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日本国内で放送された宗教関連番組のレビューです。

地図から記事を探す」という検索方法があります。「中央アジア」を選択すると、「東西交易の要路であったため、イスラームを奉じる諸国のほか、イスラームと東方キリスト教会とを併含する国家もある」と簡潔な説明があります。今回は、この中央アジアに属するウズベキスタンを取り上げましょう。
   この地域は、アムダリヤとシルダリヤという2つの大河に挟まれた肥沃な土地で、古代からさまざまな勢力に支配されてきました。サマルカンドやブハラなどのオアシス都市が東西交易の要衝であったこともあり、その宗教文化は多彩です。
 9割の人々がイスラーム(スンニ派)を信仰していますが、ゾロアスター教、仏教、イスラーム、共産主義など多様な影響を受けた痕跡が残っています。
  
▲ウズベキスタン共和国の略図
*中央アジア地域の地図はこちらより。  

●ゾロアスター教に由来する祭り
 ゾロアスター教は、紀元前12世紀~紀元前9世紀ごろに中央アジアからイラン高原東部にかけて活動していた古代アーリア人の神官ザラスシュトラが創始しました。紀元前6世紀から紀元前4世紀ごろまで、この地を支配したアケメネス朝ペルシアがゾロアスター教(祆教(けんきょう)、拝火教)を導入したという説がありますが、その影響はなかったとする説まで諸説あり、研究者たちの見解は分かれています[1]。ゾロアスター教は、3世紀にササン朝ペルシアが国教に定めたことでも知られています。この地域では古くからゾロアスター教が信仰されていましたが、信仰が始まった時期など詳しいことは定かではありません。ゾロアスター教といっても、ササン朝ペルシアが体系化した教えとは異なり、その宗教的な伝統は多種多様でした[2]
 時代が下って7世紀、西突厥(とっけつ)が覇権を握っていたころ、唐の僧侶、玄奘(げんじょう)はインドへの求法の旅の途中、この地を訪れています。玄奘の弟子による伝記『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』[3]には、サマルカンド(颯秣建国)ではゾロアスター教が信仰されており、2つある仏教寺院には僧侶がいなかったと書かれています。玄奘の説法で王が斎戒を受け、さらに玄奘の行いに感銘を受けた国民が仏法を求めるようになったとも記されていますが、これは創作と考えたほうがよさそうです[4]
 その後、後述するようにイスラームが主な宗教となりますが、ゾロアスター教の影響は今日まで残っています。春分の日を祝う祭りナウルズ(ペルシア語で「ノウ・ルーズ=新年」)は、ゾロアスター教の新年を祝う祭りに由来します 。この祭りでは、小麦を煮詰めたスマラクと呼ばれる料理を女性たちが大鍋で作って皆で食べるなどして祝います。また、幸せになることを願って「たき火の周囲を3回まわる」という新婚カップルが行う風習もゾロアスター教の名残だそうです。

●クシャーン朝時代の仏教遺跡
 唐の僧侶・玄奘は、南部の都市テルメズ付近をも訪れました。7世紀ごろのテルメズ(呾蜜国)について、「伽藍が十余カ所、僧徒は千余人いる。多くのストゥーパおよび仏の尊像は神異(ふしぎ)なことが多く、ご霊鑒(りやく)がある」 と『大唐西域記』に記しています。
 
 この地域は、クシャーン朝(紀元後1~3世紀ごろ)の勢力範囲となった時代があります。クシャーン朝全盛期に君臨したカニシカ王は仏教を保護し、広めました。この時代は仏像が盛んに作られたことでも知られています。
 テルメズの近郊からはクシャーン朝時代の仏教遺跡がたくさん見つかっています。仏教遺跡カラ・テパは、加藤九祚(かとう きゅうぞう)・国立民族学博物館名誉教授が携わっていることで日本人にもなじみの深い遺跡です。ここで加藤名誉教授が発見した大ストゥーパは、玄奘が目にしたものかもしれません。
 同じくテルメズ郊外の仏教遺跡ファヤズ・テパからは石灰岩の「三尊仏」が発見され、首都タシケントにあるウズベキスタン歴史博物館で必見の展示物となっています。
  
▲ファヤズ・テパ出土の三尊仏

●世界最古のコーラン
 ウズベキスタンには、世界に誇るイスラームの財産があります。この地にイスラーム勢力が進出してきたのは7世紀半ばです。当時、ゾロアスター教のほか、ネストリウス派キリスト教、ユダヤ教、マニ教、仏教などの信徒もいましたが、8世紀後半にイスラーム帝国が支配を確立するとイスラーム化が始まりました[5]。これが現在につながるイスラーム信仰の始まりです。
 9世紀にはイスラーム文化が発展し、中部の都市ブハラは、スンニ派が正統と認めている6つのハディース(ムハンマドの言行録の伝承集)のなかでも『サヒーフ・ムスリム』と双璧をなす『サヒーフ・アル・ブハーリー』の編者として有名なアル・ブハーリーを輩出しています[6]
 現在、首都タシケントのコーラン図書館には、ユネスコの記憶遺産にも登録されている「現存する世界最古のコーラン」が展示されています。
 
 これはイスラームの第3代カリフのウスマーン(在位644~656年)が編纂を命じ、のちにコーランの標準となったウスマーン版のコーランで、開かれたページの中央にはウスマーンが暗殺されたときのものとされる血のあとが付いています。
  このコーランの来歴は、2通りあります。ウスマーンの親戚がサウジアラビアのメディナが混乱していた時代に持ってきたという説と、14世紀に統一国家を築いたティムールが征服先のイラクからサマルカンドに持ち帰ったという説です。
 
▲「世界最古のコーラン」(53×62cm)の複製(ウズベキスタン歴史博物館)。原本は鹿皮、文字(クーフィー体)は、ろうそくの煤とオリーブオイルを混ぜたもの
 
 ティムールは遠征を繰り返し、中央アジアだけでなくアフガニスタン、イラン、イラクにまで版図を広げました。ウズベキスタンを中心に統一国家を樹立したティムールは、現在、英雄として讃えられています。首都をサマルカンドにおき、宮殿やモスクなど現在も文化遺産として残る建造物を建てました。ただし、ティムール自身は信仰心が薄く、イスラームは政治の一手段に過ぎなかったようです[7]
 いずれにせよ、このコーランは1868年にはロシア帝国の首都ペテルブルグに、1917年の十月革命のあとはカザンに移され、1924年にようやくタシケントに戻されました[8]

●イスラームから逸脱したデザイン
 この地域のイスラームには、神秘主義的なスーフィー教団(ターリカ)が大きな影響を及ぼしました。ティムールが登場する前の13世紀にはモンゴル帝国軍が侵入し、サマルカンドやブハラなどのモスクを破壊し、都市は壊滅状態となりました。モンゴル帝国は、フビライ・ハンの時代にチベット仏教を国家的に導入しましたが、ブハラなどではモンゴル王族がイスラームに改宗した話や、君主の改宗とともにモンゴル人が集団改宗した逸話が伝承されています。改宗には、イスラームのなかでも神秘主義的なスーフィー教団(タリーカ)の一派であるクブラヴィー教団の導師やスーフィー教団の導師が見せた奇跡が大きな貢献をしたと伝わっています[9]
 また、15世紀にティムール朝の君主となったアブー・サイードはスーフィー教団の一派であるナクシュバンディー教団を利用して政権を掌握しました[10]。神との合一をめざすスーフィーは世俗的なことから離れることを是としていますが、ナクシュバンディー教団は、導師は君主にシャリーア(イスラム法)を遵守させるべきと政治への関与を奨励していました。君主の側も、人的ネットワークを形成している教団を取り込む必要性を意識しており、ナクシュバンディー教団は15~16世紀の政治と社会に大きな影響を与えました。
 
 ティムール朝を滅ぼしたシャイバーン朝は16世紀後半に首都をサマルカンドからブハラに移しました。
 その次のジャーン朝の時代、17世紀前半に大臣ナディール・ディヴァンベギがブハラに建てたメドレセ(神学校)のアーチには、顔が描かれた太陽の装飾があります。偶像崇拝を禁じるイスラームからは逸脱した図柄ですが、このメドレセはナクシュバンディー教団の象徴のひとつとなりました。
▲ナディール・ディヴァンベギ・メドレセのアーチ(1631年)。顔が描かれた太陽(太陽神との説もある)と、豚を捕まえている白鳥
 同じころサマルカンドの中心、レギスタン広場に建てられたシェルドル・メドレセのアーチにも、似たような図柄が見られます。こちらは、古くからのサマルカンドの支配者の紋章と考えられてもいます。メドレセの建築を指示したこの地の支配者は、ナクシュバンディー教団の支援によって、その地位に就きましたが、彼も、この紋章を使用していました[11]
 
▲サマルカンドのレギスタン広場、右がシェルドル・メドレセ ▲シェルドル・メドレセのアーチ(1636年)。動物界の王と天体の王が合体したことを示すとされる、トラの背とライオンのたてがみの間に人間の顔をした太陽が描かれている  
 
 いずれもイスラームでは珍しい図柄です。しかし、イスラームだからといって、偶像を描いたものが全くないわけではありません。スーフィー教団のひとつベクタシー教団は、人間の顔をしたライオンやシーア派の初代イマーム(指導者)であるアリーの顔をシンボルとしています[12]。また、預言者ムハンマドが聖獣ブラークにのってメッカからエルサレムまで夜の空を飛ぶというコーランの「夜の旅」の章を描いた図では、ムハンマドの顔まで描かれたものが多くみられます。この図は、ムハンマドの神秘体験を追体験して神との合一を図ろうとするスーフィー教団にとって象徴的なものでした[13]
 17世紀前半、ブハラとサマルカンドのメドレセのアーチに描かれた顔をもつ太陽の背景には、スーフィズムあるいはナクシュバンディー教団が関係しているのかもしれませんが、今回の調べではわかりませんでした。

●共産主義の影響とイスラーム復興 
 ウズベキスタンは、19世紀にはイスラームを奉じる3つの国家に分かれていましたが、19世紀後半にかけてロシア帝国の支配下に入り、ロシア革命後の1924年には「ウズベク・ソビエト社会主義共和国」としてソ連邦の一部に組み込まれました。18世紀末以降のロシア帝国はイスラームに寛容な政策をとっていましたが、共産党政権は脱宗教化政策を図り、無神論教育を施しました。ほとんどのモスクやメドレセ(神学校)は閉鎖され、学校や工場に、歴史的建築物の場合には観光施設になりました[14]。また、モスクに行ったり、葬式などで宗教的儀式に参加したりすると共産党から除名処分を受けました。こうして、イスラームの信仰を隠して保つ人々もいましたが、若い世代ではとくに宗教心が薄れていきました。
 ソ連崩壊後の1991年、ウズベキスタン共和国として独立し、信仰の自由が保証されるようになりました。イスラームへの回帰がみられ、モスクの数も増加しましたが、中東における熱心さはみられません。
 
 ウズベキスタンでは中東におけるイスラームのあり方とは異なり、宗教は個人的な問題と考える世俗主義が深く根づいているという指摘もあります[15]。けれども、70年近くに及ぶ脱宗教化政策が、イスラームを信じる人が9割でありながら、礼拝を呼びかけるアザーンが聞こえてこない、自由な服装をした女性が多い、お酒を飲む人が多い、豚肉を食べる人もいるという現在の「ゆるやかなイスラーム」の形成にひと役買っているようです。2003年と古い調査ですが、礼拝に出席する頻度は「宗教行事のとき」が37.1%と最も多く、「年に1回」が10.5%、「月に1回」が9.1%、「週に1回以上」が7.3%とあまり熱心でなく、「出席したことがない」が10.5%もいます[16]。メドレセは人気がなく、卒業生はアラビア語の通訳になる人が多いそうです。
 また、墓地では故人の肖像画が刻まれた墓碑をよく見かけます。『サヒーフ・ムスリム』[17]では墓に肖像画を掲げること等を禁じており、イスラームの教えとは反しますが、このような墓はロシアにも多く、ソ連時代の影響をうかがわせます。
▲現代のウズベキスタンの墓。女性の墓であっても、故人の肖像画がある。
  一方で、独立以来のカリモフ大統領の独裁体制への反感や、東部のフェルガナ地方における経済格差への不満などを背景に、過激なイスラーム復興運動も起きています。1999年に隣国キルギスで起きた日本人技師拉致事件には、「ウズベキスタン・イスラム運動(IMU)」という過激派が関わっていました。
 2005年にはイスラーム国家樹立をめざす武装勢力が東部アンディジャンで反政府暴動を起こしました。治安部隊によって制圧されましたが、1500人以上もの市民が犠牲になりました。この事件を機に、アフガニスタン攻撃のため軍隊を駐留させていたアメリカは、カリモフ政権の圧政への沈黙をやめ、批判に転じました。この直後、カリモフ政権は米政府と教会のつながりに疑念をもったのか、プロテスタントの教会に弾圧を加えました[18]。これを受け、米政府は2007年版「宗教の自由に関する報告書」からは、敬けんなイスラームの信者を過激派と非難し、キリスト教徒も同様の迫害を受けているとして、「宗教の自由を著しく侵害している国」のリストにウズベキスタンを加えています。
 現在、ウズベキスタンでは施設以外での布教が禁止されているため、街頭や戸別訪問で勧誘をする宗教は進出していませんが、モスクのほか、ユダヤ教のシナゴーグ、ロシア正教の教会、ウクライナと韓国から入ってきたプロテスタントの教会などがあります。共産主義の洗礼を受けた同国の宗教事情がどのように変化していくのか、今後も見守っていきたいと思います。
 
ヒヴァのパフラヴァン・マフムド廟内。イスラームの聖者の廟には聖職者(右端の男性)がいて、信者から寄進を受けると祈りを朗唱する  
 
(文責・藤山みどり)
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キーワード
[1] 『ゾロアスター教』青木健著、講談社、2008年3月。R.C.フォルツは『シルクロードの宗教』(常塚聴訳、教文館、2003年11月)(p52)で、「ゾロアスター教が体系化されたのはササン朝ペルシアが国教とした3世紀以降で、アケメネス朝時代の資料にはゾロアスターについての記述は見つかっていない」と述べている。
[2] 『『サマルカンド』Normatov N.編 Muradova Ella訳、SMI-ASIA(2008年7月)
[3] 『玄奘三蔵 大唐大慈恩寺三蔵法師伝』慧立、彦悰著、長澤和俊訳、光風社(1985年10月)
[4] 『シルクロードの宗教』R.C.フォルツ著、常塚聴訳、教文館(2003年11月)
[5]『中央ユーラシア史』小松久男編、山川出版社(2000年10月)
[6] 『ハディースⅥ』牧野信也著、中央公論新社(2001年6月)
[7] 『中央ユーラシア史』小松久男編、山川出版社(2000年10月)
[8]UNESCO Memory of the World Register - Nomination Form Uzbekistan - Holy Koran Mushaf of Othman http://www.unesco.org/new/fileadmin/MULTIMEDIA/HQ/CI/CI/pdf/mow/nomination_forms/uzbekistan_holy_koran_othman.pdf
ただし、1917年にはタタール人によってウファに移された等の説もある。
[9] 『中央ユーラシア史』小松久男編、山川出版社(2000年10月)
[10] 『中央ユーラシア史』小松久男編、山川出版社(2000年10月)
[11] 『サマルカンド』Normatov N.編、Muradova Ella訳、SMI-ASIA(2008年7月)
なお、ライオン(トラ)はムハンマドの娘婿アリーのシンボルで、ライオン(トラ)の絵は中世のサマルカンドに普及したアリー信仰と関係があるという。
[12] 『スーフィー』ティエリー・ザルコンヌ著、東長靖監修、遠藤ゆかり訳、創元社(2011年8月)
[13] 阿部克彦「民衆のなかの聖なるイメージ」『民衆のイスラーム』赤堀雅幸編、山川出版社(2008年3月)
[14] 帯谷知可「現代ウズベキスタンにおけるイスラーム」『宗教と文明化』杉本良男編、ドメス出版(2002年3月)
[15] 『社会主義後のウズベキスタン』ティムール・ダダバエフ著、アジア経済研究所(2008年6月)
[16] アジアバロメーター調査。『社会主義後のウズベキスタン』ティムール・ダダバエフ著、アジア経済研究所(2008年6月)
[17] 宗教法人日本ムスリム協会「ハディース検索」http://sahihmuslim.jp/
[18] 『読売新聞』2005年7月4日