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- 第二十三回 「文明の十字路ウズベキスタンの多彩な宗教文化」
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テレビ番組ガイド・レビュー
日本国内で放送された宗教関連番組のレビューです。
地図から記事を探す」という検索方法があります。「中央アジア」を選択すると、「東西交易の要路であったため、イスラームを奉じる諸国のほか、イスラームと東方キリスト教会とを併含する国家もある」と簡潔な説明があります。今回は、この中央アジアに属するウズベキスタンを取り上げましょう。
●ゾロアスター教に由来する祭り ゾロアスター教は、紀元前12世紀~紀元前9世紀ごろに中央アジアからイラン高原東部にかけて活動していた古代アーリア人の神官ザラスシュトラが創始しました。紀元前6世紀から紀元前4世紀ごろまで、この地を支配したアケメネス朝ペルシアがゾロアスター教(祆教(けんきょう)、拝火教)を導入したという説がありますが、その影響はなかったとする説まで諸説あり、研究者たちの見解は分かれています[1]。ゾロアスター教は、3世紀にササン朝ペルシアが国教に定めたことでも知られています。この地域では古くからゾロアスター教が信仰されていましたが、信仰が始まった時期など詳しいことは定かではありません。ゾロアスター教といっても、ササン朝ペルシアが体系化した教えとは異なり、その宗教的な伝統は多種多様でした[2]。 時代が下って7世紀、西突厥(とっけつ)が覇権を握っていたころ、唐の僧侶、玄奘(げんじょう)はインドへの求法の旅の途中、この地を訪れています。玄奘の弟子による伝記『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』[3]には、サマルカンド(颯秣建国)ではゾロアスター教が信仰されており、2つある仏教寺院には僧侶がいなかったと書かれています。玄奘の説法で王が斎戒を受け、さらに玄奘の行いに感銘を受けた国民が仏法を求めるようになったとも記されていますが、これは創作と考えたほうがよさそうです[4] 。 その後、後述するようにイスラームが主な宗教となりますが、ゾロアスター教の影響は今日まで残っています。春分の日を祝う祭りナウルズ(ペルシア語で「ノウ・ルーズ=新年」)は、ゾロアスター教の新年を祝う祭りに由来します 。この祭りでは、小麦を煮詰めたスマラクと呼ばれる料理を女性たちが大鍋で作って皆で食べるなどして祝います。また、幸せになることを願って「たき火の周囲を3回まわる」という新婚カップルが行う風習もゾロアスター教の名残だそうです。 ●クシャーン朝時代の仏教遺跡 唐の僧侶・玄奘は、南部の都市テルメズ付近をも訪れました。7世紀ごろのテルメズ(呾蜜国)について、「伽藍が十余カ所、僧徒は千余人いる。多くのストゥーパおよび仏の尊像は神異(ふしぎ)なことが多く、ご霊鑒(りやく)がある」 と『大唐西域記』に記しています。 ●世界最古のコーラン ウズベキスタンには、世界に誇るイスラームの財産があります。この地にイスラーム勢力が進出してきたのは7世紀半ばです。当時、ゾロアスター教のほか、ネストリウス派キリスト教、ユダヤ教、マニ教、仏教などの信徒もいましたが、8世紀後半にイスラーム帝国が支配を確立するとイスラーム化が始まりました[5]。これが現在につながるイスラーム信仰の始まりです。 9世紀にはイスラーム文化が発展し、中部の都市ブハラは、スンニ派が正統と認めている6つのハディース(ムハンマドの言行録の伝承集)のなかでも『サヒーフ・ムスリム』と双璧をなす『サヒーフ・アル・ブハーリー』の編者として有名なアル・ブハーリーを輩出しています[6]。 現在、首都タシケントのコーラン図書館には、ユネスコの記憶遺産にも登録されている「現存する世界最古のコーラン」が展示されています。 ティムールは遠征を繰り返し、中央アジアだけでなくアフガニスタン、イラン、イラクにまで版図を広げました。ウズベキスタンを中心に統一国家を樹立したティムールは、現在、英雄として讃えられています。首都をサマルカンドにおき、宮殿やモスクなど現在も文化遺産として残る建造物を建てました。ただし、ティムール自身は信仰心が薄く、イスラームは政治の一手段に過ぎなかったようです[7]。 いずれにせよ、このコーランは1868年にはロシア帝国の首都ペテルブルグに、1917年の十月革命のあとはカザンに移され、1924年にようやくタシケントに戻されました[8]。 ●イスラームから逸脱したデザイン この地域のイスラームには、神秘主義的なスーフィー教団(ターリカ)が大きな影響を及ぼしました。ティムールが登場する前の13世紀にはモンゴル帝国軍が侵入し、サマルカンドやブハラなどのモスクを破壊し、都市は壊滅状態となりました。モンゴル帝国は、フビライ・ハンの時代にチベット仏教を国家的に導入しましたが、ブハラなどではモンゴル王族がイスラームに改宗した話や、君主の改宗とともにモンゴル人が集団改宗した逸話が伝承されています。改宗には、イスラームのなかでも神秘主義的なスーフィー教団(タリーカ)の一派であるクブラヴィー教団の導師やスーフィー教団の導師が見せた奇跡が大きな貢献をしたと伝わっています[9]。 また、15世紀にティムール朝の君主となったアブー・サイードはスーフィー教団の一派であるナクシュバンディー教団を利用して政権を掌握しました[10]。神との合一をめざすスーフィーは世俗的なことから離れることを是としていますが、ナクシュバンディー教団は、導師は君主にシャリーア(イスラム法)を遵守させるべきと政治への関与を奨励していました。君主の側も、人的ネットワークを形成している教団を取り込む必要性を意識しており、ナクシュバンディー教団は15~16世紀の政治と社会に大きな影響を与えました。 [11]。
いずれもイスラームでは珍しい図柄です。しかし、イスラームだからといって、偶像を描いたものが全くないわけではありません。スーフィー教団のひとつベクタシー教団は、人間の顔をしたライオンやシーア派の初代イマーム(指導者)であるアリーの顔をシンボルとしています[12]。また、預言者ムハンマドが聖獣ブラークにのってメッカからエルサレムまで夜の空を飛ぶというコーランの「夜の旅」の章を描いた図では、ムハンマドの顔まで描かれたものが多くみられます。この図は、ムハンマドの神秘体験を追体験して神との合一を図ろうとするスーフィー教団にとって象徴的なものでした[13]。 17世紀前半、ブハラとサマルカンドのメドレセのアーチに描かれた顔をもつ太陽の背景には、スーフィズムあるいはナクシュバンディー教団が関係しているのかもしれませんが、今回の調べではわかりませんでした。 ●共産主義の影響とイスラーム復興 ウズベキスタンは、19世紀にはイスラームを奉じる3つの国家に分かれていましたが、19世紀後半にかけてロシア帝国の支配下に入り、ロシア革命後の1924年には「ウズベク・ソビエト社会主義共和国」としてソ連邦の一部に組み込まれました。18世紀末以降のロシア帝国はイスラームに寛容な政策をとっていましたが、共産党政権は脱宗教化政策を図り、無神論教育を施しました。ほとんどのモスクやメドレセ(神学校)は閉鎖され、学校や工場に、歴史的建築物の場合には観光施設になりました[14]。また、モスクに行ったり、葬式などで宗教的儀式に参加したりすると共産党から除名処分を受けました。こうして、イスラームの信仰を隠して保つ人々もいましたが、若い世代ではとくに宗教心が薄れていきました。 ソ連崩壊後の1991年、ウズベキスタン共和国として独立し、信仰の自由が保証されるようになりました。イスラームへの回帰がみられ、モスクの数も増加しましたが、中東における熱心さはみられません。
2005年にはイスラーム国家樹立をめざす武装勢力が東部アンディジャンで反政府暴動を起こしました。治安部隊によって制圧されましたが、1500人以上もの市民が犠牲になりました。この事件を機に、アフガニスタン攻撃のため軍隊を駐留させていたアメリカは、カリモフ政権の圧政への沈黙をやめ、批判に転じました。この直後、カリモフ政権は米政府と教会のつながりに疑念をもったのか、プロテスタントの教会に弾圧を加えました[18]。これを受け、米政府は2007年版「宗教の自由に関する報告書」からは、敬けんなイスラームの信者を過激派と非難し、キリスト教徒も同様の迫害を受けているとして、「宗教の自由を著しく侵害している国」のリストにウズベキスタンを加えています。 現在、ウズベキスタンでは施設以外での布教が禁止されているため、街頭や戸別訪問で勧誘をする宗教は進出していませんが、モスクのほか、ユダヤ教のシナゴーグ、ロシア正教の教会、ウクライナと韓国から入ってきたプロテスタントの教会などがあります。共産主義の洗礼を受けた同国の宗教事情がどのように変化していくのか、今後も見守っていきたいと思います。
(文責・藤山みどり) __RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY____RCMS_CONTENT_BOUNDARY__">第二十三回 「文明の十字路ウズベキスタンの多彩な宗教文化」 |
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