文字サイズ: 標準

宗教情報PickUp

バックナンバー

書評 バックナンバー

2018/04/16

フリードリヒ・ハイラー著『祈り』
深澤英隆監修、丸山空大、宮嶋俊一訳、国書刊行会、2018年。

 
司会

今からちょうど100年前にドイツで刊行された古典的名著『祈りdas Gebet』が、ついに日本語で読めるようになりました。 国書刊行会から3月にでた邦訳は600頁弱の大部の本なので、全訳と思いましたら、抄訳です。数多の文献からの引用を示すための膨大な出典註記、および序論(序文)の先行研究分析にあたる第二節、以外は訳されているとのこと。それでも歯ごたえのある量です。 拝読して、この本が多くの方に読まれたらうれしいなと思いました。そこで今回は、監修をされた深澤英隆さん、訳者の宮嶋俊一さん、丸山空大さんにお願いして、鼎談という形で、本書の魅力や特色をお話いただきたいと思います。深澤さん、宮嶋さん、丸山さん、今日はお忙しいところありがとうございます。

深澤

こちらこそ、『祈り』にご関心をもっていただいたことにお礼申し上げます。よろしくお願い致します。

『祈り』とハイラーの紹介

司会

まずは、『祈りの現象学--ハイラーの宗教理論』(ナカニシヤ出版)という著作もある宮嶋さんから、著者であるハイラーという人、そして本書がひと言で言えばどんな本なのか、ご紹介いただけますか?

宮嶋

私は彼が、ヴァイマール共和制期から第二次世界大戦後にかけて活躍した宗教学者・宗教運動家であると考えています。キリスト教的には教派を超えたエキュメニカルな立場でした。確かにキリスト者としての問題意識から宗教学に関わっていましたので、彼を「神学者」とする向きもありますが、制度的にはカトリックとプロテスタントという二大陣営のどちらかではなく狭間にいましたから、狭義の「神学者」ではないと思います。

彼には、キリスト教に関する著作も多数ありますが、宗教学の領域では、若い時代の著作である『祈り』と晩年にまとめられた『宗教の現象形態と本質』という2冊が代表作とされています。ひとことで言えば、本書は比較宗教学的な祈り研究の古典的名著と言えるでしょう。

彼自身の祈り観が色濃く投影されていることは確かであり、それに関しては長年批判もされてきたのですが、他方で、本書に匹敵するような祈りの体系的研究がこれまで存在してきませんでした。

深澤

少し付け加えるとすれば、この『祈り』という著作は、良きにつけ悪しきにつけ、宗教学の成立期の諸特徴を見事に体現した作品だと言えると思います。博大な宗教史の知識のうえに立った比較宗教学の書であり、そうした作業の基礎となっている情報量は、今日のような情報処理手段が無い時代であったことを考えると、まったく驚くべきものです。アナログな作業で膨大な知識の蓄積と総合をめざした19世紀後半の、いわゆる「学問の世紀」の特徴を遺憾なく発揮しています。それと同時に本書の根底には、合理性を超えた「祈り」という事象をテコとして近代性を超克しようとの文化批判的態度が潜んでいます。「悪しき」とあえて言ったのは、こうした19世紀から20世紀初頭の学問理想や、当時の反近代主義的モチーフは、現代の宗教学ではもっぱら批判の対象になっているからです。

ただそうした批判そのものが決まり文句となってしまって、当時の著作そのものが読み込まれることはほとんどありません。ともかくそうした著作に直にふれる機会を提供できるという意味では、『祈り』の訳出は無駄ではなかったように思われます。まぁ、通読するのは骨が折れますが(笑)。

司会

日本語訳を通しても、彼の熱気、時代の熱気が伝わってくるように感じました。簡単には否定できない存在感というか。抄訳とはいっても細かい註を中心に省かれているので、若き日にこれを書き上げたハイラーのエネルギーには驚かされます。

時代背景

司会

この大部のハイラーの『祈り』は、ドイツが経済的に苦境にあった時期なのに、第五版まででています。このことは興味深い。彼が『祈り』を書いたのはどんな時代と理解したらよいですか。また、どのような人たちが本書の熱心な読者であったのでしょうか(541頁)。

深澤

ドイツは英仏に遅れをとりつつも、19世紀末後半から近代化と産業育成にはげみ、急成長をとげました。しかしこの急速な近代化は、さまざまな社会的歪みをもたらしました。19世紀末ともなると、こうした近代化とその合理主義的エートスへの批判が思想界に広がっていきました。解説にも書いたのですが、当時のドイツでは「危機(Krise)」ということばが、キーワードともなりました。そして第一次大戦とドイツの敗戦がこれに続きます。危機はますます深まるばかりです。そして実際、戦中・戦後にかけて、どれほど多くの人が、どれほど切実な祈りを捧げたことでしょう。こうしたことすべてを考え合わせますと、ハイラーの『祈り』が広範な反響を呼んだことは、偶然的とは言えないように思われるのです。

司会

彼が「宗教心理学」を標榜するベースには、形骸化した宗教的組織(教会)を超えた個人的な信仰の表出として「祈り」をとりあげたい(197頁)、という思いがありますね。そして、個人的な信仰表出を重んじた神秘主義は、あまり社会集団を構成するに至りにくい傾向があると(256頁)。しかし宗教史のさまざまな例に照らし合わせると、たとえばイスラームの布教の重要な推進力となったたくさんのスーフィズム教団のこと、また現代のペンテコステ系キリスト教などをみると、神秘体験を重視するグループが組織を作らないというのは必ずしもあたっていないようにも感じますが、いかがでしょうか。

宮嶋

まず、形骸化した宗教的組織(教会)を超えた個人的な信仰の表出として「祈り」をとりあげたいというのは、彼自身が置かれていた宗教的・信仰的な状況からの発言であると考えられます。彼はカトリック出自でしたが、当時のローマ・カトリック教会に対して批判的でした。それゆえ、プロテスタント教会に近づくのですが、しかしながらカトリックの信仰を捨ててプロテスタント信仰者になることもできなかった。

そうした宗教的・信仰的な葛藤から、組織を超えた信仰に、彼は向かっていきました。それを彼は「福音主義的カトリック性(Evangelische Katholizität)」と呼んでいます。ですが、現実には、そのような信仰に基づいた「教会」は存在していません。ですから彼は、そうした共同体を形成するために、エキュメニカルな宗教運動に深くコミットしていくことになります。彼自身がそうした組織で指導的役割を果たすようになっていったわけです。

深澤

『祈り』の立論を見る限り、ハイラーの個人主義的志向性は否めませんね。すべての夾雑物をはぎとった純粋な祈りは、やはり個の内面的集中が極まったものとして思い描かれていると思います。一方彼自身の宗教的実践ということを見れば、そのエキュメニズムは思想的なものや、孤立した個々人の宗教性にとどまるものではなく、典礼的な実践というかたちをも取っています。この意味では、ハイラーは祈る人間の複数性を全否定したということにはならないでしょう。

司会

ハイラーの宗教的な立場・所属について、もう少しお聞かせ頂けますか?

深澤

さきほど宮嶋さんが言われたように、ハイラーはカトリックの洗礼を受けながらもプロテスタンティズムに惹かれ、しかしながらカトリックを正式に離脱するには至りませんでした。この両者のはざまで、原始キリスト教の理想を追求するプロテスタントの高教会運動に深くコミットしていきます。著名な宗教学者でプロテスタント教会大監督でもあったスウェーデンのN・ゼーデルブロムの影響が大きかったことはよく知られています。『祈り』以降は神学的・教会史的研究が中心となってきますが、その背景にはこうしたハイラーの教会的立場があったと言えます。

しかしこの神学的立場とは別に、ハイラーにはいわば「宗教学的宗教性」とでも言うべき立場が明確に見られると思います。これはとりわけ第二次大戦後にハイラーが宗教現象学にあらためて関心を集中させてゆく時期に顕著になります。現代ドイツの宗教学者のなかには、ハイラーの文章を引用して、まるでニューエイジ思想じゃないか、と批判しているひともいます。さすがにニューエイジというのは軽すぎて、ハイラーがちょっと気の毒な気もします(笑)。もうすこし重々しく言えば、普遍人間的宗教性を掲げるいわゆる「久遠の哲学」の系譜にハイラーが連なるということはできそうです。その場合学問的手続きを踏まえた比較宗教学的な操作がそのまま地続きで久遠の哲学に流入しているというのが、ハイラーの特徴です。これを「宗教学的宗教性」と仮に呼んでみたい気がします。

司会

「宗教学的宗教性」というのは、いいかえれば、学問的探究の中にもある種の宗教性を見いだしうると考える立場ともとれましょうか。あるいは、宗教者としてと同時に知識人としても世間から広く尊敬をされる人物像も浮かんできます。

ハイラーは「祈り」をどのようにとらえているか

司会

ハイラーは「祈り」をどんなふうに説明というか、定義するのでしょうか。私は読んでいて、神とのエクスタシー的な合一は、(自意識さえも解消されてしまうので)もはや祈りとは言えない、ということも、ハイラーはいっていましたね(270頁)。

深澤

「祈りの本質」を論じた最終章では、「祈りとは、むしろ人間と神との現実的な交際であり、有限な精神と無限の精神との間の生き生きとした交流である」とあります(528-529頁)。この定義からすると、やはり祈る主体と祈りの対象とは、強く関係しながらも別のものとして対峙していると考えられます。ハイラーは神秘主義に造詣が深く、影響も色濃いのですが、神と人間の合一や無差別な一体性は祈りのカテゴリーには入らないことになります。そして本書の冒頭からハイラーは繰り返し祈りが宗教の中心的事象であると強調することを考えると、ハイラーにとってはこの超越者と人間との差異はゆずれない宗教の核心的内容だということになります。ここにハイラーのキリスト教的立場を見ることもできるでしょう。

ハイラーの好き嫌い

司会

ハイラーは仏教やイスラームなども含めて広範に学んでいますが、全体をふりかえると、資料的な限界も感じざるを得ない。本書で出てくる「神」は基本的に人間よりもかなり上の存在ですが、人間とほぼ対等あるいは少し上の「神」(たとえば仏教の「天」)や、人間より少し下だけれども神秘的な力を持っているので宗教儀礼の対象となるような存在(仏教でいう「餓鬼」「霊」「妖精」等々)についての儀礼も、諸宗教のなかにはあります。そうしたものはハイラーにとって「想定外」であったのではないか、と感じましたが。東方キリスト教に対する評価も少し軽いと思いました(214頁)。

丸山

儀礼的なもの、形式的なものに対する評価が本書の中ではそもそも(不当に)低いですよね。とはいえ、たとえば「思考をやめた祈り、つまり祈りの言葉の意味に集中しない祈りも、ふさわしい感情や気分を伴うのであれば、敬虔な祈りとなる」(514頁)と言われるように、儀礼的、形式的なものが現実的にもつ力や意義を肯定的に評価しているようにみえる箇所もありますので、ハイラー自身は、本書で中心的に扱われなかったそうした諸宗教、諸現象についても、実際はもっと複雑な見解をもっていた可能性はあるのではないでしょうか。

深澤

先に引用したハイラーの祈りの定義を見ますと、やはり祈りの対象は「交際」「交流」ができる存在ということになりますので、それにふさわしい人格性というのははずせない条件なのでしょうね。東方教会については、1937年に単著も発表しておりますし、関心外ではなかったと思いますが、「祈り」では消極的な扱いにとどまっているかもしれません。

司会

宮嶋さんも解題に書いておられていましたが、ハイラーは「未開人の祈り」と「宗教的天才の祈り」に、他の章よりもとても多くページを割いています。ここからは、「未開人」の「純粋さ」に対するハイラーの好み、また「宗教的天才」の卓越性や純粋さや、「神」と常時接続していることの評価(183頁)など、ハイラーらしい思いがこめられている感じがします。ハイラー自身がこの「未開人」という言葉について、「未開人」を蔑視する研究も過去にあったが彼自身はしっかりとその評価をしたいむね書いていますよね(54頁など)。

宮嶋

「未開人」の祈りに関しては、タイラー、マレット、シュミットらの宗教民族学研究が蓄積していたことが重要だと思います。よく言えば、膨大な先行研究を踏まえた上での論考と言えますが、そうした先行研究を自分の都合に合わせて「切り貼り」しているのではないか、という見方もできるでしょう。つまり、ロマン主義的な立場から「未開人」を理想化していると言うこともできるのではないでしょうか。 ハイラーは、自身の経験も含めて、形骸化した宗教組織を嫌っていました。そして、「未開人」たちは、そうした組織が形成される以前の素朴で生き生きとした信仰を持っているとハイラーは考えていたわけです。ハイラーの「未開人」観をいくつか指摘すると、「未開人」は書き言葉を持たないので、祈りも固定化しておらず、自由な言葉による祈りが中心である、とか、「未開人」は集団主義的に見えるが、実は卓越した個人がいて、祈りでもその個人の影響が大きく働いている、などです。これらが、後の時代の「宗教的天才」の祈りの特徴と重なり合ってくるとされるわけです。

深澤

「天才」について言いますと、ロマン主義以来称揚された概念であり、また19世紀末以来宗教思想の分野でも盛んに「宗教的天才」ということが喧伝されました。これは日本でも同じで、姉崎正治や加藤玄智などの明治期の宗教学者は、盛んに「宗教的天才出でよ!」と高唱しておりました。これが「我こそ宗教的天才なり!」となると、教祖となってしまいますが(笑)。

翻訳の苦労話など

司会

丸山さん、翻訳はたいへんだったと思いますが、苦労話など、また工夫などお聞かせください。大部の翻訳ゆえの苦労、ドイツ語と英語との照らし合わせやドイツ語⇒日本語ゆえの苦心など。これはお三方にきいてみたいですが、三人の連携のための工夫はどんなだったのでしょう。

丸山

翻訳はたいへんでした(笑)。翻訳というのはそもそもたいへんなものだとは思うのですが、今回に関していえば原著の分量の多さと抄訳という形式、そして異なった版の間での細かな異同の確認がたいへんでした。

今回も、初版は手に入らず、2版はウェブ上で電子ファイルを参照し、3版と5版は紙の本を見るという作業でした。

ハイラーは彼の提唱する類型論の正当性を保証するためにたくさんの例を用います。また、新版をだす際には、批判をふまえて新たな例を補遺で加えたり、場合によっては例を差し替えたりもしています。こうしたおびただしい数の事例や引用が原著の一つの大きな特徴をなすのですが、一方でそれは一般の読者に非常に冗長な印象を与えるものでもあります。宮嶋先生の解題にも言及があるように、英訳が抄訳という形をとった理由に「通読の困難さ」が挙げられているのですが、まさにこの理由で全訳はやめたほうがよいという判断になりました。

しかしそうなると、今度はどこを削ってどこを残すのが妥当かという問題が残ります。類型論だけを本書の本質とみるならば、多くの事例を削ることができるでしょうが、おそらく実態は全く逆で、ハイラーには古今東西さまざまな祈りをヨーロッパの読者に紹介したいという思いがあったのだと思います。彼がしばしば分類にきれいにおさまらない例外にも言及するのはそのためではないでしょうか。ですので、類型論の骨格だけを残すような仕方で訳してしまうと、かえってつまらないものになってしまいます。

英訳(抄訳)は、最終版である第五版に依拠しハイラーの監修も入っているため、翻訳個所を選定する際、よい導きになりました。今回の日本語訳では、英訳の翻訳個所を参考にしつつ、ここは翻訳すべきだと思われた箇所は加えました。事例の選択には訳者の好みが入ってしまっていますが、ハイラーが東洋と西洋、あるいは古代と近代から事例を採っているような場合には両方の事例を残すよう努めました(英訳ではそのような方針はとられていないようでした)。

版の間の細かな異同については、残念ながら、今回の訳書にはほとんど反映できませんでした。これらの変更は、ハイラーが言うように議論の大筋(たとえば彼の類型論の成否)に関わるものではありませんが、とはいえ分量的にも決して小さいものではなく、詳しく跡付ければひとつの研究論文になるでしょう。さいわい、各版の「まえがき」を載せることができましたので、専門的な興味をもつ読者に対しては、版の間でハイラーの見解に若干の変化があったことを示唆することはできたろうと思います。

司会

複数の版を一つ一つ確認していく作業は敬服ものです! でもオンラインで、絶版になったヴァージョンを入手できるということは20年前には考えにくかった。本書『祈り』が原書出版百年目にして邦訳がでるにあたり、インターネットが複数の版との出会いを可能にしたことは意義深いと思いました。

深澤

直接訳文の作成にあたられたお二人の苦労は大変なものです。私の分担は出来上がってきた訳文を逐一原文と照らし合わせたり、訳語の統一を図ったり、ということですので、お二人の苦労とは比較になりません。

司会

もう少し翻訳の話を。PCでいろいろなことができるようになって、紙の辞書をめくりながら翻訳、という時代ではなくなったと思います。本書はドイツ語と英語とを参照しながら日本語にしていくというたいへんな作業をされたわけですが、実際の翻訳作業はどうだったのでしょうか。

丸山

どうなんでしょう、あまり変わらない所もあると思います。紙の辞書も使いますし。ただ、やはり電子辞書の使用頻度は増えていますし、なによりインターネット上のリソースが充実しているので、内容的な調べ物は格段に楽になっているはずです。たとえば、ハイラーが参照する文献は現在では著作権が切れているものが多く、少なくないものがインターネット上で公開されています。内容の理解や訳語の選定に困ったときに、自宅や研究室そうした文献を直接確認することができるというのは、少し前には考えられなかったのではないでしょうか。

宗教学の外の人にとっての意義

司会

ちょっと話題を変えてもいいですか。

私が、宮嶋さんの解題と深澤さんの解説を読んでひとつ引っかかっていることがあります。お二人が詳細に書いていただいたので、ハイラーの仕事について、宗教学の歴史のなかでの位置づけはよくわかりました。難しい話なのでざっくりした言い方にさせてください。現在の宗教学からみると、たとえばハイラーは客観的中立的に書いたつもりが、自身のキリスト教的価値観が随所に影響を及ぼしていることとか、(推敲・編集の過程を経ている)宗教体験の記録のテクストをあまりにも真に受けてしまいがちな点などに、ナイーブさというか、甘さがある、ということがありますよね。そうした宗教研究としての限界をふまえてか、解題と解説でのハイラーの評価は、ちょっと控えめな感じがしました。

それはそのとおりなのだけれど、私は、本書の読み手を宗教学の世界だけに限らない方がよいとも感じたのです。方法論的な難点をいちど棚上げして読むと、あるいは読者を宗教研究者の外に拡張すると、どんなメリットがありうるでしょうか。 たとえば、宗教者がこれを読んだ場合。あえて序文を飛ばして第一章から読むとか、(深澤さんが解説で書かれているように)久遠の哲学のひとつとして、諸宗教の祈りのあり方を俯瞰して自分の立ち位置を考えるツールとして使うとしたら、いかがでしょうか。 あるいは、「こんな読み方ができるのではないか」という提案とか。

宮嶋

まず私から申し上げますと、本書は「宗教学名著選」というシリーズの一巻として刊行されておりますので、解題もその方針で書きました。ですが、既に話に出ているように、本書は100年前にドイツで出版された当時も、いわゆる「教養市民層」と呼ばれる人たち、つまり、熱心に教会に通うことはないものの、宗教的な事柄に関心を抱いているような人々に受け入れられていきました。

私は、本書を最初から通読しなくてもよいのではないかと思っています。かなり省いたとは言え、本書には祈りの言葉が多数収められています。ですから、折に触れ、適当な頁を開いて、そこに記された祈りの言葉やハイラーの解釈を読み、その祈りの言葉に自分なりに思いを寄せてみる、といった読み方もできるのではないでしょうか。

司会

そうですね、そういう『聖書占い』のような読み方も可能(笑)な、随所がエネルギーに満ちた引用で埋まっている本、とも言えますね。

丸山

クリスチャンの親族がいるので出来上がった本を見せたのですが、「なぜ現在わたしたちは神様を信じるのか、というような問題に答えてくれそうな本ですね」と言っていました。思えば、現在では本質主義的と批判されるハイラーの学問的態度も、その根本では同じように、素朴な直観的疑問に導かれてのことなのかもしれません。そうであるなら、やはり近代社会に生きるわたしたちが、同じような(実存的な?)疑問をたずさえて本書を読むとき、得るところがあるのではないでしょうか。

司会

私たちがなにかを簡単に信じることができない時代にあることを思うとき、ハイラーの投げかけた問いは、有意義ですね。

深澤

ルドルフ・オットーが18世紀末に刊行されたシュライエルマハーの有名な『宗教について』に関して、教会に行かなくなった知識人たちにとってこの本は宗教的修養書の代わりとなるものだった、と言っています。同じことは時代が下ってオットーの『聖なるもの』についても言えますし、このハイラーの『祈り』についても言えるのではないかと思います。知識社会にあっては、直接的な宗教書ならぬ宗教研究書が宗教的機能を果たすこともあるというわけです。何しろ「宗教学名著選」という枠組みがあるので、解題・解説は宗教学の枠組みから書かざるをえなかったのですが、読者は全く自由に本書から人間や宗教についての洞察を汲み取っていただければと思います。

司会

第一版から第五版までの間に少しずつトーンが変わってきていて、最初は宗教研究としての客観性中立性を重んじているような書き方なのが、そのうちに節々に、本書が評価されていることを主に感謝するとかいったことばが入ってきていて、ハイラーは「正直な人」(本心を隠せない人)だと思いました。

個人的には、ベートーベンが言及されている(441頁)のになんでバッハはないの? という不満もあります(笑)。

深澤

これは分かりやすくて、ベートーベンがそうした祈りのテクストを実際に残していることと、それからハイラーの時代のドイツでは、ベートーベンはドイツ的なパッションを体現した英雄と見なされていたのです。他にはワーグナーなど、画家で言えばデューラーなどがよくそうした文脈で引き合いに出されました。バッハはやはり様式性がカッチリしていて、パッションのおもむくままに表現する「宗教的天才」とは見なされなかったのだと思います。

最後に読者に伝えたいこと

司会

これだけは読者に知っておいてもらいたい、訴えたい、ということがもしあればお願いします。

丸山

わたしは特にこれといった信仰を持っていないのですが、先日、申請した研究費の結果を待つさい、祈りたい気持ちに強くかられ、つい、どの神様にというのでなく「研究費が採択されていますように」と祈ってしまいました。自分でもあきれてしまいましたが、このように、祈ることは21世紀を生きるわたしたちとも無縁なことではないと思います。本書は、古い本ではありますが、祈るということについてあらためて考えてみるときの導きになると思います。

司会

世界の祈りの総合的な比較研究!ですもんね。

宮嶋

大部の著作ですので、一般の人にはなかなか手が出しにくいかもしれませんが、内容的に専門家にしか理解できないということは、まったくありません。ハイラーは、博覧強記の知識人であったと同時に、とても情熱的でハートフルな人であったと思いますが、本書を通じて、彼の熱い思いも感じとってもらえると嬉しいです。

深澤

皆さんよく胸に手をあてて考えていただきたいと思います。丸山さんのみでなく(笑)、やっぱり人間は祈る存在なのです。もちろん宗教的形式に則って祈る機会は過去に比べれば少なくなってきました。それでも神社仏閣に歩み入るとき、切実な願いをもつとき、世俗的と言われる現代の日本人もやはり自然と祈りを念じ・口にします。ですので、西洋の過去に属する書物というよりも、ぜひ今の自分にも通じるところのある著作として、本書を繙いていただければな、と思っております。

司会

ハイラーと現代人であるご自身とを突き合わせながら、お三方が感じられた世界も拝見しました。古今東西の祈りを比べるという強い志で書かれた本書、私もあらためて頁を繰ってみたいと思います。本日はありがとうございました。

監修者・訳者・著者プロフィール

深澤英隆(ふかさわ ひでたか:監修者)
1956年東京都生まれ。1988年東大大学院人文科学研究科博士単位取得退学。一橋大学大学院教授。主な著書に『啓蒙と霊性』(岩波書店)、『近代日本における知識人と宗教』(共編、東京堂出版)、『スピリチュアリティの宗教史』(共編、リトン)など。
丸山空大(まるやま たかお:訳者)
1982年東京都生まれ。2012年東京大学大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。東京外国語大学世界言語社会教育センター特任講師。訳書に『ウィトゲンシュタイン『秘密の日記』』(春秋社)。
宮嶋俊一(みやじま しゅんいち:訳者)
1966年生まれ。2001年東京大学大学院人文社会系研究科単位取得退学。博士(文学)。北海道大学大学院文学研究科准教授。主な著書に『祈りの現象学』(ナカニシヤ出版)、『宗教史とは何か』下(共著、リトン)、『〈宗教〉再考』(共著、法蔵館)など。
著者 ヨハン・フリードリヒ・ハイラー 略歴
1892年ドイツ、ミュンヘンに生まれる。ミュンヘン大学に学び、マールブルク大学神学部(一時期、哲学部)教授。同大学退官後、ミュンヘン大学員外教授。1967年ミュンヘンにて没。ワイマール共和制を代表する宗教学者。1918年に26歳にして出版した前期の主著『祈り』は出版5年後の1923年には増補第5版が出されるほど広く読まれた。他に主著の『宗教の現象形態と本質』(1961年)ほか、数多くの著作がある。1958年には東京で開催された第9回国際宗教史学会世界大会に出席するため来日した。

司会
葛西賢太(かさいけんた) 宗教情報センター研究員/上智大学グリーフケア研究所客員教授。