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日本国内で放送された宗教関連番組のレビューです。

高島礼子・日本の古都 京都1200年ミステリー!三十三間堂&伏見稲荷…絶景謎解き

2016/01/06 (Wed) 19:00~20:54 BS-TBS
キーワード
三十三間堂、千手観音
参考
番組公式
 今回は京都駅から東へ1.5キロの東山にある蓮華王院 三十三間堂(れんげおういん さんじゅうさんげんどう)が紹介されていた。人々に救いの手を伸べる観音の働きが無限であることを表す千手観音像が三十三間堂には千体も立ち並んでいる。本レビューでは番組内容を振り返りながらその謎に迫っていく。
 
○三十三間堂のその名の由来
 三十三間堂の中にある観音像の1つである中尊観音坐像にその秘密は隠されている。中尊観音坐像の後背には、よく見ると33体の小さな仏のような彫刻が施されている。観音は人々を救済するときに33通りに姿を変える三十三化身という習性を持っていて、これこそが三十三間堂の名前の由来である。また三十三間堂の柱の数は34本あり、柱と柱の間は33存在する。それは観音の変身の数に一致する。この緻密な数の仕掛けは観音の救いの力を最大限に発揮させようとする工夫ではないか、と番組では推測している。
 
○三十三間堂は誰が何の目的で造ったのか
 三十三間堂が造られたのは平安末期の天皇家と公家、平氏や源氏などの武家が三つ巴の権力抗争を繰り広げ、保元・平治の乱が起こった激動の時代であった。その最中に三十三間堂を造営したのは後白河上皇(1127~1192)である。自分の権力を示すために東山の地に法住寺殿と呼ばれる広大な御所を作った。そして御所の中心にプライベートな祈りの場として建てたのが三十三間堂であった。激動の時代を生きた後白河上皇にとって三十三間堂の中で千手観音像と向き合う間だけが心休まる時間だったのかもしれない。
 
 850年の時を越えてなお残り続ける三十三間堂の千手観音像だが、実は150年前の明治時代に大きな危機が訪れていた。神道の復活を求めた廃仏毀釈によって仏教寺院は破壊の危機に襲われたのである。三十三間堂の千手観音像も腕や持ち物が外される有様であった。
 明治時代半ばに東京藝術大学の前身、東京美術学校創設者である岡倉天心を中心として伝統美術の復興が始まった。昭和5年には仏師、西村公朝を迎え三十三間堂の大修復が始まったのである。
 
 850年の月日が経った今でもこうして千体の千手観音を拝めるということは、今まで守り続けてくれた人の尽力があってからこそのことである。この観音の千の輝きと無限の慈悲の心を永遠のものとするために、私たちが守っていかないといけないものがあるだろう。