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- 第二十六回 「アルジェリアにおけるイスラム教」
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宗教情報PickUp
テレビ番組ガイド・レビュー
日本国内で放送された宗教関連番組のレビューです。
アフリカ最大で日本の6.3倍にあたる国土面積に約3780万人(2013年)が住むアルジェリアの主な宗教はイスラム教スンニ派です。首都アルジェでは、礼拝時刻になるとアザーン(祈りの呼びかけ)が響きますが、通りには髪の毛を覆っていない女性も歩いている世俗的なイスラム国家です。
現地ガイドによれば国家予算の約1割に上る宗教関連予算で、ウラマー(イスラム法学者)など数万人の宗教職務者を擁し、モスクを各地で建設しています。これは、脱植民地化の一環とも、世俗主義政権のイスラム勢力に対する融和策とも受け取れます。 アルジェリアは1830年にフランスに侵攻されました。1871年からフランス内務省による統治が行われ、1881年に直轄領となり、フランス人が多く入植しました。同化政策によってフランス語教育が行われ、コーランの言葉であるアラビア語(正則アラビア語、フスハ)教育が制限されました。また、政教分離の名のもとに宗教教育はほとんど許されず、ウラマーの養成も停滞し、メッカ巡礼も事実上禁じられました。この影響でアルジェリア人は、フランス語を用いる富裕層とアラビア語方言を用いる大衆層に大別され、さらに知識階層もフランス語使用者と、エジプトなどで宗教教育を受けたアラビア語使用者とに分断されました。 1945年5月には北東部セティフで、独立運動を機に治安当局による「セティフの大虐殺」が起きました。イスラム系住民の犠牲者数は、公式発表では死者1165人ですが、非公式情報では1万5千~2万人、4万5千人などの数値が挙がっています。アルジェリアは、フランスの保護領だったチュニジアやモロッコと異なり、フランス人入植者が約100万人もいる直轄領で、石油や天然ガスなどの資源も発見されたため、第二次世界大戦後も独立がなかなか認められず、1954年から8年に及ぶ戦争の末、1962年に独立を果たしました。 戦争の際にフランス軍として戦ったアルジェリア人兵士「ハルキ(フランス語でアルキ)」は約6万~26万人(注:資料により異なる)ですが、戦後にフランス本土に渡ることが禁じられたため、国内に留まらざるをえなかった推定3万~15万人(注:同じく)が殺害されました。また約5万~14万人(注:同じく)は脱出できたものの、難民として社会と隔離された収容所生活を余儀なくされ、教育面や就職面で受けた不利益の影響は2世、3世にまで及びました。 独立後、憲法で「アラビア語は国語」(注:2002年にはベルベル語も国語と規定)「イスラム教は国の宗教」と規定して、脱植民地化をめざしました。政府によるモスクの建設が進み、その数は約2200から1980年には5289と増加しました。約400人しかいなかった政府監督下の宗教職務者も1980年には5183人になりました。政府は1984年にエジプトからウラマーを招聘してコンスタンティーヌ・イスラーム大学を創設し、ウラマー養成機関を復活させました。
1971年からは「アラブ化」と「イスラム化」を2つの柱とする「文化革命」をスローガンにアラビア語教育をいっそう推進し、次第に中等教育まですべてアラビア語で行われるようになりました。しかし、正則アラビア語の読み書きが正確にできる人は2~3割で、現在もフランス語の授業が小学3年生から高校まで週1~2時間あり、大学でも医学と工学はフランス語で教えられています。ただし、政治経済の実務にはフランス語が用いられるため、富裕層はフランス語を習得して良い職に就いて世俗的価値観をもつ一方、アラビア語使用者は貧困に陥ってイスラム系組織に救済され、イスラム主義的価値観をもつという社会構図が生じました。 社会主義政権の独裁支配が続いたあと、1991年に複数政党制による初めての国政選挙(第1回投票)では「イスラム救国戦線(FIS)」が圧勝しました。しかし、イスラム原理主義政権の誕生を危惧した当時の政府が第2回投票を中止し、軍が1992年に事実上のクーデターを起こしたため、イスラム過激派によるテロが活発化し、内戦状態に陥りました。 治安は1999年に、2016年現在も続投中のブーテフリカ大統領が就任してから改善しました。が、内戦時の武装勢力が結成した「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ(AQIM)」などのイスラム過激派によるテロとの闘いは続いています。2013年に南東部イナメナスの天然ガス施設が襲撃されて日本人10人を含む犠牲者約40人を出した事件の首謀者ベルモフタールはAQIMの元幹部でした。
経済状況は1990年代に比べれば上向きになりましたが、2014年の失業率は10.7%と高く、職を求めてフランスに渡る人もいます。 フランスは高度経済成長期に労働力を確保するため、積極的に移民を受け入れました。アルジェリアからの移民は、1968年の協定で体制が整備されると増加しました。オイルショックを機に景気が低迷して1974年に新規受け入れが制限されると、移民が家族を呼び寄せて定住するようになりました。在仏アルジェリア人の数は独立直後の約51万人から1975年には約88万人に、1981年には約100万人に達しました。フランスで生まれた移民の子供はフランス国籍取得者が多いため、現在の在仏アルジェリア出身者の数を正確に把握することは困難です。 フランスでは2011年の生産年齢(15歳以上65歳未満)人口の10%、400万人が移民で、出身国は旧植民地であるモロッコ(14.5%)とアルジェリア(12.7%)、チュニジア(4.4%)のマグレブ諸国で3割を占めます。しかし、ヨーロッパ諸国出身移民の失業率が10%以下であるのに対して、マグレブ諸国の移民の失業率は20%を超えています。フランス社会における差別や貧困への不満から、イスラム過激思想に走る者もいます。2015年1月にパリで起きた政治週刊紙「シャルリー・エブド」社銃撃事件の容疑者は、フランスで生まれ育ったアルジェリア系の兄弟でした。同年11月に起きたパリ同時多発テロ事件もモロッコ移民家庭の出身者が首謀者だったこともあり、欧州各地でイスラム系移民の排斥運動が目立ってきています。
このような事件の背景を考える際には、植民地支配の歴史にも目を向けておく必要があるでしょう。アルジェリア独立50周年にあたる2012年、フランスのオランド大統領が同国を訪問した際には、132年に及ぶ植民地支配に対する謝罪への期待が高まりました。大統領は国会で「不公正で野蛮な植民地支配がアルジェリア国民を苦しめた」と演説したものの、謝罪はしませんでした。両国間のしこりが、負の連鎖を生んでいるのかもしれません。 (文責 藤山みどり) __RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY__">第二十六回 「アルジェリアにおけるイスラム教」 |
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