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テレビ番組ガイド・レビュー

日本国内で放送された宗教関連番組のレビューです。

たけしの教科書に載らない日本人の謎
「太陽と怨霊と天皇?“日本建国”の秘密に迫る」

2010/01/02(土)21:00~23:24 日本テレビ
 当番組は新春の特別番組で、「教科書には決して載らない」日本人の謎やしきたりを多角的に検証し、日本人のDNAを解明するという概要である。第2回目の今回取り上げられたテーマは、「大安・仏滅」、「地名」、「出雲」、「崇徳上皇の怨念と太陽」、「熊野詣で」であった。2時間半に及ぶ番組ということで長文ではあるが、各テーマについて紹介する。
 なお、この番組は2010年12月31日(8:00~10:00)にも再放送された。

【大安・仏滅などの暦について】
 奈良時代、暦は陰陽師が作成していた。その暦は現在の太陽を基準とした太陽暦ではなく、月を基準とした陰暦だった。陰暦は明治5年まで続いたが、西洋文明に追いつくために太陽を基準とした現在の西暦(グレゴリオ歴)に変えられたのだ。旧暦には暦注という日時、方位の吉凶や運勢・占いの概念があったが、西暦に変わると同時に明治新政府は暦注をカレンダーに載せることを禁止した。そのため人々は暦に興味を抱かなくなり、西暦のカレンダーは全く売れなくなった。しかし暦占いの1つの方法で、日付を大安や仏滅や友引など6つに分ける「六曜」は政府に禁止されていなかった。そこで、明治初期のカレンダー業者は庶民の関心を引くためにカレンダーに六曜を記した。すると、カレンダーがたちまち売れ、こうして日本人がいまだに気にする大安・仏滅などの六曜の概念は広まったのだという。

【地名について】
 日本の地名は8割が地形から来ているという。例えば琵琶湖周辺は、奈良時代には「都に近い淡水の海」ということで「近淡海」(ちかつあわうみ)と呼ばれていたが、後に「近海」と書いて「あわうみ」と呼ばれるようになり、それがさらになまって「おうみ」と呼ばれるようになり、表記も「近江」にかわり現在の滋賀県を指す「近江」(おうみ)という地名が生まれたのだという。そして今から1300年以上前に歴史上初めて日本全国の地名をまとめた書物が作られた。それが『風土記』である。当時の日本には『日本書紀』や『古事記』などの歴史書はあったが地理書はなかった。そこで大宝律令に基く政治を徹底するために地理書の必要性を感じた元明天皇(661~721)が編纂を命じたという。『風土記』には記すべき5つの項目があった。それらは、①地域の特産物を明記する、②土地の状態を記録する、③山や川などの名前の由来を明らかにする、④その土地に伝わる昔話や伝承を記す、⑤地名を縁起の良い漢字二文字に変えることであった。⑤によって今の日本の地名の大部分が定められたという。

【出雲について】
 こうして各地で作られた『風土記』だが、ひときわ異彩を放つ『風土記』がある。それが出雲の『風土記』だ。通常の『風土記』は2~3年で編纂されたが、記録によると出雲の『風土記』は20年以上かかったという。また、一般の『風土記』は中央から派遣された役人が作ったが、出雲の場合は、今の出雲大社の宮司の祖先である「出雲臣広島」(いずものおみひろしま)と「神宅臣金太理」(みやけのおみかなたり)という出自は不明だが出雲地方の歴史に詳しい人物が編纂にかかわったという。
 また、「出雲」という地名の由来や、出雲では10月が「神在月(かみありづき)」と呼ばれること、出雲大社の注連縄(しめなわ)と護身座の向きが西であることなどに対する番組の考察が紹介された。いずれも、勢力を伸ばしていた大和王権が、出雲の国の支配勢力を攻め滅ぼして大和王権の支配化に置いた際に、出雲の国の霊的な祟りを恐れ、その祟りを抑えるために霊力を味方につけようとしたことと関係があるという。

【崇徳上皇の怨念と太陽について】
 崇徳天皇(1119~1164)は平安時代末期の院政期に生まれた。崇徳天皇は父が鳥羽天皇(1103~1156)で祖父が白河上皇(1053~1129)であるが、実は白河上皇の息子だといわれていた。その話を知った鳥羽天皇は、崇徳天皇を「叔父子」と呼んで嫌ったという。
 白河上皇の死後、院政を敷いた鳥羽上皇は崇徳天皇の子供を皇位に付けないなどのさまざまな妨害をした。それに不満を感じた崇徳上皇は1156年に保元の乱を起こすが鎮められ、流刑される。流刑先で崇徳上皇は自分の血で写経をし、それを手紙と共に弟の後白河上皇(1127~1192)に送った。2度と都に戻れない自分の代わりに写経だけでも都に置いて欲しいと頼んだのだが、後白河上皇はそれすらも拒んだ。断りの手紙を読んだ崇徳上皇は、悲しみと怒りのあまり「天下滅亡」と皇族を呪うことを宣言し、舌を噛み切って死んだという。崇徳上皇の死後、後白河上皇の親族ほぼ全員が亡くなったり、京都が大火事に見舞われて御所までも焼けたりしたという。そして、その後に政権が武家に移り、崇徳上皇の呪いは本物になってしまった。
 明治天皇はこの強力な崇徳上皇の怨念を丁重に祀って国の守り神にするために、即位する前日に700年ぶりに崇徳天皇の御霊を京都に帰す祭祀を行った。また明治天皇は死後に自身も重要な守り神になったという。
 明治天皇を祀る明治神宮(東京都渋谷区代々木神園町)が代々木に鎮座するのは、地名が関係しているという。代々木という地名は、代々枯れないもみの木があったことに由来する。この「代々枯れない」という地名が永遠の繁栄に通じるとして選ばれたのだ。 
 また、場所も関係しているという。皇居と明治神宮と武蔵陵墓地(大正・昭和天皇の陵墓)は一直線上にある。聖地を並べることで、東京を守る天皇の力を強くしようとしたのではないかと推測されるという。
 そして太陽信仰も関係しているという。夏至の日に明治神宮から日の出方向を見ると浅草寺がある。浅草寺は徳川家が江戸を治めるまで総鎮守の役割を担っていた。夏至の太陽は「新生」を意味しており、霊的守りの要の寺を「新生」する意味も込められていたのではないだろうか。また表参道から明治神宮のほうを見ると夏至の日没が観測できる。夏至の夕日は「先祖繁栄の光」といわれており、表参道と明治神宮の方向を夏至の日没に重ねることによって、先祖の力が強まり、東京を守る力も強くしようとしたのではないかと考えられる。
【たけしの熊野詣で】
 番組の最後で、たけしは熊野を訪れる。たけしはまず、熊野の七里御浜海岸で日の出を眺める。その後、案内役を務める熊野古道センター長である花尻薫氏とともに熊野古道を通って那智の大滝へ訪れた。地元の人々は、古くからこの滝に豊作や大漁の願いを祈ってきたという。ここは滝そのものが御神体で、人々は滝のしぶきの中に仏や神の姿を見出すのだ。
 世界遺産でもあり、熊野三山の一つである熊野那智大社にも訪れた。宮司である朝日芳英氏の案内のもと、たけしは大社の中を回る。大社の中には「烏石」というものがあった。この石は神武天皇が熊野で道に迷ったときに案内をした八咫烏(やたがらす)が姿を変えたものだという。
 次に熊野那智大社の隣の青岸渡寺(せいがんとじ)が紹介された。ここは4世紀の開基とされるが、戦国時代に織田信長の兵火により失われ、1590年に豊臣秀吉によって再建された。熊野では、神社とお寺が隣同士にあるのは普通だという。
 神内(こうのうち)神社も紹介された。ここはイザナギ、イザナミが神々を生んだ場所とされている。中に入ると巨木や御神体である巨岩がある。
 そして花の窟(はなのいわや)神社にも訪れた。ここの御神体は45メートルの大きな岩の塊である巨岩である。ここは創世の神イザナミを埋葬したという由来から最古の神社といわれている。たけしは「伊勢は綺麗に整えられているが、熊野は荒々しく、下手をするとしっぺ返しをくらいそうだ。」と感想を述べて締め括った。