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「心を磨き、教えを楽しむ―スーフィズムの広まり」 赤堀雅幸先生 (イスラーム編)

スーフィズムの始まり

■スーフィズムとは何か

 今日は、イスラームの歴史が始まって200~300年ほどの年月が過ぎてから人々の間に広まっていった「スーフィズム」というものについてお話ししたいと思います。
 イスラームの歴史の最初から、ムスリム(イスラーム教徒)にとって大切なこととして、「神様ってどういうものなんだ?」という疑問に答えようとする「神学」、「人間ってどう行動すべきなんだ?」という疑問に対する「法学」、それら神学と法学に必要な言葉を正しく使うための「アラビア語学」が重要とされていました。それらに対して、時代的には遅れてではありますが、「人間の心をどうやって磨くのか?」ということがらを追求しようという動きが出てきました。それがスーフィズムであり、そのための修行を行う人たちをスーフィーといいます。
 スーフィズムというのは、自分の心を磨いて、世界の真理へと近づいていき、最後にはアッラーと一体になるという修行です。そのためには、心の中に湧いてくるいろいろな雑念を捨てていって、最後に「私自身」という意識さえも全部捨て去らなくてはなりません。仏教で「無我の境地」と呼ぶような、こうした心の状態を、イスラームでは「ファナー(消滅)」と呼びます。
 

■スーフィーの理想的な境地

 ところが、スーフィズムの歴史の最初のころには、「神と一体になったから、俺は何しても許される」と思い上がって、泥棒したり、人を殺したりと、好き放題に振る舞うスーフィーたちがいました。次第に修行の道が整えられてくると、そうしたスーフィーは、神と一体になった状態に酔っている者として非難されるようになっていきます。
 やがて、神と一体になりつつ、同時に人としての意識をはっきり保っていられるような存在が目指されるようになります。そのような人は、自分が望むままに振る舞っても、その望み自体が神の御心にかなうような望みであるために、他の人に害を及ぼすようなことが一切ありません。そうした状態こそがスーフィーの追求する理想的な境地とされます。
 また、そうした境地に一気に達しようというわけではなくて、修行には一般的にいくつもの段階があり、自分が今までいろんな悪いことをしてきたのを悔い改める悔悛などから始まって、節制、禁欲、清貧、忍耐、信頼といった徳を一つ一つ身につけていって、いつも満ち足りた気持ちでいるよう心掛けているなかで、神が近しく感じられるようになっていきます。
 

■スーフィズムの誕生

 イスラーム世界には、基本的に聖職者がいません。その代わりに、学者(ウラマー)たちが、イスラームの教えを支えるのに重要な役割を果たしています。それら学者たちのあいだで、9世紀の半ばに起こってきた運動が、スーフィズムの最初の形です。アッバース朝が最盛期を過ぎたころのことで、一部の学者たちはそのあまりの物質的繁栄にかえって精神の荒廃の兆しを見て取りました。学者たちが心配したのは、それだけではなく、イスラームでは特に大事とされてきた「宗教諸学」の発展に陰りが見えてきたことも大きな問題でした。先にふれた神学、法学、アラビア語学が宗教諸学の中心であり、それらはこの時代にほぼ完成したとみなされるようになりました。しかし、完成というのは裏返せば停滞ということでもあり、大きな進歩が望めなくなったということでもありました。
 そのようにして社会の堕落と学問の停滞に危機感を持った学者たちのなかから、「知識として神を理解するのではなく、内面を磨いて、常に神と一緒にあることを実感できるような心のあり方を追求できないか?」と始められた運動、それが最初のスーフィズムです。
 

■修行法としての瞑想

 神を想起することを「ズィクル」と言います。スーフィズムの基本的な修行方法は、瞑想のなかで、このズィクルを行うことにあります。ひたすら神を思い、心の中でアッラーの名を唱え続ける。唱え続けて、最後に自分がアッラーでいっぱいになった時に、アッラーという言葉自体を自分のなかから消し去ると、そこには何も残らず、神と一体の境地にいたるというふうに言われています。日本の禅宗における瞑想などとの共通性を考えてみるとよいでしょう。

■宗教諸学との和解

 最初のころには、他の学者たちが、スーフィズムという新しい運動に反発を覚えるということもよくありました。しかし、11世紀ころになると、修行の目的や方法も整理されてきて、「神学も大切、法学も大切、内面を磨くことも大切であって、どれも欠いてはいけない」という考え方に落ち着き、多くの学者たちがスーフィズムを受け入れるようになりました。これをスーフィズムと宗教諸学との「和解」としばしば呼びます。シャリーア(イスラーム法)、タリーカ(修行の道)、ハキーカ(真理、すなわち神)という、3つを常に心に携えるというバランスのとれたスーフィズムが成立しました。

スーフィズムの民衆への広まり

■スーフィズムの組織化

 12世紀くらいになると「自分ひとりが手探りで修行するより、偉大なスーフィーをお師匠とすれば、より早く真理に到達できるのでは?」と考える人が出てきて、スーフィーたちの間に師弟の関係が結ばれるようになります。
 すると、同じお師匠についていったお弟子さんたちで、グループができていき、そうなると「俺たちって、同じ師匠のやり方で、神・真理に至る道を修行している」という仲間意識が出てきて、スーフィズムの修行に「流派」(タリーカ)が成立してまいりました。
 
    カーディリー・タリーカの修行(イスタンブル)

 

■知識人の運動から民衆の営みへ

 流派ができて多くの人が気軽に参加できるようになると、スーフィズムは知識人だけの運動ではなくなり、普通の人たちが盛んに参加するようになっていきます。日常生活を送る中で、できる範囲で節制に務めたり、清貧を旨としたり、「もしできたら、ちょっと神に近づいていきたいなあ」というような運動へと、スーフィズムは展開していきました。
 なぜ、民衆はスーフィズムに惹き付けられたのでしょう?その理由のひとつは、「わかりやすい」ということです。一般の民衆は文字が読めず、クルアーン(コーラン)も読めませんでした。そこへ「ちょっと瞑想してみたら?神の名を繰り返し唱えてみたら?スーフィズムは言葉じゃなくて体験なのだから、君の中にも何かが生まれてくるかもしれないよ」というスーフィズムのアプローチは、民衆にとって非常にわかりやすかったと言えます。
 この時代に、瞑想以外の修行の方法として、皆で一斉に体を動かし声を上げたり、歌や踊りを組み込んだりした方法が採られるようになったことも、民衆の人気を得た理由となりました。この時代のスーフィズムには「娯楽」としての側面もあったわけです。さらに、「同じ流派で内面を磨いている仲間がいる」という「安心感」も人々の心に訴えました。加えて、「修道場」が果たした社会的な機能も重要です。スーフィズムの修行を皆でやるために各地に作られた修道場は、しばしばモスク・学校・病院・図書館・救貧所などを併設しており、「総合福祉施設」としての役割を果たしました。  
    メヴレヴィー・タリーカの修道場(カイロ)
 そして最後に、聖者崇敬との結びつきが重要な要素となりました。修行するだけではなく、偉大なスーフィーを聖者として崇敬し、神様への願い事をとりなしてもらおうと民衆は考えました。今でも聖者のお墓に詣でて「どうか大学に受かりますように」「どうか結婚できますように」といった願い事をしている様子は、私たちが初詣に行って願い事をする様子とあまり変わりありません。
 こうしてスーフィズムが民衆の間に広まった結果、今までムスリムではなかった人たちがスーフィーになることでムスリムになったり、今までイスラームが広まっていなかった地域に、スーフィズムを通してイスラームそのものが広がったりという、きわめて興味深い現象が起こりました。

スーフィズムの現代

■本来のイスラームの模索

 現代は、ムスリムたちが「本来のイスラーム」を一生懸命、探している時代だと言えます。以前にはそれぞれの地域で先祖伝来のイスラームを守ってきたわけですが、最近ではインターネットなどを通して、世界中のムスリム同士が話し合っています。「うちのとこでは、こんなふうに葬式やってんだけど」と書くと、「いや、それはイスラーム法じゃ、間違ってんじゃないのか?」と意見がすぐ返ってきて、「じゃあ、本来のイスラームってどんなものなんだろう?」という議論が盛んに起こっています。

■原理主義への抵抗~現代イスラームの一つの可能性としてのスーフィズム

 その中で出てきた運動が「原理主義」です。「ムハンマド時代の本来のイスラームを復活させなきゃいけないだろう」という主張です。マスメディアなどを通しての情報だと、そのなかでも暴力的な運動、自分たちの考えるムハンマドの時代のイスラームを唯一の正しいイスラームとして他人にも押しつけようとする人たちばかりがいるように見えますが、実際にはそんなふうに堅苦しい、ときには危険な考え方をしているムスリムばかりではありません。
 最近では、「原理主義じゃなくて、自分にも他人にも優しいイスラームでいこうよ」という主張が出てきております。そのなかには、「合理主義で物事を突き詰めて考えても、人間はあまり幸せになれないんじゃないか。むしろスーフィズムのような考えのほうが、現代を生きていくのにいいんじゃないか」という発想も見られます。実際に、いろんな地域で新しいスーフィズムの運動が見られるようになっています。これからの新しいイスラームのひとつのあり方として、注目できるのではないでしょうか。
 
(平成24年7月28日、東京・立川にて)

 

【赤堀 雅幸(あかほり まさゆき)先生】
東京大学大学院総合文化研究科文化人類学専門課程博士課程、日本学術振興会特別研究員、民族学振興会研究員、専修大学講師を経て、現在、上智大学外国語学部教授。イスラーム地域研究、民衆イスラーム研究が専門。
編著『民衆のイスラーム―スーフィー・聖者・精霊の世界』山川出版社、 2008年、東長靖・堀川徹の両氏との共編『イスラームの神秘主義と聖者信仰』(イスラーム地域研究叢書第7巻)東京大学出版会、2005年など、著書/論文多数。