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2011/01/19

『宗教の人類学――シリーズ 来るべき人類学③――』
吉田匡興・石井美保・花渕馨也(共編) 春風社 2010年11月 2000円(税込)

文化人類学から見た宗教

 文化人類学という学問の観点からは、宗教の現在についてなにを言いうるか。また、人類学的な視座から宗教を論じる意義や可能性とはなにか。こうした関心を持っている人にとって、本書は示唆に満ちた一冊である。
  現代の日本人にとって、宗教とは、異なる世界のもの、理解困難な「他者」であるといえよう。ところが、この他者とは、私たちが悩み迷いながら生きる日常の すぐそばにも存在している。占いやパワースポット、スピリチュアル・カウンセリング、そして癒しをもたらすさまざまな実践に。他者としての宗教、他方、す ぐそばにある宗教について、本書では人類学的視座からラディカルな問題提起がなされている。本書全体を紹介するには紙数が足りないので、序に焦点を当てつ つ、以下ではそのラディカルさをお伝えしてみたい。


現代日本人のアンビバレンス――宗教への嫌悪と魅惑

 序で編者の吉田は、現代社会において宗教がいかなる位置づけにあるのかを映 し出す。吉田は「宗教は、われわれにとって他者性(自分とは相容れないもの、理解しがたいもの)の象徴としての性格をもちながら、自分たちの経験に影のよ うに寄り添っているなにものか」と位置づける。たとえば、国際社会の文脈では宗教がテロリズムや原理主義といった暴力的なイメージを伴って表象される。ま た、国内ではオウム真理教事件の記憶もあり、日本人が宗教という言葉に胡散臭さや忌避感を抱いている。しかしながら、近年の「パワースポット」や「スピリ チュアル」ブームをかんがみると、宗教を嫌悪しつつも魅惑されるというアンビバレントな認識を、現代日本人は有しているのである。



宗教という他者と出会うこと

 フィールドワーク(参与観察)という方法論を通じて自らと異なる世界を深く観察し、理解した事実を伝えようと努めてきた文化人類学について、吉田はそこに「他者に向き合い、自己と他者との境界を相対化する」手法が根幹にあると説明している。だが一方で、他者について知り、それを言葉にするというのが簡単ではないことも事実である。したがって文化人類学では、異国の他者を知ったつもりになること、そして言葉にすることの危うさについて、真摯に問い直してきた。
 よって吉田を含む本書共著者は、その問いを踏まえて率直かつ素朴に宗教という他者に対して「レッテル」を貼ってしまうことへ自覚的であろうではないか、と説く。そして、この「レッテル」を乗り越える取り組みとして、他者性を理解しつつもそこから「われわれ自身の営みと通じる人間」を紡ぎだし、さらには、われわれ自身のなかに宗教的なものを見いだすきっかけをも――他者と出会うという驚きをもって――提示してくれる。



日本と世界、あるいは自己と他者という壁を越えて

 本書は、9本の論稿が4部をなす構成である。第Ⅰ部において、人類学者が捉えた「日々の暮らしの中の宗教的な営みのあり方」が描かれる。第Ⅱ部においては、「他者表象としての宗教と主体のゆらぎ」と題して、固定的な観念ないしレッテルをもとに素朴な他者表象を描くことと、そのような方法に対して人類学者が研究を通じて感じるある種の違和感を、他者表象を乗り越える足がかりとし、考察が展開される。第Ⅲ部では、宗教的諸実践を記述することで、宗教的な営みが自己に与える影響についての研究が述べられ、一方、第Ⅳ部では、より広い視座から宗教を俯瞰すること、具体的には「別の時代・別の場所に生きる(生きた)人々の営みと比較し、あるいは当の人々の営みがもつ、彼らのうちにだけに限定されない意味の広がり」についての研究が挙げられている。
 地域も日本、アジア諸国、ヨーロッパ、アフリカ、オセアニアとさまざまで、かつそこで扱われる宗教も、仏教やキリスト教から民間信仰や呪術、アニミズム、また最近流行りの言説として語られるスピリチュアルと、本書の守備範囲は幅広い。これらを通して本書は、読者自身が有する「宗教概念を解きほぐし、人間理解の深化をもたらす」であろう。言い換えれば、人類学を通し宗教という他者を見つめなおすことで、「自己と他者」という思考枠組を再構築しうるきっかけを、本書は読者に提示している。



事例:「合理性」と「偶然性」の狭間で――書評の結びにかえて――

 「結局、人間は文化的創造力を介して、ままならぬ現実に対峙してじたばた生きるしかないということであろうか。……思うままにならない状況や身体や他者と渡り合い、時には従い、時には身をまかせ、時には自己を主張し、なんとか折り合いとつけながら日々の実践を営んでいるのがふつうだろう」[花渕2010 : 153]


 これは本書の5つ目の論文として収巻されている花渕馨也氏の論稿の一節である。同稿は、女性の結婚について、日本のいわゆる婚活女性と、東アフリカにあるコモロ諸島で結婚を意識して生きる女性とを比較した研究である。理想の男性像を「合理的」に算出しつつも運命を詮索し占いやスピリチュアル・カウンセリングに癒しを求めるA子、一方、自身の憑依霊の意見によって自己の思う通り結婚を果たせないなかその憑依霊とうまく付き合っていく人生を「現実的」に選択したコモロの女性。両者は、合理性とスピリチュアルとの、あるいは霊的なものと現実とのあいだで日常を生きている。両女性にとってその2つの境界は曖昧で、揺れ動き、ときに彼女らの選択は偶然性のうちに為されている。
 生きていくうえでしばし出くわす「偶然」、場合によっては自己の存在そのものが「偶然」と呼べるかもしれない。そのような人生にあって、私たちはどのように自らの生きる軌跡を刻んでいくのであろうか。生の軌跡を紡いでいく秩序は宗教と深く関わるものであるが、そのさまざまなありさまと出会い、自分の生の軌跡を問い直したいのならば、本書は自らの思考を深化しうる可能性を秘めた一冊となるであろう。

 (蔵人)