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世界の諸宗教に出会う

「日常を生きる仏教」 釈徹宗先生(仏教編)

「日本仏教は仏教なのか」

 今日は宗教情報センターから「日本仏教は仏教なのか」というテーマをいただきました。
 結論から申しますと、日本仏教は紛れもなく仏教だと私は確信しております。ただ仏教の持っている大きな特徴がかなり変質していて、これ以上いくと仏教ではないというところまで来ています。しかし、日本仏教の仏道を歩んで間違いなく悟っていかれた方、救われていかれた方がおられますので、この仏道は決して偽物ではないだろうという確信はあります。
 

◆仏教とは?

 仏教というフィールドには、人類が考えつくものがほとんどあるんです。一神教的な思想も多神教的な思想も、唯心論も唯物論も無神論もほとんどです。ですから、純粋ピュアな仏教がどこかにあるかというと、そうではなく、チベットに行けばチベット人の、スリランカに行けばスリランカ独特の仏教を生み出していきます。
 仏教では「自分は一体、何を大事と思って生き、何を要らないと思って生きているか」という自分の“枠組み”を点検します。心と身体をトレーニングして、この枠組みが強くならないようにすることが、仏教の基本的な立場になります。
 

◆[1]苦しみのメカニズム

(1)生きる=苦?!

 仏教という道をブッダは“古道(古い道)”と言い、もともと人類が歩いて来た道なのだと表現しています。
 ブッダは、生きる上での苦悩をどうすれば解決できるかに立ち向かったわけですよね。それで仏教では「生きることは苦である」というのです。原語のパーリ語では「生きるということは、思い通りにならない」という意味で、そこに苦しみが生じます。このように仏教は、現代人特有の苦悩にとってのヒントを膨大に持っています。

(2)縁起

 仏教は、ユーラシア全体で編み上げてきた、人類の知恵の結晶という気がいたします。われわれが生きていく上での苦しみや悩み、怒りや憎しみ、そういうものを何とかしようというのが、2500年前のゴータマ・ブッダのテーマだったのですが、気づいたことは、これは結果だということです。結果を何とかしようとしても、どうにもなりません。
 それどころか、ひとつの苦しみは次の苦しみを生み出し、ずっと連鎖していくというんです。これを仏教用語で「相続」と言います。何とかしようとしても、結果ですので、視点をパッと移して原因のほうを見ないといけない。これが「因果」という仏教の立脚点です。仏教は「縁起」という独特の因果律に立っていて、これが最大の特徴です。

(3)中道

 この「縁起」という因果律ですとか、あるいは「中道」つまり「自覚して調えようとしない限り、どんな正しいことでも偏る」ということが、世界仏教共通の基盤になります。たとえば、良いことを一生懸命やればやるほど、それをしない人に腹が立ってきて、いつの間にか怒りの連鎖が始まるでしょう? どんな正しいことも偏っちゃダメだというのが「中道」という立場です。
 

[2]身体と言葉と心と

(1)身体を調える―姿勢、呼吸、食……

 “自分の都合”をゼロにすれば「悟り」になります。この“自分の都合”を調えるポイントは「身体を調える」「言葉を調える」「心を調える」の三つです。これらを常に調えることによって、心と身体が調い、苦しみの連鎖が安らぎの連鎖へと転換していくという仕組みになっております。

【姿勢】

 仏典にはさまざまな身体の使い方が出てきます。心と身体は、分かち難く一つのものです。だから身体を使って行為で内面を調え、生き方を調えるというのは、仏教の大きな特徴の一つです。座る姿、立つ姿、歩く姿、それらを調えるだけでも、何かが変わるということだって起こるわけです。
 しかし、現代人は歩くことを一つ取っても、身体性が落ちています。文化人類学で「身体知(しんたいち)」と言われるように、身体にも知性があるのです。
 たとえば、古民家で不便さもありながら暮らせば「身体知」はなかなか落ちません。流行りの浴衣をきちんと着たり、鉛筆を正しく持って書いたりなど、立居振舞を調えることから、身体の知性は湧いてくるかもしれません。

【呼吸】

 ブッダが悟りを開いた時の呼吸法は、ちゃんと経典に残っているんです。数息(すそく)・相随(そうずい)・止(し)・観(かん)・還(げん)・浄(じょう)という6段階のステップを実践していくと、呼吸で身体と心をコントロールできるというわけです。
 「数息」という方法では、「出息長(しゅっそくちょう)、入息短(にゅうそくたん)」と申しまして、長く吐いて短く吸います。ポイントは普通とは逆に、吐く時にお腹が膨らんで、吸う時にお腹が引っ込むようにすることです。そのほうが、意識がギューッと下がっていくのがわかります。この呼吸法は、嫌なことを言われてカッとなった時にもおすすめです。立ち位置がちょっとズレて、別の見方ができます。そうやって呼吸で怒りの連鎖を転換する技術があります。

【食】

 仏教では、食べるべき時に、食べるべき分量だけを食べます。われわれは「甘い物は別腹やから」などと恐ろしい理屈で食べたりします。これだと食べ物に振り回されているのでダメなのです。ブッダは「食べる前に自分にどれだけ必要かをイメージして、その分を食べなさい」と言っています。

(2)言葉を調える

 ブッダは非常に言葉に対して慎重で、言葉の使い方が上手な人でした。
ある経典に「言葉を使う場合の五つのチェックポイント」が出てまいります。時機は適切か、慈しみの言葉か憎しみの言葉か、柔和な言葉か暴力的な言葉か、真実かそうでないか、有益な言葉か無益な言葉か。反射的・感情的にパッと使わず、どういう類なのかをチェックすることで言葉がだんだん調うと、心と身体も調っていく。すると、生き方が調って安らぎの連鎖へ、という理屈になっています。

(3)心を調える

 心を調える仏教の技法は膨大にありますが、今日は代表的な「止」と「観」の二つを取り上げます。
 「止」(シャマタ)は、静かな状態に身を置いて、あらゆる感情や思考を止めていくという方法で、禅などもその一つです。
「観」(ビバシャナ)というのは、文字通り「観察する」の「観」です。「維摩経」というお経に「まるで庭を眺めるような眼で自分を観ろ」とあります。今の自分自身を観しますと、左手の上に右手が乗っているとか、右膝が痛いということが見えてきます。姿だけではなく、心の中身、自分の思考なども観察していきます。
 仏教では「喜びにも苦しみにも支配されるな」とずいぶん非人間的なことを言うのです。自分を普段から観じておくことで、苦しみの連鎖が起こらないというわけです。
 

◆[3]ノーマライゼーション・ブディズムへ

・出家

 現代社会は “自分の都合”を煽ることで成り立っています。そういう社会で、いかに苦しみを引き受けて生き抜いていくか、あるいは死に切っていくか。仏教は、その智慧の体系であると思います。
 “自分の都合”をできるだけ小さくするライフスタイルは出家です。仏教という山を登るとしますと、一つは出家というルート、もう一つは普通に社会生活・家庭生活を営みながら歩む仏道というルートがあります。どちらも同じところに行き着くと思いますが、日本仏教では後者のルートが発達しました。日本の「この世俗の真ん中を生きるほうがずっと苦しいじゃないか」という宗教文化圏に合っていたからだと思います。

(1)半僧半俗の人たち

 日本の仏教の大きな特徴の一つに、「半僧半俗」文化の発達があります。お坊さんは明治以降、家庭を普通に持つようになりました。このような“普通に暮らす仏道”を、私は「ノーマライゼーション・ブディズム」と名付けております。
 僧侶の枠組みから外れた半僧半俗の人たちが、日本の仏教を大きく変えていきます。人々の悲しみや苦しみに寄り添って、普段は普通に生活し、人の荷物を運んだりしてわずかな賃金をもらったり、時には衣を着て仏法を説きました。時には鐘を叩いて踊り、アートや芸能を生み出しました。

(2)仏道としての日常

 「ノーマライゼーション・ブディズム」の方向へ進んだという意味では、大乗仏教が極端な形で変質していったと言えます。法然も、江戸時代の鈴木正三(すずきしょうさん)という禅僧も、あるいは白隠という臨済の傑僧も、出家という形態にこだわりませんでした。ほかにも、普通に日常生活を送りながら、仏教の教えを依り所として人生を生き抜いて死にきっていった、半僧半俗の名も知れぬ人たちがたくさんおられます。そういう仏道が尊いという価値観が、日本仏教を発達させてまいりました。
 出家という部分が崩れていることが、最初にお話しした「これ以上行ったら仏教ではなくなる」ということなのです。在家の道は脇役として、仏教発祥の時からずっとあったのですが、日本に来て主役と脇役が入れ変わってしまいました。「なぜなら、誰もが歩めるから」という理屈で、日本仏教はすべてが悟りへの道というような、仏道としての日常の思想を展開していったわけです。

(3)大乗仏教の極北へ

 日本仏教は釈迦の仏教かというと、最初の原形からかなり変形していますので、ちょっと保留といったところです。第二の釈迦と呼ばれるナーガルジュナの仏教かといえば、その通りだと言えるかもしれません。仏教を釈迦一人に収斂(しゅうれん)するのは無理です。全人類で編み上げてきたような体系ですので、さまざまな仏教が展開してまいりました。大切なことは、仏教徒であるという自覚と仏道を歩むという歩み。この部分だけは世界中の仏教で共有できます。

 

◆むすび

縁をたぐる

 仏教には各体系があり、どの道も一生かけて歩む道なので、全部体験した上で自分に合ったものを選ぶというのは無理なんです。では、どう考えるかというと、“ご縁をたぐる”というのが仏教徒のあるべき態度だと思います。
 私は浄土真宗の僧侶ですが、これは私がたまたま浄土真宗のお寺に生まれたからです。その家に生まれたとか、その家に嫁いだというのも縁ですし、真如苑の方と出会いがあったというのも縁でしょう。その縁を誠心誠意たぐるんです。その道が本物だったら、どこを通っても間違いなく同じ所に到達できます。この道はどうしても合わないと思ったら、別の縁をたぐったらいいのです。

 

心の共振現象

 東日本大震災が起き、私もたくさんの悲しみの淵に沈んでいる方とお話しさせていただきました。「この手だけは死んでも離すまいと思ったのに、どうして離してしまったんだ。もう二度と会えない」と、ずっと悔やんでいるお母さんもいます。皆さんも報道を見て、自分のことのように胸が痛いとか、涙が止まらないというような体験をされたと思います。これが「心の共振現象」で、仏教の目指す心の第一歩だと思います。
 心の共振現象が起こると、「ああ、つながってる」と実感できるでしょう。すると人間は「つらい毎日だけど明日も生きて行こう」と思える心と身体のメカニズムになっているのです。
 

バリアをおろす時間と場所

 現代社会というものは、自分を守るために無意識にバリアを張らないと暮らせない社会です。でも、バリアをずっと張っていると、心はだんだん共振しなくなってきます。時にはバリアをおろして、無防備になれる時間と場所があるかどうか。そこから仏道の第一歩が始まるのではないでしょうか。
 仏教には間違いなく、苦難を引き受けて生き抜いて行ける道が説かれておりますので、これからも一緒に仏道を歩んでいただきたいと思います。
 今日は、“自分というもの”が強ければ苦悩も強くなるということ、仏教は人類の智慧の結晶であること、そして身体・言葉・心を調えることの大切さ、心の共振現象などについてお聞きいただきました。今日のお話はこれぐらいにさせていただきます。ありがとうございます。

 


(平成25年4月28日、東京・立川にて)

 
【釈徹宗先生】
 1961年、大阪府出身。浄土真宗本願寺派如来寺の第19世住職。相愛大学人文学部教授、学術博士。専攻は宗教思想・人間学。日本仏教学会理事。日本宗教学会評議員。多くの著書があり、近刊に『ブッダの伝道者たち』(角川選書)や『聖地巡礼ビギニング』(東京書籍)など。「不干斎ハビアン論」で中外日報社・涙骨賞を受賞。NPO法人リライフ代表として、認知症高齢者のためのグループホーム『むつみ庵』などの運営にも取り組む。