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このコーナーは、宗教情報センターに長年住みついている知恵フクロウ一家の
長老・宗ちゃんと、おちゃめな情報収集家・情ちゃん、そして、
日々面白いネタを追い求めて夜の空を徘徊するセンちゃんが、
交代で、宗教に関わるさまざまなエピソードを紹介します。


第二回「生命倫理とは!?」

2010/08/25 第二回「生命倫理とは!?」 

センちゃん 『朝日新聞』(2010年5月21日)の社会面に大きく掲載されていた「『ほぼ人工生命』完成」の記事(*)に関して、どう思いますか?
今回の記事は、人工的に科学合成したDNAを大腸菌内でつなぎ合わせ、器である菌体のゲノムと入れ替えたところ、そのDNAを基に自己増殖する生命体が完成したという内容です。生物学や医学の定義では、自己増殖できるものを生命体とすることが主流です。
今回の件は、人間が人工的に生命体を「創造」できたという見地に立つと、宗教の立場からすれば、どうなのでしょうか? クローンやES細胞などについてはキリスト教から強い批判がありましたね。
(*『朝日新聞』掲載記事URL:http://www.asahi.com/health/news/TKY201005200555.html : 最終閲覧日2010/08/24)
情ちゃん カトリックの機関紙『オッセルバトーレ・ロマーノ』は、この件に関して早速5月23日付けの記事でコメントを出しています。「合成細胞」の生成成功は多くの実用的成功につながる可能性があるが、こうした技術には規制が必要だとのこと。
また、イタリアのテレビ放送で5月21日、教皇庁生命アカデミー議長のサルバトーレ・フィジケッラ大司教は、「合成細胞の用途が『良い目的であり、病理の治療のためなら』生成に『賛成するしかない』けれども、用途が人間の尊厳の侵害に向かうなら、『私たちの判断は変わることになる』と述べたそうです。(『カトリック新聞』2010年6月6日)
聖書に「神が人を形作り、息(霊)を吹き込んでいのちを与えた」と書かれているように、カトリックは「いのちは神の賜物」と考えており、「人間の生命の始まりは卵子が受精した瞬間から」としています。人工中絶や生殖を目的とするクローン胚に対しては、「神に代わって人間が生命を思うように操作できるという錯覚に陥る」と懸念しています。やはり、人工生命は神の領域を侵すものであるとして、認められないのでしょう。
ただし、「医療技術を一方的に否定はしない」とし、生殖にかかわらない体細胞クローンについては微妙な立場をとっています。
日本の仏教界で、人工生命について見解を出したところは見当たりませんでした。参考までに、浄土宗は「何をもって人間のいのちの始まり」とするかについては明確に定めることはできないとしながらも、『いのちの倫理-臓器移植・尊厳死・生殖補助医療-』(浄土宗総合研究所)の中で、臓器移植については「本来人間の命とは限りあるもので、永遠の生命は唯一宗教的生命として与えられるという宗教的な考え方を軽視させ、ひいては人間の尊厳性を軽視する人生観を広める可能性がある」としています。
このような点から考えると、人工生命についても「人間の尊厳性を軽視する可能性がある」ということから、批判的な立場をとるのではないでしょうか。
けれども、科学技術の進歩は宗教界の立場を変えるかもしれません。ローマ法王ベネディクト16世は、カトリックが17世紀に否定したガリレオの地動説を2008年に認めました。このように、当時は異端とされた考えが、後日には変わる可能性もあります。
※参考文献:『いのちへのまなざし』日本カトリック司教団(カトリック中央協議会)
『教皇ヨハネ・パウロ二世 回勅 いのちの福音』教皇ヨハネ・パウロ二世(ペトロ文庫)
宗ちゃん 詳しいですね。キリスト教神学を基盤にした生命倫理学の議論では、人工生命の創造は「神を演ずるplay God」行いなので慎むべきであろうということであったと思います。基本的には、ヘテロ(異性間の性行為)による生殖を是とし、それ以外の、細胞核の入れ替えや頭のすげ替えなどは認めないという考え方ですね。基本的には、情ちゃんのいうように、保守的ですかね。
ただし、このような技術の試みに積極的な神学者もいますよ。キリスト教徒がすべて保守的かというとそうではなく、生命にかかわる新しい技術は、人類に幸福をもたらすだけでなく神の栄光を増すもの、という考えもあります。臓器移植なども、深い反発を覚える神学者があったり、愛の行為であるから進めるべきだ、という神父がおられたりします。
情ちゃん 医療技術の発達と個人の尊厳の問題は難しいですね。生命とは何か、何をもって生命というのか、きちんと考えておかないと、怖いことになりそう。
センちゃん 例えば、都市化が進んでない地域では、自分で動物や野菜などを育てて、自分で動物を屠って料理するため、生命とは?と考える機会も多く、生命に対する実感も持ちやすいかもしれません。実感がないと、尊厳も抱きにくいですよね。スーパーでトレイに入った食肉のように、生命が商品化・パッケージ化されている私たちの社会は、対価を払って得るものという感覚
で、生命という概念自体がよりわかりにくいものになっているかもしれませんね。
宗ちゃん ある宗教研究の学会で、「人体のサイボーグ化」という講演がありました。SFマニアの話だと思って話半分で聞いていたのですが、メガネ、インプラント、ピアスから人工心臓、人工関節、臓器移植など、人体に人間の手が入るとき、その聖性や不可侵性はどうなるのかといった話だったのです。すでに多くの手が入っているのだから、人体はべつに不可侵ではないじゃないか、という議論と、それに対して、メガネやピアスをつけることと臓器移植とは違う点を、明らかにしようとする話でした。両者の差がわかりにくくなることを問題視していたのですが、実際見えにくいし、なし崩し的に一方に傾きやすい状況もありますね。
先日、家族のみの同意を受けての脳死臓器移植が日本でも行われましたが、その場におられる方にとっては、とても判断に苦しむ問いを投げかけられていると思います。専門家でさえも判断に迷い、全員が納得する明確な答えが出せないような、影響が大きすぎる領域の判断を下すことが、求められる時代であるというのは、なかなかたいへんなことです。