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第13回 2012/02/18
韓国における「マインドフルネス」翻訳語論争1.はじめに:韓国の仏教―伝統と新しい流れ韓国の伝統仏教は曹渓宗という禅宗です。その修行方法は看話禅と呼ばれるもので、坐禅をしながら、「両親が生まれる前、私はどこにいたか」など、日常の論理では解決できない問題(これを話頭といいます)を突き詰めていくことです。日本の禅宗の中に臨済宗がありますが、臨済宗でも坐禅をしながら同様の問題(臨済宗では公案といいます)を突き詰めていきますから、両者は同じ系統の仏教ということになります。これに加えて近年では新しい二つの流れが加わっています。一つは南方仏教、すなわち東南アジアの伝統仏教の、心を観察する瞑想であるヴィパッサナーという修行法で、1980年代に韓国に紹介されました。もう一つは、この南方仏教の瞑想法にヒントを得て、西洋で開発されたマインドフルネスという心理療法で、2000年代から韓国に紹介されました。これら二つの新しい流れは、伝統仏教の修行法である看話禅に比べて、一般の人が親しみやすいことと、マインドフルネスの場合は実際の心理治療で用いられるということもあり、韓国社会の中に定着しつつあります。 このように南方仏教に由来するヴィパッサナー、マインドフルネスに注目が集まる中、2009年12月から2010年3月にかけて、マインドフルネスという言葉の韓国語の翻訳をめぐる論争が、仏教系新聞である「法宝新聞」紙上で繰り広げられました。論争に参加した人たちは、すぐれた仏教学者であるとともに、瞑想修行や心理療法の実践家で、彼らが学識と経験をもとにして論争を行ったのです。私はこの論争を眺めながら、仏教をただの学問に止めるのではなく、実践し社会に生かすという意識の強さを感じました。こうした現在の韓国の仏教研究のあり方は日本でも参考になると考え、レポートすることにしました。 ただ、私は初期仏教や心理療法の専門家ではないので、私なりに理解できた範囲でレポートすることをご了承ください。
2.マインドフルネスとその翻訳語まず論争の対象となったマインドフルネスについて簡単に説明します。マインドフルネス(mindfulness)は、初期仏教で用いられた「サティ(sati)」(パーリ語)の英訳です。サティとは、もともと「こころにとどめる、覚えておく、思い出す」など様々な意味を持つ言葉ですが、心理療法の中では「ある特定の方法で自分の体験に対して注意を向けること:意図的に、いまこの瞬間に、判断することなく」と定義して用いられます1 。日本語ではマインドフルネスを「気づき」、「気づきの瞑想」と翻訳されるのが一般的なようです。具体的な心理療法の中では、「いまこの瞬間」に「気づき」、注意を傾けながら、心に湧いてくる様々な思いを受け流すことが行なわれます。それでは韓国語ではマインドフルネスをどのように翻訳しているでしょうか。韓国では一般的に「マウムチェンギム」という韓国語をあてます。「マウム」とは心を意味し、「チェンギム」とは「チェンギダ」という動詞の名詞形です。「チェンギダ」とは「とりまとめる、とり揃える、整理する、準備する」という意味2で、これらを総合して「(何かを)整える」ことと解釈できます。よって、「マウムチェンギム」は「心の整え」、「心を整えること」と翻訳することができると思います。 3.論争の発端:インギョン氏「マウムチェンギム」(心を整えること)は非仏教的な用語として批判
このようにインギョン氏の主張は、実際のマインドフルネスの意味から考えて、自分の心を静かに客観的に見つめ、気づくことが大事であり、自分の心を整理するという言葉にある、自分の操作が加わるニュアンスを批判したと考えられます。 4.反論:キム・ジェソン氏:「マウムチェンギム」はサティの適切な翻訳語インギョン氏の批判に対して、「マウムチェンギム」(心を整えること)という翻訳語を作ったキム・ジェソン氏が反論しました4。キム・ジェソン氏は、ソウル仏教大学院大学教授で、初期仏教を専攻し、ミャンマーで瞑想修行を行なうとともに、現在、ご自身でも瞑想指導を行なっている実践家です。ちなみに1990年代には東京大学大学院に留学されていました。
私の解釈では、キム・ジェソン氏の述べる「心を整える」とは、客観としての自分の心をとらえようとする主観としての心の姿勢を意味するのであり、インギョン氏が批判するように、客観としての心自体を整えるのではない、と考えられます。つまり「心を整える」というときの心が何を指すかの違いが、両者の争点になったと考えられます。 5.その後の論争の経過この論争は、以後も両者により再反論が繰り返され第7回目まで議論が行なわれました5。その中ではサティだけでなく、心のはたらきを表す様々な初期仏教の用語をどのように理解すべきかが論争の対象となり、議論は複雑になっていきます。ただ、私の解釈では両者の基本的な姿勢の違いは一貫しているように見えます。例えるならば、インギョン氏は静の立場、キム・ジェソン氏は動の立場です。静の立場は、能動的な自分のはたらきを排除し、静かに客観的に自分の心を観察することで、そこに真理があらわれてくるという立場です。これに対して動の立場は、自分の心を観察するにしても、観察する心自体をきちんと整えなければならない。瞑想は何もしないことではなく、努力してこそ真理があらわれてくるということです。これは観点の相違といえば、それまでですが、重要なことは、それぞれの仏教観を基盤とし、その上に学識と経験を駆使して論理を組み立てて行ったことです。最終的な結論だけをまとめると、マインドフルネスの原語と翻訳語の見解は次のように対比されます。
そして第8回目からは両者以外の仏教学者、仏教実践家、心理学者が参加して、それぞれ自分の考えを述べます。紙幅の関係上、意見の紹介はできないので、参加した方々の所属とお名前だけを紹介します(注にそれぞれの主張のタイトルだけを紹介しました)。慈悲禅瞑想センター指導法師のチウン氏(第8回)6、初期仏教研究者であると同時に実践家である慶北大学校哲学科教授のイム・スンテク氏(第9回)7、初期仏教研究者である東国大学校教授のアン・ヤンギュ氏(第10回)8、初期仏教研究者である清州大学校講師のイ・ピルウォン氏(第11回)9、初期仏教研究者であるプサン大学校HK研究教授のキム・ジュンホ氏(第12回)10、心理学研究者であるトクソン女子大学校教授のキム・ジョンホ氏(第13回)11、初期仏教とアビダルマの研究者である慶尚大学校哲学科教授のクォン・オミン氏(第14回)12です。こうした方々が、インギョン氏、キム・ジェソン氏の議論を整理しながら、自身の見解を述べていきました。 6.まとめに代えて以上、2年前に韓国で繰り広げられた「マインドフルネス」翻訳語論争について紹介してきました。最後に、この背景を私なりに考察してまとめに代えたいと思います。韓国では仏教研究の中に「応用仏教」という区分があります。これは、仏教の学会などでも初期仏教や中国仏教などの区分けと並んで存在します。私が最初に韓国の仏教学会に参加した時、このことをとても不思議に思いました。私が日本の大学で学んできた仏教学は基本的に文献学であり、現実への適用、社会への応用は二の次にして、まずは原典を忠実に解読することが大事とされます。この立場から、仏教学の教理を実際の社会に適用させることは、時として「こじつけ」と考え、それに何の意味があるのか、という疑問を持っていました。しかし、韓国の仏教学者と交流を重ねながら、彼らの多くが今の時代の人間の心、社会のあり方を絶えず考えていることに気付きました。ここから自分自身のあり方を振り返ってみて、もちろん古典研究そのものも大事ですが、それを現代に活用することも考えなければならないということを思うに至りました。 今回紹介した「マインドフルネス」翻訳語論争は、そうした韓国の仏教研究のあり方を示していると思います。私は今後も韓国仏教の動向を注視しながら、学べるところは積極的に学んで行きたいと考えています。 最後になりますが、拙文の掲載を勧めてくださった葛西賢太先生、ならびに記事と写真の転載をご許可いただいた、法宝新聞のクォン・オヨン記者に深く感謝申し上げます。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 1 武藤崇「自分の<こころ>との新しいつきあい方:マインドフルネスとは何か」(『心理臨床科学』、第1巻、第1号、2011年)13頁 2 小学館『朝鮮語辞典』(1994年第3版)の「チェンギダ,챙기다」の項目には、「1.取りまとめる、取り揃える。旅行道具を~。2.よく整理する、片づける、しまう。散らかっている本を~。3.(飲食物を)準備する。夕ご飯の~。4.<俗>人の物をかすめる、着服する」(1688頁)とあります。 3 『法宝新聞』1027号(2009年12月10日) 4 『法宝新聞』1027号(2009年12月10日) 5 タイトルと刊行年月日を挙げます。第3回:インギョン「<整える>は仏教を歪曲する概念」『法宝新聞』1028号(2009年12月17日)、第4回:キム・ジェソン「<整える>を産業主義の用語と断定するのは強引」『法宝新聞』1029号(2009年12月24日)、第5回:インギョン「<整える>は人為的な操作。仏教ではない。」『法宝新聞』1030号(2009年12月30日)、第6回:キム・ジェソン「<心を整える>の問題点の指摘は杞憂」『法宝新聞』1031号(2010年1月8日)、第7回:「絶えず変化するのに何を<整える>というのか」『法宝新聞』1032号(2010年1月14日) 6 チウン「サティ、<整える>よりも<気付き>が適確である」『法宝新聞』1033号(2010年1月22日) 7 イム・スンテク「<気付き>の前に注意を集めるのがサティ」『法宝新聞』1034号(2010年1月28日) 8 アン・ヤンギュ「サティとマインドフルネスを同一視してはならない」『法宝新聞』1035号(2010年2月4日) 9 イ・ピルウォン「日本の学界では<気付き>と翻訳されるのが主流」『法宝新聞』1036号(2010年2月17日) 10 キム・ジュンホ「サティ、<気付き>と表現するのは不可能」『法宝新聞』1037号(2010年2月19日) 11 キム・ジョンホ「サティとマインドフルネスは異ならない」『法宝新聞』1038号(2010年2月26日) 12 クォン・オミン「サティ論争、念と慧の混同から始まる」『法宝新聞』1039号(2010年3月4日) <参考文献> ・阿部貴子「現代の仏教瞑想-マインドフルネス(気づきの瞑想)について-」(『大正大学研究紀要』第94輯、) ・杉浦義典「マインドフルネスにみる情動制御と心理的治療の研究の新しい方向性」(『感情心理学研究』第16巻、第2号、2008年) ・武藤崇「自分の<こころ>との新しいつきあい方:マインドフルネスとは何か」(『心理臨床科学』、第1巻、第1号、2011年) |
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