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2011/06/25 第十回「宗教者は奇跡のヒト?!」 

情ちゃん 5月1日、2005年に死去した前ローマ法王ヨハネ・パウロ2世を、カトリックで最高の崇敬対象とされる「聖人」となる1段階前の「福者」とする列福式が行われました。カトリックでは、死後に与えられる「聖なる地位」には、順に「尊者」→「福者」→「聖人」の3段階があります。福者とは、殉教者である場合を除き、ローマ法王庁の列聖省によって「奇跡」を1つ起こしたと認定されなければなりません。「聖人」になるには2つの「奇跡」が必要です。前法王は候補217件のうち、フランスのシスターに起きた事例が奇跡と承認されました。シスターは長く前法王と同じパーキンソン病を患っていたのですが、本人と同僚たちが亡くなった直後の前法王に治癒を祈ったところ、突然、完治したそうです。不思議なことってあるんですね。
この列福に関する審議は少なくとも死後5年に始まるのが通例ですが、前法王は死去2ヵ月後に審議開始が決まったそうで、死後6年1ヶ月での列福は、ノーベル平和賞受賞者のマザー・テレサを抜いて史上最速だそうです(※1)。
宗ちゃん 列福式の写真を見ましたが、パープルの法服に参列の神父様たちが身を包んで、富良野あたりのお花畑のようでした。教皇という立場以上に、多くの方の尊崇を受けていたと聞いている前法王が、福者へ、福者から聖者の道を進まれるのは興味深いですね。癒しの力のある泉があるとして知られるフランスの聖地ルルドの、くだんの泉の水についてカトリック教会がその成分を厳密に調査した記録があります。この調査はたいへん厳密で、それによると、泉の水そのものには何ら特殊な成分は含まれていないとのこと。むしろ形にはならない信仰の実質に重きを置いたのかもしれませんが(※2)。
センちゃん 奇跡といえば、キリスト教だけでなく仏教の中にも神通力という形で、身についていく話を聞いたことがあります。いわゆる六神通(ろくじんずう/※3)と呼ばれるもので、
・神足通(じんそくつう)・・・自由自在にあらゆる場所に赴くことができる能力。
・天眼通(てんげんつう)・・・ この世のすべての状態を見通し、未来を予知する力。
・天耳通(てんにつう) ・・・世の中のすべての音声を聞くことができる能力。
・他心通(たしんつう)・・・他人の心を自由自在に知る能力。
・宿命通(しゅくみょうつう)・・・ 自他の前世を知る力。
・漏尽通(ろじんつう) ・・・ 煩悩を滅して再び迷いの境涯に生まれない能力。
と言われております。これらはある意味、超能力に近いと感じますが、キリスト教における奇跡は、その人自体が持つのか、神が与えるのか、どのように考えているのでしょうか? ちなみに、仏教の場合は、自らが超能力を所有していくと考えられています。
情ちゃん 奇跡は、仏教や神道では「霊験(れいげん)」と呼びますが、カトリックでは神によってもたらされた事象であるとしています(※4)。奇跡は、その人の神への「取り次ぎ」の力を示し、奇跡が起きたという事実は、その人が神のもとにいる「しるし」になるようです(※5)。ちなみに、新約聖書のうち共観福音書(マタイ、マルコ、ルカによる福音書)では奇跡を「不思議な業」「力ある業」としていますが、後に書かれたヨハネによる福音書では、神の成された業として「しるし」と表現しています(※6)。
プロテスタントでは、聖書に書かれている奇跡を記述通りには受け取らないところもあるようですので、多様な考えがあるのではないでしょうか。
でも、本当に奇跡ってあるのかなぁ~?
そうそう、列聖と同じようなシステムは、仏教にもあるのでしょうか?「阿闍梨(あじゃり)」は現世で付与される称号だし、「明王→菩薩→如来」や「菩薩の十地」も違うみたいだし……。
仏教では、何をもって仏に近づいていると判定するのでしょう?
センちゃん 仏教にも悟りの速度という概念があり、頓悟と漸悟という風にも表現されます。即時で悟る、あるいはそもそも悟っているという考え方は、密教や本覚思想などで表れますね。また、ゆっくりと悟るより他ないという状況(輪廻や来世への記別という形をとる)は、われわれもなじみがありますね。
空海の著書『秘密曼陀羅十住心論(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)』では、真言密教こそが最高の境地に到達できる教えであるとし、行者の境地の展開を、本能に支配されている凡夫の心境である異生羝羊心(いしょうていようしん)から最高の境地である秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)に至る10段階に分けています(※7)。
情ちゃん 釈迦や原始仏教教団の弟子たちが悟りを得る過程は、たとえば、初禅から二禅、三禅、四禅という四段階として記述されていますよね。『清浄道論』などにもさまざまな段階の説明があります。ただ、内面の体験を外面のしるしでみたり、何を体験しているかで確認するというのは、別の意味の形式主義、形骸化につながると思います。
さて情ちゃんお尋ねの列福・列聖の話に即していえば、原始仏教教団では、阿羅漢になる(阿羅漢果を得る)ということが、もっとも列聖に近いと思いますが、うーん、これも深く内面的なので、比べることに無理があるかも…。
列福・列聖は、たとえば、イスラームで殉教者が讃えられたり、あるいは釈迦の高弟の賓頭盧(びんづる)が眼病を癒やすとして信仰されたり、キリスト教の殉教者が殉教時のエピソードと結びついた信仰を受けたりするものに、近いのかな、と思っているのですが。人間とはかけ離れた高いところにある神や如来と、人間との間を仲介する存在のような。
あらためて、カトリック内外で広く尊敬された前法王の立派な列福式をこうやって見届けられるというのも、なかなか幸運なことだなと思います。
参考資料
※1 『SANKEIEXPRESS』2011年5月2日
※2 『ルルド傷病者巡礼の世界』寺戸淳子著(知泉書館)2006年
※3 古田紹欽、金岡秀友、鎌田茂雄、藤井正雄監修『佛教大事典』(小学館)1988年
※4 小口偉一・堀一郎監修『宗教学事典』(東京大学出版会)1973年
※5 チマッティ資料館のホームページ
※6 エリザベート・クラヴリ著、船本弘毅監修、遠藤ゆかり訳『ルルドの奇跡』(創元社)2010年
※7 佐和隆研編集代表『密教辞典』(法蔵館)1975年