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2015/11/02


『人は死んだらどうなるのか?』 斉藤弘子 著  言視舎
 

 
2015年 8月 1600円 +税


 本書は、各時代・各地における死の文化の特徴を比較し、わかりやすく解説した本である。「わかりすく」とは、「内容薄く」の意味ではない。それは、「死後のストーリー」についての横断的な整理を試みたという、本書の「まえがき」の一文にも示されている。

 研究者はしばらく、われわれ人類の死に対する態度、向き合い方、死にまつわる儀礼や神話などを指す総体として「死生観」という言葉を使ってきた。いまだにこの語は、一般の人びとにはあまり馴染みがない。しかし、本書でも触れられているように、医療が発達しても人びとの死に対する恐れや不安は消えることがない。また、それに比例するかたちで死への知的関心も増しているという情況がある。そうした中でわれわれは、「死生観」という硬い言葉ではなく、もっと柔らかい言葉で自分たちの実存的課題としての死を摑んでいく必要があるのだと思う。その点で、本書で用いられている「死後のストーリー」や「死についての物語」という言葉は、死を前にして右往左往する人間らしさを表現する語としても、一般的でわかりやすいものだといえる。

 本書のポイントは、もうひとつある。それは、比較の視点を入れているというところだ。例えば、諸派の違いを捨象して「仏教の死生観」などと一括されてきた内容について、いま少し細かく語り分けていている。3章の「日本仏教・宗派別「死後のストーリー」」というセクションは、宗派ごとの現在の死生観を整理・紹介しており、非常に興味深い(pp.44-73)。

 例えば、死後の生よりもこの世での修行の大切さを説いたとされる釈迦の「毒矢のたとえ」(『華厳経』)に重心を置けば、仏教の教えに由来するとされる「あの世」や「地獄」といった観念は、否定されるものとなる。いっぽうで、仏教思想にも影響を与えたバラモン教には「輪廻の思想」がみられるため、仏教にも死後生のビジョンはあったという説を立てることもできる、等々。無論、本書の本文中ではあまたある仏教学の専門論文を網羅し、詳細を突き合わせて明示しているわけではないが、最新研究のポイントを押さえ、仏教徒や仏教学者らの「死後のストーリー」の特徴を整理している。

 また、各教派の公式サイトで閲覧できる葬儀や死後の説明や研究レポートなどをデータとして、それぞれの「死後のストーリー」の異同を紹介している。天台宗の公式サイトでは「死後の世界を肯定し、人は死ぬと仏の国(浄土)に行くことができるとしています」(p.64)という。曹洞宗は「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)」という座禅の実践によって安穏な生活をめざし、現世に価値を見出すという特徴があるいっぽう、「死者の霊魂」の存在、およびそのゆくえ等については「地方や人によって異なるので一義的な規定は無理と考えられ」(p.70)るとなっているという。このあたりだけでも、「日本の仏教」の死生観というテーマは、簡単に一括りにはできない現場性(個々の情況や人間に依拠するところが大きいこと)がある。本書のような一般書がこうした点を拾いあげ比較しているのは、読者にとっては思考の題材としても興味深い。

 4章「世界各地の「来世(あの世)」の物語」では、沖縄、奄美、ネイティブ・アメリカン、ブータン、インドネシアのトラジャ族、オーストラリアの先住民・アボリジニなどの死後のストーリーに触れ、その観念の多様さを紹介している。ここで興味深いのは、近年の奄美・与論島での火葬の広がりによって、島の風葬と洗骨の慣習が変容してきたという点にも言及し、いわゆる死生観の現代における変化の現実を指摘しているところだ。沖縄、奄美と一括りで語られがちな南西諸島の死の習俗、「死後のストーリー」について、ここでは地域差にも目配りした構成となっている。

 6章「科学・医学による「死んだらどうなる?」の説明」では、細胞生物学の観点からの「死の意味づけ」を紹介している。特に興味深いのは、細胞レベルで人間は常に小さな生と死を繰り返しており、それが病気や老衰によってやがて臓器の機能が停止して個体の死が訪れる……という説明のあと、「死とは、新しい生命を生むためでもあり、あらかじめプログラムされたものといってよいのではないでしょうか」と付言されている点だ。ここは、例えば「死の科学」について書かれたいわゆる科学本の中で読めば、「ああ、なるほど。あらかじめ組まれた死のプログラムねえ」と納得してしまうところ。だが読者はすでにほかの章で、多文化・諸宗教における「死後のストーリー」を読み進めてきている。そうした読者からすれば、ここで示される「科学からみた死後のストーリー」によって、死とは何かという根本的な問いへと再びジワリと戻されるような感覚になる。

 7章、8章では、尊厳死、安楽死や「死の受容」、グリーフケアなど、現代社会における死をめぐる諸事情が紹介されている。ここであらためて述べられている、「否認—怒り—取り引き—抑うつ—受容」の5段階で知られるE.キューブラー・ロスの死の受容プロセス、「現世での未練や苦悩をあるがままに認め、自然に死すべきときには死すがよい」とする吉本隆明の言説(『死の位相学』潮出版社1985の中で親鸞に言及した箇所でのことば)、「世界における不在」として死別体験を理解したボーヴォワールなどの死の思索は、われわれが死について考える際の大きなヒントとなる。

 巻末には、死についてのベストセラーのブックガイドと、「死と死後の世界をとりまく社会現象「年表」」が付され、もっと死について考えたいという人への案内も充実している。諸宗教、諸文化、科学、医学、哲学、など多領域からの「死後についてのストーリー」について解説している本書は、はじめのうちは総花的に見える。しかし、死というテーマは我々にとって切実なもの。だから、各章、各トピックを読み進めるうちに読者はきっと「自分にとっての死の意味」に考えを巡らすようになるだろう。
 
 「あとがき」では、パートナーの死を看取った著者が、今の思いとして次のように述べている。「いま、ここに在ることを、あるがままに受け容れる、そして、自分の生と死を創る覚悟をもつこと」(p.261)。死の看取りの記録やルポはいくつか目にすることができ、それを読んで泣いたり考えたりすることもできる。冷静な眼をもつ本書の著者ならば、自身の看取りの体験を記し、その一瞬一瞬を「二人称の死」に向き合うケーススタディとして語ることもできただろう。しかし著者は、そうした作品にはしなかった。じつはここに、本書の隠された魅力と意義が見出される。それを考えるヒントは、表紙オビにある「そもそもの疑問についてこういう整理をした本があるでしょうか?」という文言だ。

 身近な人の死を体験するという混沌・混乱のなか著者は、「死後のストーリー」として各時代・各地域、各宗教の死生観を整理することによって、この最後の思い、つまり「自分の生と死を創る覚悟をもつこと」に至っている。そう考えれば、ターミナルケアの現場でいかなる知が求められ、それをどのように整理し、伝えるかという、まさに現代の大きな課題と向き合った成果として、本書を評価することができるのではないだろうか。

 言うまでもなく、出版はせずとも本書のような整理を試みた個人や、死生観の研究として成果を出版している学者はたくさんいる。しかし、看取りの経験にもとづいてこのような整理をし、このような本を書いた人は稀だ。表紙カバーに添えられた「いざというとき支えになる本」というひと言も、大袈裟ではないだろう。「死生観の整理がどのようにあなたの支えになりましたか」。いつか、著者に伺ってみたい。

                            (宗教情報センター研究員 佐藤壮広)