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日本国内で放送された宗教関連番組のレビューです。

美の巨人たち 円空「両面宿儺坐像」

2013/02/02 (Sat) 22:00~22:30 テレビ東京
参考
番組公式
 今回は生涯を旅に費やし多くの仏像を彫ったといわれている円空と、その仏像の中でも傑作と名高い「両面宿儺坐像(りょうめんすくなざぞう)」が取り上げられている。「両面宿儺坐像」は、四本の手と二つの顔をもつ。手には斧を持ち、その髪は逆立っている。そして、背面には炎がほとばしるようにうずまく。しかし、その顔は恐ろしいだけではない。向かって右側、憤怒の顔は激しい怒りをあらわしているが、正面を向く顔はすこし微笑んでいるのだ。その顔は慈悲に満ちた心をあらわすという。『日本書紀』には悪しき怪物と残されている両面宿儺が、なぜ慈悲の心をみせるのか。円空が既存の仏像とは違う「円空仏」を生み出した背景とともに読み解いていく。
 円空は美濃の国(現在の岐阜県)に生まれた。彼は生涯を旅に費やし、近畿から北海道にまで足を運んだという。そして、その旅の先々で彫ったのが仏像である。「円空仏」とも呼ばれているその仏像は、荒々しく削られ、木肌が生々しくさらされている。さらに、顔の造形は徹底的に単純化されており、従来の仏像にはない独特の存在感を放つ。
 しかしながら、円空の初期の作品にはその「荒々しさ」はなかったという。それどころか、作品からは実にていねいに鑿(のみ)を入れていたことが窺えるらしい。それでは、なぜこのような表現に変わったのか。彫師の山田匠琳氏はその理由を「旅に生きていたからではないか」と語る。「円空には普通の仏師みたいに道具が備わっているわけではなかった。よって、普通の仏像をつくるのは無理だと感じた円空が、試行錯誤していくうちに大胆な彫りへと変わっていったのではないか」と山田氏は述べている。さらに山田氏は、「円空は今の作家のようなもの。自分を押し出すことができた」と語る。当時、他の仏師があくまでも職人として、権力者のために自分を押さえつけて腕を振るうのに対して、円空は自らの思うままに彫っていくことができたのだ。
 また、千光寺住職の大下大圓氏は、「仏像を彫るというと、普通はだんだんとつくっていくというスタンスであると思うが、円空さんの場合は木の中に仏を見出して、いらないところを削っていく。そんな自覚があったのではないか」と語る。ていねいに「つくる」のではなく、「彫りだす」。旅に生き、思うままに仏像を彫ることのできた自由と、仏像を「彫りだす」という意識が、荒々しくダイナミックな「円空仏」を生み出したのかもしれない。
 番組の後半では、両面宿儺と慈悲の心のつながり――円空がなぜ両面宿儺を彫ったのか――が明らかにされる。その手がかりとなるのは高山市の東に位置する洞窟。ここは両面宿儺が潜んでいた場所といわれており、古くから信仰の対象となってきた。地元の人々は両面宿儺を怪物としてではなく、神として崇めていたのだ。地元の伝承によると、両面宿儺は勇猛果敢に地元の人々を守った豪族だったという。しかし、飛騨の土地を支配したかった大和朝廷が、国作りのために両面宿儺を退治しようとしたのである。両面宿儺は土地の民を守るために戦ったが敗れ、さらに、朝廷側が書いた歴史書『日本書紀』によって、悪しき怪物とされたのだ。
 旅の途中で千光寺を訪れた円空は、両面宿儺が土地の民を守るために命をかけた英雄であったことを知る。千光寺は両面宿儺が開山したといわれている寺院だったのだ。円空は両面宿儺を彫りはじめた。悪しき怪物としてではなく、飛騨の人々を救った「守り神」として。「両面宿儺坐像」の憤怒の顔は民を苦しめるものへの怒りを、慈悲の顔は傷ついた民を慈しむほほえみをあらわしていたのである。
 円空が生涯に彫った仏像は、発見されているものだけでも5000体を超え、その仏像は各地で災害を避け、流行病を治したという。旅に生き、自らの思うままに仏像を彫り続けた円空。迷いのない、その大胆な彫りからは、人々を救わんとする円空のまっすぐで力強い想いが感じられた。