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歴史秘話ヒストリア「愛と信念は海を越えて~鑑真と弟子たち~」

2015/09/09 (Wed) 22:00~22:45 NHK総合
キーワード
鑑真、唐招提寺、戒律、普照、栄叡、聖徳太子
参考
番組公式
 今回番組で取り上げられていたのは、奈良時代に中国大陸から日本へ渡航し、唐招提寺を開いたことでも有名な鑑真である。当時、中国でも屈指の高僧として知られていた鑑真は、なぜ遠い異国の地・日本へと渡る決意をしたのか。本レビューでは、幾度にもわたる苦難を乗り越え、弟子たちとともに日本仏教の繁栄に貢献した鑑真の軌跡を辿る。
 
 仏教の日本伝来は538年とも言われている。そして、その普及に力を入れたのが聖徳太子であった。このとき太子は「いまから200年後、仏教はますます盛んになる」と予言したという。
 しかし、その予言からおよそ200年が経った奈良時代、日本では僧侶の堕落が目立ち、仏教は衰退を余儀なくされていた。時の帝である聖武天皇もこうした状況に危機感を抱くなか、仏教の盛んな唐では「戒律」によって僧侶の行動を厳しく律しているという情報を手にする。戒律とは、僧侶が守るべきルールのことであり、唐では戒律を守ると誓った者のみが僧侶になることができたのである。こうして、「戒律に詳しい僧侶を日本へ」という命を果たすべく選ばれたのが、普照と栄叡という二人の若い僧侶であった。
 733年、普照と栄叡は唐へと渡り、日本に戒律を伝えてくれる僧侶を探すため、各地を訪ね歩く。そして9年が過ぎたころ、二人は揚州へと辿り着く。揚州には戒律の第一人者がいると言われており、それが当時、大明寺で戒律を講義していた鑑真であった。
 普照と栄叡は、鑑真の弟子たちのなかで日本へ来てくれる者がいないか尋ねたが、誰一人として手をあげるものはいなかった。というのも、当時、日本への渡航はまさに命懸けの旅路だったからである。
 しかし、普照と栄叡が聖徳太子の予言について語ったとき、僧侶たちは大変に驚き、状況が一変することとなる。なぜなら、その話が中国のある伝説にそっくりだったからである。その伝説とは、「その昔、中国で皆に敬われていた高僧が亡くなり、高僧はその後、日本の王子に生まれ変わり、日本でまた仏教を盛んにした」というものであった。
 この話を聴いた鑑真は、伝説が事実であったことを確信し、「仏法のためなら命も惜しくはない」と、自ら日本へ渡ることを決意する。すると、鑑真とともに多くの弟子たちが日本行きを申し出たのである。こうして鑑真一行の日本行きへの挑戦が始まった。
 
 しかし当時、唐は国の人間が国外へ出ることを法律で禁じていた。そのため、鑑真らは秘密裏に日本への渡航を実行しなければいけなかった。鑑真の日本行きは困難を極め、弟子による密告や、嵐による船の大破によって、5度に渡る挑戦はすべて失敗に終わった。さらに唐に来てから16年、栄叡が病に倒れ、遠い異国の地で志を果たせぬまま亡くなる。そして普照も「密告が相次ぐのは日本人である自分がいるからかもしれない」と考え、鑑真一行と別れ、役人の目を逃れながら身をくらます決意をする。
 普照と栄叡との別れは鑑真にとって大きなこころの痛手であったに違いないが、その後、鑑真の身にも異変が起きる。目の病気にかかり、失明してしまったのである。このとき、もはや鑑真の日本行きは絶望的かと思われた。

 しかし、その3年後、思いもよらぬ出来事が起きる。鑑真のもとに日本からの使者がやってきたのである。この年、日本は20年ぶりに遣唐使船を派遣。普照が遣唐使たちに鑑真のことを伝えていたのである。こうして鑑真と普照、24人の弟子たちは754年、ようやく日本の奈良・平城京に到着することとなる。
 鑑真はその後、日本の僧侶たちに戒律を守ることを誓わせ、僧侶のあるべき正しい道を説いた。そして、鑑真のもとで日本の仏教を担う多くの僧侶たちが誕生していった。困難にも負けず、信念を貫き通した鑑真。その志はいまも人々の心の中で生き続けている。

○番組HP
「歴史秘話ヒストリア」http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/256.html