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日本国内で放送された宗教関連番組のレビューです。

知られざる物語 京都1200年の旅 「東寺に隠された 空海の法力伝説」

2011/10/11(木)22:00~22:54 BS朝日
キーワード
京都、平安時代、平安京、桓武天皇、空海、東寺、守敏、西寺
参考
番組公式
 歌舞伎役者・市川亀治郎氏が案内役をつとめる「京都1200年の旅」と題し、京都の歴史を寺社などを巡り紹介する番組。初回は京都・東寺と、かつて東寺と対をなしていたという西寺を取り上げる。
 794年、桓武天皇は平安京に遷都し、正門である羅城門の東に東寺、西に西寺をおいた。現在東寺は世界遺産に登録されており、東寺を与えられた僧侶・空海は、「お大師さん」などの通称で広く知られている。一方の西寺は衰退し、現在はわずかな史跡が残るのみとなっている。そして「弘法大師・空海に肩を述べる実力をもっていた」(番組ナレーション)という西寺の僧侶・守敏(しゅびん)の名が史上に登場することは少ない。

 番組前半で市川氏は東寺を訪れ、講堂・立体曼陀羅、五重塔といった文化財や史跡を紹介していく。境内を巡りながら東寺総務部長の砂原秀輝氏は「東寺には国宝は80、重要文化財2万5千件があり、日本の国宝の1割が東寺にあるといわれている」と説明する。また、東寺の最高責任者「長者(ちょうじゃ)」の砂原秀遍氏は、東寺・西寺は共に国家鎮護という役割のもとに出発し、その原点を守る東寺は後に(国を護るという意味の)『教王護国寺』に名前も改めた、と力をこめて語る。

 番組後半、市川氏はまず西寺跡に向かう。跡地は現在児童公園になっており、西寺があったことを示すものは、敷地内にいくつかの礎石と石碑があるだけ。東寺とはあまりにも対照的な光景が映し出される。 
 その後市川氏は、守敏と空海にまつわる逸話が伝わると言う二条城近くの寺院、神泉苑を訪ねる。紹介される逸話は次のようなものである。
「平安時代の大干ばつに際して朝廷は東寺の空海、西寺の守敏両氏に依頼し、神泉苑で雨乞いの儀式を行った。空海に負けることを恐れた守敏は、空海が呼んだ雨の神を封じる祈祷を行ったが、結果は空海の法力が勝り、降雨をもたらした。法力合戦に敗れた形になった守敏は恨みからある日、待ち伏せして空海の背後から矢を放ったが、地蔵菩薩が身代わりとなり無事だった。守敏はそれ以降、力を失ってしまった」
 これに対し立命館大学文学部教授・本郷真紹氏は、当時の史料では「空海と守敏が法力合戦をしたということには全く触れられていない」と話し、法力合戦は東寺の隆盛に対する西寺の衰退の歴史に重ねる形で展開された説話ではないか、という見解を示す。また西寺が絶えた理由については、真言宗の隆盛に合わせて栄えた東寺に対し西寺には特長がなく、律令国家の衰退とともに衰えていった、と説明する。
 続いて番組は廃寺となった西寺の名を継ぐ寺院を訪ねる。もともと西方寺という名であった寺院を、西寺に思い入れのあった明治時代の住職がその名を消さぬよう、改称したという。ここには守敏が用いたとされる法具が伝わる他、境内に守敏像(江戸時代造)を祀るお堂がひっそりと建っている。番組ナレーションは守敏像を「やさしげな顔からは、空海と激しい法力合戦を繰り広げた僧侶の面影は感じられない」とし、住職の朱雀(すざく)裕文氏も「(守敏像を)見てもらったとおり、温和で芯の通った人だっただろうと思う」と話す。

 番組最後に市川氏は「歴史というものは勝者の側から作られる。歴史の勝者である東寺の側にたてば西寺とは葬るべきものであっただろう。しかし、それでもなお庶民の人気があったからこそ江戸時代に像が作られ、今に伝えられているのではないだろうか」といった感想を語った。
 番組は鎌倉時代には廃絶し、文献などの史料も少ないという西寺や僧侶・守敏にスポットを当てている点が見所といえるだろう。また一方で、東寺の住職や長者の話からは、歴史の中で消えていった西寺に対し、現在まで隆盛を保ち続けている東寺への誇り、そしてその礎を築いた空海への敬意といったものが強く感じられ、これも印象的であった。


*追塩千尋「西寺の沿革とその特質」『北海学園大学人文論集』23・24には、西寺衰退の理由として、番組では言及されていない右京の地下水位の問題などが指摘されている。同論文では、真言宗の拠点として発展していった東寺に対し、宗派色を帯びることのなかった西寺の方が国家鎮護という当初の目的を維持していた可能性についても述べられている。また守敏という僧侶の実在も疑義を多く残している。