だ。一般通念では、やさしさとは「生まれもった資質・性格」であり、個人の意思でコントロールできるものではないと考えられてきた(pp.14-15)。しかしアインホルンは、心から積極的に正しい方法で他人にやさしくすることは「技術」に他ならないと述べる(p.13)。加えて、倫理とは「私たちが人類という仲間であり続けるための技術」(p.20)だとも述べる。
 
 「倫理」にも定義・解釈はたくさんあるが、本書は、倫理とは「仲間との関係、生態系のなかでともに生きているほかの生物との関係、そして地球全体と人間との関係を示す言葉」(p.19)であり、そうした関係に責任を持つことだと述べる。日常生活は倫理的な観点に立って判断しなければならない「倫理のジレンマ」に満ちているので、このジレンマをうまく解くことが出来るようになることが重要だと、アインホルンは説く。このジレンマを解く技術が「やさしさ」であり、その先には人生における「成功」があるというのが、本書の主旨だ。


■やさしくあるために

 第1講から始まるやさしい人であるための技術の話は、7講まで続く。まず目次をみておこう。
第1講「やさしさと倫理」、第2講「偽りのやさしさ」、第3講「やさしさ・勇気・利己主義」、第4講「あなたが「よい人間」になれない理由」、第5講「やさしさは得か?」、第6講「成功とは何か?」、第7講「なぜ、やさしくなると成功するのか?」。以上のあと、「おわりに – 生涯を人間の研究にささげた男が最後に気づいたこと」で、本文が締められている。
 
 第1講では、日常生活は大小の倫理的なジレンマに満ちており、それを知る力を備えていることが大切だと語られている。さらに、このジレンマを解くための5つの道具が示されている。最初の道具は、ルール。「生命の尊厳」や「自主性の尊重」、法律など、社会で共有されている規範や原則は、迷った時の大切な道しるべとなるという。2つ目は、判断力。これは、課題に対して最善の方法をとり、過ちをさけるための判断をする力を指す。3つ目は、良心。これは「人間の内なる羅針盤として機能し、何が善で何が悪かを示す」(p.33)ものだ。アインホルンはここで、良心が善悪を判断する際の感情的な指標となる点を指摘している。生まれ育ったコミュニティの価値観が個々人の良心形成のベースとなる。「私たちは、良心に逆らって行動すると気分が悪くなることを知っているものだ。(中略)私たちはみな、自らを導くこの内なる声を備えている」(p.34)というわけだ。4つ目は、共感力。これは他人の立場に立ちその人が何を求めているかを理解する力だ。5つ目は、他者。これは、助言を求める相手を指す。助言を求められる人間は、相手から信頼されているという実感を得られ、質問した人間はよきアドバイスを得られる。ジレンマに陥った際には、誰かに意見や助言を求めることに躊躇すべきではないのだ。
 
 第2講「偽りのやさしさ」は、いろいろ考えさせられる章だ。アインホルンは、やさしさは知性のひとつの形だという点を強調し、やさしさを「愚鈍」「意思薄弱」「ひ弱」の意味で了解することに反対している。これらは「偽りのやさしさ」でしなかく、時に厄介なものだというのだ。やさしさとは「長い目で見れば相手に最善の利益をもたらすと思われる行いをすることだ−たとえ一見無情に思えたり、非難をあびたりする行いであっても」(p.44)という。ここでのポイントは、やさしさが正しい判断と結びつくものであり、弱さの表れではないという点にある。そしてアインホルンは、もっと大切なのは「自分自身の行動の意味をきちんと理解することである」と説く。やさしさが知性のひとつであるという意味は、このような含意のもとで理解できることだろう。
 
第3講で著者は、ほんとうのやさしさについて語る。そこで重視されているのは、行い、行動である。「大切なのは気持ちではなく、行動である。もし行いがよいものであれば、動機は二の次だ」(p.51)と述べ、「「大切なのは気持ち」という台詞は今すぐゴミ箱に捨てること」(p.54)と諭している。大切なのは気持ちだという考えは、日本のみならずグローバル社会でも、もっともらしい言葉のようだ。しかしアインホルンは、やさしい人とは、「他人に対してよい行いをする人」(p.53)だと定義する。ナチス占領下でホロコーストの危機をくぐり抜けて生き延びた母をもつ著者は、決断と行動がいかに大切かを肌で知っているのだ。
 
 この第3講でアインホルンが語る事例は、ホロコーストのさなかで勇気をもって行動した自身の伯父(この伯父の機転で母が収容所送りを免れた)や、「スウェーデンのシンドラー」と言われる外交官ラウール・ヴァレンベリーらの勇気ある行動などだ。ヴァレンベリーはスウェーデンのパスポートを発行し、何千人ものユダヤ人を亡命させ、彼らの命を救った。「ひとりの人間がどれほどの善行を達成できるかを表し、危険にさらされている人々のために立ち上がる勇気を示す例となった」(p.60)という点からも、ヴァレンベリーの行動には大きな意味があると、アインホルンは論じている。ここで強調されているのは、「正しい行動を起こす勇気をもつこと」である。
 
第4講から第7講は、やさしい人間になるための指南と、その帰結としての幸福、成功とのつながりについて述べた章である。第4講「あなたが「よい人間」になれない理由」では、理想を抱きながらも思いどおりの行動ができなくなってしまう「マイナスの力」について、九つ挙げて解説している。

①リソース不足  ②共感力不足  ③思慮不足  ④「他人ごと」主義  ⑤理想と現実の落差に無自覚であること  ⑥生物としての攻撃性  ⑦無力感  ⑧「誰かがやるだろう」という思こみ ⑨選べない選択肢
 
 これらの中での共感力は、「他人の考えかたを理解する力」と定義されている。「人にやさしくしたいと思うなら、相手が何を必要としているのかを知らなくてはならない」(p.82)というわけだ。これに関連して、も重要な課題だ。がん患者の現実と向き合ってきた臨床医のアインホルンは、社会で起きている様々な出来事について「私には関係ない」と思うことが、やさしさを遠ざけるのだと述べ、「私たちは互いに深く依存しながら生きている。どれほど互いに依存しているかを知り、助けたり、助けられたりするのが当然なのだ」(p.90)と力説する。では、人間がもつ攻撃性についていくら自覚してもしすぎることはないという。「重要なのは「自分のなかにも攻撃性ある」という事実を受け入れ、それをコントロールすることだ」(p.95)というわけだ。アインホルン自身も、小学生の頃には喧嘩が絶えなかったという。しかし「おもしろいことに、攻撃的な衝動にふりまわされないようになると、攻撃性そのものまで少しずつ小さくなっていった」(p.97)というのだ。負の感情はコントロールし、それを建設的なものに変える。これが重要なことなのだ。
 
 ⑧の「誰かがやるだろう」という思い込みについても、アインホルンはズバリ次のように述べる。「「私がやらなくても……」というのは、よいことをする気になれないときの決まり文句だ」(p.101)と。大勢が行き交う街角で、急に倒れたり、喧嘩や事件に巻き込まれたりした人を助けようと行動を起こすひとは少ないのだという。実験によれば「人は周囲に助けの手を差し伸べられる人が大勢いればいるほど、自分が助けようとはしなくなることがわかっている」(p.103)という。こうした例や実験結果を示しながらアインホルンが繰り返し示唆するのは、お互いに助け合い、支え合う意思と責任の重要性だ。やさしさを実践することと倫理的であることは、よき人間社会を実現するための両輪なのである。
 
 後半の第5講「やさしさは得か?」、第6講「成功とは何か?」、第7講「なぜやさしくなると成功するのか?」は、やさしさは人生における成功につながるという主張で貫かれている。
 
 人間の集団、社会に倫理が存在する理由を、アインホルンは2つ挙げている。一つは「人間が社会を機能させるために倫理をつくり出した可能性」、もうひとつは、「人間に生まれつき倫理力が備わっていたという可能性」である。ツグミやクジラやサルなどには、集団全体の益になるふるまい(危険を知らせたり、エサを共有する行動など)がみられる。これは「相互利他主義」であり、人間社会で言えば「持ちつ持たれつ」という言葉で表されることである。動物行動学の観点を入れつつ考えれば、「進化」の過程で倫理的ふるまいが身についていき、それを社会の統合理念にまで練り上げた動物がヒトである、という話になる。「人間どうしの協力作業は、快感を高めるドラッグと同じ生理的効果をもたらす」のだという(p.125)。これは、幸福感と相互扶助行為が関係していることを示唆するが、同時にアインホルンは、「やさしさは得だ」と説いてきたのが宗教であると述べている。
 
 地球上のおよそ三千の宗教に共通するのは、「他人からこう扱われたいと思うやりかたを、自分が他人に接するときの指針にすべきだ」(p.132)という、似たような倫理を持っている点。自分が嫌なことを他人にしてはいけない(ユダヤ教、タルムード)、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい(基督教、マタイ福音書)、自分のために望むことを兄弟のためにできない者は信者とはいえない(イスラム教、スンナ)、己の欲せざるところを他人に施すことなかれ(儒教、論語)等々の教えは、よく知られている(p.132-134)。
 
 本書ではまた、米国を拠点に活動するNPO団体フリーダムハウス(世界の自由の拡大を目的とする監視機関)の調査結果を引用し、民主主義国家と専制国家とを比較すれば、人命尊重を旨とする民主主義国家のほうが、戦争や飢饉による死者が少ないという結果が出ていると指摘している(p.139-144)。
 
 
■やさしさは人生の成功と良き世界実現へのカギ
 
 ここまでの本書の主張をひと言でまとめれば、お互いを大切にしつつ利他的なふるまいができること、すなわち「やさしくなること」が、結局はお互いにとって得だ、ということになる。こうした論旨ならば、社会倫理や相互扶助を説く類書においても、すでにたくさん語られてきた。本書が興味深いのは、第6講、第7講で、やさしさが人生の成功の要だと主張している点である。
 
 「成功とは主観的な体験で、自分自身の心のなかでのみ定義されうるものである」(p.165)と、アインホルンは述べる。そして、「意味のある人生を生きていると感じられることが、成功の基準として、一番大切なことなのだ」(p.167)と語る。意味ある生の実感、自分の人生に自信をもつことが、成功の秘訣だ。アインホルンは最終的に、「やさしい人になること」と「ものごとを判断する際、つねにやさしさを基準にすること」の2つを、成功への実践的な助言として挙げる。そしてこの「やさしい人」になるためには、日常的な言い方でいえば「気前のいい人」になるよう努めればよいという。
 
 気前がいいというのは、「何の見返りも要求せずに行動することを意味する」(p.169)。また、お金だけでなく、名声も、仕事の成果なども、自分から手放して周囲の人たちと分かち合うことが、気前のよさだという。寛大になること、親切であることは、周囲との軋轢を少なくする。同時に、自分も周囲から「気前よく」扱われることになるのだ。これは、お互いが他人に寛大であることで、それぞれ自身が楽しさや満足感を得られるということでもある。この楽しさや満足感が、人生の充実と成功の種であるというわけだ。
 
 このあたりのアインホルンの主張は、絶妙だ。つまり、成功についての判断基準を社会ではなく、あくまでも自分の内面に置く。但し、利他的な行為によって得られる楽しさや満足感も大切にする。このように整理することで、従来の議論では内面的なものとされてきた「やさしさ」を、行為の地平で吟味することができる。読者の視点もまた、外面的・社会的な指標で量られてきた「成功」を内面的に獲得することへと転換するよう、促される。本書の結びには、「やさしさは、私たちが周囲の人に、そして自分自身に差し出すことができる、最高の贈り物なのである」(p.220)とある。
 
 こうしてアインホルンは、「やさしさ」が人間社会における必須の技術であるということを、平易な言葉と事例で語る。「訳者あとがき」には、アインホルンが1998年に『隠れた神』というノンフィクションで作家デビューし注目を集めたとある。アインホルンは本書で神について語っているわけではないが、仲間を大切にする倫理とそれを後押しする感情としてのやさしさを、人間社会の要だと考えている。言い換えれば、「やさしさ」こそが、世界を救いあるものにする原理であり技術だと語っているわけである。本書が語る「やさしさ」をひとつの基準として、諸宗教にみられる「行為としてのやさしさ」をあらためて考えてみたい。
                   
                                         (宗教情報センター研究員 佐藤壮広)