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日本国内で放送された宗教関連番組のレビューです。

鑑真~命を懸けて海を越えた絆物語~

2018/8/26 (Sun) 15:00~16:00 BSジャパン
参考
番組公式
 2018年は、日中平和友好条約締結40周年という記念すべき年である。
 今からおよそ1250年前、日本と中国の友好の架け橋となるため命を懸けて海を渡った一人の中国人がいた。鑑真和上だ。彼は奈良時代、5度も日本への渡航に失敗し、失明までしたにも関わらず日本にやってきたことで有名である。なぜそこまでして日本にやってきたのだろうか。その理由とともに鑑真の生涯を番組では辿っていく。
 688年唐の揚州で生まれた鑑真は、14歳のとき大雲寺で出家。21歳で受戒を受けたのち、故郷で戒律の講義を行った。次第に、唐の大都市・長安、洛陽にも並ぶものなしと言われる律匠、律に精通した優れた僧侶になる。日本からの招聘に応じ旅立ったときにはすでに55歳だった。そんな彼がなぜ危険を冒してまで日本に来たのか。
 奈良時代当時の日本は、天皇を中心として統治されていた。聖武天皇が即位したころ、各地で地震や疫病、反乱が相次ぎ、国が乱れていた。そこで仏教の力をもって国を建てなおそうとしたのである。長安をモデルに710年に作られた平城京の東にある東大寺には、高さおよそ15メートルの巨大な大仏が安置されている。聖武天皇の願いによって製作が始まり、752年に開眼された盧舎那仏だ。盧舎那仏の大きさは、仏教をもって平和な国を作りたいという聖武天皇の想いの表れでもあった。
 仏教を推進した聖武天皇によって、寺や僧侶の数は瞬く間に増加。一方で、僧になれば税金を逃れられるという理由から、勝手に出家する人が後を絶たず、規律が乱れ始める。そこで戒律が整っていた唐にその解決策を乞おうと考えたのだ。戒律とは仏教で僧侶などが守るべき規律のことである。
 733年、遣唐使として興福寺の僧であった栄叡と普照を唐に派遣。戒律を日本に教えてくれる名僧を探し続け、742年に揚州市大明寺にいた鑑真の元に辿り着く。弟子らに交渉するも、海を渡って外国へ行くには大変大きな危険を伴った当時、首を縦に振るものはいなかった。すると話をきいた鑑真は「仏の教えを広めたい、そのためならわが身、わが命をおしんでいられようか」と自ら日本へ行くことを希望したのだった。
 しかし、渡航に反対した弟子による密告や天候悪化による船の破壊、失明と苦難が続く。なんと12年間で5回も渡航失敗におわる。それでも信念を貫いた鑑真は、遣唐使船に乗り込み、6回目となる753年、ようやく日本の地へ入ることができた。翌年には奈良の東大寺に到着し、早速約440人が鑑真より戒を授かった。このとき聖武上皇らに授戒を行なった階段の土を大仏殿の聖壇にうつし、日本初の正式な授戒の場として戒壇院が建立された。現在でもここで受戒が行われているという。756年に聖武上皇が崩御し、その2年後に、鑑真は大和上の称号を与えられた。
 1250年以上経った今でも、日中の相互交流に一役買ってくれている鑑真。たとえば、1980年には鑑真坐像を揚州の大名寺に里帰りさせた。無事大名寺につくと熱烈な歓迎を受けたという。また、2017年には中国大名寺に唐招提寺から袈裟が贈られた。これは、717年遣唐使が唐の高僧に袈裟1000枚を寄進したとされる故事にちなんでいる。袈裟にかかれた「共結来縁」という言葉には、一緒に将来くるよいご縁を結びたいという意味が込められている。
 仏教の他にも肖像彫刻・医療・農業技術や調味料など多くのものを伝え、日中交流の架け橋となった鑑真。その柔和な表情にどれほどの人が救われたのか。「これが人々の幸せになるならば」と他のためにその身を捧げた鑑真の人生の一端を辿るとき、私たちは今までよりも鑑真のすばらしさを感じることができるだろう。