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テレビ番組ガイド・レビュー

日本国内で放送された宗教関連番組のレビューです。

たけしの教科書に載らない日本人の謎
「仏教と怨霊と天皇~なぜホトケ様を拝むのか?~」

2011/01/03(月)21:00~23:24 日本テレビ
キーワード
仏教、仏像、最澄、空海、密教、高野山
【わかりやすいたとえや寸劇で仏教を理解させる教養番組】
   2009年から毎年、正月に放送されているビートたけし司会の番組で、3回目の今回の主題は「仏教と怨霊と天皇~なぜホトケ様を拝むのか?~」。遊びの要素が強すぎる面もあるが、親しみやすい譬えやわかりやすい寸劇で、日ごろ仏教になじみの薄い人々が仏教の基礎をつかむことができる構成となっており、現代においても日本人と仏教が密接に結びついていることを理解することができる内容だ。
   番組の内容も、このような番組が制作されたという事実も興味深いため、長文になるが番組の内容を詳しく紹介する。
   導入部では仏教と神道が混在している正月の風習を示し、興味を引かせる。初詣先は神社と寺が混在しており、除夜の鐘は仏教でしめ飾りや鏡餅は神道である。このように日本人は神様とホトケ様を同時に拝む民族である。本番組では、神社に祀られている神様は「日本古来の神々」で、寺院で拝むホトケ様はいわば「助っ人外国人」と説明する。そして仏教は、古代インドで紀元前5世紀ころに釈迦牟尼によって誕生し、インドから東南アジア、中国、朝鮮半島を経て日本へ伝わったことを簡単に振り返る。
 その仏教やホトケ様に、教科書に載らない日本人の謎があるという。本番組で取り上げる謎は、「仏像」「日本語の中に隠れた仏教」「仏教の宗派」「最澄と空海」「天皇と仏教」「高野山」などである。

【知っているようで知らない仏像の謎】
 本題に入るとまず、仏像の謎が明らかにされる。日本には、世界一と言われるほど多種多様な仏像が祀られている。これら多くの仏像を理解するのは難しそうだが、仏教研究家の瓜生中(うりゅう・なか)氏は、仏像世界の関係性は単純だと語る。そして、仏像世界を人間社会や企業社会とのアナロジーで説明する。仏像の世界は、大きく4つのグループに分かれている。如来を頂点に、菩薩、明王、天の順番で構成されており、明確な上下関係が存在している。そして、それらのグループ内でも細かな役割が決められている。ここでは如来から順に、仏像が誕生した背景やキャラクター、役割が紹介される。
 まず仏像界の頂点、如来を「仏像界の社長・会長・名誉会長」と説明する。如来とは「真理に目覚め、悟りを開いたもの」を指す。このことはつまり、如来以外は悟りを開いていない修行中の身であることを示す。世界最初の仏像は、1世紀に作られた釈迦如来像。これは釈迦の死から約500年後のこと。それまで仏像は存在しなかったが、「釈迦の姿を拝みたい」という信者らの熱烈な願いにより、釈迦は仏像となり釈迦如来となった。その後、医療を中心としたご利益がある薬師如来や、極楽浄土へと案内する阿弥陀如来などが登場する。これらについて瓜生氏は、仏教を信じる人の裾野が広がったことで、人々のニーズに応える形で多彩な仏像が作られ始めたと解説する。如来像は、釈迦が悟りを開いた姿を表すため、多くは座像・質素な姿をしている。
 次いで、「菩薩」を仏像界のナンバー2で「部長などの中間管理職」に当たると説明する。菩薩は「修行をしながら人々を救う仏」で、その名はサンスクリット(古代インド語)で修行僧を表すボーディ・サットヴァに由来する。菩薩は如来よりも身近な存在で、出家前に王族であった釈迦の姿を反映して美しい衣やアクセサリーを身に付けているため人気があり、観世音菩薩は特に人気が高い。こうした菩薩は拝みに行かなければ人々を救ってくれない。だが、地蔵菩薩は人々を助けるため自ら出向き、ダメな人ほど救ってくれる菩薩だと、「それいけ!アンパンマン」のアンパンマンになぞらえて紹介する、
 3番目に、「明王」について解説する。明王がなぜ怒りの形相なのかというと、明王が救うのは難解の衆生(しゅじょう)、いくら言っても聞かない人だから怒りで仏教界を護っているのだという。いわば「闇の仕事人、裏のガードマン」で「武力を持って力づくで人を救う明王」と括る。
 これに呼応し、4番目に明王と同じ「武闘派集団」として、「天」を解説する。天とは帝釈天や毘沙門天など。瓜生氏は、明王と天の違いとして「『天』はインドの神話に出てくる神様である」という点を挙げる。つまり、天は元々仏教界の一員ではないのである。天とはサンスクリットで神を表すデーヴァを音写した言葉である。元々いたインドの神様が、仏教を護るガードマンとして、いわば「正規軍ではない助っ人外国人」のようなものとして取り入れられたのである。この天は四天王のように複数でユニットを組むことが多い。
 その時代に合わせ、救いの形を進化させ、日本の民衆に愛されてきた仏像。人間の御利益主義が多種多様な仏像を生んだのだろうと、仏像の謎は締められた。

【日本語の中に隠れた仏教】
 続いて、日本語の中に隠れた仏教が明らかにされていく。まず「身の回りのこんなもの編」ということで、「玄関」「ガタピシ」「ずぼら」「ごたごた」を紹介。続いて「よく使うことわざ慣用句編」では「もっけの幸い」「果報は寝て待て」「挨拶」「ごちそう」。3番目は「身近な食品編」。「ぜんざい」「カルピス」(古代インドのサンスクリット語「サルピス」とカルシウムをつなげた言葉)「スジャータ」。4番目に「意外なモノの名前編」として、社名の「Canon」(観音)や漫画キャラクターの「バカボン」(釈迦の尊称「薄伽梵(ばがぼん)」)等。ただし、バカボンについては推測の域を出ていない。

【仏教の宗派】
 続いて、「なぜ日本の仏教には多くの宗派があるのか」という謎が明らかにされる。そもそも「仏教の宗派」とは、仏教研究家の正木晃氏によれば、釈迦の教えに対する学説の違いである。仏教が日本に伝えられる以前の中国では、「釈迦の教えは心の中にある」、「真理はすべて無限」、「戒律が大事」等と、教えをどう解釈するかで見解が分かれていた。「目標は同じであるが、そこに至る取り組み方が異なっていた」ということである。
 こうして中国や朝鮮半島を経由して、日本に公式に仏教が伝えられた538年、時の権力者に仏像が献上されたことが、仏教の発展に大きく貢献する。日本では古来、神は自然に宿ると考えられており、神に形はなかった。これに対し、仏像というフィギュアはわかりやすく力が感じられた。加えて、日本の神々の世界が哲学や体系を持っていなかった一方で、仏教は高度な体系を持っていた。世界の中心に仏を祀るという考え方が、天皇を中心とする国造りをする上で有効だったため仏教が重用されたと、正木氏は推測する。こうして仏教は広まったが、奈良時代には僧侶が政治に悪影響を及ぼすようになり、都が腐敗した。これを是正すべく平安京遷都が行われ、奈良から京都に都が移された。
 この混乱期に登場したスーパースターが、最澄と空海である。最澄は天台宗を、空海は真言宗を開いた。彼らの教えは、国を守るだけでなく民衆の救済も目指すものであった。ようやく日本の仏教の基礎が築かれたとも言えるが、仏教はまだエリート層のものだった。
  平安時代末期になると法然が登場し、わかりやすい教えを説き、民衆の支持を得た。それが、「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽浄土に行けるという浄土宗である。その後、親鸞が浄土真宗を説き、僧侶の妻帯は禁じられていたが自ら妻帯し、悪人でも救われると説いた。
  武士が権力を握った鎌倉時代になると、宋で仏教を学んできた栄西や道元らが禅宗を持ち帰った。栄西は臨済宗を、道元は曹洞宗を開いた。京都・奈良で抵抗勢力に逢った栄西が鎌倉に向かったところ、武士の倫理観に「自らの心身を鍛え上げることで自らの力で悟る」という教えが受け入れられ、禅宗が広まった。この禅宗は来世で人を救うと説いたが、現世で人を救うべきと説いたのが日蓮で、「南無妙法蓮華経」と唱え、法華経という経典を信じることで救われると説いた。
 その後、寺が経済力を蓄え、武力を持つようになったため、豊臣秀吉が刀狩を行って寺を武装解除した。江戸時代には、キリシタンの宗教反乱を恐れた徳川政府が敷いた寺請制度により、日本国民がみな仏教徒になり、寺が出生や結婚、葬儀などを管理する役目を担うようになる。それらが明治時代に入り崩れ、現代にはその名残として寺に葬式と墓が残っているのである。そして、多く宗派が日本に残っている謎は、このような歴史からであると結んだ。

【最澄と空海】
 日本仏教に大きな影響を及ぼしたのは、やはり最澄と空海である。「秀才肌でマジメな最澄」と「天才肌で外交的な空海」と2人を対比させながら、彼らの生き方、彼らが説いた教え、彼らが決別した理由、彼らが現在の日本人にもたらしたものを明らかにする。
 「最澄と空海」については、種智院大学教授の頼富本宏氏が解説する。2人は同じ遣唐使の一員として804年に唐に向かい、すでにエリートだった最澄は世界的に主流だった天台宗を学び、まだ無名だった空海は最先端の密教を修めた。ところが彼らが帰国したときには日本にも密教が伝わっており、嵯峨天皇は仏教で国家を守る役目を空海に任せることにした。こうして空海の立場は、最澄と双璧を成すようになった。そこで、最澄は密教を相承するべく、7歳下の空海の弟子となった。
 ちなみに、この密教とは大日如来と一体となることを目指したもので、それまでの仏教が経典で広く伝えようとしたのに対して、師匠から弟子へと口伝で伝えるという特徴がある。密教の世界観を示したものが曼荼羅で、これによって日本人に仏のグループ分けが初めてもたらされ、拝む対象が明確になり、その後の仏像ブームに一役買ったのである。
  話を元に戻そう。最澄と空海は、密教を通して良好な関係を結んでいたが、その後、ささいなきっかけで決別する。その理由は、最澄が経典を借用しようとして空海に断わられたことや、最澄の弟子が空海に弟子入りしたこと等であった。頼富氏は「密教というのは経典を写すとか聞くとか頭の中で考えるだけでなく、自分で実践してみないと」いけないもので、そういう点では「密教に対する考え方が両者で違っていた」のだろうと語る。 
 彼らは決別したが、その後の日本仏教に大きな影響をもたらした。最澄が開いた天台宗比叡山延暦寺は仏教の総合大学と言われ、後に浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗、時宗などを誕生させた。一方の空海は、自らが信仰の対象となり、川崎大師などで祀られるようになった。
 この2人の功績は、高貴な人間の専有物だった仏教を広く民衆に広めることに成功したこと、つまり「仏教の日本化」を果たしたことであるとまとめられた。

【天皇と仏教】
  次に、コンビニエンスストアよりも寺の数が多いまでに、なぜ仏教が広がったのか。ここでは、旧竹田宮家出身で慶応義塾大学講師の竹田恒泰氏が解説する。仏教が広まったのは、天皇が仏教を取り入れようと言ったからと、仏教の力で怨霊から国を守ろうとしたからであるという。日本で最初に怨霊となったのは天智天皇の孫で左大臣であった長屋王である。729年、国家転覆の疑いをかけられた長屋王は自害した。だが、その後、長屋王を陥れたとされる藤原四兄弟が相次いで死に、さらに疫病が流行ったため、祟りを恐れた聖武天皇が仏教を頼った。聖武天皇は、天皇在位中に出家した初めての天皇でもある。
  時を経て、聖武天皇の孫の時代にも怨霊が発生する。早良親王の憤死により、都には怨霊が跋扈していると囁かれた。これが、桓武天皇が平安京に遷都した大きな要因の1つともなった。また、桓武天皇が最澄を唐に派遣したのは、最新の仏教を学んで怨霊から親族や民衆を守ってもらうためでもあった。仏教は当時の最先進国の中国・朝鮮で用いられたため、力があると思われていたのである。
  実際に、嵯峨天皇は疫病が流行った際、空海に祈祷を依頼したところ、その効果が見られたため、京都の東寺を空海に与えたという。こうして平安期には密教に信頼が集まり、天皇や貴族も密教を取り入れるようになった。
  その例として、神道の中心である天皇が、即位儀礼の際、神道の儀式に加えて密教の儀式も行うようになったことが挙げられる。儀礼の際、天皇は大日如来を意味する印相(密教で仏を表す手を組むポーズ)を組み、真言(仏を意味する言葉)を唱えたという。これは同時に、神仏習合が進んでいたことも示している。天皇は即位の際に、神道の最高神である天照大御神と密教で最も重要な大日如来の霊力を受けることによって、天皇として完成すると考えられていたのである。この即位灌頂(※番組内テロップでは「勧請」)は平安時代から幕末の孝明天皇まで続けられた。
  明治に入って廃仏毀釈がなされたことで、仏教の影響力は低下したと捉えられる一方で、明治天皇は即位の前日に、ある怨霊の鎮魂を行っていた。それは、史上最大の怨霊とされる崇徳天皇である。無実の罪に陥れられた崇徳天皇は天皇家への呪いの文句を残して四国で憤死し、この怨念により、鎌倉から江戸時代まで長く武士の世が続いたと考えられていた。そこで、武士の世を終わらせるために、明治天皇は崇徳天皇を丁重に祀る必要があった。明治天皇は崇徳天皇の御霊を四国から京都に迎え、神道・仏教の両方で祀った。竹田氏は、平安時代から現代まで、神仏分離を経てもなお両者を区別することなく日本人は神仏両方を大切にしてきたのだと語る。神様と仏様に同じようにお祈りする日本人の謎には、このような歴史が隠されていたのである。

【たけし、仏教の聖地高野山へ】
  番組の最後では、ビートたけしが初めて高野山を訪れる。総本山金剛峯寺宗務室総長公室の藪邦彦氏が、たけしを壇上伽藍(だんじょうがらん)で迎える。根本大塔(こんぽんだいとう)の内部に入り、参拝。本尊の胎蔵界大日如来、脇の金剛界四仏、十六本の柱に描かれた金剛界十六大菩薩も映像で紹介される。この内部は、悟りの世界を象徴する金剛界と胎蔵界の2つの曼荼羅を立体的に表現している。そこで、総本山金剛峯寺伽藍維那の坎宥行氏が、金胎両部の曼荼羅の説明をする。胎蔵界曼荼羅は人間が修行によって仏に近づくことを表現したものであり、一方の金剛界曼荼羅は仏の悟りの世界をそのまま表したもので、仏のほうから我々に救いを差し伸べるということだという。
  続いて、高野山霊宝館館長の静慈圓氏により、空海直筆の国宝「聾瞽指帰(ろうごしいき)」が公開される。空海24歳の作で、儒教・道教・仏教を論じ、自らが仏教を選び出家する決意を示したものである。空海は中国語で書いており、そこには中国の古典の知識がふんだんに織り込まれている。
  高野山には、空海が今なお人々を救うためこの地で行を続けているという入定信仰(にゅうじょうしんこう)がある。この入定信仰の様子も映像で明らかにされる。午前6時、空海に毎日の食事を進上する「生身供(しょうじんく)」。空海がいるとされる御廟(ごびょう)に続く御廟橋(みみょうのはし)から奥は撮影禁止の聖域である。だが、今回は特別に撮影が許可され、御廟の拝殿である燈籠堂で毎日行われている勤行が、貴重な映像で紹介された。最後は、たけしの「空海は一種の天才ですね」という感想で締められた。