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世界の宗教

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「非西洋化するキリスト教-歴史の先端に立つアジア-」 森本あんり先生 (キリスト教編)

■ハロウィンとキリスト教

 今日は「非西洋化するキリスト教」という題でお話をさせていただきます。
 まず、皆さんご存じのハロウィン(Halloween)を例に挙げてみましょう。これはキリスト教の行事だと思われていませんか? 実は、ハロウィンはもともと、ケルト人のお祭りです。死んだ人々の魂が地上に帰ってくる。だから、火を焚いてお迎えし、しばらく一緒にいてもらって、帰ってもらう。日本のお盆と同じです。こうした行事は、昔のアメリカでは行なわれませんでした。そもそも、クリスマスも祝われなかったんです。
 19世紀半ば、ヨーロッパに大飢饉が訪れます。食べるものがなくなったアイルランドでは、「じゃあ、新大陸アメリカへ行こう」という人たちが増えたわけです。そのアイルランド人たちが大勢アメリカにやってきて、彼らだけのお祭りが、やがて北米全体へと広まっていきました。それがハロウィンの由来です。
 このようにハロウィンという、一見キリスト教的なお祭りとして知られているものも、よく見てみると、あまり関係がないということがわかってきます。これを「土着化」といいます。宗教が特定の文化へと、受け入れられて定着していくことですね。
 

■キリスト教の歴史

 キリスト教というのは、日本では外国から来た宗教ですね。そうすると、「では、キリスト教の出発点はどこか? どこに本拠地があるのだろうか?」という問いが生まれます。そこで、キリスト教の2000年の歴史を確認してみましょう。キリスト教の出発点は、イスラエルです。
 

■(1)環地中海時代~キリスト教とは何か?

 キリスト教は、まず地中海の北側である南ヨーロッパと、南側である北アフリカへと伝播していきました。これを仮に、地中海を囲む第1の世代ということで「環地中海時代」と申しましょう。
 この時代はキリスト教の自己形成の時代です。キリスト教はユダヤ教から出発しました。すると、「自分たちの宗教、自分たちの信仰って何だろう?」という問いが生まれ、「私たちはユダヤ教徒とは違うんだ」という認識を持つようになります。
 それによって、キリスト教が自己定義をしていきます。「教義」(三位一体やキリスト論)、「制度」(教会)、「正典」(聖書)などが整えられていく。
 

■(2)環大西洋時代~キリスト教をどう社会に適応させるか?

 第2の世代は、ヨーロッパ側とアメリカ側、つまり大西洋の両岸で、キリスト教が栄えていった時代になります。これを「環大西洋時代」と名付けておきましょう。
 この時代、どうしてアメリカにキリスト教が進んでいったのでしょうか? それは、ヨーロッパの信仰のあり方に疑問を持ち、自分たちの信仰体系に基づいた社会を作りたいと思った人々が出てきたからです。宗教改革がありました。そして大きな一枚岩であったキリスト教の中に、プロテスタントという別の考え方をする人々が出てきたわけですね。そのプロテスタントの人々がヨーロッパやイギリスでも増えていって、「こういう世界では生きていけない」と、船でアメリカへ渡っていくわけです。
 カトリックとプロテスタント、複数のものがあると、「じゃあ、どっちが本当なの?」と、選択の可能性が出てきます。そうすると社会の作り方が変わっていきます。
 また、マイノリティには必ず圧力がかかって、少数者の人権の迫害や蹂躙といった問題が出てきます。つまりこれは、新しい近代の市民社会をどのように作っていくかという実験の時代でした。政治の力と宗教の力がどういうふうに手を結ぶか、あるいは手を切るか、という話もここで始まるわけです。これが第2の世代、「社会適応の時代」です。
 

■(3)環太平洋時代 ~なぜキリスト教が必要か?

 3番目は、そのキリスト教がさらに西へ進んだ「環太平洋時代」。つまりアメリカ側と、そのアメリカからの宣教師によってアジアがキリスト教化されていった時代です。ヨーロッパでは今、キリスト教は文化的には残っていますが、現実的な生活の中では、過去のものになりつつあります。それに比べると、アメリカとアジアのキリスト教は今も非常に元気です。
 今、我々はこの時代を生きているわけですが、「なぜキリスト教が必要か?」を考えてみましょう。近代のキリスト教は、この問いをずっと問い続けてきました。なぜなら、キリスト教も伝道したがる宗教の一つだからです。
 明治の最初、横浜の港に宣教師がやってきました。彼らが泊まった宿屋では、戸が紙でできていて、鍵もかかりません。にもかかわらず、安全が保たれていました。キリスト教国といわれる国で、鍵も閉めずにホテルに泊まったら大変なことになりますよ。驚いた宣教師は、キリスト教の福音は日本人に必要なのか? そんなものがなくても、きちんとした生活ができている人たちだと考え、「なぜキリスト教なの? ほかにいろんな宗教があるじゃない。なんで伝道しなきゃいけないの?」という問いが生まれます。これがこの3番目の時代の話です。
 

■西洋の宗教ではなくなったキリスト教

 では、世界のキリスト教徒がどの辺りに住んでいるのかを地域別に見てまいりましょう。1900年の段階では49.9%、2人に1人はヨーロッパに住んでいました。そして14.1%が北米です。
 その100年後の2000年になると、ヨーロッパのキリスト教徒は21%、つまり5人に1人に変わってしまいます。代わりに増えたのが、ラテンアメリカ、アフリカ、そしてアジアです。欧米に住んでいるキリスト教徒は3分の1に過ぎず、残りの3分の2は欧米ではないところに住んでいるということがわかります。
 キリスト教は、もはや西洋の宗教ではありません。
 

■宗教の本家本元を探し求めて

 今日、私が皆さんに投げかけたい問いのひとつが、「宗教のいちばん純粋な姿、本家本元は、どこにあるのか?」ということです。
 聖書はいろんな言葉に訳されていますが、もともとはギリシャ語やヘブライ語で書かれています。出発した場所である聖書に戻れば、本当のキリスト教の姿があるのか? 私はそうは思いません。例えばギリシャ語やヘブライ語で伝えられた以上、その言葉に含まれている人間の文化があるわけですから、当然それはキリスト教とその文化との融合になり、純粋な姿があるわけではないのです。
 我々は宗教の姿を求めて、前に遡っていけば本物があると思っています。しかし、聖書はそれ自身で何かを語ってくれるわけではありません。そこに書かれていることを誰かが受け止め、理解してはじめて、それは神の言葉になるのです。
 つまり、宗教は、誰かに受け止められて初めて宗教になるんです。誰かがそれを受け、人生の中でそれが噛み砕かれて、その人の人生を通して表現されたものが信仰なんですね。支店から遡っていけば本店にたどりつくのではなく、わたしたち一人ひとりがすべて本店なんですね。その姿は、例えばアメリカではハロウィンのようになったりしますが、アジアでは別の形を取っています。歴史を見ていくと、そういうことがわかってくるわけです。
 

■韓国でのキリスト教の土着化~陰陽や「恨(ハン)」

 Jung Young Lee(ジュン・ユン・リー)という韓国の神学者が、三位一体論というキリスト教の教義を、昔の中国の「陰と陽」という言葉を使って書き直しています。Andrew Park(アンドリュー・パク)という別の神学者は、「恨(ハン)」という韓国の概念を使って、キリスト教の罪概念を新しく解釈し直しています。
 こういうアジア的なキリスト教の「再」解釈の試みは、本家本元があってそれを応用したのではないんですよ。本家本元と思われているものも、実は「応用」なんです。だから、ギリシャ語で作られた三位一体論も、陰陽で作られた三位一体論も同じレベルにあるんです。どっちが先で、どっちが後とか、どっちが本物に近いとか、そんなことはないのですね。

■各国に見るイエスの姿~韓国とインドネシア

 韓国の方が作った、イエス様がお生まれになったときの情景があります。クリスマスの絵ですが、韓国のあり方で、韓国のキリスト教の姿を描いています。インドネシアでは、「善きサマリア人のたとえ」が、インドネシアの民族画に描かれたりしています。
 こうした例が実は、最も聖書的な内容ではないかと思うんです。皆さん、イエス・キリストってなに人だったかご存じですか? ときどき教会で見るイエス様は「金髪で青い目」をしていることが多いですよね? しかし、イエスは中東の人です。つまり、「金髪の青い目」のイエス様というのは、ヨーロッパに土着化したキリスト教の姿で、本当のキリスト教ではないのです。
 聖書には、イエスは、背が高かったか、どんな肌の色だったか、まったく書かれていません。ですから、韓国の人が韓国風に描いても、インドネシアの人が民族画に描いても、それぞれでいいんです。
 

■アメリカのキリスト教~さまざまな祈り方

 最後に、もう少し違う例を見てみましょう。ニューヨークにある教会のステンドグラスには、野球・バスケット・ラグビー・自動車レース・水泳などが描かれています。この教会では、スポーツ選手たちを、キリスト教の聖人たちと同列に置いています。オリンピックの選手が、最終競技に入る前に祈るのをご覧になったことがあるでしょう? どんなに優れた選手でも、「勝負は時の運だ。何が起こるかわからない。」ということを知っています。努力した人こそ、そのことを知っています。だから彼らは祈るのです。そして、1位になった人は、「神様、ありがとう」と言うんです。つまり、努力をすることと祈ることは一緒です。
 サンフランシスコにある、有名なメソジスト系の教会では、礼拝の時間になるとビートの効いたブラスと打楽器で音楽が始まります。みんな体を揺すりながら踊り出し、手を叩きながら歌い始めます。それが礼拝なんです。この教会は、同性愛者などの性的マイノリティとも連携しています。
 ロサンゼルスには、キリスト教の牧師、Aimee Semple McPherson(エイミー・センプル・マクファーソン)が作った教会があります。今はAngelus Temple(アンゲルス・テンプル)と呼ばれています。彼女は、アメリカ的な大衆伝道の草分けの一人で、当時始まったばかりのラジオというメディアを使って伝道しました。今日のその教会では、礼拝はほとんどロック・コンサート。みんな思い思いの服で、一緒に歌を歌ったり、手を叩いたりしています。
 こうした例を見ると、アメリカの教会がなぜ今でも元気なのかがわかります。それは、アメリカの人々が好むような方法で、キリスト教が土着化しているからです。巨大な教会でロック・コンサートのような礼拝をする例は、アジアにも増えております。シンガポールでは、1回の礼拝に何千人という人が集まる教会もあります。
 そういう現象を見ますと、これからのキリスト教の礼拝や教会のあり方が、ずいぶん変わっていくのではないかと思います。変わらなければ、やがてそれは廃れていくだろうと思うわけです。

(平成24年11月15日、東京・立川にて)

 

【森本あんり先生】
国際基督教大学哲学・宗教学デパートメント教授・学務副学長。日本基督教団牧師。国際基督教大学で学んだのち、東京神学大学にて修士(組織神学)、プリンストン大学神学大学院にて博士(組織神学)を取得。プリンストン大学神学大学院、エディンバラ大学神学部、バークレー連合神学大学院などで客員教授。著書・論文多数。